第4章 青空

 逃げるように走った。

 違う。逃げるように、じゃない。

 オレは逃げたんだ。

 葵から。……兄貴から。

 自分の気持ちから目を逸らして。蓋をして。

 本当は、こんなことしたくなかったのに。

 なかったのに、激情は止まらなかった。

 だって、おかしいよ。葵も、兄貴も。

 なんで、そんな当たり前みたいにいられるんだよ。

 そうやって、簡単に割り切られたらどれほど楽だったか。

 おかしいのは、オレの方なのかな。

 オレがおかしいのかな。

 オレだけが違うのかな。

 オレだけがいなければよかったのかな……?

 澱みのような感情が募るばかり。

 それが嫌で、とにかく走った。

 振り切るように、ただ惨めに。

 家を飛び出した後、足は自然とあるところへ向かっていた。

 深夜というのもあるだろうか、人気(ひとけ)は全くない。

 いや、ここは日中もあまり人がいなかった。だから、ここを選んだんだ。逃避する場所として。そうでもしないと、心が保たなかったから。

 頼りない街灯に照らされた公園の、一角。

 そこは、最近よく通っているバスケットコート。

 だが、来たところで何もできることはない。

 勢いのままに飛び出してしまったから、ボールはおろか何かを持ってこれたはずもない。

 もし、持ってきているものがあるとすれば、それは後悔だけだ。

 空の手は、何も掴めずに虚空を漂う。

 安全のために金網で囲われている空間が、あんなに居心地がよかったのに。

 今は、まるで牢獄のように心を縛り付ける。

 こんな惨めな思いをするくらいなら、初めから無ければよかった。いなければよかった。

 涙なんて、流したくなかったのに。

 なのに、意志に反して雫が溢れる。

 熱い粒は、頬を伝って地面を濡らす。

 膝を抱えるように縮こまる。

 できるだけ、小さくなりたい。

 誰にも見られないように。

 できるなら、このまま消えていなくなってしまいたい。

 もう、こんな思いしないように。

 ––––––あんな思い、させないように。


「やっぱり。ここにいたんだな」


 柔らかな声音は、胸に沁みるようだった。

 耳にするだけでなぜか落ち着くようなその声に、目を見開く。

「兄貴……なんで……?」


***


「なんでって……お兄ちゃん、だからな」

 答えになっていないだろうが、これ以外に言いようもない。

「……なんだよ、それ」

 日向は、俯いたまま視線を合わせないようにしている。

 その隣に並ぶように、地面に腰掛ける。

 その際、背中を金網に預けた時に大きな音がなる。

 日向は、その音に驚いたように体を跳ねさせた。

「……なに、しにきたんだよ」

 そんな、当たり前のことを聞いてきた。

 そんなの––––––––––––。

「決まってるだろ、仲直りするためだよ」

「仲直りなんて、今更…………」

 日向は、ふい、と俺から視線を切る。

「出来るよ、兄弟なんだから」

 出来ないわけない–––––––と、強く想いを込めて、口にした。

「何だよそれ、理由になってないだろ」

 簡単に言い切った俺に、日向は苛立ちを隠さない。

「じゃあ、見とけよ。絶対に仲直りしてやるから」

「うるさい……もう、ほっといてくれ」

 日向は、さらに小さくなろうとする。

「ほっとかないよ」

 隣から、小さく嗚咽が聞こえてくる。

「なんで、なんで今更、そんなことを言うんだよ。わからない……オレには、兄貴の考えてることがわからないよ」

 弱々しく、震えた声だった。

「じゃあ、何がわかないのか、言ってくれ。なんでも答えるから」

 俺は、日向からの言葉を待つ。

 少しすると、日向は口を開いた。

「なら、兄貴はなんでバスケを始めたんだ?」

 思っていたのとはだいぶ違う方向性の質問に、一瞬戸惑う。

 俺がバスケを始めた理由、か。

 “始めた”理由だから、“続けてた”理由じゃないんだよな?

