第3章 雨音

 本来ならあり得ない時間に帰宅した日向に、葵に女装してもらっていることを見られてしまった。

 依然、強い圧を放ちながら鋭い目付きで俺を睨みつけてくる。

 俺は、その視線に完全に縫い止められ硬直してしまう。

 驚きを隠せずに声も出せない俺たちに、日向は再び冷たい声色を投げ掛ける。

「何をしているのかって、聞いてるんだけど?」

 俺たちが黙秘をしていると思ったのか、さらに機嫌が悪くなったように見える。

 まずい。このままでは最悪な状況になりかねない。

 弾かれたように立ち上がり、弁明を試みる。

「日向、これは違くて」

「違うって、何が?」

 さらに語気が強くなる。

 圧は増す一方だが、怖気付いてはいられない。

「だから、えっと……これは––––––」

「もういい。兄貴は黙っていてくれ」

 どうにかして絞り出した言葉は、すぐに遮られる。

 お前の話なんて聞きたくない、というように拒絶されてしまう。

 釘を刺されてしまった今、これ以上出しゃばるのは日向の感情を逆撫でするだけだろう。

 もはや、俺には黙って見守ることしかできなさそうだ。

「で、どうなんだ? 葵」

 日向は、俺から視線を切り、状況の説明を促すように葵を見る。

 その声は、俺に向けられたものよりは随分と落ち着いているようだった。

 怒りの対象は俺だけなのだろう。

 その事実に、少しだけ安堵する。

 最悪、俺なんてどうだっていいけど、この二人にはいつまでだって仲良くしていてほしい。ましてや、仲違いの原因を自分が作ってしまったら後悔なんてもんじゃ収まらない。もしそうなったら、死んでも死にきれないだろう。

 どう説明すればいいか戸惑っているか、葵の視線は俺と日向を往復するように動く。

「埒が明かないな」

 痺れを切らした日向が、怒気を感じられる足取りで葵に近づく。

 危険を感じた俺は、葵を守るように前に出る。

 しかし、大したこともできずに跳ね除けられてしまう。

「邪魔だ。どいてくれ」

「あ、兄ちゃん」

 葵が心配して駆け寄ろうとするが、すんでのところで止められる。

「いくぞ、葵」

 葵の腕を掴み、半ば強引に連れ出す。

「あ、おい、ちょっと待てよ!」

 この場をこれで終わらせてはいけない気がして、反射的に呼び止める。

 俺の呼び掛けに応じてくれたのか、足を止める。

 ほっと一息つくのも束の間、それが甘い考えだったと思い知らされる。

「兄貴がいると、葵も本心を話してくれそうにない。もう放っておいてくれ」

 振り返ることすらせずに言い放つと、そのまま手を引き部屋を出ていく。

「ま、待ってひなた––––––待ってってば!」

 葵の抵抗も虚しく、引きずられるようにして行ってしまう。

 その間際、葵は心配そうにこちらを見てくる。

 これ以上何を言えばいいのかなんて、思いつくはずもなかった。

 結局、葵が連れて行かれるのを無言で見送ることしかできなかった。

 二人の姿が見えなくなると、押しつけられるようにソファに座り込み、詰まった息を一気に吐き出す。

 迂闊だった。

 理由はわからないけど、まさか日向がこんなに早く帰ってくるなんて。おかげで、葵に女装させていることを知られてしまった。

 日向との溝は、余計に深まるばかりだ。

 この際、俺一人が嫌われる分には仕方がないだろう。日向の怒りが葵に向かないだけマシだ。

 どのみち、これじゃあもう女装をしてもらうのは無理だな。

 仕方ないけど、諦めるしかないか……。

 ひとりきりになったリビングは、余計静かに感じて孤独感が増していく。

 耳を澄ましてみても、二階からは日向と葵が騒いでいる様子はない。二人が喧嘩してしまうかも、というのは俺の杞憂だったのだろう。

 自業自得とは言え、中々にくるものがある。

 パンッ、と両手で自分の頬を思い切り叩く。

 後ろ向きに沈んでいく思考を無理矢理切り替える。

「なるようになれ、だ」

 誰に向けるわけでもなく、強がってみる。

 とりあえず、夕飯の支度とかはやらなくちゃいけない。

 いつも通りのタスクをこなしていれば、そのうち平常心に戻るだろ。

 案の定、その日の食卓は、まさに地獄の如く冷え切っていた。

 日向も葵も喋る様子がなく、どうにか会話を回そうとしても途切れてしまう。

 結局、俺から一方通行に話し続けるだけだった。

 そのまま、一言も喋らずに自室に戻る日向。

「お、おやすみ」

 去る背中に声を掛けるも、返答はなく振り返ってすらくれない。

 無力感に苛まれながら、その背中を見つめる。

 それから、すぐに食べ終わった葵も席を立つ。

「ごちそうさま。じゃ、おやすみ」

 とだけ言い残し、早々に行ってしまう。

 また、俺だけが取り残される形になってしまった。

「はあ」

 意図せず、息が漏れる。

 もうどうすればいいかもわからず、相当に参っている。

 とはいえ、こんな事件があっても日常は変わりなく過ぎていく。明日も講義はあるし、弟たちも学校がある。

 俺が普段通りに過ごせないと、二人にも影響が出てしまう。

 それだけは避けなければならない。

 無理矢理思考を切り替え、通常営業を装う。

 明日もあるし、早めに寝よう。

 すぐに布団に入るも、中々寝付くことができない。

 結局、一睡も出来ないまま朝を迎える羽目になる。

 眠気が最高潮に到達するも、もう起床しなければいけない時間だ。

 半分寝ぼけた状態で、朝食と弟たちの弁当を準備しようとする。

 キッチンまで行ったところで、すでに食卓で朝食を摂っている日向に気付いた。

 薄い膜が被さっているような朧げな思考では、機敏に反応することもできず反応が遅れてしまう。

「あ、おはよう」

 続いて、沈黙。今日も今日とて、返事はない。

 あんなことがあった後だ、そりゃそうか。

 俺が来たことなんて気にする様子もなく、さっきまでと変わらずに食事を進めている。

「んぅ〜、おはよぅ」

 しばらくして、寝惚け眼を擦りながら葵が降りてくる。

 俺と同様に眠れなかったのか、かなり眠たそうにしている。椅子に座ると、ぐったりと机に突っ伏してしまった。

 この間に朝食を作り終えていた俺は、葵の元へと運んでいく。

「ほら、早く食べないと遅刻するぞ」

 同時に、タイミングを計っていたかのように日向が席を立ち、部屋を出ていく。

 俺はともかくとして、葵とも一言も喋らずに行ってしまった。

 少し心配になりながらも、掛ける言葉は見つからない。

 去っていく背中を見つめることしかできなかった。

 朝のタスクを終わらせた俺は、ソファで一休みするべく座り込むだが、これが間違いだった。眠気が一気に押し寄せ、一瞬意識が飛びかける。

 玄関から聞こえてきた音で飛び起きる。

 時間的にも、日向が家を出たのだろう。

 慌てて見送りに行くも、すでに扉は閉じており日向の姿もなかった。とうとう、いってらっしゃいとすら言ってやることができなかった。

「はああ…………」

 これには、溜息も出るってもんだ。

 こんな兄貴だから、愛想を尽かされてしまうのだろう。

 流石の俺も、自己嫌悪が止まらない。

 自責の念に押しつぶされるようにしてソファに沈む。

 そのまま、気付けば船を漕いでしまい、起きた頃には時計の針はてっぺんからやや右に傾いた位置を取っていた。

 意図せず午前中の講義をばっくれてしまったが、午後の講義まで休む気にはなれず家を出る。

 慌てて家を出たせいで中途半端な時間に到着してしまい、次の講義まで暇を持て余すことになってしまった。

 いつもの場所で暇を潰そうとコーヒーを買った後で席を探していると、見慣れた姿を見つける。

 同様にこちらに気付いたそいつは、いつもの調子で声を掛けてくる。

「おや、真榎氏。今朝は休んでいたようですが、どうかなされたのですか?」

「……ただの寝坊だよ」

「ははあ、珍しいこともあるものですなあ」

 言いながら座るように促してくるので、応じるように向かい側に座る。

「まあ、詳しいことは聞きませぬ。しかし、話したくなったらいつでも相談に乗りますぞ」

 きっしょ、なんでわかんだよ。

 本当にこいつは、気持ち悪いくらいに俺の心を言い当てる。

 俺が分かりやすいのだろうか。

 もはや隠す意味もないと思い、素直に打ち明けることにした。

「それがさ、昨日のことなんだけど––––––––––––」

 無二の親友に包み隠さずに吐露する。

 俺が話している間、佐伯は言葉を挟むことなくただ聞いてくれる。

 俺は、なんて良い友人を持ったのだろうか。

「なるほど。結論は、真榎氏が気持ち悪いと言うことでよろしいですか?」

 前言撤回。

 人が真剣に相談してるって言うのになんだその返しは。◯すぞ。

「ははは、冗談ですぞ」

「ま、あながち間違いじゃないとは思うけどさ」

 他人に言われると腹立つことって、あるよね。

「だからさ、お前の知恵を貸してくれよ。俺、どうすればいいと思う?」

 まさしく、藁にもすがる思いだった。

「ふむ……謹んで辞退させていただきます」

 藁なんてものは、最初から存在していなかったらしい。

「そんなこと言わずに、助けてくれよお〜」

 最早、俺には無様に泣きつくことくらいしかできない。

 周りの視線が痛いが、そんなものを気にしている余裕はない。

「そうは言いましても、話を聞く限りでは蜘蛛の糸一本すら見出せないのですが…………。拙者には荷が勝ちすぎます」

 わかる。わかるけど––––––––––––。

「どうにか、どんな些細なことでもいいからなんかないか?」

 う〜ん、と佐伯は一度だけ唸った。

 そして、いつにも間して真剣な表情で告げた。

「真榎氏、諦めましょう」

 と。

 お前なあ––––––––––。

「それができたら悩んでねえよ」

 その返答を、佐伯は予想していたようだった。

「でしょうな。であれば、するべきことは一つしかないでしょう」

「と、言うと?」

「聞き入れてもらえるまで謝るのです」

「…………」

 本当に、それしかないのか? 他に、何かできることが、するべきことがあるんじゃないか?

 そんな考えが、延々と頭の中を駆け回る。

 いや、そもそもの話–––––––––––––。

「話を聞いてもらえないんだから、結局ダメじゃないか?」

 これじゃ、土俵にすら立てていないだろ。

 しかし、佐伯は自分の主張を曲げない。

「結局のところ、こういった時は誠心誠意自分の気持ちを伝えるのが最も効果的です。拙者も、女の子の機嫌を損ねた時にはそうしています」

 そういうもんかな…………って、今さらっととんでもないこと言ってなかったか?

 と思ったが、こいつがこういうことを口走る時のほとんどは“あれ”のことだろう。

「ゲームと一緒にすんなよ」

 そう、ゲームの話だ。

 全く、俺の悩みを喧嘩イベントなんかと一緒にすんなよな。

「いえいえ、たかがゲームされどゲーム、ですぞ」

 減らず口を。

 まあ、言わんとすることはわかるけどさ。

「ま、大いに悩まれるがよろしい。きっと、答えは真榎氏の中にありますぞ」

 なんて、バトル漫画の師匠が言ってそうな言葉を付け加えてきた。

「それ言いたいだけだろ」

「さあ、どうでしょうな」

 けたけたと笑う佐伯は、徐に席を立つ。

 それが、講義に向かうためだと察した俺は、スマホで時間を確認する。

「あれ、もうこんな時間か」

「ええ、急がねば遅れてしまいます」

 その後は、いつも通り講義を受けて帰路についた。

 電車に揺られている間、俺は佐伯との会話を反芻していた。

 聞き入れてもらえるまで謝ることが正攻法だとあいつは言った。

 そして、誠心誠意自分の気持ちを伝えていればいつか届く、と。

 本当に、それ以外に方法はないのだろうか。

 いくら考えても、答えは出ない。

 当然だ。そんなものは、昨日からいくらでも考えている。

 上下左右も不明。真っ暗闇の視界。おまけに、まともに身動きも取れない無重力。感覚としては、そんな空間に放り投げられた感じだ。ゴールは明確になのに、そこまでの道筋も行き方も知らない。どこに進めばいいのかもわからず、どっちに進んでいるのかも不明。

 だからこそ、佐伯に助けを求めたのだ。まさしく、光明でも見えないものか、と。

 しかし、それも不発に終わった。

 結局、当たって砕けるしかないのかな…………。

 時間が経つだけ、焦燥感が増す一方だった。

 悶々と思考していると、気付いた時には家の前に立っていた。

 ここまで、どうやって帰ってきたのかまるで覚えていない。

 鍵穴に鍵を挿して、鍵が開いていることに気付く。

 葵がすでに帰ってきているのだろうか。

「ただいまー」

 玄関には葵の靴が置いてあり、すでに葵が帰ってきていることが伺える。

 今はとにかく、早く部屋に戻って休みたい。

 階段を登り切ろうとした時、目の前で扉が開く。

 その隙間から、葵が飛び出してくる、

「おかえり!」

「あ、ああ。ただいま」

 俺が帰ってくるのを待っていたのだろうか。

 葵は、待ち侘びていたように俺の腕を掴む。

「もう、帰ってくるの遅いよ、兄ちゃん。はやくこの前の続き、しよ?」

「お、おい。葵」

 有無を言わせない勢いで、そのままリビングに連れていかれる。

「あ、葵。この前の続きって––––––」

 何のこと、って聞こうとして言葉が途切れる。

 よく見ると、葵の服装は普段とは違った。

 一緒に買いに行った服の中から適当に見繕ったのだろう。

 女の子の服を身に纏った葵を見るのは初めてではないが、鼓動がはやくなるのを感じる。

 いつか、これに慣れる日は訪れるのだろうか?

 そう疑問に思うほどに、葵の女装姿は魅力的で顔が熱くなるのを止められない。

 この時点で、疲れなんて吹き飛んでいた。

「だって……ひなたが帰ってきちゃったから、結局できなかったでしょ?」

 いわゆる、萌え袖というやつになっている状態の手を、顔の近くに持ってくるようなあざとい仕草でいじけたような声を出す。

 葵が言わんとしていることを理解する。

 だが、俺の頭には一つの懸念が浮かぶ。

「でも、昨日あんなことがあった後なのに。大丈夫なのか?」

 日向、めちゃくちゃ怒ってたからなあ。

「逆に何がダメなの?」

 葵は、平然とそんなことを言ってのける。

 なんというか、意外と強かだよな。

「い、いや。日向、怒ってたからさ」

「でも、ひなたが怒ってたのは、ボクが無理矢理やらされてるって思ったからだよ? なら、ボクは自分の意志でやってるわけだし、問題ないんじゃない?」

 う〜ん……問題ない、のか?

