【アップ】男山教会 2023年3月12日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会 2023年3月12日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

使徒言行録15章23~29節

「御名に身を捧げている人たちに」 山本信義牧師

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=DIjPEM95VVk


※本日はライブ動画の都合が合わず、オンラインをご用意出来ませんでした。

ご了承頂ければ幸いです。

ですので今週は、八千代台教会のほぼ同じ箇所のメッセージをアップさせて頂きます。

(下記プログラムは男山教会のものになります)



前奏

招詞 詩編65編2~6節

・頌 栄

たたえよ、主の民 [讃 21-24,こども改 25]

・開 会 祈祷

・主 の 祈り(週報裏面)

・十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 26

「救い主イエスさま」

・こどもさんびか

かみさまはそのひとりごを[改 49(1 節)]

牧 会 祈祷

・讃 美 歌 234A 番(1,2 節)

聖書

使徒言行録15章22~29節(新約 P243)

出エジプト記14章26~31節(旧約 P117)

説 教

「教会全体の一致と派遣

~主の兄弟たちの配慮に学ぶ」

宮武輝彦

祈祷

・讃 美 歌 234A 番(3,4 節)

・みことばの交読文

ヘブライ2章 11~13 節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

・頌 栄 540番 ・祝 祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌234A番(歌詞付)54年版「昔主イエスの播きたまいし」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=sDpLGmSH624&t=60s


 1、昔 主イエスの 播きたまいし  いとも小さき 命のたね

   芽生え育ちて 地のはてまで  その枝を張る 樹とはなりぬ。


 2、歴史の流れ 旧きものを  返らぬ過去へ 押しやる間に

   主イエスの建てし 愛の国は  民よりたみへ 広がりゆく。


 3、時代の風は 吹きたけりて  思想の波はあいうてども

   すべての物を 超えてすすむ  主イエスの国は 永久に栄えん。


 4、父なる神よ み名によりて  世界の民を ひとつとなし

   地をばあまねく み国とする  みちかいをとく はたしたまえ。


頌栄集 讃美歌539・540・541・542・543・544番 メドレー

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=6lHQPiZILD0

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)



2023年3月12日 礼拝説教 中心聖句


そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。

使徒言行録15章22節


イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

出エジプト記14章31節


はじめに

主の救いの御業を証する者たちの、信仰と、相互の理解と、配慮に学ぶ。

「そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に」とは、エルサレムにおける使徒たちと長老たちの協議は、そこにいた教会全体、「全会衆」(12節)と、主の召命を一つにするものであったことを物語る。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)と言われた。この「選び」とは、「呼び出す」こと、「任命」。相互に協議を重ねた後、ペトロ、バルナバとパウロの証言、ヤコブの補足(主の預言)と判断(とくにモーセ律法の遵守)を聞いた群れは、「自分たちの中から人」「兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たち」「バルサバと呼ばれるユダおよびシラス」を派遣するため選んだ。

ここでもペトロ、ヤコブの呼びかけ同様に、教会は、信仰によって、「兄弟たち」と呼ばれる。「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ている」(ヘブライ2章11節)。この「一つの源」こそ、主イエスは、罪贖われ、聖とされた者たちを、神の救いの恵みによる、神の家族、兄弟と呼ぶことを恥としないで、ご自身の受難においてキリストの御名を兄弟たちに知らせ、礼拝(神への賛美と信頼を共に告白する時)を備えておられる。

「使徒たちは、次の手紙を彼らに託した」とは、エルサレム教会(おもにユダヤ人キリスト者たち)における決定を「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たち」に、祝福の挨拶をもって、伝えたこと。そこで、「聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ(心を)動揺させたとのこと」と詫びる。「 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました」と、この決定が、正当なものであることを伝える。教会のただ一つの土台は、主イエス・キリスト(コリント一3章11節)。意見の相違、心の動揺を含めて、すべては、復活の主の支配にゆだねて、事を、御言葉に照らして、相互のため吟味判断、教会(会議)と交わり(集会)の歴史から学ぶことを、教えられる。

「このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たち」とは、この手紙と派遣が、ただ、主イエス・キリストの名によるものであることを証しする。「 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明する」「 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」と手紙を締めくくる。

おわりに

出エジプトにおいて、主の大いなる御業を見たとき、契約の民は、主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。御言葉の奉仕者たちは、民のため、兄弟のため、教会とすべての人々のために任命されている。主の兄弟として共に使命を尽くしたい。



(Mynote)