 なら、これと言って理由らしい理由はないんだよな。

 強いて言うなら、やっぱり……。

「たまたま、かな……」

 そうとしか言いようがない。

 俺の答えを聞いた日向は、明らかに機嫌が悪くなったように見えた。

「……じゃあ、高校に上がってから、バスケをやらなかった理由は?」

 その声は、先ほどよりもトーンが下がっていた。

 俺は、当時のことを思い出しながら答える。

「ああ、それは、怪我したからだよ。日向も知ってるだろ、中学卒業する前にリハビリしてたの」

「復帰できなかったわけじゃなかったんだろ? なら、どうして続けなかったんだ?」

「医者から、元通りに動けるようになるかはわからないって言われてさ。それなら、無理に続けなくもいいかなって」

 なぜそのようなことを聞くのか、日向が知りたいこととは本当にこんなことなのだろうか、と疑問に思いながらも、俺は澱みなく答える。

「なら、兄貴にとってバスケってなんだ?」

 また、質問が続く。

 そこで初めて、言葉に詰まった。

「……俺にとってのバスケ、か。なんだろう」

 少しの間だけ、考える。

 しかし、答えは見つからない。

 これといって、言葉にするようなものは見つからなかった。

 だから、最初に浮かんだ言葉を口にする。

「別に、なんでもないかな」

 おそらく、それは、今最も口にしてはいけない言葉だったのだろう。

 地雷を踏み抜いたのだと、理解するまでに時間は掛からなかった。

 明らかに、誰が見てもわかるほど、日向は憤っていた。

「なんだよそれ……そんなの、わかるわけないだろ……」

 震えるほど力強く、拳を握る日向。

 俺は、心配するように声を掛ける。

「お、おい、日向?」

 だが、その声は届いていないようだった。

「話を聞いても、わからない。どうしてかわからない。なんでかわからない。兄貴の考えてることなんて、オレにわかるわけなかったんだ! 最初っから、理解しようとしたことが間違いだったんだ……」

 嗚咽混じりに、涙を流しながら吐き出す。

 その言葉に、反射的に言い返す。

「そんなことない、わかり合えるはずだ!」

「うるさいっ!」

 日向は、癇癪を起こしたように大きな声を上げる。

 ダムが決壊したかのように、堰き止められていたものが溢れ出てくる。

「ずっと、ずっと理解しようとした。兄貴の考えてることを、理解したかった。でも、出来なかった。オレじゃ無理なんだよっ!」

 日向は、まるで自傷する様に、己に言い聞かせるように、口を動かす。

 どうにかして落ち着かせたいと思い、抱きしめようとする。

 しかし、すぐに拒まれ突き飛ばされてしまう。

「オレたちをほったらかしにするほど、バスケには魅力があるんだと思った! それがわかりたくて、自分でもやってみた。でも、わからなかった。挙句の果てに、兄貴はあっさり辞めてた」

 訴えるように、震えた声で、言葉を連ねる。

「兄貴は、いつだって捨てる側だ。オレたちみたいに、捨てられる方の気持ちなんてわからないよ」

 ああ、もしかして……、と思い当たることがあった。

 それは、飛躍し過ぎていると言われればそうかもしれない。

 どうして、そこにつながるのかと聞かれれば、自分でもよくわからない。

 でも、きっとそうなのだと、天啓が降りたsみたいに理解した。

「そっか、そうだよな……なら、やっぱり俺が悪いよな」

 納得したように独りごちる。

 一つ決心し、日向に向き直る。

「俺、日向がどうして怒ってたのか、やっとわかったよ」

 日向は、無言で俺の話を聞いている。

 いや、もしかすると聞いていないのかもしれない。

 それでも、俺は話すのを止めない。

「寂しかったんだよな、いきなりほったらかしにされて。それが嫌だったから、俺に怒ってたんだよな」

 依然、日向は喋らない。

 俺は構わずに話し続ける。

「逆の立場だったら、俺だって悲しむはずだ。今考えれば簡単にわかることなのに、当時の俺は、そんなこともわからないくらい馬鹿だった」

 俺は、当時のことを振り返る。

 あの時の俺は、底抜けに間抜けだった。どうしようもないほどに、周りが見えていなかった。恥ずかしくて顔を覆いたくなるほどに阿呆だった。自覚していたつもりだったけど、それ以上だった。

 でも、だからこそ聞いてほしい。

 あの時の俺が、何を思っていたのか。日向には、聞いてもらわなくちゃいけない。

「さっきさ、バスケを辞めた理由を怪我したからって言ったけど、正確に言うと、ずっと怪我気味ではあったんだ。日向たちには隠してたけどさ」

 なぜ、今その話になるのか。日向は疑問に思っている様だったが、口を挟む隙間を与えない。

「張り切り過ぎてさ、気付いたら膝に違和感があった。でも、少しでも離脱するのが嫌で、医者に無理を言ってやらせてもらってたんだ。そんな無理を続けてたら、運動ができないくらいに悪化しちゃってさ」