 いや、でも。

「誤解されたままだし、良くないんじゃないか?」

「見つからなければ大丈夫だよ。前のは事故みたいなものでしょ?」

 そうは言ってもな。

 実際、そうなってしまったのは事実だし……。

 正直、不安でいっぱいではある。あるが、俺としても今のこの状況は手放したくない。

 何より、葵の方からこんなに求めてくれているのに、それを無碍にはできなかった。元はと言えば、俺がお願いしたことが発端だし。

 ごめんな、日向。昨日、あんなに怒ってたのに。

 我慢の利かないお兄ちゃんを許しておくれ。

 何より、上目遣いまでされてお願いされたら俺には断りようがない。

「オーケー。じゃあ、気を取り直して昨日の続きからな。つっても、まだ冒険すら初めてないけど」

「やった! すぐに準備するね」

 飛び跳ねるようにして喜ぶ葵。

 準備は葵に任せ、部屋に荷物を置きに行く。

 扉を開け、荷物を放り込むようにして置く。

 すぐさまUターンし、戻った頃には既にセッティングは終わっていた。

「はやくはやくっ!」

「そう慌てるなって。すぐ行くから」

 急かされながらニューゲームを選択。

 荘厳なBGMに飾られたプロローグが流れ始める。

 相当前から持っているはずなのに、少しも触ったことのないタイトル。

 このプロローグも初めて見る。

 誰が買ってきたのかすらわからない。

 年代を考えると親父かお袋か。

 もしかして、俺が知らないだけで意外とゲーム好きだったのかな?

 なんて、頭の片隅で考えている間にチュートリアルが始まる。

 ターン制を導入しているバトルは、行動を選択するだけで簡単に進行していきゲームが下手な俺でも問題なく進められる。

 たまのアクション要素といえばマップでの移動だが、これをアクションと呼ぶのは気が引けるほどの易しいものだった。

 それでも俺にはかなりの難易度に感じたが、横にいる葵からアドバイスを貰いながらどうにか先に進むことができている。

 自分でも驚くほど順調に進み、最初のボスを倒すまでに至った。

「……ふう。思ったよりいけてるな」

「まだまだ序盤だよ。どんどんいこう」

 もしかして、意外とちょろいのか?

 これなら割とすぐにクリアまでいけるんじゃないか……?

 という俺の考えは、すぐに砕かれることになる。

 二つ目のボスまでは、今まで同様順調に進めることができた。

 問題は、三つ目のボスだった。

 今までの感覚で挑むと、それはもうコテンパンにやられたのだ。

 こちらの攻撃は有効打にならず、相手の攻撃のほとんどが致命傷だった。

 これ、勝てなくないか?

 何度か挑戦したが、手塩に掛けて育てた戦士たちは為すすべなく蹂躙される。

「……。だめだ、勝てねえ」

「〜〜〜〜〜〜」

 俺が苦戦しているのを見て、葵は顔と腹を押さえて笑いを堪えている。

 手足をバタつかせて、ソファに寝転がってしまう。

 なんとも言えない感情ではあるが、楽しんでくれてるようで何よりだよ。

 しかし、本当にどうすればいいんだ?

 もう試せることは全部試したけどなあ。

 俺の冒険もここで終わりか…………。

「ふう、はあ。……く、苦しい」

 ひとしきり笑い終わった葵は、笑いすぎて滲んだ涙を指で拭う。

 そして、咳払いを一つ。

「おっほん。いい、兄ちゃん。ここはね、先にアイテムを取りに行かなくちゃ進めないんだ」

「え、そうなの? でも、そんなこと誰も言ってなかったぞ」

 話し掛けたNPCには、そんなこと仄めかしてたやつは一人もいなかった。

「これはね、特定の順番で話し掛けないと教えてくれないだ。しかも、そのヒントもすごいところに隠されてて、謎解きも面倒なんだよね。ボクも結構苦戦したよ」

「そ、そうなのか? くそ、ここまで順調だったのに」

「そう、それ! このゲームの一番鬼畜なところは、序盤の難易度を意図的に落とすことで、簡単だと思わせたところで急に難易度を上げるんだ。この落差に、ゲームを投げる人も多いんだよねえ」

 なんて、質(たち)の悪い作りをしてやがる。

 制作者の性格の悪さが透けて見える。

「まあ、無理矢理突破することもできなくはないけど、かなりレベルを上げなくちゃいけなくて。それは時間がかかりすぎるんだよねえ」

 やれやれ、という様子で解説をしてくれる葵。

 今の話を聞いて一気にやる気が失せたけど、俺は諦めないぞ。

 ただでさえ、下手くそで不甲斐ないプレイを見せているというのに、途中で投げ出す姿なんて見せられるわけない。

 というわけで、そのアイテムとやらを取りに行こう。

「で、そのアイテムはどこにあるんだ?」

「教えないよ?」

「え?」

「え?」

 なん……だと?

 今、教えないって言ったのか……?

「な、なんで?」

「だって、教えちゃったら面白くないじゃん。ヒントは出すけど、答えは言わないよ」

「そ、そんな……」

 てことは、その鬼畜な謎解きとやらをしなくちゃいけないってことか?

 てっきり、すぐに先に進めるもんだと思っていた俺は、突きつけられた現実に肩を落とす。

「はあ……」

 思わず息が漏れる。

 こんな序盤から苦戦するなんて、先が思いやられるぜ。

 なんだかんだ言って、頻繁にヒントをくれる葵のおかげで苦戦しながらもゲームは進行する。

 序盤の順調さが嘘のような遅々な進みに、しかし葵は相変わらず楽しそうに観戦している。

「あはははは! そこで躓く人は見たことないよ」

 自分でも感じるほどに不甲斐ないミスを連発し、葵に大笑いされてしまう。

 くそ。

 こんなおまけ程度の、アクションとも呼べないほどの難易度に苦戦するとは。

 自分でも泣きたくなるほどに下手くそだと思う。

「きょ、今日はもうやめよう」

 情けなく、逃げの一手だ。

 いや、違う。

 逃げじゃない。これは、逃げているわけじゃないぞ。

 だから、情けなくなんてないよ。

「え〜、はやいよ。もっとやろうよ〜」

 予想通り、葵は抗議してくる。

「でも、もういい時間だしさ。結構、長い間やってたんじゃないか?」

 言いながら、壁に掛けてある時計に視線を向けると葵も釣られたように顔を動かす。

「む〜〜」

 依然と不満そうだ

とはいえ、あと一押しかな。

「別に、今日だけで全部終わらせなくちゃいけないわけでもないしさ。また、日向に見られるわけにはいかないだろ?」

「う〜〜〜」

 苦虫を噛み潰したような顔で葛藤する葵。

 見つかってしまっては最後、どうなってしまうのかを想像したのだろう。

 むくれた様子のまま、致し方なしと片付けを始める葵。

 二人でテキパキと動くと、片付けはすぐに終わった。

「さて、ぼちぼち飯の準備でも始めるか」

 座りっぱなしで凝り固まった体を伸びでほぐす。

 俺の横で葵も同様に体を伸ばす。まるで、猫のように愛らしいその姿に、思わず視線が釘付けにされる。

 いかんいかん、と首を振って煩悩を払う。

「じゃあ、葵は着替えてきな。日向が帰ってくる前にさ」

「は〜い」

 葵は、やんわりと返事をして部屋に戻る。

 それから––––––––––––––。

「兄ちゃん!」

「今日も!」

「やろう!」

「さあ!」

「はやく!」

 と、毎日のように妹(おとうと)に催促される日が続く。

 断われるわけもなく、応じてしまう俺も俺だ。

 と言いつつも、悩みを忘れて安らげるこの時間を、求めている俺がいたのも確かだ。

 そして、数日を掛けた末、ゲームもついに佳境。

 ラストダンジョン手前までやってきていた。

「ふう。やっとここまで来れたな」

「ウン。ソウダネ」

 小さな達成感を感じている俺とは対照的に、隣にいる葵からはおよそ感情というものを感じ取れなかった。

 それもそのはずだ。

 葵からの助言があるにも関わらず、ここまでかなりの苦戦を強いられた。

 ゲームオーバーの回数は数えきれず、何度も詰みかけたところを辛うじて回避してきた。

 初見のプレイなんてこんなものかもしれないけど、それにしても時間が掛かりすぎている気もする。

 葵の変遷が、その予感を裏付けるようだった。

 最初は面白がっていた葵も、次第に真顔になる瞬間が増えた。

 稀に、俺が珍プレイをした時には笑顔が戻るが、すでに疲れ切った顔をしている。

 なんか、申し訳なくなってくるな。

「うし。じゃあ、一気に駆け抜けちまうか」

 どこからその自信が湧いてくるのか俺自身にもわからないが、付き合ってもらっている手前暗くなるわけにもいかない。

 あれ。よく考えてみれば、葵にせがまれてやっているわけだから俺が付き合わせているわけではないのでは……?

 ま、いっか。そんなことは些細な違いだ。

 今は、一刻も早く世界平和(ゲームクリア)を目指さなければ。

 ここまで時間が掛かってしまったことは、悪いことばかりではない。

 予期せぬ寄り道によって、レベルが想像より上がっているのだろう。

 ギミックの難易度は変わらないが、バトルは多少楽になったように感じる。相手からの攻撃が軽かったり、こっちの攻撃が思ったより効いていたり、そういう場面が増えてきた。

 実際、ダンキョン内の野良敵とは問題なく戦えている。

 スムーズに探索できている一方、相も変わらずどこへ行くべきかわからず右往左往する。

 結局、隈なく探索する羽目になり、ボスまで辿り着くのに相当の時間を要してしまった。

 時間が遅いのもあり、その日はそこで中断。

 そして、翌日。待望のラスボス戦へと突入する。

「やっと……。やっと、ここまで来れたね」

 その言葉には、ここ数日の疲れが滲んでいるように聞こえた。

 かく言う俺も、慣れない作業を繰り返しているからか相当に疲労している。

 せっかくのラストバトルだと言うのに、俺たちの気持ちはこれ以上ないくらい沈んでいた。

 日を跨いでいるとはいえ、ここに辿り着くまでの道のりが過酷すぎたのだ。主に俺のせいで。

 葵もここまでは予想していなかったのだろう。段々と口数の減っていくその様に、俺の心は削られてきた。

 が、それも今日でおしまいだ。

 早くラスボスを倒してしまおう。

 前向上を挟み、戦闘へと突入する。

 クライマックスに相応しいBGMが流れ始め、俺と葵に多少の元気が戻る。

 さっきまでの静けさが嘘のようにはしゃぎ始める俺と葵。

「おお! 流石にテンション上がってきたな」

「がんばってね、兄ちゃん!」

「ああ!」

 ラスボスに相応しい難易度の敵に、苦戦を強いられる。

 最後のバトルだからこそ己の力のみで戦いたいという俺の願いを聞いた葵は、静かに見守ってくれる。

 そして激闘の末、遂に強敵は敗れる。

 余韻に浸りながら、流れていくエンディング。

「終わったな」

 確かな達成感を感じながら、独り言のように溢す。

 俺の横では、葵が真剣な表情で画面を眺めている。

 きっと、何度目かの光景だろうに食い入るように見ている。

 エンディングが終わりタイトル画面に戻ると、ぐったりとソファに体を預ける。

「楽しかったか?」

 疑っちゃいないけど一応、な。

「うん。兄ちゃんは?」

「そりゃ、もちろん。こういうのもいいもんだな」

「でしょ?」

 気付いたら急接近している葵が、肩に身を預けてくる。

 ゲームに夢中で気にしてなかったけど、その格好でそんなことされると色々と問題が。

 俺の心を見透かすように、葵はくすっと笑う。

「もしかして、照れてるの?」

「ま、まさか。お兄ちゃんだぞ?」

 強がって見せたところで、生まれたての子鹿みたいに震えた声じゃ意味がない。

 直視できねえ。なんだこの生き物。

 今すぐ国宝にしよう。そうすべきだ。

「ふ〜ん、照れてるんだ」

 久しぶりに見る、いたずらな笑顔。

「……はい」

 観念したように力弱く答える。

「ふへへ、よかった」

 何も良くありません。

 お兄ちゃんは威厳を無くしました。

 元々、あるかも怪しいけどさ。

 俺がしょぼくれていると、葵は腕に抱きつくように身を寄せてくる。

「だって、ちゃんと“かわいい”ってことでしょ?」

 それは、最近で見る一番の笑顔だった。

 曇りのない、晴れ渡った空のような気持ちのいいものだった。

「うん、ちゃんと可愛いよ。流石、俺の弟だな」

 最早、隠し通せないのであれば潔く開き直ってしまおう。

 もう俺に失うものなどない。

 フハハハハハッ(泣)。

「むう。間違えちゃダメだよ、兄ちゃん。“妹”、でしょ?」

 じとっ、と俺を見つめる葵。

「そ、そうだった。妹、だったな」

 ふふん、と満足気な妹(おとうと)。

 そんな葵を横目にゲームを閉じようと操作すると、それを静止するように腕を引っ張られる。

「あ、葵? どうかしたか?」

 何かあったのか、と視線を向ける。

「何、やめようとしてるかな?」

 相変わらず笑顔の葵。

 だが、その目は明らかに笑っていない。

「え。まさか、やり込み要素までやれなんて言わないよな?」

 恐る恐る、尋ねる。

「そのまさか、だよ。兄ちゃん?」

 そんな馬鹿な。

 据わった目で迫りくる小悪魔。いや、これでは正真正銘の悪魔になってしまうぞ、葵よ。

 俺たちがどれだけ苦労してここまでやってきたのか、忘れてしまったわけではあるまい。

 覚えているのなら、なぜこんな自ら地獄に落ちるかのような提案をするんだ。

 あるいは、すでに心がやられてしまったのか。

 なんて、罪なことを……。

 俺がもっとゲームが上手ければ、葵の心を救うことが出来たのだろうか。

「このゲームはここからが良いところなんだから」

「え?」

 ここからが良いところ? ラスボス倒したのに?

「一応、ストーリーの続きになってるんだよ。ボクは、そっちの話の方が好きなんだよね」

 へえ〜。

 クリア後のやり込み要素ってもっとおまけ的な、強くなりすぎてしまった化け物を閉じ込めておくためのものだと思ってた。

 正直、気乗りはしなかったが、そこまで太鼓判を押されちゃやらないわけにもいかない。

 それに、葵の好きなお話っていうのも興味あるしな。

「ちなみに、それってクリアまでどれくらい掛かる?」

「普通だったらそんなにかからないけど。……でも、兄ちゃんだからなあ〜」

 渋い顔になる葵。

 この感じだと、また相当掛かりそうだな。

 とはいえ、ボリューム的にはそんなに多くはないのかもしれない。

「なら、明日にしないか? どうせなら通しで最後までやりたいからさ」

「う〜ん。まあ、兄ちゃんがそう言うなら。確かに、中途半端に進めておくよりはそっちの方が楽しめるだろうし……」

「よし、じゃあ決まりだな。てことで、今日はこれで終わり–––––––––」

「なわけないよね?」

 食い気味に、被せるようにして否定してくる葵。

「なんでさっ!」

「まだまだ時間はあるんだし、それ進めないなら別のやつやろうよ」

 くそ。逃げられると思ったのに。

「逃がさないよ?」

 はい。逃げられません。

「で、でも、他にもできることはあるだろ? 別にゲームにこだわらなくても」

「ずっと見てるだけだったから。次は、二人でできるやつがやりたいな」

 上目遣いでおねだりの構え。

 ふっ。俺だって、ただ言いなりになるだけじゃないぜ、葵?

