第14話 新枕

 翌日から島は一斉に臨戦態勢に入った。対岸からは大量の剣と弓矢がアウレギウスの部下とともに島に入り、修道院の一角を占めている。戦さの本陣を置くための準備、兵站の重要性を、エレスセーアは実のところかなり興味深く観察した。端的に言えば、面白かった。戦略に沿って人や物を動かすということを生まれて初めて目にし、自分でも頭の中で考えた。何をどうしたら戦さに臨むのに一番効率がいいのか。あちこちでアウレギウスの部下をつかまえては武器や配置についての質問を繰り出した。


「あの子、島を戦場にすると言ったらとんでもなく反発したのに」


 ぼやくアウレギウスに、ガイウスが高く笑った。


「勉強好きの好奇心には勝てないもんだ。案外軍事の才能もあるかもしれん」

「それは親馬鹿なのでは」

「そうかの。だがこの島では持て余すほどの才気には違いないじゃろう」


 意味ありげに片眉を上げてガイウスがアウレギウスを見る。ここが頼みどきだと勘づいて、アウレギウスは背筋を伸ばした。


「同意します。ことが終わったら、彼を島の外に連れ出しても?」

「もちろんいいさ。仮でも親の願いとしては、世界のどこにいても才を生かして何かを成し遂げ、幸せになってほしい」

「分かりました」

「もう一つ親の気持ちを言えばな、わしはあの子が仕事でうまくいかずに悔し涙を流すのは構わんが、悪い男に引っかかって泣く羽目になるのは許せんのう」

「……肝に銘じます」


 そんな会話が交わされているとはつゆ知らず、エレスセーアは回廊にいる義兄たちの横に座り込んでいた。普段ならば修道士だけに立ち入りが許されている、瞑想のための回廊である。戦さの準備が始まってからは、島民も兵士も自由に行き来している。


「すごいですね、こんな長い弓、見たことない」


 セクンドゥスが弦を掛けているのは、エレスセーアの身丈ほどもあろうかという長弓だった。持ち手は柳の木を使っていて、よくしなる。


「この弓が鍵だと武官長どのが言っていた」


 次兄と三兄は弓部隊に配属されている。若いふたりは力こそあれ大戦を経験しておらず、戦いには素人だ。素人でも長弓を引ける仕掛け台を、アウレギウスの部下たちは下の工房で作り、次々と回廊の窓に沿って並べていた。


 修道院を本陣にすることについて、アウレギウスは修道士たちの反発を懸念していたが、もとより彼らは修道院長に絶対服従である。院長の鶴の一声で、大きく門扉を開いて兵士たちを迎え入れた。

 その上、彼らはおとなしい神の僕であると同時に不屈の戦士でもあった。多くの修道士に、先の大戦で戦い、島を守った経験がある。日々の労働をこなしている体は、兵士とも漁師とも違うけれども、剣を振うだけの膂力を備えている者も多かった。


 島民と修道士たちは、部隊の編成のために適性を見られた。剣を使える者は対岸へ、不得手な者は島に残って弓矢で守る。エレスセーアは当然ガイウスたちについて対岸へ行きたかったが、選考ですぐさま弾かれた。見た目よりもずっしりと重い剣にふらつくエレスセーアを、先の大戦の功労者である老修道士は笑い飛ばした。


「お前さんみたいな細っこい子供に、戦場は任せられないな」


 そういう選抜部隊とて付焼刃ではないか、とエレスセーアは思ったが、蓋を開けてみれば選ばれたのは皆屈強な男たちばかりだ。少数精鋭の彼らは、敵の進軍に合わせて対岸に渡り、アウレギウスの指揮のもと、訓練された都の兵士たちとともに剣をふるう。

 漁師も修道士も口をそろえて「島を戦場にするなら戦う」と主張し、どちらかといえば守りに徹するように説得するのにアウレギウスは手を焼いた。私も戦いたいのです、とエレスセーアが告げたとき、アウレギウスは半ばあきれたような顔をして言ったものだ。君は芯からこの島の子だな、頑固で困る。