 今更になって、口を挟む気も無くなったのだろう。日向は、静かに俺の話に耳を傾ける。

「そこから治療に専念することになったんだけど、さっきも言った通り、元通りに戻れるかはわからないって言われちゃってさ。正直、すごい迷った。辞めることに抵抗がなかったわけじゃない。でも、色々考えたら、別に辞めてもいいかって思えたんだ」

 なぜ–––––––、と。どうして––––––––、と。日向は、そう聞くように視線を向けてくる。

「よくよく考えたらさ、俺がバスケを続けようと思った理由って、バスケ関係なかったんだよ」

「でもさっき、バスケ始めたのはたまたまだって……」

 俺は、日向が言ったことを肯定する様に頷く。

 そう。そこが、肝なんだ。

 始めた理由はたまたまだ。それは嘘じゃない。でも、それとは別に、続けようと思った理由があっても不思議じゃないよな。

「俺がバスケしてるところ見てさ、お前らが、かっこいい、すごい、って褒めてくれただろ。それが嬉しくてさ。それで、バスケを続けようと思ったんだ」

 日向は、唖然としている。それが、どういう感情なのかは、俺にはわからなかった。

 それでも、ここまで来て止まれはしないから、続きを話す。

「お前らにとって憧れの対象でいたくて、かっこいい兄貴でいたかった。バスケやってたらそうなれると思ってさ、ずっと必死だった。それで、お前たちが寂しい思いをするなんて、少しも思わなかった」

 ここまで来るのに、随分と遠回りをした気がする。それでも、これは必要なことだと思ったから。少しこそばゆいけど、ここまで言わないと日向は納得しないと思ったから。

 最後に、一番言いたかったことを付け加える。

「寂しい思いさせて、ごめんな。でも、これからは、絶対さみしい思いなんてさせないから。だから、俺を許してほしい」

 深く、頭を下げる。

 虫がいいことを言っているのは、わかっている。

 それでも、俺は日向と仲直りがしたい。昔みたいに、仲の良い兄弟に戻りたい。

「さ、寂しい思いなんてしてない」

 返ってきた言葉は、思っていたのとは違うものだった。

「え?」

 想定の外側から飛来した言葉に、間抜けな声が出る。

「……だから、寂しい思いなんてしてない」

 いじけたように、抗議の声を上げる。

 え、そこ?

 突っ込まれるのならもっと別のことだと思っていただけに、拍子抜けしてしまう。

 ていうか、日向がそうっぽいことをずっと言っていたんじゃないか。

「で、でも、さっきそんなこと……」

「言ってない」

 食い気味に否定してくる。

 流石にそれは無理があるだろ、弟よ。

 ジトッ、と訝しげな視線を送る。

「な、なんだよ」

「いや、別にぃ〜」

「〜〜〜〜〜〜っ、なんでこういう時だけ察しがいいんだよ、あんたは! いつもは鈍いくせに!」

 え、なんか今罵倒されなかった?

 気のせいかな?

 気のせいだよね。そうだよね。

「そうだよっ! 寂しかったんだよ。あんたに構ってもらえなくなって寂しかった。たかだかバスケ如きに嫉妬してたんだよ! これで満足か!?」

「そ、そこまでは言ってないけど……」

 まさしく、破れかぶれ。

 シャーッ、と猫が威嚇するような勢いでなんとも可愛らしい宣言をしてくる。

 羞恥から顔はタコのように茹で上がり、その瞳は僅かに潤んでいる。

 本心を聞き出せて良かったなと思う一方で、少しやりすぎてしまっただろうかと心配になる。

 いいようにやられてしまった格好になった日向は、反撃をするかのように声を荒らげる。

「オレだって、まだ納得できないことがある! 結局、バスケを辞めた理由がよくわからない!」

 ビシッ、と指を突き付けらるように人差し指を突き出す日向。

「え、だから、怪我したからだって……」

 若干圧倒されながらも、先ほどと同じことを言う。

 しかし、日向は諦めない。

「でも、怪我を抱えてたことを隠してまでバスケをやってた人が、復帰できるのにしないなんて不自然じゃないか。オレたちにかっこいいと思われたくて続けてたなら、尚更だ」

「そ、そんなこと––––––––––」

「あるだろ」

 またしても、食い気味で俺の逃げ道を封じてくる日向。

 くそ、俺がわざわざ濁して言ったところを追求してくるなんて。

 そこは、自分でも一番意味不明で恥ずかしいエピソードなんだよ、勘弁してくれ!