 いつだって甘々な兄貴じゃないのさ。

「よし、やろう」

 嘘です。

 俺に、拒めるわけがなかった。

 てへっ。

「そうこなくっちゃ」

 葵は、嬉しそうにどれを遊ぶか選びはじめる。

 この光景は、いつ見ても微笑ましいものだ。

 どうせやるなら、存分に楽しまないとな。

「なあ、どうせならまだやったことないやつにしないか?」

「兄ちゃんはそっちのがいい?」

「まあ、せっかくだしさ。嫌か?」

「ううん。じゃあ、そうしよっか。……じゃあ、どれやる?」

 そう言い、まだやっとことのないタイトルを並べてくれる。

 協力するゲームはやったし、RPGもついさっきやったばかりだから……。

 うん。なら、これしかないよな。

「じゃあ、これはどうだ?」

 指差したのは、対戦型のゲーム。

 ま、葵相手に俺が勝てるわけはないが、これも一興だろう。

「え、大丈夫?」

 この後に繰り広げられる惨劇を想像したのだろう。

 葵は、俺を気に掛けてくれる。

 そして、その言葉からは自分が負けるかもという予感など欠片も感じない。

 まあ、その分析は正しい。

 俺の頭もそこまでおめでたくはない。同時に、負けるとわかっている勝負に負けたところで気分を害するほど子供でもない。

 重要なのは、葵と遊んでるってことだ。

 なら、今までとは違うシチュエーションで楽しみたいだろ?

「問題ない。手加減はするなよ?」

「ボクはいいけど。……泣いても知らないよ?」

「ははは。俺もそこまで柔じゃないさ」

「そういうことなら––––––––」

 そして、こてんぱんに叩きのめされたのであった。

 それはもう、想像も絶するほどに。

 いやいや、もちろんこの結果は想定してましたよ?

 それにしても、強すぎないですかね、葵さん?

 え、俺が弱すぎるだけ?

 はっはっはっ。何を言うのかと思えば、そんな。

 そんなこと、あるんですけど。

 あるんですけどね……?

 いくら実力が出るゲームを選んだとは言っても、もう少し善戦できると思ってたのに。

 力量の差は想像以上で、まさしく手も足も出ずに終わってしまった。

 少しの抵抗もできず、子供扱いとかそういう次元ではなかった。

「だから言ったのに……」

 葵は、負けている俺よりもつまらなそうに口を尖らせる。

「いや、まさかここまでとは思わなくって」

「兄ちゃんはもう少し自分のことを客観視した方がいいよ。他に類を見ないほどの下手っぴなんだから」

 え、そんなに?

 俺、そんなに下手くそだったの?

 やだ、ちょっとショック。

「弱い相手をいたぶるのだって、気分良くないんだから」

「それは、すまん」

 ガクッと肩を落とし、わかりやすく落ち込む。

 そんな俺を見ていられなくなったのか、葵はコントローラーの電源を切り机の上に置いた。

「今日はもう終わりにしよっか。いい時間だしさ」

「んあ?」

 顔を上げ、壁に掛けてある時計を見ると、その短針は真下に向いていた。

 確かに、これ以上はいつ日向が帰ってくるかわからないな。

「じゃあ、片付けるか。俺やっとくから、葵は着替えてきていいぞ」

「は〜い」

 さて、明日の攻略に向けて英気を養うために、今日は早めに寝るとするかな。

 なんて、久しぶりに健康的な時間に寝たら大分早めに目が覚めてしまった。

 時刻は、午前の五時を回ったあたりか。

 二度寝しようにも、変に目が冴えちまってどうしようもない。

 仕方ない。面倒だけど、起きるか。

 隣の部屋の二人を起こしてしまわぬように、物音を立てずに慎重に部屋を出る。

 洗濯を回し、その間に朝食を済ませる。

 数十分後、洗濯の終えた衣服を外に干し、朝のタスクは一つを残すのみとなった。

 それから、しばらくして葵が起きてくる。

「おはよ〜」

「おう。おはよう」

 流れるように食卓に腰掛ける葵。

 それをわかっている俺は、間を空けることなく朝食を出す。

「のんびりし過ぎて遅刻するなよ」

「ん〜、だいじょうぶ」

 いつも、気付いたらシャキッとしてるから大丈夫だと思うが、寝起きの葵はいつも心配になる。

 ま、いつも杞憂に終わるのだが。

「そういえば、日向は?」

 今更だが、朝起きてから一度も見ていない。

 まさか、まだ寝ているとか……は、日向に限ってはない、よな?

「ん〜、部屋にはもういなかったよ」

「……そっか」

 でことは、俺が起きた時点ではもう家にいなかったってことになるよな。

 今の朝練って、随分早く出ていく必要があるのか。家から高校までは、徒歩で通える距離なんだけどな。

 あ〜、ていうか、そんなに早い時間に行ったのなら確実に弁当持っていってないよな。

 だって、今から準備するわけなんだから。

 仕方ない。葵に届けてもらえるように頼もう。

「葵さ、悪いんだけど日向の弁当も一緒に持ってってもらえないか?」

「ひなた、忘れてったの?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど。俺が起きるよりも早くに出て行ったみたいだからさ、持って行ってないと思うんだ」

「ん〜、そっか。わかった、任せて」

 よかった、快く引き受けてくれた。

 二人分の弁当を葵に託し、まさに今出掛けようとしているところを玄関まで行って見送る。

「じゃあ、行ってくるね。兄ちゃんも遅刻しちゃだめだよ〜」

「はいはい。気を付けて行ってこいよ」

 葵の姿が見えなくなると、そのまま階段を上り自室に戻る。

 今日の講義は、と。……二限は休講か。

 となると、時間に余裕があるけど、家に居たってやることもないし早めに行くか。

 そうして、大学へ行き講義を受けた後、毎度のごとく佐伯と駄弁ってから帰路につく。

 そういえば、今日もRPGの続きやるって約束してたっけ。

 早く帰らないとな。

 最寄りからの道を少し早足で駆け抜ける。

「ただいまー」

 玄関を見ると、どうやら葵はもう帰っていそうだ。

 ということは、最近の傾向からいけばそろそろ部屋を飛び出してくる頃合いだが。

 ……飛び出してこない?

 何かあったのかな?

 もしかして、俺が帰ってくるのが遅すぎていじけてるのか?

 だとしたら、少し面倒なことになるかもな。

 最近の葵はちょっと我儘というか、以前に比べてすごく甘えたがりになったように感じる。

 それ自体は可愛いもんだしこっちとしても嬉しいことだけど、その分俺の手には負えなくなっているとも言える。

 俺が階段を上り切ったところで、丁度扉が開く。

「……おかえり」

 中から出てきた葵は、やはり少し不機嫌–––––というよりかは元気がないような。

「なんか元気ないみたいだけど、具合でも悪いのか?」

 葵は、力なく首を振る。

「そういうんじゃないけど……」

「そっか。なら、いいけど。……ああ、そういえば、昨日の続きだよな。すぐに準備するから待っててくれ」

 そう言って、急いで荷物を置いてこようとするがそうはならなかった。

「それなんだけど、今日はいいや。また、今度ね」

 葵は、閉じこもるように部屋に戻って行ってしまった。

 あんなに楽しみにしていたのに、いきなりどうしたのか。

 俺は部屋に荷物を置くと、すぐに葵の元へ向かう。

 無理に部屋の中に入るわけにもいかないから、扉の前から呼び掛ける。

「葵、本当にやらなくていいのか?」

「うん。ちょっと、そういう気分じゃなくって」

 そういう気分じゃないのなら仕方ないか。

 なんて、納得できる俺じゃあない。

「なんか、あったのか?」

 話してくれるかはわからないけど、聞いてみないことにはな。

「…………」

 少し待ってみても、声は返ってこない。

 話したくないことなのかな。

 無理矢理聞き出したりとかは避けたいし、とりあえず今日のところはいいか。

 そう思って戻ろうとした時、微かに扉が動く。

 が、扉は開くだけで中から葵が出てくる気配はない。

「……葵?」

 それ以上、葵からのアクションはない。

「開けるぞ?」

 ドアノブに手を伸ばそうとしたその時、さらに扉が動く。

「もう……なんでこんな時だけ鋭いのさ」

 諦めを滲ませた様子で部屋から出てくる葵。

 どうやら、話す気になってくれたらしい。

 立ったまま話をするわけにもいかず、とりあえず俺の部屋へ移動する。

 なんとなく、弟たちの部屋に入るのは気が引けるからな。

 俺はデスクチェアに腰掛け、葵にはベッドの上に座るように促す。

 脱力するようにベッドに身を預けた葵は、しばらくそのままの体勢でいた。

 俺は、葵が自分から話し始めるのを待つが、その気配は一向に感じられない。

 気が変わってしまったのか、話してくれるもんだと思ってたからどうするか。

 うーん。

 どうも、気が沈んでるみたいだから元気付けてやりたいんだが。

 やっぱり、俺にやってやれることは一つしかないな。

「なあ、葵。やっぱり、昨日の続き、やらないか?」

「でも……」

「俺がやりたいんだ。無理にとは言わないけど、先に行ってるから気が向いたら来てくれ」

 俺は、先に部屋を出て居間に向かう。

 葵が来てくれるかはわからないけど、とりあえず準備だけはておこう。

 電源を点け、タイトル画面で待機しておく。

 なかなか来る気配がないので、インスタントのコーヒーを淹れはじめる。

 お湯を沸かしている間に、階段の方から小さな足音が聞こえてくる。

 それを聞いた俺は、葵用のマグカップも取り出す。

 ゆっくりと扉を開けて入ってきた葵は、さっきと服装が違った。

「なかなか来ないと思ってたら、わざわざ着替えてたのか」

「そりゃ、そうでしょ」

 妹(おとうと)の可愛い姿を見ても動揺しないあたり、今日の俺はかなり落ち着いているらしい。

「今、コーヒー淹れてるからちょっと待ってな」

「……うん」

 静かに返事した葵は、ソファではなく食卓の方に腰掛けた。

 自分のブラックコーヒーと葵のミルクと砂糖を入れたカフェオレを持っていく。

 それらをダイニングテーブルの上に置き、葵の対面に座る。

「ありがと」

 両手でマグカップを持ち上げた葵は、一口啜ると熱そうに舌を出した。

「–––––あっつ、うう」

「おいおい、火傷しないように気を付けろよ」

「ふー、ふー……ズズッ」

 同じ轍は踏まないように、息を吹き掛けて冷ます葵。

 その熱さになれたのもあるだろう、今度は問題なく飲めたようだ。

 俺も一口分だけ飲み、席を立つ。

「じゃあ、早速だけどやるか?」

 マグカップを持ち、ソファの方へと向かおうとしたが葵は動こうとしない。

「……やっぱり、今日はやめとくか?」

 葵は、力なく頷く。

「……ごめん」

「謝ることじゃやないさ。別に、今日しかできないってわけじゃないんだ」

 それっきり会話はなく、二人して無言でコーヒーを啜る。

 俺が一杯分を飲み干し、片付けようと台所に向かおうとしたその時、葵はゆっくりと口を開いた。

「兄ちゃん、少し話せないかな?」

「うん、構わないよ。なんでも話してごらん」

 小さく頷いた葵は、ぽつりと語りはじめる。

「実は、ひなたと喧嘩しちゃって」

 それは、予想通りの言葉だった。

「……そっか。話してくれてありがとな」

 葵は、ふるふると首を振る。

「また、兄ちゃんに迷惑かけちゃう」

「そんな事、葵が気にしなくてもいいんだよ」

「でも–––––」

「でも、じゃない。なんのための兄貴だと思ってんだよ。少しは頼ってくれないと兄ちゃん悲しくなるぞ」

 葵は、余計俯いてしまう。

 しまった。

 今のは逆効果だったか?

