第16話 水天一碧

 海は遥か遠く、水平線がくっきりと見えた。空には雲ひとつない。目の前には砂の道が対岸へと続いている。アウレギウスが浜辺に目を遣ると、数人の村人たちが、エレスセーアと別れを惜しんでいた。


 ひと月前の戦闘がうそのように、島は静かだった。都からの軍が敵の大将首を取り、末端の敵兵たちは散り散りに逃げ出した。その後、島に駐留していた兵士たちは少しずつ引き上げ、対岸の農民たちは集落に戻った。漁師は海に出て、修道士は祈りと労働に打ち込む生活に戻っていくのを、最後まで島に残ったアウレギウスは感心して眺めていた。土地に生きるとはこういうことなのか、と。戦闘時に負った肩の怪我は大分治っている。片手で楽に剣を振るうのは、もう少しかかるかもしれない。


 今、浜辺のガイウスは「体を冷やすな」「食事はきちんと摂れ」から始まって「金髪のひよっこに飽きたらすぐ帰ってこい」などと、泣き出さんばかりの勢いでエレスセーアに言い聞かせている。エレスセーアもそれにいちいち頷いては返事をかえすので、いつまでも出発できない。アウレギウスが呆れて馬首を巡らすと、白馬のそばに立つプリムスの爽やかな笑顔とかちあった。


「すみませんね、娘を嫁に出すような騒ぎで」


 いや、と内心を押し隠して答える。


「エレスセーアは、ほら、かわいいでしょう」

「ああ、うん」

「島育ちだから世間知らずというか、擦れてないし」

「そうだね」

「心配なんですよね、悪い虫がつかないか」


 笑顔の下の視線が妙にきつい。理由に覚えのあるアウレギウスは曖昧に頷いた。プリムスは駄目押しの一手のように、アレアトールの鼻面をなでながら言った。


「変な虫が寄ってこないように、お願いしますね」


 ようやくエレスセーアがガイウスから離れて砂州へやってきた。プリムスが額に口付けてわたつみの加護を祈る。義兄からも離れて背筋を伸ばしたエレスセーアの顔は、すっきりと落ち着いていた。


「いいね?」

「はい」


 エレスセーアは頷き、栗毛の馬に乗る。修道士たちには、昨日までに挨拶を済ませた。島はいつも通りの静寂を保ち、漁船の出払った浜辺にも、村人たちと水鳥のほかには静かに陽が照りつけるだけだった。



 前を進むアレアトールの足音が、波の音と重なり合う。エレスセーアが振り返ると、もう遠くなった村人たちが手を振った。

 僧院は今ごろ祈りの時間だろう。


「エレスセーア!」


 遠くから声がした。上のほうから。修道院の高台、海を見晴らす作業場に、小さく修道士の姿が見えた。


 叫んだのはグアルドだ。フィゲーラスもいる。ふたりとも勢いよく手を振っていた。


 あんなところで大声出して、あとで院長様にお叱りを受けるだろうに。


 そう思った途端、エレスセーアの視界がぼやけて万華鏡のように輝いた。はらはらと涙が落ちるのをそのままに、エレスセーアは手を振り返した。ふたりが見えなくなってしまう。ガイウスも兄弟たちも、浜辺も僧院も、島全体が光に溶けた。海と空が混じり合い、世界が碧く一つになった。

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始まりの島 見習い修道士と運命の大潮 透綿 @Tomeinawata

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