「ほら、どうなんだよ?」

 圧が、圧が強いっ!

 自分が辱められたのならやり返す、という気概が感じられる。

「そ、その……復帰した後に、前よりも下手になったって言われるのが怖くて…………」

 だって、かっこいい姿だけ見せたかったんだもん!

 不甲斐ない姿なんて見せたくなかったんだもん!

「??????」

 日向は、何もかもを理解できていなさそうな表情をしている。

 イメージ的にはアレだ、背景が宇宙になってるアレ。

「……意味がわからない」

 最終的に日向が辿り着いた結論は、そんなものだった。

 うん、俺もそう思う。

 いや、自分のことだから意味がわからないとまではいかないけど、心底馬鹿だったとは思うよ。

「そんなんだったから、続けるよりもお前らとの時間を増やしたいって思ったんだ。だって、バスケよりお前たち二人の方がずっと大事なんだからさ」

 これも、間違いなく本心だ。

 むしろ、それに気付いたから、バスケを辞めようと思ったんだ。

 見栄を張りたかったり、情けない姿を見せたくなかったりっていうのは、オマケみたいなもんだ。

「なんか、いい話風にしてないか?」

 いわゆる、ジト目で睨んでくる日向。

「そ、そんなことないよ!」

 いや、ちょっとはある。

 それは、そうなのである。

「本当かあ?」

 日向は、心を見透かすように目を細める。

「ほ、本当本当! それに、話してて気付いたんだ。多分、俺も寂しかったんだよ。バスケやってる時は、当然だけど日向と葵はいなかったから。元凶が、何言ってんだって話だけどさ」

 早くこの話が終わってほしい、という一心で早口で捲し立てる。

 日向は、呆れを微塵も隠す様子もなく、盛大に溜息を吐く。

「はああ、もういいよ。そんなことにムカついてた自分が馬鹿みたいだ。……その、オレも、色々悪かった」

 最後の方は、明らかに声量が小さくなっていたが、俺の耳は逃すことなく捉える。

 ああ、良かった。そう、心から思えた。

「じゃあ、お互い様ってことで」

 俺は、日向に笑いかける。

 が–––––––––。

「いや、それは違う。7:3(ななさん)で兄貴が悪い」

「ええっ!? いや、まあ、いいけどさ……」

 とほほ、と肩を落とす俺。

 ま、いっか。

 おかげで、日向の本心も知れた訳なんだし、それくらいは甘んじて受け入れなくちゃな。

 しかし、まさか日向がバスケに嫉妬するくらい俺のことが好きだったなんて、こんなに嬉しいことはない。兄冥利に尽きるってもんだ。

 なんてことを考えた瞬間、横にいる日向がぶるっと身を震わせる。

「……今、変なこと考えてたか?」

 顔を青くし、睨むように見てくる。

 おかしい。今の俺に疑われる要素なんてあっただろうか。

 否、ない。

 そもそも、変なことだって考えてないし。

 後ろめたさのない俺は、包み隠さずに答える。

「いや、別に、日向は俺のこと大好きなんだなって思ってただけだけど……」

 瞬間、日向の顔は分かりやすく茹で上がったように真っ赤になる。

「ななな、な–––––––––––いきなり、何を言ってるんだ!?」

 狼狽えるように後退りする日向に、俺は無意識の内に追い打ちを放ってしまう。

「だって、バスケに嫉妬してたくらいなんだろ? それって、俺のこと大好きってことじゃん」

「〜〜〜〜〜〜〜〜」

 声にならない声で悶え、真っ赤にした顔を腕で隠すようにして身を震わせている。

 あれ……なんか、また怒らせる様なこと言っちゃったかな?