二〇二三年三月一二日(日曜日)。今日も礼拝を守れる環境が与えられて居る事を神様に感謝する。

〈子供メッセージ〉

『子供と親のカテキズム 問二六』

「どうして救い主は誠の神様でなければ成らないのですか?」

「私達を神様との交わりへと、私達の罪を完全に償い、誠の神様である方だけが私達を神様との交わりへと回復し、神様の子供として下さる事がお出来になるからです。」

偶像礼拝は全ての人々が避けねば成らない。偶像とは人が自分達で作り上げるものであり、その偶像の神は神ではなく、人の罪そのものだからだ。罪の具現化されたものが偶像であり、偶像礼拝は、人が罪そのものに礼拝を捧げて居る姿とその内容に成る。

〈公同礼拝〉

『使徒行伝』(第一五章二二〜二九節)

『出エジプト記』(第一四章二六〜三一節)

『使徒行伝』(第一五章二二〜二九節)この箇所は、神様の誠の教えと、人々が自分達で作り上げた律法による教えとの対立である。信仰に厚いと思って居る人々は、他の人々にも自分達が信じたその律法を押し付け、それを遵守すれば救われると説いた。しかしその教えは人から来ているものも多く含まれ、神様が教えるその内容とは大きく掛け離れる所がある。

アンテオケとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟達の元へ、選んだ人を、バルナバとパウロに同行させて派遣する事を決める。

現代でも人の中には、とても努力家で、忍耐強く、何でも一人で出来る人・要領が良く人と共に協働して物事を解決して行く人が居る。「出来る人」等と実力者として敬われる人達。そうした彼等にしても、全てが全てクリスチャンではなく、ここで言う異邦人の人達に含まれる人も居る。

人は、クリスチャンでなくても、或る程度は自力で生きる事が出来る。そうして生きて、その人生を或る程度、富ませる事が出来る。しかしこれも、神様がその人を生かして下さって居るからであり、その環境と生活の土台を与えて下さって居るからだ。それでもその人達の内には「自分で生きて居る」と過信し、例えば生活の多忙に神様から受けて居るその恵みを忘れ、やはり自力で全ての事を成し遂げて居る…と慢心する事がある。

先週学んだ『アモス書』の内にも「人々の内の残った者や、私の名で呼ばれる異邦人が皆、主を求める様に成る為だ」と在り、これは「全ての人々がその神様の御計画の内で、神様を求める者とされる様に成る事」が説かれて居る。『使徒行伝』に於いても、元々、神様を知らなかった異邦人達が、その「神様を求める人達」へと変えられて行く姿が描かれて居る。詰り、これ等の事が神様の御計画の内で成される事柄に在り、人がただ自力で生きるのではなく、神様の恵みと救いを求めて生かされる事にこそ、誠の救いが在る事を説いて居る。

全ての人は、或る程度、自力で生きる事が出来る。でも神様の恵みを求め、その救いを求めて生かされる事と並行する形で、その二つの生き方が目の前に在る。これが全ての人々にとっては時に曖昧な土台を生む事があり、迷いの元に成る事がある。だからこそ全ての人々は、神様を求める本当の心と視点を備える必要に迫られる。これは又、遜りと慢心との闘いの様であり、人が「自分達が神様によって生かされて居る事」を改めて知る事の契機にも成る。詰り、悔い改めの生活・人生への契機に繋がる。

「こちらから行ったある者達が、私達からの指示も無いのに、いろいろな事を言って、あなた方を騒がせ、あなた方の心を乱した」(『使徒行伝』第一五章二四節)と在る、このとき迷いの元を植え付けたその者達とは、「ユダヤの律法を守らないと救われない」と説いた人達であり、これが異邦人達を惑わせる契機を生んだ。この「律法」とは例えば日本に於いて言えば、日本国憲法や、日本人が自分達で作り上げた習慣的な規則・儀式、それに準ずるものとして良い。詰り、人の間でのみ作られた決まり事であり、これは偶像崇拝に繋がる事があり、そもそも神様の教えを無視した内容になる。この偶像礼拝の要素が少しでも含まれるなら、それは全て排除せねば成らない。神様が全ての人々を「神様を求める者」に変えて下さったにも拘らず、その上で、人間の側の律法の遵守が救いの条件とされるのはおかしな事である。神様が与えられた生活の土台の上で、人間が自ら「救いの条件」を打ち立てて居り、新たな宗教を作り上げて居る姿に成る。

現代の教会でも、信仰に厚い者達が「クリスチャンはこう在るべきだ」とし、その自分の考え・思惑により他人を教える事がある。しかし信仰に厚いと信じるその心は時に人間的な盲目を生む事があり、飽くまで人の教えを説いてしまう事がある。だから全てのクリスチャンも常に自身の悔い改めが必要となり、自分が信仰の道に立って居るか、その事を神様の前で常に確認する必要がある。

