第15話 海嘯
ときの声が上がったのは二日後の昼だった。
地平線の一片が黒く染まったときはまだ闇に紛れてよく見えなかったが、日の下に現れた敵兵の一群は、大戦を知らないエレスセーアの背筋を凍らせるのに十分だった。
今、島の上からは、敵と味方が一緒くたになり激しく殺し合うさまが対岸の粉塵の中に見える。
「走れ! こっちに戻ってこい!」
「救護を回せ!」
一人また一人と怪我を負った兵士が戦線を離脱し、砂の道を島へと戻ってくる。追いすがる敵は迎え出た島の人間が射った。救護班が何度砂道を往復しても、戦場から戻る兵士を回収しきることはない。
エレスセーア自身も朝から島の上と下、浜辺と砂州を何度となく駆けている。修道院への階段を駆け登りながら、エレスセーアは対岸の地平線をちらりと見遣った。都からの援軍はまだ来ない。
戦略は出発前に各部隊に伝えられている。アウレギウスは繰り返し強調した。
「援軍が間に合わなければ潮が満ちる前に順に島に戻ってくれ。大潮が半日稼いでくれる」
すでに干潮の時間は過ぎ、陣形の一辺が退却を始めている。
「武官長、あんたはいつ島に戻るんだ」
最後の軍議で、村人の問いに、アウレギウスは実に静かに答えた。
「最後だよ。大将はいつでもしんがりだ」
金属のぶつかり合う音の中に呻き声が聞こえた。アウレギウスは咄嗟に目の前に迫った槍を剣で払い、手を伸ばして修道服の襟首を掴んだ。そのまま勢いをつけて馬上に引きずり上げる。
真っ青な顔で再び呻いたのはグアルドだった。粗末な麻の服がおびただしい血に染まっている。革鎧で守りきれない横腹を刺されたのだろう。出血がこのまま続けば命取りになりかねない。アウレギウスはグアルドを抱えたまま、剣を振るい、砂塵の中に長くなった影を見た。太陽は西へと傾いていた。
「退け! 全員退却!」
アウレギウスの声が戦場に木霊した。
エレスセーアが予測したとおりに大潮の日の水位の高まりは早く、あっという間に砂の道は水の下に沈んでいった。しぶきを上げながら兵士たちが戦場を退いていく。行かせまいと追う敵が水の勢いに怯みだした。これ以上対岸で躊躇していれば、味方も渦巻く波に足を取られて飲み込まれるだろう。
歩兵を逃がし、とうとう騎兵が海に戻り始めたとき、浜辺で部下の悲鳴が上がった。同時に激しい砂煙が立ち込めた。味方が怖気づき息を呑む気配がする。煙幕の向こうに目を凝らしたアウレギウスの鼻を、鉄が錆びるような臭気がついた。血よりも濃く匂うそれを、彼はよく知っていた。忘れようもない記憶、人生の半分近く、脳裏を舐めるように焼いてきた炎と同じだった。
彼の背に消えない傷を残した拷問具。それを戦場向けに改造した、火を使う兵器を敵は操った。彼らはかつて、それを使って、北の都を内側から焼き尽くしたのだ。何を燃やしているのかは未だに謎だ。ただ、薪をくべなくても強い火力を異様なほど長く保たせることができる
――その破滅的な兵器を故郷の都に引き入れたのはアウレギウス自身だ。
一日たりとも忘れたことはない。守りの門が開いたのは、敵に捕まり拷問されて、門を開く方法を告げた人間がいたからだ。少年の日の自分が、それをした。
都の外で、捕まった。殺されるか、人質にされるか、危ぶんだアウレギウスを待っていたのは拷問だった。父や母、兄たちが死んだのは、都で大勢の人間が塔に閉じ込められたまま焼かれたのは、背中を焼かれた自分が口を開いて秘密を漏らしたから。 その罪を忘れたことはない。あれで自分以外の全員が、都の内で死んだのだ。
アウレギウスの全てを奪った炎が、かつてと変わらぬ黒煙をあげて、目の前にあった。
どうやって遠路を運んできたのか、ただ一機、浜辺に現れた
あの兵器を、島に近付けるわけにはいかないのだ。
焼けつくされた故郷を目にした絶望が甦る。悔恨の時間は何年も続いた。あの子に同じ思いをさせたりしない。アウレギウスは馬を降り、次第にせりあがる海の中に立った。
「浜まで走れ、止まらずに行け!」
グアルドの体を手綱に結び、アレアトールの横腹を強く叩いて、退いていく騎兵の後ろを走らせた。この名馬なら怪我人を振り落とさず島まで走れるだろう。
肩に熱が走って、斬りかかってきた歩兵を斬り返す。倒れた歩兵の体が派手に水を跳ねる。すでに波は膝まで届き、水流の勢いは常にも増して強かった。絡繰りの押し手のほかに、守り手の歩兵たちが数人いる。砂煙の向こうから突進してくる火炎を睨み、アウレギウスは剣の柄を握りしめた。