 まずいか? と思った矢先、日向がカウンターのアッパーカットを放つように声を上げる。

「そ、そう言うあんただって、オレのこと大好きすぎだろ!!」

 なんて、当然のことを言うもんだから、俺は顔色一つ変えずに答える。

「当然だが」

 だって、当然だしな。

 回り回って自分が被弾してしまった日向は、きゅう、と黙り込んでしまう。

 しばらくして、やけっぱちになったように大の字に倒れ込む

「あー、もうやめだ。張り合うことの方が馬鹿馬鹿しい」

 その様子を見て、俺は微笑ましく笑う。

 思っていたのとは違ったけど、どうにか収まってくれて良かった。

「そろそろ、帰るか」

 一体、家を出てからどれほどの時間経ったのか、今が何時なのかわからない。

 穏やかに凪ぐ夜風に吹かれるのも心地良いが、ずっとここにいるわけにもいかない。

「……葵にも、謝らなくちゃな」

 毅然と言い放った様に聞こえた言葉は、どこか憂いを帯びていた。

「大丈夫、許してくれるさ。もし無理だったら、俺も一緒に謝るからさ」

 寝転がっている日向に手を差し伸べる。

「……うん」

 返事をしつつも、俺の手は取らない。

 自力で立ち上がった日向は、しかし、その場から動かない。

 何か、心に引っ掛かるものが足を重くしているのだろう。

 本当に、ほっとけない弟である。

「ほら、帰ろう」

 強引に、手を掴んで引き寄せる。

「あ、おい」

 いきなり引っ張られたことで体勢を崩した日向の体を、しっかりと受け止める。

「……もう、強引なんだから。あんたはいっつもそうだ。オレの考えなんてお構いなしで気にも留めない」

「ご、ごめんごめん」

 また、怒らせてしまった。そう思ったが、今の日向はなんとなく機嫌がいいように感じる。

「でも、気にしてないようで、ずっと見ていてくれたんだよな」

 ぽそっ、と呟いた。

「え、なんて?」

 内容まで聞き取れなかった俺は、間抜けに聞き返してしまう。

「なんでも。ほんとうにどうしようもない兄貴だなって思っただけだ」

 なんて憎まれ口を叩く。

 しかし、その内容とは裏腹に穏やかな声音に俺も軽く返す。

「ごめんって」

 ツン、とした態度で腕を組む日向。

「……」

「ひゅ、日向……?」

 あれ、やっぱり怒ってるのか?

 あまりにも長く沈黙を貫かれるので、また口を利いてくれなくなったのかと本気で心配になってきた。

 じょ、冗談だよな? 冗談だといってくれ!

 落ち着かない様子の俺を見て、日向はやがて耐えきれないように噴き出す。

「––––––––っく、ふふ。ほんとうに、あんたって人は」

 それが意味することは、考えなくてもわかる。

 ちょっよした意趣返し。

 だが、そんなやり取りも今なら嬉しい。

「おい、揶揄(からか)ったな」

「悪かったって。でも、お兄ちゃんなんだからこれくらいは許してくれるだろ?」

「お前なあ……」

 とはいえ、そう言われてしまうと許さざるを得ないのがお兄ちゃんと言うものだ。

 そう、お兄ちゃんだからね。

 ん? お兄ちゃん? 今、お兄ちゃんって言った?