 対岸では兵士と修道士たちが共に土塀を築いている。島から遥かに見渡せる耕作地は普段と変わらず長閑だが、戦えない農夫の家族たちは明日にも離れた集落へ避難する予定だ。住み慣れた土地が敵の足に荒らされるのを見るのはつらいだろう。人の世の事情にお構いなく、河は静かに流れて水車を回していた。


 土塀の指示を出し終えたアウレギウスに、背の低い、がっしりとした体格の修道士が近付いた。先日、明け方の宿坊で一方的に問われて以来、口をきいていない。


「あんたがあの子をどう思ってるか知らないが」


 目が合った途端にグアルドは切り出した。


「あの子はあんたに夢中だし、あんたを信じきっている」


 アウレギウスは無言で片眉を上げた。ずいぶんと嫌われたものだ。悪い大人が年端のいかぬ少年を騙しているように見えるのだろう。


「あの子の信頼を裏切るような真似だけはしてくれるな。それさえ守ってくれるなら、俺は命を捨ててもあんたを助ける」


 グアルドは選抜部隊として対岸で戦う者のひとりだ。いけすかない男を総大将に迎える、彼なりの覚悟の決め方だろうか。島に生きる人間の不思議なほどの義理立ての強さに、アウレギウスは大息した。

 こういう頑固な男を、エレスセーアが繋げてくれたのだ。


 エレスセーアをはさんで、修道士と漁師が話し込んでいるのを見た。友人かといえばそうではない。二十年近く同じ島に住んでいて、だが生活が断絶しているので、互いに言葉を交わしたこともないのだ。聖堂の外では知らぬ者同士、ぎこちない空気があったのに、エレスセーアがあいだにくると、自然と話が弾み出す。そういう場面をアウレギウスは何度も見た。


 陣を構えて戦さの準備をする緊迫した局面なのに、それを見ていると自然と顔が綻ぶのをアウレギウスは抑えられなかった。エレスセーア自身は大真面目に双方に話しかけているだけだ。島の上と下、修道院と漁村。このふたつを彼が繋いでいるのだと、本人だけが気づいていない。


「私の信用を保たせたいなら、君は命を捨てちゃいけない」


 厳しい声で返してから、アウレギウスは無骨な修道士と、その肩の遥か向こうにそびえる修道院を見つめた。ガイウスもプリムスも連れて行く以上、親代わりの彼は島に残していくのがエレスセーアのためかと思わなかったわけではない。それができないのが軍を取り仕切る武官の仕事のつらさだ。


「彼の家族は誰一人としてこの戦いで損なわれてはいけない。だから君は、島の人たちと君自身を守ってあそこまで戻ってくれ」


 あの日、海の見える回廊で、好きだと言う代わりにアウレギウスは膝をついた。互いへの想いは確かに感じたけれど、それを語るだけで済む立場ではない。


「それが育て親の義務だろう。私への信頼を潰したくないならなおさらだ」


 本当に分があるのはグアルドのほうだ。なんの見返りもなく愛を差し出し、受け取ってきた家族なのだから。黙り込んだ修道士に、アウレギウスは眼差しをゆるめ、なるべく優しく聞こえるように言った。


「君があんないい子に育てたんだな」


 グアルドは石のように動かなくなった。やがて島の男に特有の、潮に焼かれたひび割れた呟きが、風に乗ってアウレギウスに届いた。


「あの子はわたつみが島に下さった、私たちの光だ。どうか大切にしてほしい……」



 なぜ自分はこの場に呼ばれているのだろう。

 エレスセーアは机の隅で身を縮こまらせていた。重い石に囲まれた僧院の一室で、夜の空気は湿気を含み、ろうそくはじりじりと溶けている。敵の進軍を二日後に控え、島での最後の軍事会議に参加しているのだ。中央の机を囲むのは将官クラスの兵士ばかり、島からはガイウスと院長の他は三人の漁師と二人の修道士しかいない。エレスセーアは群を抜いて若かった。都の兵士たちや対岸に渡る島民を差し置いて自分がここに座っている理由がわからない。

 会議といってもこの段階ではすでに作戦を確認するのみだ。アウレギウスが地図の上の駒を動かしながら喋っている。


「主力部隊は明日対岸に渡って陣を張る。ただ、白兵戦になれば村人や修道士には荷が重い。こっちの兵の数もさほど多くない。対岸での白兵戦に持ち込む前に、新しい弩弓を使って相手を徹底的にたたくのが肝心だ。敵をすぐに海に出すつもりはないが、万一そうなれば島に残った部隊が対応してくれ」


