超小規模地獄的閉和世開W,そしてIの為の効用値考察

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【春・1『地獄は要らぬ』】

 自分の価値を必死に探っていても、中二病となじられるだけで済んでいた齢は、気づけばとっくに追い越していた。振り返る暇もなく過ぎてゆく時間に、乾いた空を幻視する。

 元はと言えば認めてもらいたくて、褒めてもらいたくて頑張っていたはずの勉強が、どうにも自分の肌に合っていたようで、周りから薦められた方向へと歩んでいたら、いつの間にかやりたいこともなく、大学受験の時期を迎えていた。

 それがもう、三年も前になるのか。

 漠然と『人を助けられる職に就きたい』などと願っていたが、その理由を久しく忘れていたために、どの道を選んでいいのか皆目さっぱり一寸先も曇天である。

 個性的な友に囲まれて、独りの寂しさを忘れた結果、何時かの理由が遠のいた。幸福なことだ。しかし山を登るのにガイドはおろか船頭すらいないような現状は焦りを生んだ。

 そんな焦りに眉を焦がされて、早足に駆け回る最中、ある日尊敬する友人の一人が宣言した。

『僕は医者になる』

 その眼があまりにも静かに澄んでいたものだから、火を目指す蛾のように俺も続いた。彼の大きな背中を目印に、えっちらおっちら凸凹の道をふらふら飛んでゆく。

 そうして喰らい付く様に走り抜けて、気づけば医者見習いの浮ついた大学生である。

 しかし困ったことに(本当に困った奴である)経緯が経緯なものだから、俺には医者として目指すものが見当たらない。

 信念も意志もない医療に、患者は命を預けられるのだろうか。まだ銭が欲しいからとかそういう、俗っぽくてもいいから理由があった方が、体を弄られるにしろ安心感がある、気がする。どれだけ薄く潰れた綿でも、空っぽよりは幾らかマシで温かい。どうにも主観的な意見に過ぎなかった。

 毎日同じ線路を辿る地下鉄に揺られながら、益体も無くそんなことを考える。

 車体の喧しい振動音にかき消されまいと、キンキン響くアナウンスに腐った脳を起こされば目的地だった。

 地下から空の下に出ると、全身がぬるい空気に包まれて、妙な頭痛と眠気に苛まれる。医者の不養生めと笑われる前に食生活なりなんなりを見直すべきなのかも知れない。

 噛み殺し切れなかった欠伸が春風に煽られて、遥かな空へと昇ってゆく。

 初春の景色は澄んでいた。シャツのシミみたいに俺だけが悪目立ちしている。

 汚れた心で世界を見上げても、もっとマシな思考をしていたはずのいつの日かと同じように、その眩しさは変わらない。自己がどれだけ変わったとしても、目に映る世界はそう簡単には変わらないのだろう。もしくは変わってないのか? なんて考えだすと目も回りそうだったので唾と一緒に腹の底に封印。

 いいや勿論、明確に知ったことだってある。

「間違えることと変わることは違うし、違ってた」

 お空の引力に目玉を引かれて、そのまま舌も身勝手に踊る。

 あまりにも情けないものだから、頭を振って誤魔化した。白衣のポケットに両手を突っ込みながら、レンガ模様の道を踏みしめる。

 歩道の脇を続いていく桜並木は、花粉にぐずった鼻腔にも春の匂いを伝え、半分引きこもっている人間には、眩しさを感じさせるほどに美しい。花見でもしたのならば、きっと心が湧きたつのだろう、と妄想も捗る。

 俺だって、この道が巨大な共同墓地に沿って造られていなければ、浮かれて酒を浴びていたかもしれない。

 

 この小さな町には、やはり小さな丘がいくつも立ち並んでいて、家に帰るにも家から出るにも、微小な位置エネルギーに気力だけはとんでもなく大きく左右される立地だった。

 林檎を転がせば、万有引力が例外なく作用するこの周辺一帯に昔から住んでいるご老人たちは、皆足腰が非常に粘り強く、公園のゲートボール大会は熾烈を極めると言う。現にうちに入院されているご老人方は俺よりも元気がいい。

 かつて開発計画が立ち上がり、いつの間にか誰からも忘れ去られたかのように放置されたまま、時間だけが過ぎていった。

 長らく手の入っていない、かつての発展と未来の象徴であったはずの工事現場は、雑草が生え尽くし虫は飛び回る緑黄色の小惑星的コロニーを形成していた。傍から見ても整っているとは言い難い。荒んだ、未来の無い姿に見えた。