 聞き間違いじゃないよな? 聞き間違いじゃない。間違えなくお兄ちゃんって言った、今。

「今、お兄ちゃんって言った?」

 気付けば、そんな言葉が漏れていた。

 日向は顔を真っ赤にして顔を逸らす。

「なっ、違う、言ってない! 全然、言ってない。そういうことじゃないからっ!」

 そういうこと、とは一体どういうことなのか。

 どういうこととは、そういうことなのか。

 つまり、ああいうことである。

 なるほど。だから、お兄ちゃんとはお兄ちゃんというわけか。

 というわけだから–––––––––。

「もう一回言ってくれないか」

「なんでだっ!!」

 テンポ良く突っ込んでくる日向。

 いや、別にお兄ちゃん呼びにこだわりがある訳じゃないんだけどさ。

 昔はそう呼んでくれてたから、ちょっと懐かしい気持ちになったて言うか。

 そうそう、久しぶりだったからさ。

 だから、もう一度聴きたいっていうか。

 無言の圧力をかけるように、ジーっと視線を送る。

 日向は、腕を組み、ツンと顔を逸らす。

「そんな顔したって、言わないもんは言わないぞ。ぜっ〜〜〜たい、言わないからな」

「……はい」

 しょぼん。

 いいもん、“祝福が欲しいのなら悲しみを知り独りで泣きましょう”って稲◯さんも言ってた。この悲しみを超えて、俺は強くなるのだ。しくしく。

「……もう、馬鹿言ってないで帰るぞ」

 俺の返事を待たず、日向は歩き出してしまう。

 慌てて後を追い掛けて、コートを出る。

 深い夜。

 ほんのちょっとの街灯だけに照らされた帰り道。

 数歩先を歩く背に追い付くように、小走りで駆け抜ける。


***


「ここまでするなんて聞いてない––––––––––––!!!」

 休日の昼間。

 弟たちから居間で待っているように告げられ、言われた通りにソファで呆けていると、扉の向こう側から芯の通った叫び声がした。

 驚いたのも束の間、続いて、微かに話し声が聞こえてくる。

 扉一枚隔てている向こう側、玄関と居間を繋ぐ廊下にて繰り広げられているそれは、声を抑えていることもあって鮮明に聞き取れるものではなかった。

 視線こそ動かさないものの、その場で耳を傾け、僅かな音を拾う。

「え〜、お詫びに兄ちゃんが喜ぶことをしたいって相談してきたから協力してるのに。やるって言ったのはひなただよ?」

「言ったけど……。こんな格好、他人(ひと)に見せられるわけないだろ」

 想定と違う、と嘆いているようだ。

「大丈夫だよ〜、似合ってるから」

「そういう問題じゃない!」

 励ますような言葉に、震えた声が続く。

「本当に、これ被るのか?」

「覚悟が決まらないなら、ボクがやってあげるよ。……えいっ」

「あ、おい–––––––」

 それから、少しの沈黙を挟んだ後、ゆっくりと扉が開いた。

 待っていろと言われた手前、こちらから動くのも気が引け、座ったまま寛いでいる。––––––––––素振りを見せているが、内心は穏やかじゃない。心臓は激しく脈打ち、音が聞こえるほどだ。緊張で体がこわばって仕方ない。

 それも仕方のないことだろう。この後何が起こるのか、なんとなく予想がついてしまっているのだから。

 後方で、小さな足音がする。音は、やがて右側を通過し、俺の前で停止する。その間、俺は首を動かせなかった。

 音の主は、長い髪を煩わしそうにしている女の子(・・・)。しおらしげな表情を浮かべ、不安そうに裾を掴んでこちらを見上げている。

 身に纏っているのは白が基調のドレス。可憐に見せるための装飾は、過度に盛られてはおらず慎ましさも感じさせる。いわゆる、ロリータと呼ばれる類の服装だ。スカートは膝下ほどの丈で、そこから伸びる脚は同じく白色に飾られている。統一感を感じさせるコーディネートは、さながら童話の登場人物かと見紛うほどだ。

 潤んだ瞳に身を捩りながら縮こまっている様子はいじらしく、その恥じらいすらも心を引く。

 その姿を見た瞬間、時が止まったように体が硬直する。

 まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息が止まった。

「……おい、なんとか言えよ」

 恥ずかしそうに震えた声が、止まった時間を動かす。

「––––––––。ごめん、見惚れてた」

 他になんて言えばいいのか、思いつかなかった。

 目を奪われるって、こういうことを言うんだろうな。

 まさに、完璧で究極のゲフンゲフン。

「そ、そうかよ」

 言われた相手は、顔を仄かに赤らめて目を逸らす。

 その姿は、とても男とは思えぬ(・・・・・・)ほどに愛らしい。

 そう。薄々察していると思うが、彼女は女の子ではない。男(・)だ。

 その正体は、俺の弟であり、葵の双子の兄である日向だ。

 いや、今となってはその紹介も相応しくないだろう。

 俺の妹であり、葵の双子の姉である日向だ。

 うん、こっちの方がしっくりくるな。

 え、何かがおかしいって? 矛盾してる?

 バカめ。弟であることと妹であることは両立するのだ。そんなことも知らなかったのか。

 ちなみに、髪が長くなっているのは魔法でもなんでもなく、ウィッグを被ってもらっている。ワンポイントで添えられたリボンがなんとも可愛らしい。

「ね、大丈夫って言ったでしょ?」

 日向の背後から顔を覗かせるようにして出てきたのは、妹の葵だ。幾分か豪華な装飾が設らえられた紺青のドレスは、日向と同じくロリータ服だ。頭頂部を覆うように飾っている見慣れない装飾は、ヘッドドレスと言われるヘアアクセサリーの一種だ。その一工夫が、より甘美な印象を強調し、華々しさを感じさせる。

 居心地の悪そうな姉(あに)とは対照的に、堂々とした佇まいからは余裕すら感じられる。

 今日が初めての日向とは違い、既に経験済みの葵にはこの程度造作もないのだろう。

「おお、葵もすごく似合ってるな」

「ふふん、でしょ?」

 褒め言葉を受け、得意げに胸を張る葵。

 日向の横に並ぶと、密着するように腕を引く。

 手で体を隠すような体勢で小さくなっていた日向は、引っ張られたことでガードを崩され全身を露(あらわ)にする。

「あ–––––––––」

 瞬間、わかりやすく紅潮する日向。

 一部始終を目撃した俺は、心の中で勢いよくサムズアップ。ナイス、葵。

 しかし、こうして二人が並んでいるのを見ると、まるで現実感がない。夢を見ているのではないかという錯覚に陥るほどだ。物語の中に入り込んでしまったのか、あるいは絵画の世界から飛び出してきたのだろうか。そんなことを思うほどに芸術的だ。