「……もう。兄ちゃんは本当に甘すぎだよ」

 下を向いたまま、葵は何やら呟く。

 それが、俺の耳に届くことはなかった。

「え、なんか言ったか?」

「なんでも。……ありがとね、兄ちゃん」

 その声は、微かに明るさを取り戻していた。

「どういたしまして。少しは元気になったか?」

「おかげさまで。兄ちゃんが兄馬鹿すぎるせいでね」

 軽口が叩けるくらいになっているなら、もう心配はいらないか。

「こほん」

 葵は切り替えるように咳払いをし、日向との事を話しはじめる。

「昨日の夜のことなんだけど–––––––––」


***


 昨日は、ご存知の通り兄ちゃんと二人でゲームをした。

 明日、続きをやろうって約束をして、すごく楽しみだったのを覚えている。

 その日の夜、寝る支度を終えたボクにひなたは話しかけてきた。

「最近、兄貴と随分仲が良いみたいじゃないか」

 女装がバレた日からなんとなく気まずくて、お互いに話すような空気ではなかった。にも関わらず、その日は唐突にそんなことを聞いてきた。

「いきなりどうしたの?」

「……別に。なんでもない」

「なんだよ、気になるじゃんか」

 それっきり、ひなたは黙ってしまった。

「言いたいことがあるならはっきり言えば?」

 後から思えば、この時に強く言ってしまったのがいけなかったのかもしれない。

「まだ、あんなくだらないことやってるのか?」

「くだらないことって何?」

 正直、何のことを言っているのかはわかっていた。

「女の格好して、兄貴に甘えて。あんな、いかがわしいことまだやってるのか?」

 ほら、思った通り。

「……いかがわしくなんてないもん」

 実際、いかがわしいことはしてないし。

 でも、ちょっとグレーゾーンというか。怪しい気はする。

 主に、兄ちゃんの視線が怪しい。

 見られてる方は案外わかるって聞くけど、まさか我が身で実感するとは思わなかった。

 思い出すだけで顔が熱くなってくる。

「前に、兄貴に無理矢理やらされてるならやめろって言ったよな?」

 ひなたが言っているのは、最初に女装しているのを見られた日の夜のことだ。

 あの日、ボクはひなたに無理矢理部屋まで連れていかれてそんなことを言われた。

 兄ちゃんがそういうことをするように強要していると決めつけていたのだ。

 だから、ボクは全力で否定した。

 これは、ボクがやりたくてやってることで兄ちゃんは何も悪くないって。

 でも、その日は聞く耳を持ってくれなくて考えを改めてくれなかった。

「今でも続けてるってことは、本当に無理矢理やらされてるわけじゃないんだな」

「当たり前じゃん。–––––––って、なんで知ってるの?」

 思わず、素っ頓狂な声をあげてしまう。

 それも仕方のないことだろう。

 ボクらはひなたに隠れるようにしていたはずなのに、当のひなた本人には筒抜けだったようだ。

 でも、どうして–––––––––––。

「なんで、わかってたならすぐ止めなかったの?」

「そんなの、オレの勝手だろう」

 ひなたは目を逸らす。

 ボクは知っている。

 それは、ひなたが嘘を吐く時によくする行動だ。

 それが許せなくて、喧嘩腰になってしまった。

「なにそれ。それを言うなら、ボクが女装してること、ひなたにとやかく言われる筋合いないんじゃない。ひなた、勝手にすればいいって前に言ってたじゃない」

 逸らされていた視線は、ゆっくりとこちらに向けられる。

「そんなこと、言ったか?」

「うん、言った」

 再び、黙るひなた。

「もう寝ていい?」

 今から寝ようとしていた時に声をかけられたボクは、機嫌が悪かったのだろう。

 いや、機嫌が悪かったのはそれが理由じゃない。

「–––––––––––––おかしい」

 さっきまで黙(だんま)りだったひなたは、唐突に何か小さな声で呟いた。

「……なに?」

 うまく聞き取れなかったボクは、そんな風に聞き返してしまった。

「なんでもない。……俺ももう寝るよ。おやすみ」

 ひなたは、またボクから目を逸らした。

 その日は、それで終わった。

 今になってみると、悪いことをしたなと思う。

 そして、問題は次の日。つまり、今日の学校での出来事だった。

 今朝、ひなたはさっさと朝練に行ったようで、最初に顔を合わせたのは学校の教室だった。

 ひなたがお弁当を持って行っていないだろうからついでに持っていってほしいと頼まれ、鞄には二人分のお弁当が詰められていた。

 教室に着くと、教室にはすでに朝練を終えたひなたととうまがいた。

「おっす、葵」

「おはよ、とうま」

 とうまには軽いあいさつだけ返して通り過ぎ、その先にいるひなたの元へと進んでいく。

 鞄からひなたのお弁当を取り出し、渡す。

「はい、これ。忘れてるよ」

 しかし、ひなたは受け取ろうとしない。

「いらない。今日は購買で済ませる」

「え、なんで、それ本気で言ってるの?」

 せっかく、兄ちゃんが用意してくれたのにいらないと言う。

 いや、“兄ちゃんが用意してくれた”からいらないのだろう。

 そんな、想いを踏み躙るみたいな言動にカチンと来た。

 ひなたは、兄ちゃんになら何をしてもいいと思っているのだろうか。

 そりゃ、兄ちゃんがボクらに怒ることなんてほとんど無いだろうけど、それとこれとは別問題だ。

 怒らないからと言って、なんでもしていいわけじゃない。

 ひなたがお弁当を食べなかったことを知ったら、兄ちゃんは間違いなく悲しむだろう。

 そんなこと、わからないはずないのに。

 それからひなたが口を開くことはなく、ボクの問いに答える事もなかった。

 昼休みになってすぐ、チャイムが鳴ると同時にひなたは席を立つ。

「あ、ひなた。どこ行くのさ!?」

 どうにかして呼び止めようとするも、効果はない。

 ボクの声が届いているはずなのに、聞こえないふりをしているのかそのまま歩いて行ってしまう。

 朝に言っていた通り、購買に向かったのだろうか。

 どうやら、本当にお弁当を食べる気がないらしい。

 食べられるものがあるのになんだってそんなことを、と思う。

 しかし、まずいことになった。

 ボク一人で二人分なんて、とてもじゃないけど食べられない。

 ましてや、ひなたの分はボクのより少し多めに作られている。

 どうしたものかと困っていると、後ろから声をかけられる。

「なんだ、お前ら喧嘩でもしたの?」

「あ、とうま」

「あ、ってなんだよ、あ、って。んで、どうなの?」

 ほんとに、この男はデリカシーってものがない。

 まあでも、今更ボクたちの間に遠慮も無用なわけで特に何か思うこともない。

「多分?」

「なんで疑問系なんだよ」

 だって、わからないんだもん。

 これが喧嘩なのかどうかが。

 喧嘩なんて、記憶にある限りじゃしたことない。

 だから、どうすればいいかわからない。

 仲違いなんてしたことがなければ、当然仲直りだってしたことはない。

 そんな経験の少なさが、今は忌まわしい。

 人並みに喧嘩している仲だったら、こんな時もう少し気楽なのだろうか。

 そんなボクの焦燥など気にした様子もなく、ぐうぅ〜、と響く音。

 音の方を振り返ると、とうまがお腹を押さえていた。

「わ、悪い。朝からなんも食ってなくて」

「じゃあ、今食べればいいじゃん。昼休みなんだし」

 当然の返答だろう。

 今は昼休みで、普通ならご飯を食べる時間だ。お腹が空いているなら、尚のことそうするべきだ。

「いや、それが財布忘れちまって。食うものがないんだよ」

 と、言うことらしい。

 珍しく、しょぼくれている。

 道理で、朝から何も食べていないわけだ。

 なぜかと言うと、とうまは途中のコンビニで朝ごはんを調達し学校に来てから食べているからだ。

 財布を忘れてしまえば、そんなことはできない。

 当然、お昼ご飯も用意していないのだから食べるものなんてあるはずかない。

 しかし、これは渡りに船かもしれない。

 苦渋の決断ではあるが、無駄にするよりは圧倒的にマシだろう。

「はい。じゃあ、これ食べな」

 そう言って、ひなたが食べるはずだったお弁当を差し出す。

「え、でもこれお前らのだろ、いいのか?」

「誰かさんが食べないみたいだからさ」

「マジか! やっぱ、持つべきものは友だな」

 なんて、調子のいいこと言っちゃって。

 余程お腹が空いていたのだろう、掻き込むようにして食べている。

「んん、うまいな。これ、太陽さんが作ってるんだっけ?」

 一通り食べ終えたとうまは、唸るようにして舌鼓を打つ。

 前に、兄ちゃんに作って貰っていると言ったのを憶えていたのだろう。

「うん、そうだよ」

「はえー、料理上手いんだな」

「まあ、割となんでもできる人だから」

「ふーん。しかし、せっかく作って貰ったってのに食わないなんて、日向も勿体無いことするよな」

 まったくだよ。

「もし、俺が妹に弁当作って貰ったら死んでも食ってやる自信があるぜ」

 うん、そうだね。そんなことどうでもいいけどね。

 けど、兄ちゃんも似たようなこと言いそうだなあ。

 兄馬鹿なのは、とうまと良い勝負だ。いや、下手すると兄ちゃんの方が兄馬鹿かもしれない。

 だから、ひなたにあんな態度取られて辛くないはずがないんだ。

 きっと、傷ついているはずだ。

 ボクがどうにかしてあげなくちゃ。

 今、兄ちゃんを助けてあげられるのはボクだけなんだから。

「で、喧嘩の原因は何なんだよ?」

 臆する事もなく踏み込んでくる。

 ただ、なかなか説明が難しい上に女装のことは話したくないし、なんと言ったものか。

 う〜ん、と唸っていると何かを察したのか再び口を開くとうま。

「別に、言いたくなかったら言わなくても良いからな」

「言いたくないっていうか、なんて言えばいいのか……」

「もしかして、太陽さん絡み?」

 こく、と頷く。

 一応、関係者ではあるし。というか、原因?

 もちろん、兄ちゃんに非があるわけじゃないけど。

「ああ、それで弁当食わなかったのか。アイツも意外と可愛いところあるんだな」

「かわいくないよ」

 はは、と乾いた笑いがこぼれる。

 いつもなら賛同するところだが、今日のところは否定したかった。

「え、じゃあ、喧嘩してるのって日向と太陽さん?」

「それが、そんな単純な話じゃないんだよねえ」

「ふ〜ん、お前も大変だな」

「あはは…………」

 どう言ったものかも分からずなあなあと話していると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。

 どこで昼食を済ませてきたのか、ひなたが教室に戻ってくる。

 その後、何度も話しかけようと試みたが、うまく躱され続け放課後になってしまった。

 部活のあるひなたとはそれまでで、結局学校では碌に話すことができなかった。


***


「––––––––なんてことがあったんだけど」

 そう言って、葵は話を結んだ。

 事態は、俺が思っていたより深刻なようだった。

 日向は、葵にも心を閉ざし始めている。このままでは大したことも出来ずに打つ手がなくなってしまいそうだ。

 さっきまでの自分をぶん殴ってやりたい。ゲームなんかしてる場合じゃなかった。

 そして、こんな問題を一人で抱え込もうとしていた葵に申し訳なく思う。

「話してくれてありがとな。俺の方もどうにか出来ないか考えておくよ」

「うん」

 気が進まないだろうに、話を聞かせてくれた葵に報いなければ。

「とりあえず、当面は女装するのはやめよう」

「……え、なんで?」

 信じられない、と言うように目を見開く葵。

「これ以上状況が悪化するのは避けたいからさ。それこそ、本当に取り返しがつかなくなる気がして」

 何より、日向と葵の仲がこれ以上悪くなるのは避けたい。

「でも、兄ちゃんはそれでいいの? 妹、欲しかったんでしょ?」

 まさか、葵の方からこんなことを言ってくれるなんて思ってなかった。

 普通に受け入れてくれるもんだと思ってたから、これ以上の言葉を用意してない。

 だから、少し面食らっちまった。

「そりゃそうだけど。そもそもが無理な話だったわけだし、少しの間だけでも夢が見れたようで楽しかったよ」

 自分から頼んでおいて言うのも何だけどさ。

 葵は、俯いたまま喋らない。

 何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。なんて、今更心配するのは遅いような気もするが。

「……葵、さん?」

 そのまま固まって動かなくなってしまった葵が心配になって声を掛けるも、返事はない。

 その代わりというべきか、葵は立ち上がる。

「だめだよ、そんなの」

 小さく溢して、部屋を飛び出していってしまった。

 その表情は、ひどく思い詰めているように見えた。

 だめ、とは一体何がだめなのか? いや、それはなんとなくわかるが……どう、だめなのか。これがわからない。

 俺、何かやっちゃいました?–––––––––なんて、よくいる主人公みたいなこと思ってる場合じゃない。

 明らかに何かを間違えたような気がするが、それが何かわからない。

 誰かに聞けるわけもなく、背もたれに身を預ける。

 心に靄が掛かったまま、その日は眠りについた。

 それから、何日か経ったが日向とは気まずいままだし、葵とも遊ぶ時間が減ってしまった。

 元通りになった、とも捉えられるかもしれないが、前よりも状況は悪化していると言うべきだろう。

 そんな、ある休日。

 珍しく昼過ぎまで寝過ごしてしまい、起きた頃には随分と日が高くなっていた。

 日向は部活だろうか、すでにその姿はない。

 寝過ぎたな、と反省しながらあくびを一つ。

 とりあえず、胃の中に何か入れようと思いリビングへと向かう。

「な–––––––」

 扉を開けて最初に目に入ったのは、ダイニングテーブルの奥、テレビに向かうようにして置かれているソファに腰掛ける美少女(・・・)。

 彼女も、こちらに気付いて振り向く。

 肩に掛からない程度の黒髪は、遠目にもわかるほどに艶があった。綺麗に通った鼻筋に、長い睫毛に飾られた紫紺の瞳。人形みたいに整った造形に、思わず息を呑む。身に纏うのは、ミニスカートとガーリーな可愛らしいトップス。浮世離れした出で立ちとは矛盾するような、それでいて少女らしい可憐さを感じさせる服装が何かの作品であるような気さえしてくる。

 俺の姿を確認するや否や、木漏れ日みたいな笑顔を見せてくる。

 そんな、俺のかわいい妹––––––––。

「あ、おはよう。お寝坊さんだね、兄ちゃん」

 じゃなかった、弟。

 かの美少女は、美少女にあらず。正しくは、美少年である。

 男にしては長めの黒髪と、整った顔立ち、澄んだ瞳が埋め込まれているぱっちりとした目。

 そのどれもが本物だが、女の子であるということだけが偽りだった。

 いや、そんなことはいい。

 俺の妹(おとうと)がかわいいなんて、今に始まったことじゃない。

 俺が聞きたいのはそんなことではなく。

「女装は控えようって、前に言ったじゃないか」

 状況を改善することができなくても悪化させることがないように、とそう言ったはずだ。

 てっきり、最近はそのつもりで一緒にいる時間が減ったのかと思っていた。だから、完全に意表を突かれて間抜けな声を出してしまう。

「そうだったっけ?」

 絶対わかっているだろうに、あざとくとぼけられてしまう。

 こてん、と首を傾げるその仕草が小動物を想起させる。

 くそ。かわいいな。

 何度でも言うが、俺は嬉しい。こんな俺のわがままを聞いてくれている葵には感謝しかない。

 けど、それとこれとは話が違うだろう。目先の欲に囚われている場合じゃない。

 だから、いくら可愛くたって引いてはやれないのだ。

「ねえねえ。せっかくの休みなんだから、たっぷり遊ぼうよ。……ね?」

 俺の決意は、一瞬で粉砕されるのだった。それはまるで、筋肉マッチョに砕かれる薄氷のように。もうほんとに、ワンパンだった。

 おねだりは反則ですよ。

 断るという機能をアンインストールした俺は、言われるがまま、されるがままに時を過ごしてしまう。

 途中で昼食を挟みはしたが、ほとんどゲーム三昧だ。

 こんなことしてていいのかなって思うけど、葵が楽しそうだからいいか、なんて情けなく思考を放棄する。

 次々とゲームを入れ替えながら遊び、かなりの時間が過ぎた。

 楽しいなりに疲労が溜まってきた頃、ふと外の方を見た葵が声を上げる。

「あれ。雨、降ってきてない?」

 葵に釣られるようにして窓の方を見ると、まだ弱くはあったが確かに雨が降り始めていた。

「まずいっ!」

 と言うのも、洗濯物を外に出しっぱなしだ。

 コントローラーを投げ捨てるように机に置き、急いで取り込みに行く。

 葵は、俺の後に続くようにして動き出す。

 二人で協力し、なんとか雨が強くなる前に全部仕舞うことができ、事なきを得る。

「ふう」

 急な出来事で余計疲労を感じてしまう。

「手伝ってくれてありがとな」

 言いながら、手が勝手に動く。

 その行き先は、葵の頭上。

 頭を撫でてやると、くすぐったいと言うように体が跳ねる。

 やべ、間違えたか?–––––––とも思ったが、葵は喉を鳴らす猫のように心地良さそうにしている。ような気がする。

 なんとなく、背徳的な気がして感情の行き場を失う。

「……続き、やるか」

 葵の頭から手を離し、先ほどの続きをやるべくコントローラーを手に取る。

 心なしか、葵が物足りないと言うような顔をした気がするけど、ゲームがやり足りないだけだと思いたい。でなければ、俺の理性が死ぬ。

 さて、葵を満足させられるように頑張るか!

 と奮起したはいいものの、次の瞬間、玄関の方から鍵が開く音がした。

 続いて、扉の開く音。

 両親は、事前連絡もなしに帰ってくるような人たちじゃない。と、信じたい。

 つまり、十中八九日向が帰ってきたということだだ。

 まずい、と俺の直感が告げる。

 前に葵から、日向にはすでにバレていると聞かされたが、直接現場を見られたのは一回のみだ。

 またこんなところを見せたら、今度こそ縁を切られてもおかしくない。

 それに、これ以上日向と葵の仲を悪化させるわけにはいかない。

 これは、最重要ミッションだ。

「葵。俺が時間を稼ぐから、その間にいつもの服装に着替えるんだ」

「で、でも」

 –––––––––今からじゃ間に合わない、か?