「だから妙に愛着があるのか」

 この町は年々過疎が進んでいて、人口は一向に増えない。しかしだからと言って、そんなにポンポン人が死んでいるわけでもない。お医者も行政も頑張っている。ならば何故、小山丸ごと一つ墓にしようとしたのかは誰も知らない。名所に成り得るような花見所を潰してまで、この場所に墓を造りたかった誰かがいたのだろう。

 わからない気持ちでもない。

 俺だって自分や親しい誰かの骨が埋まるならば、ここが良い。

 春は桜の季節とされるが、実際桜が見頃を迎えるのはたった数週間、下手をすれば数日の刹那である。肉体が朽ち果て霊魂となり、それでもなお、神や仏が俺たちに視界の掌握を許したのならば、ふらふらと浮きながら、この刹那を永遠に眺めていたい。

 本日誠に晴天なり。絶好の墓参り日和である。

 同時に墓参り以外にも適した気候であるため、俺以外に人影は無い。

 俺が今から会いに行く人は、この共同墓地の頂上に近い場所にいる。

 もう朧気な記憶を辿り、ただただ上を目指す。向上心とは真逆を行く、過去への回顧をふくらはぎに詰め込んで、一段飛ばしで砂利の敷き詰められた階段を蹴る。

 不本意にも大人になってしまった今。この脚は生き急ぐように、不必要なほど速く、景色を見逃してゆく。

 頭痛と眠気がすっきり抜けたころには、道程は半分に達していた。

 少し上がった息を整え振り向くと、全体が傾いたように坂道の多いことも関係してか、町が一望できた。少し前に眼鏡が傷だらけになってしまっていたので、最近コンタクト派に浮気したのだが、こんなところに恩恵がもたらされるとは。

「どうせなら夕暮れ時に来ればよかったなぁ」

 朧気な記憶が、逆再生のように燃え上がる。

 その記憶を振り切るように背を向けて、歩を紡ぐ。






 数年前まで毎朝顔を合わせていた割に、これから会う人との記憶は希薄だった。会話したことも無ければ今の容姿も碌に知らない。

 当たり前だ。遺影は動かないし喋らない。

 それでも、例え記憶に残っていなかったとしても、自分をこの世界に生んでくれたことには本当に、本当に。感謝している。

 ああ、お母さん。

「俺はどこで間違えたんですかねー……」

 石の塔に向かって口から漏れた言葉は、いい加減だった。距離感を掴みかねて妙な敬語になる。だって、ほとんど知らない人なのだから。

『果たして、その腕に抱かれた記憶も無い母親に、暇つぶしのように会いに来ることに、どれだけの意味があるのだろうか?』

 脳の端でもう一人の自分がわざとらしく首を傾げる。

 そんなことを考えている時点で、自分が、たった一人の生みの親に対してですら、大きな感傷を抱いているわけでもないことに気づいて、腹が立った。

「ごめんなぁ、お母さん」

 墓石は答えない。だから自分で妄想した。

 この人が生きていたのなら、俺は冷えた飯を一人で食う生活を送ることもなかったのだろうか。この人がもし、生きていたのならば、俺は一人で眠る恐怖を、丸まって克服しようとしなくて済んだのだろうか。

 この人がもし生きていたのなら、親父はもっとよく笑う人間だったのだろうか?

 ぬるい風が体を通り抜けていった。本当に、意味のない問答だ。

 だからって別に恨んじゃいない。ただまあ、妄想くらい赦して欲しい。

 死んだ人間は蘇らない。

 医学の道を歩まずとも、この世界の常識として、一度付いた傷が跡形もなく癒えることなど決してない。見せかけで肉を取り繕ったとして、その体に刻まれた痛みの記憶が消えることはない。

