短編ホラー①

秋口圭吾

第1話

木登りが好きだった。

馬鹿と煙は高いところが好きと言うが、私もその例に漏れず、とにかく高い物、大きい物が大好きだった。それは今でも変わっていないような気がするが、腕白盛りのその頃は殊更だった。

木の上に登って下の方を見遣ると、頭上のことなんか全く気にかけてもいない人々が、私の姿に気づかずに通り過ぎてゆく。そうすると、なんだか下界を見下ろす神様のような気分になって、皆より一つ偉くなったように感じるのである。

よく晴れた日のことだ。確かその日は、公園を見て回っても友人が一人も見つからなかったのだった。大抵、知り合いの二人や三人はは遊具のある広場にたむろしていて、私は時々それに加わっては遊び呆けていのだ。私は決して真面目な学生では無かったので、そうやって陽の暮れるまで遊び回っている事もざらだったのである。

しかし、こうして植え込みの隅から隅まで見て回っても人っ子一人見つからず、精々犬の散歩に出掛けている老人ぐらいしか目にしない、という日が時々あった。相手も人であり、尚且つ私が約束事をあまりしない人間だったからには仕方のない事だが、これは私にとっては非常につまらない。かといって家へ帰る方がよっぽどつまらないので、特に目的もないが木に登って過ごすことが時たまあった。

あれは夏も近い蒸し暑い日で、時々通り抜ける風が土と草いきれの香りをどこから運んでくるような、春らしいといえば春らしい陽気の日のことであった。

昼過ぎの公園は何か眠たげな雰囲気で、こんなよく晴れた日であるのに人の気配はまばらだった。時折ジョギングをしている人影が下の道を駆けていくが、頭上で逞しい木の幹にしがみついている私の影に気づく様子は一向にない。その木は幹の窪みが丁度腰掛けのようになっていて、下の様子を眺めていても落ちる心配はさほど無かった。なので私は、なんとなしに外をうろつく羽目になった時、こうしてここに腰掛けていることがままあったのだ。

空気は夏の粘っこさを含んでいて心地よいとも言えなかったが、時折吹き抜ける風と樹冠の日傘の成す日陰のお陰でぼうっと座っている割にはとても心地が良かった。

そうしてうつらうつらと取り留めもない妄想を巡らしていると、耳元でふっと何かの声がした。

「お菓子は好き?」

周囲を見回すが、辺りには誰も居ない。そもそもその時の私は木の上に座っていたのだから、登ってきた人間がいて分からないはずがない。

柔らかい声は私のそんな様子を気にも留めずに続けた。

「おもちゃは好き?」

「……まあ、好きだよ」

応えてみるが、やはりどこから聞こえてくる声なのかとんと見当がつかない。

「ゲームは好き?」

「あんまりやらないから分からないや」

「アイスは好き?」

「うん。大好き」

要領を得ない質問が続く。

「宿題は好き?」

「あんまり好きじゃないなぁ」

「お祭りは好き?」

「好きだけど、もっとお小遣いが欲しいかも」

「花火は好き?」

「もちろん」


「……じゃぁ、夏は好き?」


その時になって私はようやく、出所の分からない声と会話しているという異質さに気付いた。ぞっと背筋が震えて、蒸し暑いのに身体の芯がすうっと冷えてゆくように感じた。

「……」

突然後ろを振り返るのが怖くなって、目玉だけを必死に動かして周囲を観察した。しかし、何も見つからない。周囲に人影はなく、遠くを走る車のノイズだけが耳に聞こえる。

「夏は好き?」

心臓がうるさいほどに脈打って、胸の中で暴れているのが分かった。

脊椎を伝った冷たい物が脳に届いて、一瞬視界が暗く明滅する。

「夏は好き?」

横には誰も居ないと分かっていたはずだが、今やはっきりと人の気配が感じ取れるような気がした。身体の感覚が遠い所へ離れていくように感じて幹を強く握る。

「夏は好き?」

まるで耳道の中でその言葉が反響し続けているように、その声だけがはっきりと脳に届いた。息の詰まってしまうような気がして肺の動きを意識する。

そうしていると、視野の端に何か動くもが映ったような気がした。

何か恐ろしい妄想が鎌首をもたげるその前に、それは視界にはっきりと捉えられた。それは、ジョギングを楽しんでいる初老の男性だった。

それが信号として脳に届いた瞬間、私は突然現実に引き戻された気がした。

汗でべっとりとした肌着が身体に纏わり付いていた。それをはっきりと認識すると、熱を持って冷え切っていた五感が急速に戻ってくる。

途端に恐ろしくなった私は、首をその方向へ向けたまま木から降りた。後ろを向くにはまだ幾分恐ろしかったのである。そして、どこか動きの覚束ない手足を動かしようやっと地面に立ち後ろを振り返った。いや、この場合、肩越しに自分の背後を確認した、と言った方が適切かも知れない。何故だかは分からないが、首を動かして背後を探るというのがどうにも恐ろしくて堪らなかったのである。

そうして見遣った背後には、特段何かがある訳ではなかった。

まるで首の動きが著しく制限されているかのように身体ごと後ろを向いた。

昼過ぎの、なんの変哲もない公園がそこには広がっていた。

風が吹き抜ける度に全身から溢れ出た汗が冷えて、熱を持った空気が冷たく冷え込んだ物のように感じられた。

それからあの木に腰掛ける機会は幾度かあったものの、あの奇妙な問いかけに出会ったのは後に先にもこの一度だけだ。

小学三年生、梅雨入りの話題が聞こえ始めたあの頃の話である。

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