 まあ、そう考えるのも当然だ。

 そもそも、バレているのなら今更隠す必要もないと考えているのかもしれない。

 そう思う気持ちも、わからないではない。

 だが、やはり現場をそのまま見られるのは避けたい。

 なぜならば、そうした方がいいと思ったからだ。

 これは確証も確信もないただの直感で、俺はそれに身を任せている。

 とはいえ、これといって策があるわけじゃない。

 それでも、どうにかしなくちゃいけない時が男にはある。

「とりあえず隠れててくれ。どうにかして隙を作るから」

 まさしく、強大なボスに挑むかの如く、だ。

 攻略法は手探りで探すしかない。

 俺の指示通り、葵は死角になる位置で身を隠す。

 俺はなんでもない風を装って、ソファに身を預ける。

 やがて、扉が開くと、居間へと日向が入ってくる。

「おかえり、日向」

 不機嫌そうな顔で入ってきたもう一人の弟は、返事をしない。

 少し濡れた髪を邪魔そうに掻き上げるその姿は、まさしく水も滴るいい男だ。

 って、そんなこと考えてる場合じゃない。

 ––––––いや、待てよ?

 濡れていると言うことは、雨に打たれたのか。

 それなら、あの手が使えそうだ。

 ソファから立ち上がり、日向の前を塞ぐようにして立つ。

「風邪引いちゃうから、早く風呂入っちゃいな。着替えとかは俺が用意しとくからさ」

 リビングの中に入れないように催促する。

 だが、日向は応じない。

「……一人か?」

 体が跳ねそうになるのをどうにか堪える。

「そうだけど……」

「葵は?」

「部屋にでもいるんじゃないか?」

 日向は、ふん、と鼻を鳴らす。

 納得してくれたっぽいか?

「それで、一人でコントローラー二つも使ってゲームしてたのか?」

 反射で振り返ってしまう。

 ソファの前に置かれているローテーブルには、さっきまで遊んでいたコントローラーがそのまま置きっぱなしになっていた。

 しまった、詰めが甘かったか。

「そ、そういうこともあり得るだろ」

 苦し紛れだが、誤魔化すしかない。

「へえ、あの兄貴が。珍しいこともあるもんだな」

「……ははは」

 乾いた笑いしか出ねえ。

 そりゃそうだ。自分でも不自然だと思うよ。日向からしたら、尚更おかしく映るだろう。俺が進んで一人でゲームをするなんて、今までそんな姿見せたことはない。俺の記憶にも、そんな俺は存在しない。それだけ、おかしいことなのだ。

 確認は済んだと言わんばかりに動き出した日向は、風呂場ではなくリビングの中に進もうとする。

 その動きを察知した俺は、どうにか体を入れてブロックする。

「とりあえず風呂入れって。風邪引いちまうだろ」

 これ以外に道はない。

 頼むから早く風呂に行ってくれ!

「別に、そんなに濡れてない」

 俺の制止を聞かずに、強引に侵攻してくる日向。

「お、おい」

 思わず、その腕を掴んでしまう。

 瞬間、ものすごい勢いで振り払われてしまう。

「触るなっ!」

 流石に、面食らっちまった。

 ここまで、あからさまに拒絶されるとは思っていなかった。

「……放っといてくれ」

 暗い顔で、リビングの奥の方へと進む。

 向かう先は、ソファの奥。物陰で死角になっている、葵の隠れている場所だった。

「あ……」

「やっぱり、な」

 時が止まる。

 この一瞬、誰も動くことができなかった。

 静寂の後、最初に音を発したのは日向だった。

「最低だ」

 それは、絞り出すように、僅かに溢れた水滴のように弱々しかった。

 何も言えなかった。

 まるで、最初から喉なんてなかったみたいに、声の出し方を忘れてしまう。

 また、前みたいになるのだろう、とそう思った。

 気の利いたことも言えず。話を聞いてもらえることもなく。為す術なく終わるのだろう、と。

 俺に、この場を打開する力はない。

 また、この前のようになってしまうのだろう。

 しかし、その予感は意外な形で裏切られることになった。

 それは、本当に予想外の出来事で、今日は驚いてばっかりだ。

「なんで–––––––最低ってなに? なんでそんなこと言うの?」

 流石の日向も、少し面食らってるようだった。

「なんで、ひなたにそんなこと言えるの? 最低なのはひなたの方だよ!」

 捲し立てるように、葵には珍しく声を荒らげている。

 見開いた目が塞がらない。

 こんなこと、今まで一度もなかった。

「何?」

 俺が驚愕を引きずっている間に、日向はいつもの調子を取り戻していた。

 普段の、俺に向けるような威圧的な態度。それを、葵に向かって放っている。

 だが、葵は怯まない。

「自分のことを棚に上げないでよ! せっかく、兄ちゃんが作ってくれたお弁当を食べもしないで、どうしてそんなことが言えるの!?」

 悲痛な叫びは、葵の本心を痛いほどに表していた。

 俺が思っていた以上に、気にしてたんだな。

 そんなことにも、気づいてやれなかった。

「それとこれとは、関係ないだろ」

「あるよ!」

 ヒートアップする二人。

「落ち着けよ。話はそれからだ」

「なにそれ。逃げるの? また、そうやって逃げるの!?」

「何だと?」

「なにさ!」

 静かに怒りを滲ませる日向と、見るからに頭に血が昇っている葵。

 至近距離で睨み合う二人。

 あと少しで触れそうなその距離は、まさに一触即発だ。

 そのままの状態で数秒が過ぎる。

 そして、どちらからともなく掴み掛かる。

 あわや殴り合いになるか、というところで俺の体はやっと動き出せた。

 弟二人がこれだけ緊迫した状態にあっても、実際に手が出そうになるその時まで、見ていることしかできなかった。

 こんな事態に陥っても見ていることしかできず、床に釘付けにされたように動けなかった。

 その事実が、とにかく悔しかった。

 自分の無力を恨みながら、今はただやらなければいけないことをする。

「ストップストップ!」

 体を割り込ませるようにして、二人を無理矢理引き剥がす。

 両者ともに頭に血が昇っていて、周りが見えていなかったのだろう。

 もしかすると、俺がこの場にいたことすら忘れていたのかもしれない。

 俺が間に入ることを予想もしていなかったようだ。

 そこで、一旦冷静になったのか、二人とも息を整えているようだった。

「暴力はやめようぜ、な?」

 二人に交互に視線を送り、諭すように言う。

 二人とも、バツが悪そうに眼を合わせてくれない。

 とりあえず、この場を収めなくちゃいけない。

 その方法を、俺は一つだけ思いついた。

「ごめんな。全部、俺のせいだよな」

 二人が喧嘩しているのは、喧嘩することになってしまった原因は、間違いなく俺だろう。

「葵、ごめんな。今までありがとう。でも、もういい。もう、いいから」

「な––––––––」

 葵が何か言おうとしたが、視線を切る。

 その目は滲んでおり、心苦しくもあるが聞く耳は持てない。

 こんなことになってしまうなら、それは間違った願いだったのだろう。

「日向も。飯くらいちゃんと食えよ、心配になるからさ」

「……」

 俯いたままだが、きっと届いているだろう。今は、そう願おう。

「じゃあ、終わり! この話はこれで終わりな」

 パンッ、と手を叩いて、さっきまでの空気が嘘みたいに明るい声を出す。

 二人は、動かない。

「お、おい。なんか言ってくれよ」

 なんて言ってみても、返ってくるのは沈黙。

 二人とも、喋ろうとも動こうともしない。

 流石に、心配になるんだが。

「お〜い……日向? 葵?」

 日向は、何も言わず俯いたままで去ろうとする。

「待って、ひなた! なにか、兄ちゃんに言わなくちゃいけないことがあるでしょ!?」

 葵は、行かせまいと手を伸ばすが、俺はそれを阻む。

「葵、もういいよ」

「なにが、なにがいいの? なにも良くないよ–––––!」

 葵は、この終幕に納得がいってないようだった。

「これでいいの? 兄ちゃんはこれでいいの!?」

 俺の腕を掴み、揺らすようにして訴え掛けてくる。

 力なく揺られる俺は、同じく弱々しい声で答える。

「俺は気にしてないから」

 それが、何かの引き金を引いたようだった。

 しかし、俺はそれを理解できていなかった。

「––––––––、知らない。もう知らない! 兄ちゃんもひなたも、もう知らないからっ!!」

「あ、葵」

 涙を零しながら、走っていってしまった。

 感情的になっている葵が珍しくて、なんて声を掛ければ良かったのかわからなかった。

 いつの間にか勢いを増していた雨音に、俺の声はかき消されて届かない。

 ひとり残された部屋の中で、雨が窓を打つ音がひどく耳に刺さった。

 土砂降りの外を窓越しに眺めると、まるで泣いているみたいで余計に気が沈む。

「はああ…………」

 深く吐いた溜息は、さっきと同じように雨音の中に溶ける。


***


 感情諸共投げ捨てるように放ったボールは、己の苛立ちを体現するかの如く不安定な軌道を描く。

 結果など、ボールが手を離れた瞬間から分かりきっていた。

 ガンっ、と鈍い音を立てて弾かれた球体は、輪の内側を通ることはなかった。

 落っこちたそれは、数度弾んだあと遠いところで静止する。

 吐き出したかった心は、ボールと一緒に投げ捨てられてはくれなかった。

 言葉にできない黒い感情が、澱みのように溜まっていく。

 昨日の出来事で、それが酷くなったように思う。

 そんなことを考えていると、昨日の光景がフラッシュバックする。

 思い出したくもないのに。もう、忘れたいのに。強い重力に引っ張られるみたいに、心が置き去りになる。昨日の夜に取り残されている。忘れることなど、許されないと言うように。

 だから、振り払うよに無我夢中で体を動かす。

 かれこれ、一時間はそんなことを繰り返している。

 練習後の体育館に、自主練という体で居座っていた。

 理由は、考えたくもない。思い出すだけで腹が立つ。

「日向あ〜、もう体育館閉めろってさ」

 勢いよく開いた扉の方には、帰り支度を終えた冬馬が立っていた。

「……わかった、すぐに行く」

 不本意ではあるが、仕方ない。

 いつまでも学校に居座れるわけじゃない。

「ちょっと見てたけどよ、あんなに入んないなんて珍しいじゃんか」

「……」

 だから、なんだと言うのか。

 人間なのだから、調子の悪い日くらいあるだろう。

「お前さ、ここんとこずっとあんな感じだぞ?」

 冬馬のいう通り、オレは今すこぶる調子が悪い。

 練習中もまるで集中力がなくて、自分でもどうしてしまったのかわからない。

「そんなに気になるならさ、早く仲直りしちゃえばいいじゃんか。一言、ごめんって言うだけだろ?」

「違う」

「何が違うんだよ?」

 全部に決まっているだろう。見当違いもいいところだ。

 オレの不調の原因が、喧嘩しているから?

 馬鹿も休み休み言ってくれ。

「ま、なんでもいいけどさ。お前と葵が険悪だと俺が居た堪れないの、わかる?」

「そうか」

「そうか、って。お前なあ、もう少し俺に手心ってもんがあってもいいんじゃないんでしょうか」

「……」

「無視かよお」

 体育館の戸締りを終えた後、鍵を職員室に返却してから帰る。

 普段よりも早い段階で冬馬に別れを告げる。

「じゃあな、また明日」

「え、おい。日向ん家、そっちじゃないだろ?」

 もちろん、冬馬はこういう反応をする。

「飯、食って帰るから」

「また? 外食ばっかりじゃ体に悪いだろ」

「お前には関係ないだろ」

「そうかもしんないけどさ。太陽さん、作ってくれてるんじゃやないの?」

「………」

 オレは何も言わなかったが、冬馬は何か合点がいったようだ。

「意地張りすぎじゃないか? 心配してると思うぞ?」

 うるさい。

 そんなことは、わかってる。

 わかってるから、余計に腹が立つんだ。

 くそ、せっかく忘れられそうだったのに。

「また無視」

 はあ、と溜息。

「ま、いいけどさ。早めに帰れよ。俺も心配だからさ」

「できればな」

「はいはい」

 そうして、冬馬と別れる。

 手早く済ませられるチェーン店で夕飯を済ませる。

 食事にはあまり時間を掛けたくない。

 かといって、すぐに帰りたいってわけでもない。

 当然だ。でなきゃ、わざわざ外でご飯なんて食わない。

 急いで店を出た後、帰り道の途中にある公園に寄る。

 ネットを潜(くぐ)り、四方を金網に囲まれた内側に入り込む。

 バスケットのゴールが設置してあるそこは、ストリートのコートだ。

 最近は、家に帰っても気まずいだけだからこうして時間を潰すことが多い。

 気の済むまでボールを触った後は、帰ってすぐに風呂に入って寝るようにしている。

 そうすれば、朝練で早く出るオレはほとんど兄貴に会わない。

 葵とは学校があるせいで会わないのは無理があるが、極力顔を付き合わせずに済んでいる。

 月明かりと頼りない街灯だけが、慰めてくれているような錯覚があった。

 その感覚が、嫌いになれなかった。


***


 あれから数日が経ったのだが、事態は悪化する一方だった。

 日向が口を利いてくれないのは相変わらずだが、それに留まらず最近は葵とも口を利いていない。

 心のどこかで距離を置きたいと思っていたのか、今の状況に安堵している自分がいた。

 そんな自分に嫌気が差すが、現状を変えようという気も起きない。

 それよりも気になるのは、日向と葵の間にもほとんどの会話がないことだ。

 最近じゃ、日向は夕飯も外で済ませてくるようになって、家にいる時間を意図的に減らしているように思う。

 心配だから、一緒じゃなくてもいいから家で食べてほしい。なんて思っていても、それを伝える勇気も機会もありはしなかった。

 きっと、自分で思っているよりも俺の精神は参っているのだろう。

 嘲笑(わら)っちまうくらいに、気力が湧いてこない。

 いつもだったら、二人のためならどんな状況でも何だって出来る気がするのに…………。

 逃げる自分を余計惨めに思うが、改善しようという意欲も湧いてこない。

「あ、兄ちゃん、今日は–––––––––」

 唯一の救いは、葵の方から俺にアクションを起こしてくれていることだ。

 葵は、こんな俺にも懲りずに声を掛けてくれる。

 だが、俺はその手を取る気になれなかった。

 今の俺にはそれに応える意思も資格もなくて、そっけない態度を取ってしまう。

「悪い、予定があるんだ。また今度な」

 今日も、逃げるように家を出る。

 最低だとわかっていてもやめられない、

 本当は予定なんかないし、行く当てもない。

 足は、自然と大学に向かっていた。

 とはいえ、受けるべき講義なんかもなくて暇を持て余すだけだ。

 とりあえず、いつもの場所で物思いに耽ることにした。

 そこに、もはや恒例のように佐伯がやってくる。

「おや、真榎氏。講義もないのにこんなところに来るとは、勤勉ですなあ」

「んー」

「ご一緒してもよろしいですかな?」

「おー」

「ふむ。何やら上の空なご様子。触らぬ神に祟りなし、ですな」

 とか言いながら、ちゃっかり俺の前に座る。

 反応の薄い俺を相手にすることを諦め、鞄から取り出した本を読み始めた。

 俺は、手元にあるカップが空になったことに気付き、そこで初めて佐伯の存在を認識した。

「どぅわっ!? お前、いつからそこに?」

「何を仰いますやら。拙者が座っているところに後から来たのは真榎氏の方ですぞ」

「え、まじ?」

「嘘です」

「嘘かよっ!」

 思わずツッコんじまった。

 思いのほか大声が出ちまったもんだから、少し視線を感じて恥ずかしい。

「声、掛けてくれよ」

「掛けましたが、反応がなかったので」

「そっか、そいつは悪かったな」

「お構いなく。拙者と真榎氏との仲ではありませんか」

「はいはい。ていうか、本読んでる邪魔して悪かったな」

 佐伯の手に、文庫サイズの本が持たれていることに今更気付く。

「いえ、すでに読み終わっているので問題ありませぬ。それより、今日はいかがなされたのですか?」

「え、何が?」

「いえ、何やらまた思い詰めていらしたので、何かあったのかと思ったのですが違いましたか?」

 相変わらずの鋭さだ。

 きっと、多くの鈍感系主人公を好きになっちまったヒロインは、お前の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいだろうな。

「別に、大したことじゃない……こともないけど。他人(ひと)に話すようなことでもないからさ」

 佐伯には。前にも相談に乗ってもらった手前、また頼るのは気が引ける。

「左様ですか。しかし、真榎氏からそのような言葉が出るとは驚きです」

「え、なんのこと?」

「ですから、弟御に女装して欲しいと頼んで拒絶されたことや、いざ女装してもらったらもう一人の弟御にバレて怒られたりしたことを、包み隠さずに話せてしまう真榎氏にも他人(ひと)に話せないようなことがあるのかと驚いたのですよ」

 あれ。もしかして、喧嘩売られてるのかな?