 傷と死は本質的にはよく似ていて、過去は何があっても覆せはしない。

 犯した罪は消えず、その背中に残り続ける。ああ罪と傷もまた、よく似ているのか。

 背中に携えた重すぎる荷物を無理矢理にでも持ち上げて、生者の旅は続く。終点の無い線路、しかし円環でもない。そんなものを、ただひたすらに踏みしめる。

 でも虚しいことに、旅を続ければ続けるほど荷物は重くなっていって。

 その重力に抗うことに疲れてしまった時、ふと終着駅はここで良いかと諦めてしまった時、人は色んな物を放り捨ててしまうのだろう。

 俺のマッスルはまだ元気かな、と呼び掛けても返事はない。やっぱ中山きんに君ってすげえわ。多言語だもん。留学しただけある。

 お母さんの墓に、もう一度頭を下げてから曲げていた腰と膝を伸ばす。振り返ると、見上げていたはずの桜並木も可愛らしく揺れていた。

 この景色を眺めるたび、ああ春が来たなぁ、などと思い、

 嗚呼また一度、季節が廻ってしまったなぁ、などと思う。

 そうして、その輪廻の如き回転の中で、自分が何を為せたのかを顧みて、また一人頬杖を突いて凹むのだ。






 この春の数か月前、冬の季節に俺は失敗を犯した。

 見習いとは言え、医者の端くれとして守るべきだった相手に助けられ、まだ青いとは言え、大人として守るべき子どもを傷つけた。

 何もできやしなかった。あまりに無能だった。

 果たして俺はどんな人間になりたかったのか? 思い出すたびに傲慢にも、こんな心は折れそうになる。

 喉から染み出たのは、しかし摩擦音のように嗄れた苦笑だった。

 もう、自分から救いの手を差し伸べるなんて、そんな思い上がったことはできない。

 俺は人を助けられる人間になりたかった。誰かを独りにしない人間になりたかった。

 俺は大人として、子どもを守れる奴になりたかった。どうでもいいことで笑わせられるような奴になりたかった。

 俺は今、何をしているんだろう。






 見えない糸に搦め取られたかのように、跪いた少女から目を離せない。

 触れれば融けてしまいそうな真白の髪。冷えて固まったロウのように温度を忘れた肌。

 そしてその眼は、まるで頭を醜く暴くような血に近しい色をしていて。

 大人びたと言うよりは、酷く疲れてしまったかのような、そんな虚ろな風貌。

 手元に携えた、春の色とはかけ離れた暗い色の花束も。

 影絵を切り抜いたような真っ黒な喪服も。

 その空間だけ、別の季節を切り取って縫い付けたかのようにちぐはぐで、見ているだけで荒く血流は乱される。世界の回る感覚が、肌の下で冷えて固まってゆく。

 波一つ立たない湖面に映された白い月の様に、人の夢の様に。

 少女の薄紅色の瞳は、その綺麗な色とは真逆を目指すように、しかし酷く濁っていて。

 目元の隈は、端整な顔を台無しにするほど、黒く刻み込まれていた。

 呑まれるように思考が揺れ、歪む。

 医療に関わっていると、どうしても脳裏に焼き付いて離れない光景があった。

 深夜に突然泣き出す人や、何もない空間に向かって助けを求め続ける人、自分の指を一心不乱にかじっている人の、その眼。

 真っ黒な泥の色をした瞳に感じた背筋の零度、予知にも似た実感。

 この人が背負っていること。

 背負ったものの重力に疲れてしまっていることを悟った。

 そして同時に思い出す。冬の季節、その記憶を。

 同じ目をした少年に出会った。何とかしてやりたいなと思った、してやれたらなと思って、助けられる自分を信じて歩んでみた。

 そしてその時から、自分の胸の中に残り続けている、後悔と諦念の黒い塊。

 何とかしなければいけないと思った。二度と後悔しないために、もう二度と見誤るようなことがないように。

 その感情は焦りだった。悪意ではなく、しかし善意でもない。何かに追われて流した血と涙に濡れた、鮮やかに痛々しい感情。

 息を吐くような一瞬に、身体が動く。意識よりも早く、魂が神経に電流を流す。

 この手は少女のか細い腕を掴んでいた。

「大丈夫」

 口は勝手に、そんな戯けた言葉を垂れ流していた。


 少女は肩を跳ね上げ、恐る恐るとこちらに視線を注ぐ。

 白い渦の裂け目の中で、桜色の瞳が煌いた。

 その瞳には微かに怯えが見えた。

「……アッ」

 流れる血の全てがザバリと引いた後、入れ替わるように冷や汗がじっとりだらだらと背骨を湿らせてゆく。

 掴んでいた腕を離し、何かをアピールするように高速で諸手を上げた。まるで痴漢の冤罪証明である。いや体に触れるのは痴漢か。そうか。死んだ。

 少女は睫毛をぱちぱちと上下させながら、不審者を見つめている。

 驚きに追い出されたのか、瞳からは澱みが少しだけ抜けていた。

「あの……」「ハイすみませんでしたァ!」

 少女の砂糖菓子のような声を遮るように汚い猿叫を上げ、不審者はそのまま走り去った。

 万歳しながら走ると長距離マラソンのラストシーンを想起する。しかして俺は感動のフィナーレとは程遠く、汚い必死の形相で駆ける駆ける駆け抜ける。ゴールテープのその先は鉄製のブタ箱だろうか。帰りは下り道なのに、行きよりも大きく息を乱しながら俺は走る走るどこまでも走る。後ろから怖い顔をしたオニーさんが追いかけてこないことを祈りながら、ひた走る。

