第7話 東病棟担当看護婦『鮫島昭子』

       『看護婦 鮫島昭子』


 夕方、八畳敷きの病室。

周明氏が中央で座禅を組んでいる。

ドアーを叩く音が。


 「うん? どうぞ」


ドアーが静かに開き、中年の看護婦が顔を出す。


 「失礼します。東棟を担当する鮫島です。よろしくお願いします。」


看護婦は周明氏の病室に入り、丁寧に挨拶をする。

小ぶりながら凛とした中々の美人である。


 「大川周明と申します。宜しくお願いします」

 「お名前は存知あげております。裁判所で東条さんの頭を叩いた・・・」

 「ああ、あれは公判中、東条くんが居眠りをしていたものですから」


鮫島は驚いて、


 「ええ! そうだったんですか? 新聞にはそうは書いては有りませんでしたよ」

 「どう書いて有りました」

 「発狂の思想家、A級戦犯大川周明。東条の頭を叩く!」

 「発狂ですか。発狂したからここに連れて来られたんでしょうな。ハハハ」

 「でも、国民は誰も先生を発狂したとは思っていませんよ。私はこの記事を見て本当に戦争が終わったと思いました。戦争なんて・・・」


鮫島は歯をくいしばり、涙を堪える。

周明氏は鮫島を見て話を変える。


 「あなたはピアノがお上手ですね。あれは、ショパンですか」

 「あら恥ずかしい。先生は音楽に興味がお有りですか?」

 「うん? いや、まあ」

 「私、子供の頃、父の仕事の関係でポーランドに住んでいた事があるんです。そこで母にバレーとピアノを習わされて」

 「ポーランド!?」

 「ご存知ですか?」

 「え? まあ。・・・ご主人、硫黄島で戦死されたんですって?」

 「あら、畑 婦長が言ったんですか? 何でも喋ってしまうんだから」

 「なんと酷(ヒド)い所に配属されたんでしょうね」


鮫島看護婦は俯いて寂しそうに、


 「栗林さんの下で副参謀職をやらせて頂いてた様です。全滅だったらしいです。仕方がないですよ。主人だけじゃないし。あ、先生はお風呂とお食事、どちらを先にしますか?」

 「え? この病院では決まりは無いんですか?」

 「そうですねえ、病院ですから少しの拘束は有りますけれど、東棟はその辺は別に」

 「そう云えば、畑さんはその辺の事は言ってなかったな。じゃ私は風呂を・・・」

 「はい。ご案内します」

 「え! 今ですか?」

 「順番が有るので。あッ、それから入浴時間は十分でお願いします」

 「十分?」

 「食事の用意も有りますし、お風呂場で亡くなる方も居(オ)るんです」

 「亡くなる?」

 「自殺です。神経が衰弱してる患者さんが多いので。表面で楽しくやっていても、一人に成ると突然自分の世界に入る方が居るんです。だからお風呂は必ず二人で入ってもらいます」

 「二人?」

 「ご案内します。どうぞ、こちらえ。寝巻きはお風呂場に用意してあります」

 「え? あ、はい」


焦る周明氏は鮫島の後に付いていそいそと部屋を出て行く。

長い廊下の右奥に「風呂」と書いた札が鴨居に挿してある。

入り口に備え付けの椅子が一つ。


 「こちらです」


鮫島は曇りガラスの引き戸を開ける。

スノコ板の床の隅に二つの籠が。

その中に着替えが各一着ずつ置いてある。

一つの籠の中には、周明氏愛用の『水色のパジャマ』が入っている。


周明氏は驚いて、


 「あッ、これは!」

 「ああ、佐藤が用意したのでしょう」

 「随分手際が良いですね」

 「ここは精神病院ですから。では、ごゆっくり。時間に成りましたらお知らせします」


鮫島はガラス戸を静かに閉め、風呂の入り口に備えた椅子に座り、文庫本を取り出し読み始める。

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長編小説『松澤病院の思想家』 土屋寛文 @honkakubow

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