 だとしたら、迷わずに買わせてもらうが。

「いえ、何も貶めようというわけではありませぬぞ。むしろ、拙者は真榎氏のそういったところは美徳だと思っています。その隠す気すら無い素直さは、一種の才能と言えるでしょう」

 結局、褒められてるんだか貶されてるんだかわからない。

 まあ、佐伯の言うことだ。言葉通りに受け取っておいて損は無いだろうが。

「じゃあ、そういうことにしとくよ」

「おや、その言い方、まるで信じていないようではないですか」

「そんなことねえって」

「ふむ、でしたら良いのですが」

「………………」

「………………」

 え、なんで黙るんだよ。

 こわいこわいこわい。

 どうして真顔で見つめてくるの??????

「それで?」

「え?」

 それで––––––って、何が?

「結局、何があったのかを聞いていないのですが」

 佐伯は、さも当たり前なことを言うように、終わったと思っていた話を蒸し返す。

「いや、だから話さねえって」

「え〜、何のために今のやりとりをしたと思っているのですか。そういうフラグでしょうに、いけず」

 口を尖らせてブーイングで抗議してくる。

 それ、可愛くないぞ。

「そんなこと言われたって言わないからな」

「そんな〜。真榎氏の〜ちょっとかっこいいとこ見てみた〜い」

 それ、絶対使い道間違えてるぞ。

 ほんで、話を聞いたところで見られるのはかっこいいところじゃなくてかっこ悪いところなんだわ。

 あと、もう一つ物申したいんだが––––––––––––。

「お前、楽しんでるだろ」

「はて、何のことやら」

 拙者にはさっぱり…………、と白(しら)を切る。

 はあ……もういいや。

 張り合うだけ面倒だ。

「……わかったよ。言えばいいんだろ」

 よくよく考えてみれば、今更佐伯に隠すようなこともないしな。

 長ったらしくならないように、簡単にここ最近のことを話した。

 佐伯は、数回咀嚼するように頷く。

 そして、軽い口調でとんでもないことを言ってのけた。

「真榎氏は馬鹿なのですか?」

 ようし、俺はいつでもいいぞ。

 男と男の殴り合いに、準備運動なんていらねえよなあ!?

「くらえぇ!!」

 予備動作なしで放たれた右ストレートは、しかし空を切る。

「な、何っ!?」

 思わず驚嘆の声が漏れる。

 今頃、俺の拳に打ち倒されているはずだった男は、防御姿勢を取りこちらを見据えている。

「暴力反対暴力反対!」

 思いのほか軽い身のこなしで避けてみせた友改め怨敵は、諭すように連呼する。

 うるせえ! 先に言葉のパイルバンカーで突き刺してきやがったのはどこのどいつだ!

「てめえ! 言っていいことと悪いことがあるだろうがっ!」

「ひええ、悪霊退散悪霊退散–––––––––」

 俺と佐伯は、机を挟んでお互いを牽制する。

「きっと、誤解をしているのです。話を聞いてくだされ!」

「命乞いとは弁えてるじゃないか。だが、それを聞き入れる俺ではない!」

 掴みかかろうと伸びた腕は、再び空を切る。

「た、他意はないのですぞ!!」

「それ、余計だめじゃねえか!」

 数度似たようなことが繰り返されるも、佐伯はすんでのところで悉(ことごと)くを躱す。

 お互い息も絶え絶えになったところで、不毛な攻防は終わりを迎えた。

「はあ、はあ……良いだろう。そこまで言うなら、話を聞いてやろうじゃないか」

「ど、どの口が言っているのですか…………」

「うるせえやい」

 お互い、減らない口で言い合いながら席につく。

 息を整え、一呼吸置いてから佐伯は話し始める。

「さて、まず初めに聞いて起きたのですが、拙者が何故あのようなことを言ったのかおわかりですか?」

「いや、全く。これっぽっちも」

「……左様ですか。では、なぜそのような事態に陥ってしまったのか。拙者と一から考えてみましょう」

 なんて前置きして、振り返り始める。

「真榎氏は、前回に同じことがあってから何をしていましたか?」

「話した通りだよ。葵とは変わらずに遊んだりして、日向は……口を聞いてもらえなくてさ」

「だから、ほったらかしにしていたと?」

「いや、ほったらかしにはしてないだろ。ただ、話そうにも向こうが聞いてくれないんじゃ––––––––––」

 佐伯は、俺の言葉を遮る。

「しっかりと、話そうと向き合ったのですか?」

「そりゃ、まあ…………」

 追求され、歯切れが悪くなる。

「本当は逃げていたのではないですか?」

「そんなこと…………」

 ない、とは言えなかった。

 佐伯の言っていることは合っている。

 これは、きっと図星なのだろう。

 俺は、日向から逃げていた。

 それを、自覚していなかった。

 いや、違うな。

 わかっていながら、知らないふりをしていた。

 葵との時間が心地よくて、楽な方に逃げていたんだ。

 そして、今はその葵からも逃げてしまっている。

 こんな体たらくであれば、佐伯に馬鹿だと罵られようと文句は言えない。

 むしろ、感謝するべきだ。

 佐伯が臆せずに言葉にしてくれたから、気付くことができたのだから。

「わかっていただけたようで何よりです」

 俺の表情から全てを察したのだろう。

 本当にこいつは、気持ち悪いくらいに心を読んでくる。

「さて、ここからが本題ですぞ。ここから関係を修復するためにどうするべきか。真榎氏はどうするべきだと思いますか?」

 わかりきったこと、と俺が言ってしまって良いものかわからないが、答えは決まっている。

「今度こそ、逃げないでちゃんと向き合うよ。」

 俺の回答に、佐伯は満足そうに笑う。

「わかっているではないですか」

 そして、付け加えるように言う。

「また、拙者の手を借りたくなったらいつでも言ってくだされ」

「あいよ。ありがとな」

 くっそ、不覚にもキュンとしちまったじゃねえか。

 こういうところがあるから憎めないんだよな、こいつは。

「じゃ、早速だけど、もう帰るよ。助けてもらったところ悪いんだけどさ」

 自業自得とは言え、今は時間が惜しい。

「助けたなどと……拙者と真榎氏の仲ではないですか」

 嬉しいことを言ってくれる。

 今の心情は、まるで戦場に赴くかのような切迫感がある。

 だが、恐れは微塵も感じない。

 その背中を、戦友に見送られているからだろうか。

 今まさに、勇ましい一歩を踏み出す––––––––すんでのところで呼び止めらる。

 まさに、忘れていたと言うように。

「そういえば、真榎氏。『マドラヴ』の方はどうですか?」

 今となっては少し懐かしく感じるその名前に、そんなものもあったなと思う。

「ああ、忘れてた。最近やってないや」

「なんと、勿体無い。今はそれどころではないかも知れませぬが、ぜひ続きを遊んでくだされ」

「そうするよ。気分転換には良さそうだし」

 再び別れの挨拶をし、今度こそ帰りの道を急ぐ。

 帰りの足取りは、行きよりも軽いように感じた。

「ただいま〜」

 家に入ると同時、葵の靴があるのを確認する。

 どうやら、既に帰ってきているらしい。

 これは好都合。

 一対一なら、お互い腹を割りやすいだろう。

 荷物を置くためにと自室に向かおうと葵たちの部屋を通り過ぎようとしたところで、丁度よく部屋のドアが開く。

「うおっ」

 例のごとく、飛んできた扉をギリギリで躱す。

 中から出てきたのは、仏頂面の葵。

「た、ただいま」

 いつもなら明るく返してくれるものだが、今日は沈黙が返ってくる。

 この様子では、俺が意図的に避けていたことを察していたのだろう。

 自業自得とはいえ、居た堪れない空気に身が引き裂かれそうになる。

 いかんいかん。

 怖気付いている場合ではない。

 俺は、俺のするべきことをしなければ。

「今日は、久しぶりに二人で遊ばないか?」

 罪滅ぼしも兼ねて、と思いした提案に返ってくる言葉はない。

 葵は、俯いたまま無言を貫いている。

 明らかに機嫌が悪そうだ。

 それもそうだろう。

 原因は、わかりきっている。

「最近、遊んでやれなくて悪かったよ。だから、機嫌直してくれるか?」

 先ほどと同様、沈黙が返ってくる。

 それでも、懲りずに口を開こうとした俺よりも早く、葵がようやく言葉を発した。

「兄ちゃんは、なんにもわかってないよ」

 それは、思っていたような返答ではなかった。

 いや、返答ですらなかった。

 そして、その意味を俺は理解できなかった。

「え……どういうことだ?」

 推測すら叶わなかった俺は、反射的に聞き返す。

 しかし、望んだ答えが返ってくることはなかった。

「……んーん、なんでもない」

 葵は、諦めたように呟き、部屋の中に戻っていく。

 閉ざされた扉は、鍵なんて掛かっていないはずなのに、開けるような気がしなかった。

「あ、葵、本当に悪かったって思ってるから出てきてくれないか、なあ?」

 ドア越しに呼び掛けるが、返事が返ってくるはずもなかった。

 その後も何度も呼びかけたが、その日は声を返してくれることはなかった。

 そして、翌日。

 俺は、明朝四時に起床していた。

 昨日の大敗が尾を引いてはいるが、挫けている場合ではない。

 葵が無理なら、今度は日向だ。

 そのための、早起きなのだから。

 ここ最近の日向は、俺に会わないためにかなり早く家を出ている。

 この前、五時くらいに起きた時には既に家にいなかったことを考えると、日向と話すためにはこれくらいに起きなければいけなかったというわけだ。

 予想通り、日向は居間で朝食を済ませていた。

「よ、おはよう」

 軽い挨拶は、予想通り返ってこない。

「話したいことがあるんだけど、今いいか?」

「俺にはない」

 早速、本題を切り出すもすっぱりと切られてしまう。

「そんなこと言わずにさ、俺にはあるんだよ」

「どうせ、またくだらないことなんだろ」

 なんて、憎まれ口を叩かれてしまう。

「そんなことないって」

 それでも、めげずに対話を試みる。

 しかし、日向に応じる気はない。

 席を立ち、居間を出て行こうとする。

 きっと、ここで行かせたらもう話す機会はないだろう。

 そう思った俺は、体で行く手を阻む。

「朝練なんだ。邪魔しないでくれ」

 煩わしそうに、苛立ちを露(あらわ)にして言ってくる。

 もちろん、俺が退くことはない。

 そうでなければ、こんなことは初めからしない。

「まだ、時間大丈夫だろ。頼むから話を聞いてくれよ」

「…………」

 それ以上は言っても無駄と思ったのか、日向は無言で押し通ろうとする。

 俺は無理やり止めようとするが、するりと抜けられてしまう。

 どうにかして止めようと咄嗟に腕を掴む。

 もちろん、それは簡単に振り解かれるが、一瞬でも言葉を投げ掛ける隙ができるならそれでいい。

 腰を据えて話せないのであれば、形振(なりふ)り構ってはいられない。

「ごめん、日向! ずっと、謝りたかったんだ」

 一心不乱に飛び出した心の叫びに、日向の動きが止まる。

 今まさに遠くへ行ってしまいそうだった弟は、まだ目の前にいてくれている。

 よくわからないが、これは好機だ。

 望んだ形とは違うが、この際そんなことはどうだっていい。

「その、日向が嫌がってることを知ってたのに葵に女装を続けさせて、本当にすまなかった」

 深々と頭を下げる。

 許してもらえなくても、謝意があることは知っておいてほしい。

「だから、なんだよ」

 そう言い残して、日向は素早く背を向く。

 間際に見えた表情が、とても痛々しくて自ずと手が伸びる。

 二の腕を掴みそうになった手は、先ほどよりも強い力で弾かれる。

「今度はなんなんだよ–––––––––!」

 消え入りそうな叫び声に、怯む。

 が、どうにか持ち直して言葉を紡ぐ。

「ごめん。何か気に障ることをしたんだろうっていうのはわかるんだけど、日向が何に怒ってるかわからなくって。でも、本当に悪いとは思ってて、だから––––––––––––」

 最後まで言い終えることはない。

「なんだよ、それ」

 その声は、今までで一番冷たかった。

「そ、そうだよな。何が悪いかわかってないのに謝るなんて、なんだよって感じだよな。でも––––––––––」

 また、遮られる。

「兄貴にはオレの気持ちなんてわからないよ」

 それは、どんな言葉よりも、どんな暴力よりも効いた。

 鳩尾(みずおち)を殴られたみたいに痛かった。

 胸が、詰まった。

 結局、何も言えずに日向を行かせてしまった。

 どうにか踏ん張って膝を崩すことはなかったけど、心は挫けていた。

 そういう、音がした。

 重い足取りで自室に戻る。

 酷く、時間を掛けた気がした。

 電気も点けずに、座り込む。

 そこから、立ち上がれなかった。

 蹲るように縮こまって、すんとも動けなかった。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 実感はないが、二時間か三時間か、それくらいは経っているのだろう。

「––––––兄ちゃん?」

 葵が俺を心配して見に来たのが、そうだろうということを物語る。

「……どうかしたか?」

 かろうじて出した声は、酷く掠れていた。

「ううん、ずっと起きてこなかったから、どうしたのかなって思って」

「ああ、そういうことか。ごめん、心配かけて」

 取り繕うように、普段通りに喋ることを心掛ける。

「……大丈夫?」

「大丈夫大丈夫」

 今の俺は、笑えているだろうか。

 どっちにしたって、扉越しじゃ表情はわからないか。

 それだけが、今の救いだ。

「……やっぱり、昨日のこと怒ってる?」

 昨日のこと、とは俺の誘いを断ったことだろう。

 そんなことで怒ったりなんかしない。むしろ、悪いのは俺だったんだから。

 そう言おうとして、途端に言葉が出なくなる。

 喉が思うように動いてくれない。

 乾いた音だけを出して、息を呑むだけだった。

「そう、だよね。せっかく誘ってくれたのに、ボク悪いことしちゃったよね–––––––––––」

 違う。ちがう。だめだいやだ。それ以上は、言わせちゃダメだ––––––!