 すっかり訛り切った体に鞭を打ち、走りながら自分自身に問いかける。いつから俺は見ず知らずの女の子に手を出すような男になってしまったのか。明らかに語弊のある表現だったが自戒にはちょうどいい気がしないでもないファッキン馬鹿野郎。

 医者としての矜持だとか、そういうものは俺には無い。どうしようもなくて退屈な現実から逃げるように勉強を始めて、いつの間にか気づけばこの場に立っていた。この道を支える物は何も無くって、いつもフラフラ揺れている。下らないし、情けない。

 そんなどうしようもない人間が、考えるよりも先に助けたいと思った。

 理由がわからない以上、本能というモノなのだろう。自己の奥底に押し込められていた真なる欲求こそが人助けだとでも言うのか。果たして俺にそんな高尚な魂が宿っているのかは非常に疑わしい。

 そして刹那頭を掠めた過去から追いかけて来た何かを振り払うように加速した健脚は高揚感をもたらし、真正面から自分に向き合う勇気をくれる。蛮勇かもしれない。なるほどこれが脳内麻薬か。ならば、ならばと思い立つ。

 本能に問いかける。お前はあの少女をどう思ってしまったのか。

 本能は叫ぶ。俺にできることがあるならば、やらなきゃ全部嘘になるのだ。

 怖いオニーさんよりも抽象的で、強大な何かから逃げるようにこの脚は更に加速する。

 悪友兼親友曰く誰かを助けるという行為は、助けない誰かを選ぶ行為らしい。

 そして曰く『そんなこと知るか馬鹿が』らしい。

 目の前にいる人を助けない理由を自分の中で作るような奴は、結局のところ碌な奴じゃない、などと悪態をつきながらべらべらと語るようなあいつと、中学生の多感な時期に出会ってしまったのが、俺の運の尽きだったのかもしれない。

 ただそれでも、中二病となじられようとも。

 その言葉に生えていた棘は、俺の胸に深く突き刺さったまま、今でも抜けていないのだ。

 靴底を削る無茶な走りは、倍の濃度の脳内麻薬を分泌させ、キマった頭は真っ直ぐに疾走し、間違った方向へ迷走する。頭の、しかし底へ。もっと奥へ。本能すら感知できない自分の真なる願いの在処へと。

 間違った思考回路を走り続け、行きついた先の袋小路で立ち止まる。目の前の壁は厚く、空を覆うほど高くそびえている。これがお前の限界なのだと嗤うようにそこにある。叫び出したくなるくらい恥ずかしくて、頭を抱えたくなるくらい苦しい。何故俺はこんな阿呆なことをしているのだろうか。誰かに誇れる自分になりたくて頑張ってきたはずなのに。一時の気の迷いで人生は滅茶苦茶になるのだと学ぶことができた。問題があるとすればこの身をもって学んだということだ畜生。──嗚呼。

 嗚呼、春のせいかと気づく。全ては春の陽気のせいなのだ。お金が溜まらないのも喧嘩が無くならないのも俺が走っているのも、全て。春のバカ野郎。

 なんとも便利な言い訳だった。






 滅茶苦茶に切れた息を噛み潰す。血の味が充満して、痛かった記憶を思い出しそうになって──けれども一手先に浮かんだのは、冬に出会った二人のことだった。

 それぞれの事情を知った瞬間、傲慢にも心の隅に顔を出した、微かな同情心と既視感をどうにか覆したくて、俺はあの冬、人生の一欠片を燃べた。

 家族と仲違いしてすれ違って離れ離れになって、自分のやるべきことがわからなくなって只管に何かに打ち込み続ける。ああもう、身に覚えがありすぎて泣きそうになるではないか。逃げ場の無い空間に放り込まれて、透明な壁に爪を突き立て続けるような、何物も掴めやしないその感覚を、俺は、重く強く知っていた。

 あの二人との邂逅は、人生観を大きく揺さぶった。主に悪い方向に。

 今の俺は味のしない日々をただ消化しているだけで、そんな自分を不甲斐ないとは思っても、あの冬の顛末を思い出すと、たった一歩を踏み出すことすら恐ろしい。失敗を言い訳にして、足踏みの理由にする屑の姿がそこに在った。

 陰りは思考までもを確かに犯し、生を乾かしてゆく。潤いと思い出に満ちたあの眩しかった季節は、凍気と共に溶解けていった。

 自分の無力の末に全てが消え失せた、あの感覚。

 宙に浮いて、そのままあらゆるものから隔絶されて、呼吸だけを続けるような感覚。

 無力と無知と無関心と無経験を恨み、無為に帰した全ての思いやりに手を伸ばし、そうして藻掻いて届かなかった、あの焦燥を。

 あの季節はもう一度巡るのだろうか? 時間が経てば皆しがらみを忘れ、壁を蹴破り進むことができるのだろうか? 時の濁流は悲しみを雪ぎ落してくれるのだろうか?