戦争があっても、疫病があっても、神様が人の為に具えられた季節は変わらずその次も来る。その経過の中を人がどう生きるかであり、その人生は、その人の生き方に伴い、神様がその人を生かして下さって居る事を教える。神様が人に与える恵みは、人が自分で調達する食料や水ではなく、永遠に枯れる事の無いもの。人は或る程度、自力で生きる事は出来るがそれは或る程度であり、永遠ではない。神様はこの永遠の恵み、永遠の命を、イエス様を通して人々に教えられ、その恵み・命の内に全ての人を招かれた。人はその招きに応えねば成らず、そこにしか救いは無い。

(人は或る程度、自力で生きる事が出来るが、食料を調達する事も水を調達する事も、生活に必要な物を調達する事も、全ては既に神様から与えられて居るその物を取って居るだけである。既存の物がそこに在るのだ。人が自分で作り上げ、調達する為に置いたものではない。人の才能も予め神様に創られたものである)。

神様に救われた者、神様を信じた者は、その試練ののちに、新しく出発する。兄弟姉妹共に、神様がご用意された、新しい救い・希望へ向けて出発する。「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きて居て、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(『ヨハネによる福音書』第一一章二五〜二六節)このイエス様の御言葉に通じるものか。

(引用元:参考)

https://blog.goo.ne.jp/higashi312/e/5772dba7b69303f42d4d8bfc2915687c



【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


「飢えと渇きを満たす 神の約束 ―義に飢え乾く人は幸いです」

THE DAILY with Arthur Hollands 2023/03/19

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=PzhSXD87j34


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)



思記〜

イエス様が掛かられた十字架のメッセージは「許し」である。イエス様は自分を拷問にかけ、ゆっくりなぶり殺しにし、更にその十字架の上に付けられた人から罵られても、周りの人々から罵られても、自分を十字架に掛けた人の為に「主よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分で何をして居るのか分からないのです」とご自分の父なる神様に全ての人の許しを祈り願ったのだ。「彼らを今すぐ殺して下さい!」や「今すぐ私に全ての者達を変える権能を授け人々が今すぐ私の前に跪く様に!」とは人間の主観による言に在る。それによる祈り願いだ。実は俺もこれまで、本当に取るに足りない物事に怒り狂い、本当に特定の人を対象に取り、神様にそう祈り願った事がある。その対象にした人の内には自分の親すら含まれて居た。なんと悍ましく愚かで、何万回悔い改めても追い付かない罪なのか!イエス様には一つの罪も無かった。俺は罪と欲望まみれである。この違いに在るに拘らず、イエス様はその俺と真逆の事を祈り願われ、その姿勢と内実を貫き変えなかった。このどうしようも変えられない程の違いである。だから俺はイエス様に依り頼まなければ成らない。でなければ、どうしようもない!俺一人の力でそこまで行けなかったからだ。いや、これも神様が俺の為に与えて下さった一つの糧かも知れない。これを経て、俺は主に在って成長するのだ。イエス様の十字架のメッセージは、全ての人への「許し」である。全ての人が初めからこうして背負って居る罪の許しである。この罪が許される為の悔い改めの人生こそ人を輝かしく大きく変えて、聖なる人へと近付け、神様が御計画された本来の恵まれた人の姿と成るのではなかろうか。これは俺がその様に信じる事に在る。人は争い、傲慢であり、どうしようもない罪の虜に在り、それを治せず、悲惨な境遇・光景・情景を作り上げる生き物だ。これは世情や歴史を見れば瞭然に在ろう。人はこう言う生き物だった。だから自分の罪を先ず自分で脱ぎ去るべく、その信仰の道が与えられた。これもイエス様がペテロに言った「あなたは私を信じるか?私の羊を飼いなさい」と三度もの恵み、あの救いの御言葉に通じるものか。神様は何度も人に悔い改めの機会を与えて下さり、時を与えて下さり、ご自分を教えて下さって居る。人の内には初めから神様の御力と恵みと平安が満ち足りて居るのだ。だから信仰の道へ生かされる事が出来、イエス様の跡を歩く事が出来、信仰生活を全うさせられる上で救いが与えられて居る。全ての人は、神様に創られたのだ。だから全ての人は、その神様の愛と恵みと平安に応えねば成らない。それが信仰に生かされる事である。自分の罪を悔い改める事に在る。何度でも言う。イエス様の十字架のメッセージは「全ての人にとっての許し」である。


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