 重い体を無理くり動かす。

 身を投げ出すようにして扉を開くと、見上げた視線の先には涙を滲ませた葵がいた。

「あ––––––」

 俺が飛び出してきたことに小さく声を漏らす。

 床に伏せたままでは余計に心配させてしまうと思い、立ちあがろうと力を入れる。

 一度動いた体は、さっきまでが嘘のように簡単に動いてくれた。

「大丈夫、怒ってないよ。むしろ、俺の方こそごめんな」

 やっと、言いたいことが言えた。もっと早く、言ってあげたかった。

「ううん、ボクの方こそ––––––––」

 ごめん、とは言わせたくなかった。

 だって、葵は悪くないんだから。

 だから、遮るようにして腕を動かす。

 ピクっ、と葵の体が跳ねる。

 そのまま、びっくりしたように目を瞑る葵の頭を撫でてやる。

「な、何? く、くすぐったいよ」

 その声は、少し恥ずかしそうで、でも嬉しそうだった。

 よかった。

 俺のせいで気が沈んでいるところなんて、もう見たくない。

「あっ、そうだ。今日こそ一緒に遊ばない? いいでしょ?」

 一転、明るくなった声で葵は告げる。

 うん、という言葉はまた喉を通らなかった。

 いいよ、って言おうとしたのに、また喉が詰まった。

 おかしいな、さっきまでは普通に喋れていたのに。

 おかしいな、脚に力が入らないや。

 膝が、崩れ落ちた。

 咄嗟のことだったが、葵が受け止めてくれたおかげでどうにか倒れ込まずに済む。

「兄ちゃん!?」

 俺は、縋るようにしがみついた。

「ごめん」

 気付いたら、そんなことを言っていた。

 それしか、言えなかった。

 知らぬ間に、頬を熱いものが伝っていた。

「ごめん、ごめんな……」

 嗚咽混じりに、同じことを繰り返す。

 驚いただろうに、葵は優しく包み込むようにして抱きしめてくれた。

「大丈夫、大丈夫だよ。兄ちゃんは悪くないよ」

 そう言われて、初めて違う言葉が口を出た。

「……うん」

 続けて、慰めるように優しく声が掛かる。

「ボクね、兄ちゃんのこと大好きだよ」

「うん……うん……俺も、好きだよ……」

 葵は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「知ってる。だから、元気出して?」

 少し呆れたように、でもやっぱり優しい声で。

 それが、じんわり暖かくて余計に涙が出る。

「うん……ありがとう」

「どういたしまして」

 葵の言葉のおかげで落ち着いた俺は、乱れた呼吸を整える。

「落ち着いた?」

 立ち直った俺は、ようやく自重(じじゅう)を支えられるようになり、葵に頼らずに体を起こす。

「おかげさまで」

「よかった」

 久しぶりに見た葵の表情(かお)は、とても穏やかに笑っていた。

「恥ずかしいところ見せちゃったな」

 本当に、無様なところを見せた。

 だが、葵は小さく首を振って否定する。

「ううん、そんなことないよ」

「そんなこと、あるだろ」

 不貞腐れたように言うが、葵はやはり認めない。

「ううん、誰だってだって泣きたくなる時くらいあるよ。それは、兄ちゃんも同じでしょ?」

「そりゃ、そうかもしれないけど…………」

「だからね、そういうところ、見せてくれて嬉しいよ。だって、信頼してない人には見せないでしょ?」

「そう、かな? ……そうかも」

「でしょ。だから、泣きたくなったらいつでもボクのところに来て。また、抱きしめてあげるから」

 葵は、満天の笑みを見せる。

 いつの間にか、気付かない間に、随分と逞しくなったものだ。

 いや、どうかな。

 ずっと、そうだったのかもしれない。

 俺が、ずっと子供のままでいてほしいと思って、子供のままにしていただけだったのかもしれない。

 大きくなったな。そういう想いを込めて、もう一度頭を撫でる。

「えへへ」

 その笑顔だけは、昔から変わっていない。

 その後、すぐに葵が家を出る時間になってしまった。

 少し名残惜しそうに家を出ていく葵を玄関で見送り、俺も大学に向かう準備をした。

 昼過ぎまで講義を受け、寄り道をせずに家に帰る。

 帰り際、佐伯にいつものように駄弁らないかと誘われたが、これを秒で断る。

 葵と遊ぶ約束をしていたからだ。

 結局、有耶無耶になってしまったから無効かもしれないが、葵がそのつもりで待っているとしたら申し訳ないからな。

 なんなら、葵よりも早く家に着くくらいのつもりでいよう。

 そう心に決め、不自然でない程度に早歩きをする。

「あれ……もしかして、太陽さん?」

 最寄りからの帰り道。

 聞き覚えのない声に、しかしどこか懐かしい響きを感じて振り返る。

 そこに立っていたのは、弟たちと同じ制服姿の男子高校生が一人。

 記憶にはないが、どこか面影のある彼の姿に思い当たる名前が一つ。

「もしかして、冬馬くん?」

「ですです。憶えててくれて嬉しいっす」

「お、大きくなったね」

「そうっすか?」

 記憶にあるものよりも、大分成長した姿に驚きを隠せない。

 いや、当然といえば当然か。

 彼とは、こうして会うのはかれこれ中学生の時以来だから、六年くらい前か?

 その時は彼も小学生だったわけで、成長するのも当たり前なのだが。

 弟たちとは毎日会っているから感じなかったけど、それだけの年月が経っていれば見違えるわけだ。

「今、帰りですか?」

「うん、大学からのね。冬馬くんも?」

「そうです」

 そうだ。冬馬くんに会ったら聞いておきたいことだあったんだ。

「妹さんは元気?」

 そう、冬馬くんの妹についてだ。

 会ったのは一度きりで、まだ小学生にもなる前とかだったと思うけど。

 すごくお転婆で元気だったから、記憶に強烈に刻まれている。

「はい。めちゃくちゃ元気ですよ」

「それは良かった」

 あれ。そういえば、冬馬くんって日向と同じでバスケ部なのに帰りは一緒じゃないのだろうか?

「そういえば、日向は?」

「俺、今日用事があって早抜けしたんすよ。だから、まだ部活中だと思いますよ」

「ああ、道理で」

 帰りが早いわけだ。

 よくよく考えてみれば、一般的な運動部に所属している学生が理由もなくこんな早い時間に帰れるわけないか。

「太陽さんは、今はバスケやってないんですか?」

「うん、やってないよ。ていうか、俺がバスケやってたのよく知ってるね」

 中学の三年間しかやってないし、知らないものだとばかり思っていた。

「日向から聞いてたんすよ。あいつがバスケ部に入った理由だって、太陽さんがやってたからって言ってたし」

「日向が、そんなことを?」

 意外だ。

 むしろ、俺がやってたから忌避してそうなものだが。

 そういえば、日向がどうしてバスケを始めたのか、きっかけとか何も知らないな。

 ま、聞いたって教えてくれないだろうけど。

「俺も詳しくは知らないんすけど……なんか、バスケがどれほどのものか見極める––––––––みたいなことを言ってたような言ってないような……そんな感じっす」

「へえ〜」

 あの日向がそんなことを。

 いや、意味は全くわからないけど。

 そもそも、バスケの何を見極めて、どうしたかったのか、ちんぷんかんぷんだ。

 そうだ。冬馬くんと会える機会なんてそうそう無いだろう。ついでに、学校での二人の様子も聞いておこう。

「ちなみに、日向と葵は学校ではどうかな?」

「あー、なんか変な感じっすね」

「あはは、そっか」

 想像通りで苦笑いしか出てこない。

「日向は特に変なんすよ。最近は、帰りに一人でどっかに行っちゃって」

「そっか。ちなみに、どこに行ってるかとかは……」

「わかんないっすね〜。聞いても教えてくれないし、付いて行こうとしたら撒かれちゃうし、さっぱりっす」

「そっか。参ったな」

 どこに行っているのかがわからないと対処のしようもない。

 闇雲に探すのは現実的じゃないだろうし、後で葵にも相談してみるか。

「俺からもやめるように言ったんすけど、聞かなくて」

 呆れた様子で愚痴を溢す冬馬くん。

「迷惑かけてごめんね。これからも仲良くしてくれると助かるよ」

「そりゃもう。任せてくださいよ」

「あはは、頼もしいよ」

 俺にとっての佐伯のようなものだろう。

 二人にも、頼もしい友人がいて兄としては嬉しい限りだ。

「おっと。俺、こっちなんで」

「ああ、そっか。さよなら。気を付けて」

「はい。じゃあ、また」

 ブンブンブン、と大袈裟に手を振りながら消えていく冬馬くん。

 彼と居ると、毎日退屈しないだろう。

 日向は鬱陶しいとか言ってそうだけど、それも照れ隠しだろう。

 なんてことを考えていると、家はもうすぐそこだった。

「ただいま〜」

 帰宅したことを伝えるために声を出し、自室に荷物置く。

 すぐに身を翻し、葵の元へ向かう。

 コンコン、と小気味良い音を立て呼び掛ける–––––––––––よりも早く、目の前の扉は開かれる。

「うおっ––––––」

 驚いた声を上げながらも、体は危なげなく避ける。

 ここ最近、似たようなことを繰り返しているせいか体が慣れてしまった。

 中からは、それはもう可愛い笑顔を咲かせた自慢の妹(おとうと)が顔を覗かせた。

「ただいま、葵」

「おかえりっ! もう、帰ってくるの遅いよ」

 言いながら、飛び付いてくる。

 俺は、葵の体を受け止め背中に腕を回して抱き締めるような形になる。

「ふへへ」

 すると、葵は俺の胸に顔を埋めて嬉しそうに笑う。

 今の一瞬で、核融合並みのエネルギーが生まれた。気がした。

 これでも慣れた方だが、以前よりもスキンシップが増えたせいで俺の心臓は悲鳴を上げている。火を噴いた機械のように、今にも壊れてしまいそうだ。

 嬉しい悲鳴ではあるが、これでは命がいくつあっても足りない。

 そろそろ、真面目に不老不死の研究でもした方がいいだろうか。

 なんて間抜けたことを考えていると、葵が不満そうな声を上げる。

「今日はなにする? やっぱり、この前の続き?」

 やはり、葵は遊ぶつもりでいたのだろうが、実のところ俺にそのつもりはなかった。

 早く帰ってきたかったのは、葵にそのことを伝えたかったからだ。

「ご、ごめん、そのことなんだけどさ。やっぱり、日向と仲直りできるまではお預けにしないか?」

 上機嫌なところに水を刺すのは非常に申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、それが俺なりのけじめだと思ったから。

 禊、と言い換えてもいいかもしれない。

 要は、そうでもしないと俺の気が収まらないのだ。

「え〜、なんでえ〜?」

 葵が難色を示すだろうと言うのは、容易に想像できた。

 だが、今回限りは俺にも退けない理由がある。

 そんなこと言っておいていつも押し切られているだろう、と言われれば耳が痛いのだが、それでも今回限りは本気だ。

「やっぱり、日向のことをほったらかしにはできないからさ。完全に俺の都合で申し訳ないんだけど、いいかな?」

 俺が逃げてしまったせいで、こんな事態を招いてしまったのだから。

 もう、逃げてはいられない。

 ちゃんと、向き合わないといけないと思ったから。

 今朝、葵から勇気をもらえたから。

 だから、俺頑張るよ。

「んも〜、しょうがないなあ。いいよ、それで」

 葵は、不貞腐れたように言う。

 だが、それがそういうポーズであることは一目瞭然だった。

「ありがとな」

「その代わり、ひなたと仲直りした後は、うん––––––––っと遊んでもらうからね」

「わかったよ、約束だ」

 そう言って、葵の頭を撫でる。

「破ったら、承知しないからね」

「はいはい」

 二人して笑い合う。

 俺はそこで、先ほどの帰り道での会話を思い出す。

「あ、そういえば、葵に聞いておきたい事があったんだけど」

「ん、なに?」

 きょとん、と首を傾げる姿は相変わらず愛くるしい。

「日向が帰りにどこか寄り道してるらしいってのは知ってるか?」

 俺の問いに、葵は訝しげな表情で答える。

「うん。最近、帰ってくるの遅いし、とうまもそんなようなこと言ってた」

「そっか。どこに行ってそうとか、心当たりあるか?」

 葵は、う〜ん、と数秒唸ってから首を横に振る。

「ひなたが行きそうなところは思いつくけど、これっていう場所がないや」

「う〜ん、参ったな。これじゃ外で見つけるのは無理そうかな」

 俺の結論も、葵と然程変わらないものだった。

 日向が行きそうなところはいくつか思いつくが、どうも全部違う気がするんだよな。

 思いついた場所を虱潰しに探すのも効率が悪い。

 やっぱり、どうにかして家にいる間に話す機会を作らないとな。

「ごめんね、力になれなくって」

 葵は、悔しそうに溢した。

「ん? 葵の木にすることじゃないよ。大丈夫、俺がなんとかするから」

「……うん」

 さて、葵にも納得してもらえたことだし、俺は日向のことに集中しよう。

 自分の部屋に戻った俺は、椅子に深く腰掛ける。

 俺はこの時、一つの決心をしていた。

 今朝、日向にこっぴどく振られたのは記憶に新しいが、昨日の今日ならぬ朝の夜でリベンジを決行する。

 夜、日向が帰ってくるまで玄関で待機し、帰ってきたところを捕まえるつもりだ。

 問題は、そうした後にどうするか、だ。

 今朝みたいにならないためにはどうするべきか……?