 いやあ、眼福眼福。

 この光景を眺めているだけで、日々の疲れが癒やされるってもんだ。

「––––––––もう満足しただろ。着替えてくる」

 耐えきれない、と身を翻す日向。

 行かせまいと、華奢な腕が伸びる。

「放せ、葵。もう無理だ、オレにはこれ以上耐えられない」

 命乞いをするかのように告げる日向に、葵は無言を貫く。

 圧に負けた日向は、観念したように項垂れる。

「わ、わかったよ。わかったから、放してくれ」

 その脱力ぶりに、逃亡の意志は疾うに尽きたと判断した葵は要求通り手を放す。

「で、この後はどうすればいいんだ?」

 こそっ、と耳打ちをする日向。

 それを受けた葵は、意味深に呟く。

「そりゃ、決まってるじゃんか」

 その後、飛び付くように俺に抱きついてから。

「うん–––––っと、甘えてやるのさ」

 と言い放った。

 そりゃもう、これでもかって言うくらいにあざとく。

「なっ––––––––」

 と硬直する日向。

「んっ!?」

 と声を上げる俺。

 待ってくれ。確かにそれは望むところだが、臨むところではない。いや、自分でも何を言っているのかわからないが、とにかく良くない。何が良くないって、言葉にはできないんだけど。キャパがオーバーするっていうか、有り体に言うと死んじゃうっていうか、とにかく危ない。俺の命が危ない。ほら、相手の力を吸収する系の敵を倒すときにさ、過剰に力を吸わせると勝手に爆発するみたいやつあるじゃん。あれみたいな感じで死んじゃうかもしれない。

「ねっ、兄ちゃん」

 なんて、曇りなき笑顔で同意を求められたら頷くしかないだろう。

「……そうだな」

「ほら、ひなたもこっち来なよ」

 いつの間にか俺の右腕を掴んでいた葵は、俺の左腕を指すように視線を動かす。

「お、オレはやらないぞ」

 ほっ、助かった。

 この状況で日向まで突っ込んできたら、受け止めてやれる自信はない。もちろん、物理的な意味ではなく。

「も〜、素直になりなよ。ほんとはどうしたいの?」

 内心、胸を撫で下ろしたのも束の間、爆薬に放火する小悪魔。

 やめてっ! 焚き付けないで!

 生殺与奪の権を奪わないでっ!

 いや、落ち着け俺。

 あの日向だぞ? こんな誘いに乗るわけないだろ。

 そうだよ。あー、よかった。今日が命日になるところだった。

 なんて俺の思考は甘かった。それはもう、この世のどんな甘味よりも甘かった。

 俺の予想に反し、日向は空いた左腕に抱きついてくる。

「〜〜〜〜、これでいいかよ」

 なんでぇ?

 よくわかんないけど、俺死ぬみたい。

 さよなら、世界。今までありがとう。

 スウッ、と意識が希薄になるのを感じる。

 –––––––––––––––––––––––––––––……………………。

 はっ、ここは……? 俺は、死んだのか?

 …………いや、まだ生きているみたいだ。どうやら、神は俺を見放さなかったらしい。良かった、こんなところで死んでいる場合ではないのだから。

 『死因・女装した弟に挟まれる』とか一族の恥だろ。

 いや、俺としては一向に構わないのだが、流石にご先祖様に顔向けできない。

「ふ、二人共、そんなにくっつかれると動けないんだが…………」

 まさしく、両手に華。誰もが羨むであろうこの状況に、俺は至って冷静に対処する。

 ように見せかけて、内心は全く落ち着いていない。こんな状況で冷静でいられるわけないのだ。

 呼吸もままならず、心臓はたがが外れたように鼓動を繰り返す。

 だって、死にかけたんだよ!?

 魂が体から抜け出ていくのを実感するほど脳に打撃を受けたんだよ!?

 ドーパミンがドパドパミンだったんだよ!!??