「騎馬の退却が始まっています! 回収した矢は全部使って弓で援護を、弓隊以外は全員浜辺に降りて」
言うなりエレスセーアは回廊を飛び出した。階段を下まで駆け降り、混乱する浜辺へ走った。最後の一団が浜に辿り着く。遠目にも否応なく目立つ白と金を探して、エレスセーアは騎兵の間を掻き分けた。やっと見つけた白馬には、粗末な修道服のかたまり――青ざめ血を流したグアルドだけが伏せるように乗っていた。
「グアルド!」
馬上から倒れ込んだグアルドを抱き留めながら、エレスセーアは必死に首を巡らせた。
どこに、どこにいる? アレアトールに乗っていたはずなのに。
救護班が駆け寄ってきてエレスセーアの腕からグアルドを引き取っていく。エレスセーアは震える膝を叱咤して再び走り出した。心臓が異常なほど早く打って、周囲の音よりも自分の荒い息が頭の中で響く。
もう帰ってきている? 修道院に戻った? あるいは村の方に? でも他の騎兵はまだここにいる。ガイウスも、プリムスも。普段彼のそばにいる部下たちはみんな島に戻ったばかりだ。しんがりの一団。それなのに。
いない、いない、浜辺の何処にも、あの豪奢で長い暗金色の……。
エレスセーアは対岸のほうへ顔を向けた。禍々しく黒煙が上がっている。その煙のあいまに見えたのは、水没した砂の道を迫る赤黒い絡繰りの塊と、その前に立つアウレギウス、そして迫りくる波の青だった。
おそろしいほど遠くに、彼は、たったひとりで立っていた。
決断は一瞬だった。彼の愛馬に縋り付いた。ひとりにしないと、わたつみに誓ったのだ。
「お願いアレアトール、あの人のところまで連れてって……!」
島の浜辺では、砂州の方を見てアウレギウスの部下たちが騒ぎ出していた。
「武官長!」
馬首を翻そうとした兵士をプリムスが手綱ごと止めた。
「無理だ間に合わない、あんたまで波に飲まれる」
「しかし」
「大潮の波は馬の足より速いんだ!」
言い募ろうとした部下の脇を、一陣の風が通り抜けた。黒い髪が流れて風をうつ。それが誰か、何をしようとしているのか、気づいたプリムスが声を上げた。
「エレスセーア……!」
プリムスの叫びが背後に聞こえる。
「エレスセーア、戻ってこい! だめだ、行ってはだめだエレスセーア!」
義兄の悲鳴のような声に手綱を握りしめ、エレスセーアは祈った。
海の神様、どうか助けてください。
どうかあの場に間に合わせてください。
どうか傍まで行かせてください。
波飛沫の間に、暗い金色の髪の男が立ち尽くしているのが見えている。
ふいに、アウレギウスは周囲が静かになったことに気がついた。
目の前に敵はいなかった。絡繰を押していた敵兵が波に足を取られ、押し流されて絡繰ごと飲み込まれるのを見た。黒煙と重なりながら蒸気が白く立ち上り、その向こうに波がさらに高く迫っていた。波の勢いは激しく、気づけば立っているのもやっとで、水に浸かった人の足で岸へ逃れることはどう考えても不可能だった。
――これが自分の最期か。
唐突にその考えが頭に浮かんだ。
海ならば、仕方がないかもしれない。
そういう思いがかすめた。
背中に消えない火傷を負わせた、矮小で残酷で卑怯な人間たちに殺されるのではなくて、迫り来る波に飲まれて海に沈むなら……。
アウレギウスは、半ば呆然と、音を立てて視界を埋めていく青を眺めた。ひたすら自分を突き動かしてきた、耐え難い屈辱への怒りごと、この波が飲み込んでくれるのか。裏切り者の自分を。故郷を滅ぼしてしまった自分を。長い苦痛も、ようやく降ってきた幸福も、これで終わりなのか。
――本当に?
アウレギウスは、迫り来る波が空気を震わせるのを聞いた。そこに小さな声が混じっていた。
「……ギウス……!」
あぁ、エレスセーアの声が聞こえる。
「アウレギウス!」
振り返ると、黒い髪と、白いたてがみが波間に見えた。愛馬に乗ったエレスセーアが手を伸ばしていた。
浜辺は一瞬静まり返った。波の向こうに消えた養い子の姿に、村人に押さえられていたガイウスの体から力が抜ける。プリムスの口から絶望の息が漏れ、グアルドが血塗れの目を開いた。
次の瞬間、ぶつかり合った波間から走り出た白馬の姿に誰かが歓声を上げた。生きている、馬の背中を見ろ、二人とも無事だ!
同じ頃、上の修道院でも声が上がった。見ろ、都の旗だ、援軍が対岸の向こうに見える!
アレアトールの足は大潮の波より速かった。こうして島での戦いは幕を閉じた。
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