 そんなことを考えながら、洗濯物を片付けたり夕飯の支度をしているとあっという間に終わってしまった。

 結局、これといって手応えのある考えは思いついていない。

 あれこれと考えながら、玄関に座り込んで日向の帰りを待つ。

 この際、ぶっつけ本番、行き当たりばったりになってしまっても仕方ない。

 試行回数を増やさないことには、結果も得られないだろう。

 なんて考えていると、玄関の扉が開き日向が入ってくる。

 俺に気付いた日向は、不意を突かれたように固まる。

「よっ、おかえり」

「何してるんだよ」

 怪訝な表情で問う日向に、俺はさも当然と言うように答える。

「待ってたんだよ、日向が帰ってくるの」

「……意味がわからない」

 明らかに不満そうに溢す。

「ほら、今朝あんな感じで別れちゃったからさ。ちゃんと、話したくて」

「知るか。俺には話したいことなんてない」

 日向は、憤ったように言う。

「お前にはなくても、俺にはあるんだよ。お願いだから、話を聞いてくれ」

「何話したって、変わらないよ」

 食い下がるが、日向は聞き入れてくれない。

「そんなことわからないだろ」

「わかる」

 さらに食い下がるが、日向も退く気はないようだ。

「なんで?」

「話したところで、兄貴にはオレのことなんてわからないだろ」

「ちゃんと話してくれたらわかるよ」

「無理だよ。あんたのそれは、わかった気になってるだけだ」

「そ、そんなこと––––––––––」

「もういいだろ、どいてくれ」

 静かに言い放った日向は、俺の横を通り抜けていく。

 これ以上、引き止めることはできなかった。

 何か、致命的に歯車が噛み合っていない。

 そんな、感覚だ。

 これ以上引き止めるのは、余計に日向を刺激するだけで得策とは言えない。

 俺には、足りない何かがある。

 それを見つけないことには、日向の心を開くことはできないのだろう。

 まるで、RPGの攻略みたいだな––––––––なんて思ってすぐに振り払う。

 日向のことをゲームのクエストと同列に扱ったら失礼だろう。と思いながらも、難易度は高くないといいな、なんてくだらないことを考えてしまう。

 その後、寝支度を整えてもう布団に入るだけで眠れる、というところまできて、ふととあることを思い出す。

 そういえば、佐伯に息抜きに『マドラヴ』でもどうかと勧められていたっけ。

 確かに、息抜きには丁度いいか。それに、俺の凝り固まった頭にはいい刺激になるかもしれない。

 こういうのは、思い立ったが吉日だ。

 何かヒントでも見つかるかも、と期待半分冗談半分でゲームを起動する。

 気の赴くままにプレイすると、妹(おとうと)ヒロインである陽人と仲良くしてしまう。

 当然のように陽人ルートに入るわけだが、今回は微妙に展開が違っている。

 好感度が上がりデレ始めたら、呼び方が『兄貴』から『お兄ちゃん』に変わるはずだ。

 だが、その兆候は見られない。

『兄貴。こういう服はどうかな?』

 ……。

『兄貴も着てみる? ……なんて、冗談だよ』

 …………。

『兄貴、こっちこっち。ほら、急いで』

 ………………。

『兄貴は、どうしてオレのことを気に掛けてくれるの?』

『 陽人のことが、好きだから

 ▼お兄ちゃん、だからな』

『–––––––ありがとう、兄貴』

 お買い物デート。遊園地デート。季節特有のものまで。数々のイベントが過ぎ去っていく。

 それは、見覚えあるものもあればそうでないものもあった。

 なんとなく、向かっているゴールが違うような違和感を覚える。

 なんていうか、これじゃ普通の兄弟みたいだ……。

 そして、違和感というか明らかに違う点が一つ。

 それは、幼馴染ヒロインとのイベントがやけに多いことだ。

 しかも、陽人が手助けをしてくれているような描写も見受けられる。

 目当てのキャラではなくても、なんとなく邪険に扱うのも気が引けて全員に好い顔をしてしまう。

 その所為か、どのキャラも好感度が高い傾向にあり、どのヒロインのルートにも入る可能性があった。

 とはいえ、弟である陽人を優先することが多かったから当然のように陽人ルートなものと思っていたが、どうやら違いそうだ。

 確証が持てないまま最後のターンが終わった。

 すぐにエンディングのイベントが始まるだろう。

 答え合わせの時間だ。

『オレさ……本当はずっと、兄貴と仲良くしたかったんだ』

 という言い出しから、始まったそれは特別なものであることに違いはないだろうが、エンディングという風でもなかった。

『でも、素直になれなくてさ。キツく当たっちゃったりしたけど、兄貴の方から歩み寄ってきてくれて嬉しかった』

 それは、以前に攻略したエンディングですら見たことのない表情(かお)だった。

 清々しい、振り切れた笑顔。

 そこに、およそ恋愛感情と言えるものは読み取れない。

『いつだって、みんなの助けになってる兄貴がかっこよくて、オレの憧れなんだ』

 だから––––––、と画面の中の弟は告げる。

『ずっと、そういう兄貴でいて欲しい。オレが、ずっと憧れていられるように……』

 主人公は喋らない。

 静かに、その独白に耳を傾ける。

『なんて、柄じゃなかったよな』

 少し恥ずかしそうにはにかむ。

『ほら、行った行った。大事な人が待ってるんだろ……? 泣かせたりなんかしたら承知しないからな』

 しっしっ、と追い払うような仕草を見せる。

 しかし、それは確かに背中を押してくれているのだとわかる。

 主人公は、感謝だけを言い残してその場を去った。

 そして、正真正銘のエンディングイベントが始まった。

『来てくれるって信じてたよ。ちょっと遅刻、だけどね?』

 向かった先で待っていたのは、このゲームのメインヒロインである幼馴染。

 いつも主人公のことを想っている、優しい女の子だ。

 その癖して、主人公のことを揶揄ってきたりするところがお茶目で可愛いところだ。

 幼い頃に結婚の約束をしていたというベタな設定ではあるが、とても引き込まれるキャラをしている。

『わたしね、あなたのことが好き。……これは冗談じゃないよ。わたしのほんとの気持ち』

 とても真っ直ぐに、その想いを伝えてくる。

 不安そうな表情。

 俯きかけている顔は、上目遣いでこちらの姿を捉えている。

 恒例の、相手の告白に応えるかどうかの選択肢。

 最早、選択の余地はない。断るという選択肢は、俺の中にはなかった。

『▼“約束”したからね。幸せにするって

  ––––––––––––––––––––––––––––––––––』

『嬉しい……。わたしね、ずっと––––––––』

 その先は、紡がれない。

 続くはずだった言葉は、なんだろうか。『この時を待っていた』? それとも、『願っていた』?

 うんと間を置いてから、最後の台詞。

『夢、叶ったよ……!』

 捻りはない。

 涙を滲ませながら、満面の笑みを咲かす。

 これ以上はない。透き通るような終わり。

 ゆっくりと暗転し、程なくしてクレジットに移る。

 これは、何と言えばいいのか……。

 前に、電車内で見た妹ヒロインエンドとは根本が違う。

 前のは前のですごく心をやられたが、胸を打ったのは間違いなくこちらの終わり方だ。

 ひとりのヒロインを攻略するとかではない。幼馴染ヒロインエンドとか、そんな簡単に言い表せられるものじゃない。

 あえていうなら、グッドエンド。

 取捨選択をすることなく欲しいものを全て手に入れた、見える限りでは誰も不幸になっていない真っ当な大団円。

 普通なら、ひとりを選べば他のヒロインは切り捨てられることになる。

 しかし、このルートでは少なくとも二人のヒロインとそれぞれの幸せの形を実現している。

 肉親という特性を活かした、面白いエンディングだった。

 普通なら、幼馴染と結ばれたことに感動するところなのだろうが、俺は別のところに心が動いていた。

 この主人公は、険悪だった弟との仲を見事に修復してみせた。

 しつこい程に執着して。お互いの本音をぶつけ合って。勝ち取ったのだ。

 そう、“本音をぶつけ合ったのだ”。

 カチッ、とピースが嵌まる音がした。

 きっと、俺に足りなかったものはそれだろう。

 俺は、日向のことを気にするばっかりで自分のことなんてこれっぽっちも考慮してなかった。

 俺のことなんて、どうでもよかったんだ。

 日向がどう思っているのか、どうして欲しいのか。そればっかり気にしていた。

 でも、本当に話さなくちゃいけなかったのは、俺がどう思っているのか、どうしたいのか、だった。

 それを曝け出さなきゃ、日向だって話す気にはならないだろう。

 いやまあ、それで話してくれる保証だってないんだけども…………。でも、なぜかいけるような気がするんだ。

 しかし、まさか本当に『マドラヴ』に助けられることになるなんて。しかも、ヒントどころか答えが得られてしまった。

 きっかけを作ってくれた佐伯には、後で礼を言っておかないとな。

 なんて考えて寝ようと思った時には、すでに外は明るかった。

 今から寝ると講義に間に合わなさそうだ。

 仕方ない、このまま行くか。

 そうして、一睡もすることなく大学に行く羽目になる。

 講義中、何度か寝そうになったがなんとか堪えて寝ずに終えることができた。

 一息つくために、俺は例のごとく佐伯と共にいた。

「おや、真榎氏。今日は何やら機嫌が良さようですな」

「おかげ様でな。先に、ありがとうって言っとくよ」

 この先、実際にどうなるかはわからないけど一応、な。

「はて? なんのことやら。拙者にはてんでわかりませんなあ」

「わかんなくったっていいよ」

「はあ。何が何だかわかりませぬが、良しとしますか」

 けたけた、と佐伯は笑う。

 同調するように、俺も笑う。

「じゃあ、俺先帰るわ。今日、寝てないからさ」

「左様ですか。であれば、拙者のことは気にせずに早く帰って寝るのがよろしい」

「そうさせてもらうよ」

 帰り道。眠気との闘いもかなり限界が近かった。

 家に帰ると、すぐにベッドに飛び込む。

 一睡もしていないから当たり前かもしれないが、日中だって言うのに馬鹿みたいに眠い。

 今日はもう出掛ける用事もないし、佐伯と話していた通り仮眠でも取るか。

 自分で思っていたより疲れていたのだろう、横になって間も無く糸が切れるように眠りについた。

 目が覚めた時、部屋の中は真っ暗だった。

 日が落ちる前には起きるつもりでいたのだが、どうも寝過ぎたらしい。

 葵は帰ってるだろうし、起こしてくれてもよかったのに。

 なんて思いながら、時間を確認するためにスマホを手繰り寄せる。

 液晶に表示された時刻は、二十三時過ぎ。

「やっべ」

 もうこんな時間か。

 夕飯、どうしたかな。

 もう済ませてればいいけど。

 とりあえず現状を確認するか。

 行動を開始するべく立ち上がり、暗い室内を手探りで進む。

 壁にあるスイッチを手の感触で探し出し、灯りを点ける。

 瞬間的に明るくなった空間を眩しく思いながら目が慣れるのを待つ。

 ここまできてようやく、周りに意識を向けることができるようになった。

 そうして初めて、階下から何やら音、もっと言うと声が聞こえてくることに気付いた。

 会話の内容までは聞き取れないが、その語気は穏やかなものとは思えなかった。

 すぐに、一つの可能性に思い至る。

 瞬間、考えるよりも先に体が動いていた。

 転げ落ちるようにして階段を下り、その勢いのまま居間へと続く扉を開く。

 自分でも驚くほどに勢いよく開いた扉に、しかし中にいた二人は気付いていないようだった。

「おかしいのはひなたの方だよ!? 兄ちゃんがどう思ってるのかなんて知ってるくせに、どうしてそんな酷いことが言えるの!?」

「知るか、兄貴の考えなんて–––––––––わかったことなんて一度もない!」

 この状況に至るまでの経緯は、ハッキリとはわからない。

 確かなことは、日向と葵が言い争いをしているということだけだ。

 まるで、現実じゃなくてスクリーンの向こう側の光景のように映る。

「じゃあなんだ。葵には兄貴の考えがわかってるとでも?」

「ひなたよりはわかってるんじゃないかな!」

「ふ、二人とも。落ち着けって!」

 まだうまく働かない頭でとりあえず止めに入るも、二人が止まる気配はない。

 最早、お互いしか視界に入っていない二人には届きようもない。

 依然、俺は蚊帳の外だ。

「変な格好で媚びなんか売って、お前はそれで満足か?」

 声だけでは届かないようなので体を使って間に入ろうと思ったその時、それは起こってしまった。

「何、その言い方……ボクの気も知らないで! ひなたにはボクの気持ちなんてわかりっこないよ!」

 それは、何かの引き金を引いたようだった。

「–––––うるさい! じゃあ、葵に–––––––––オレの何がわかるんだよっ!」

 一層、険しい表情になった日向は葵に掴み掛かる。

「ひ––––––––」

 身を守ろうと振り上げられた葵の手は、不運にも日向の顔へと吸い込まれる。

 故意ではないとはいえ、日向の頬を打ってしまった葵の顔からは血の気が引いていく。

「あ、ごめ–––––––」

「–––––––っ。もういい、もういいよ」

 その言葉に含まれた感情は、怒りか悲しみか。あるいは、その両方か。諦めすら綯(な)い交ぜになったような痛々しさが感じ取れた。

 あまりの出来事に動揺している葵は、涙を滲ませながら震えている。

「ハッキリ言えばいいだろ、オレが邪魔だって」

「ちが、ひなた」

 混乱した頭で、葵は正常に言葉を紡げない。

「違わないだろ」

 酷く、落ち着いた声音だった。

 それが、逆に不安を駆り立てる。

 話は終わったとばかりに葵から視線を切った日向は、そこで初めて俺を認識する。

「……いたのか」

 散々、俺を遠ざけてきた視線。

 その冷たさに、鋭さに今までは近づくことすらできなかったが、もう違う。

 怯んではいられない。

「なあ、日向」

「……なんだよ」

 賭けだった。

 日向が話を聞かずに去ろうとすれば、俺はそれを止められなかっただろう。

 だが、日向は止まって俺の話に耳を傾けた。

 どうやら、俺は賭けに勝ったらしい。

「日向が俺をどう思っていても、俺は日向のことが大切だ。だから、邪魔だなんて思うわけない。嘘でも、そんなこと言わないでくれ」

 人間は話さないと伝わらない。話し合ったって、分かり合えないことだってある。

 どんなに伝えようとしても、理解してもらえないのかもしれない。

 それでも、いつか理解してもらえると信じて何度だって言ってやる。

「なんだよ、それ。今更、そんなこと……」

 日向は、痛いほどに拳を握り込む。

「あんたはいつも–––––––––遅いんだよ、今更そんなこと、聞きたくないっ!」

 日向は絶叫する。

 俯いたまま、思いの限りを吐き出す。

 そのまま居間を出て行こういとするもんだから、反射で腕を掴む。

「日向、待ってくれ!」

「離せっ!」

 勢いよく振り解かれた俺は、元々体勢が崩れていたこともあって派手に突き飛ばされてしまう。

 突き飛ばされた先にはダイニングテーブルあり、体を打ち付けることになる。

「いっ––––」

「–––––––––大丈夫、兄ちゃん?」

 葵が心配そうに駆け寄ってくる。

「ひゅ、日向は?」

「……行っちゃった」

 どうやら、そのまま家を飛び出して行ってしまったらしい。

「ボクのせいだ」

 葵は自分を責める。

「そんなことないって。きっと、大丈夫だから」

 痛む体を無理矢理に動かす。

 座り込んでる場合じゃない。

 早く、追い掛けないと。

「–––––てて。流石に痛いな」

「だめだよ。怪我してるんだから、じっとしてないと」

 葵は心配してくれるが、それに甘えてはいられない。

「平気平気、これくらい大したことないって」

 ほら、と体を動かしてみせる。

 実際、そんなに大きな怪我はしていないだろうが、打ち付けたばかりというのもあってそれなりに痛みはある。

 笑って誤魔化したところで、それは消えない。

 それでも、じっとしているわけにはいかない。

「日向のこと、探してくるよ。留守番、頼めるか?」

 葵を慰めるように、その頭を撫でる。

「でも、今からじゃ追いつけないよ。どこに行ったかも分からないのに……」

 最もだ。

 ましてや、こんな体じゃまともに追い掛けられもしない。

 だけど、俺には心当たりがあった。

 それは、かなり分の悪い賭けで、淡い希望だけど。

 今回は、本当にわかった気がするんだ。

「大丈夫、絶対に連れて帰ってくるから。そしたら、三人で仲直りしよう、な?」

 外に出ると、雲のない夜空が出迎えてくれた。

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