 きっと無理なんだろうと、しかし灰色の確信を持つ。

 転機と成り得る出来事が無ければ、世界が目まぐるしく変わるようなことは無い。俺だって、良き友人たちと巡り会えなかった世界の自分など、想像すらしたくない。

 しかしかつて、俺は知ったのだ。この身をもって学んだのだ。

 人は浮ける。言葉で浮ける。どんなに深い虚の底で、胎児のように丸まっていることを自ら望んでいようとも、人は浮ける。言葉で浮ける。ロウの翼で空を飛べる。そんな眩い明かりを俺に教えてくれた、あまりにも誇らしい友人と勇敢な少年を、俺は知っている!

 先を見通そうと立ち止まり背筋を伸ばす。

 かつての少年時代でも、こんな風に大人ぶろうと背伸びをしていて、今も俺は大人になり切れずそこに立っている。

 しかし踏みしめている今、此処こそが、岐路だとするのならば。

 悪魔とすれ違う十字路なのだとするならば。

 白髪の少女との邂逅によって心は無様にも動き出した。助けたいと、助けなければいけないと、心が、この心が震えているのならば、この体もまた動きださなければならない。

 きっとそれが、人間としての最後の矜持だった。

 味のしない日々を消化して、胃の底に溜め込み続けた。

 そんな腐れた生を嘔吐する瞬間が今だとするならば。

「クソったれめ‼」

 踵を返し、もう一度走り出す。一秒前とは逆の方向へと進んでいるはずなのに、後退している感覚は無かった。自分は進んでいるのだと信じることができて、その感情を起爆剤として、目的意識無き生活を送りながら腐り始めていた思考は、爆発音と共に目を覚ました。

 ずっと昔にズレてしまった心と体の速度が、両方の加速に伴って重なり始める。

 まだ自分の価値を必死で探っていても、中二病となじられるだけで済んでいた、あの日々の最中。

 悪友と共に、こんな風に翌日の筋肉痛も考えずに駆け回っていたことを思い出す。額に張り付いた前髪の向こうに、あの眩しかった日々を幻視する。

 膝に手をついて、肺の中身をひっくり返すように大きく呼吸をして、冷えた空気で脳を冷やして、息を整えて、頬を叩いて、眼を見開いて、

 もう一度、あの少女を探す。






 彼女は同じ墓前で膝を折り、瞼を閉じていた。

 白い髪が風の模様に染まる。

 しかしその光景に、純白という言葉は似合わなかった。

 古い絵画や写真のように、何処かくすんだ色のまま、照らす光を吸い込んで、世界が一点へと落ち窪んでゆく。

 吐き気をこらえるように唾を飲み干し、張り付いた喉の肉を無理矢理にでも震わせて、悲鳴のような声で呼びかけた。


 蝶も止まるのではないかというほどに、ゆっくりと睫毛を持ち上げて、彼女は澱んだ視線をこちらへと向ける。

 そして目元を一瞬、深く歪めて

「──ああ。そういうことなんですね」

 血色の褪せた青いくちびるは、震えた声を吐き出した。

 その言葉の真意は果たしてわからなかった。

 纏う雰囲気こそ冬に感じた寒気とあまりに似ていたが、少なくともこの少女には見覚えが無かった。

 力なく傾げそうになったこの首を、しかし括りつけるように彼女は口を開く。

「初芽です」

 少女の砂糖菓子のような声が空気に広がる。しかし貼り付けるように、痛い。

 甘くって、とろけそうなのに、どうしてこんなにも、

「初春のういに、芽吹きのめで初芽。わたしの名前です」

「鳴海です」

 冷たい涙が出そうになるのだろう。

「鳴海励一です」

 緩く吹く風になびく白い髪を撫でつけて、初芽さんは静かに問うた。

 俺に問うているのか、それとも自身に問うているのか、それはわからなかった。

 善も悪も知らない子供が親にするような、そんな透明で残酷な問。

「奇跡って、何なんでしょうね」

 初芽さんは安らかに微笑んだ。





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