 いや、それはちょっとわからないけど。

 とにかく、そんな状態で平静でいられる人間が果たしているだろうか。

 否。いない、と断言しよう。

「え〜……でも、好きでしょ?」

 わざとらしく首を傾げ、はにかむ葵。

 くっっっっっっっつ––––––––––––––––––––––––––––––––っそ。

 俺を甘く見やがって。舐めた態度を取っていられるのも今の内だぞ。

「……はい、好きです」

 ………………………………。

 やっぱ、ダメだ。

 俺は、妹に勝てないんだ……。

「……あんた、ちょろすぎだろ」

「ぐっ–––––」

 そこを突かれると痛い。

 けど、俺がちょろいのはお前らにだけなんだからねっ!

「それ、ひなたが言う? あんなに嫌がってたのに、兄ちゃんに褒めらたら満更でもなさそうだったじゃん」

 揶揄(からか)うような笑みを見せる葵。

「そ、そんなことない! それだったら、葵だって兄貴に褒められて嬉しそうにしてるじゃないか」

 対して、ムキになって反論する日向。

「嬉しそう、じゃなくって嬉しいもん。ひなたは、嬉しくないの?」

「う…………嬉しくないっ! こんな格好、褒められたって嬉しくない!」

「へえ〜、じゃあ、ひなたはもう着替えてきていいよ。ボクは兄ちゃんと遊ぶから」

「な、なんでそうなるんだよ」

 おっと…………?

「だって、嫌なんでしょ?」

「い、嫌……だけど」

 何やら、不穏な空気が…………。

「兄ちゃんだって、ひなたが嫌々やってる姿なんて見たくないよね?」

「えっ?」

 まさか、この流れで俺に振られるとは思わず変な声が出てしまった。

「こ、ここで兄貴に振るのは卑怯だろ!」

「え〜、なんのことかわからないな〜? で、兄ちゃん。どうなの?」

「そ、そりゃ、本当に嫌ならやらなくてもいいけど–––––––––––」

 そこまでで、聞きたいことは聞けたと言わんばかりに俺の話を遮る葵。

「ほら、兄ちゃんもこう言ってるよ?」

「〜〜〜〜〜〜〜っ!」

 反論の余地を失い、言葉にならない声で唸り始める日向。

 それを見て、ここぞとばかりに畳み掛ける葵。

「それに、ひなたよりボクの方が可愛いし、兄ちゃんも好きでしょ?」

 言いながら、葵は俺の腕を引く。

 全く抵抗する気のない俺の体は、流れに身を任せるように右に傾く。

「え、いや、そんなことは–––––––––––」

 そこまで言いかけたところで、今度は逆側から強い力が掛かり体が左に傾く。

「––––––––––––––いい」

 小さく呟いた日向は、俯いていて表情が見えない。

「え?」

「日向……?」

 どうかしたのか、と聞こうと思った次の瞬間––––––––––––––。

「オレの方が可愛いっ––––––!!!」

 と、およそ日向の口から出るはずのない言葉が響き渡った。

 俺と葵は、揃って口を開けたまま固まる。

 当の日向本人は、自分で言ったのにも関わらず羞恥に悶えている。

 が、もはや止まれなくなったのだろう。ブレーキとは、壊れるものではなく壊すものだ。と言わんばかりに暴走列車の如く突っ込んでくる。

「あ、兄貴だってそう思うよな?」

 目をぐるぐるとさせ、自分の行動を制御できていない。

「いや、だから––––––––––––」

 そこでまた、葵の方から強く力が掛かる。

 グイッ、と引っ張られた体は先ほどよりも大きく傾く。

「そんなことないよね、兄ちゃん?」

 それは、葵にしては低い声だった。

「い、いや、だから––––––––––––」

 言いかけたところで、またしても逆側から強い力に引かれる。そこでやっと、両側から掛かる力が拮抗し、体が直立する。

 こ、これはまさか…………。

「兄ちゃん」

「兄貴」

 噂に聞く………………。


「ボクの方が可愛いでしょ?」

「オレの方が可愛いよな?」


 究極の二択、ってやつか–––––––––––––!?

「どうなの?」「どうなんだ?」

 そんなの…………。

 そんなの、決まってるだろ––––––––––!!!



「二人共、最っ––––––高に可愛いに決まってるだろっ––––––––––––––––!!!」



 この時、俺がどんな表情(かお)をしていたのか。そんなのは、鏡なんて見なくたってわかる。

 きっと、自分でもびっくりするほどの、生まれてこの方、したことがないような満面の笑みだったはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

弟▶︎妹 〜三兄弟長男の俺、本当は妹が欲しかったので弟に女装させて俺好みの妹にしてみてもよろしいでしょうか?〜 きり @hikicheese

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