 たん、と音を立てて対岸に駒を置く。


「まぁ要は背水の陣だ。島と海に背を向けて敵を迎える、単純だな」


 背筋を伸ばして聞き入る部下たちに囲まれて、アウレギウスは笑っていた。ここからでは彼をひどく遠く感じる。


「四隊から六隊は沿道に待機。敵を畑にいれるのはまずい、できれば休閑地をまっすぐ進ませてくれ」


 部下たちが緊張した面持ちで頷く。島の男たちの寄り合いとは空気の味が全く違う。居心地の悪さにエレスセーアは身じろいだ。


「私も明日、潮が引いたら対岸に行く。早ければ明後日の日の出には敵が来る。援軍が時間差で東から来れば挟み撃ちできるけどね」

「来なかったら?」

「戦うだけさ」


 こともなげに応じたアウレギウスの向こうで、ろうそくの炎が揺れた。顔つきが厳しくなった部下と漁師たちを見て、アウレギウスは肩の力を抜くように、小さく微笑んだ。


「援軍は元々都の警備のために残した兵士たちだ。行軍の足が遅いのは想定内だ。私は彼らが間にあうとは思っていない。今回の作戦の目的は援軍が来るまでに敵を出来る限り消耗させること。援軍の来る、来ないにかかわらず潮が満ちだしたら順に島へ撤退する」


 アウレギウスの長い指が、歯車の形におかれた駒を一つ一つ島へと動かした。


「敵をこちらには渡らせない。二日目の夕刻に大潮がくる。それまでに全員島に戻らせる。半日海が守ってくれれば十分だ」


 陸を長く行軍してきた敵兵は水を嫌う。戦さが長くなり、島に近づくほど不利になるのは敵の方だ。ことにわたつみの聖域と呼ばれるこの海域の水は、船の扱いに長けた島の人間に有利に働くだろう。


 島に残る院長と漁師にアウレギウスが顔を向けた。


「島のほうは先ほど指示したとおりです。私の副官を残します。それからエレスセーア」


 会議が始まってから初めて目が合った。


「私の副官が回廊で島側の指揮を取るから、大筋を汲んだら島にいる伝令たちに細かく指示してくれ。上と下との連絡を絶やさないように。細かい裁量は君に任せるから迷わずやれ。院長たちは、何か判断に迷ったら彼に聞いてください」


 最後の言葉は院長と漁師に向けたものだ。エレスセーアが反応を返す前に、さっさとアウレギウスは会議の終了を告げた。

 しばし呆然としたエレスセーアは、部屋を片付けると足早に宿坊へと向かった。


「座ったら?」


 来るのを予測していたのだろう、アウレギウスは宿部屋の扉の前に立ったエレスセーアに机のそばの椅子を指し示した。アウレギウスの傷が治って以来、この部屋を訪れていなかった。エレスセーアはその言葉には従わずに、簡素なベッドに腰掛けたアウレギウスの前へ進んだ。


「どうした?」


 何から質問するべきなのか迷って、エレスセーアはなかなか口火を切れなかった。何を聞きたいのかわかっているのだろうアウレギウスも、なにも言わずにエレスセーアの出方を待っている。


「……やっぱり私も対岸に行ってはいけませんか」


 逡巡の挙句に出た言葉は、エレスセーアの考えを表すには不適切だったが、戸惑いを表すには十分だった。

 片眉を下げて、アウレギウスが首を振る。


「それはだめ」


 当たり前だ。エレスセーアは手足も細く、腕力もなく、兵士として役に立つような資質はない。わかりきったことを聞いてしまった自分に赤面したエレスセーアを見て、アウレギウスがやっと助け舟を出した。


「君はここにいて、残った島民と修道士をつなげる役目だ。戻ってくる兵士たちの迎えも必要だ」


 そのことだ。突然のことに、会議では頭が反応しなかったのだ。


「私は戦いのやり方なんて知りません。指揮を汲んで伝令を出すなんて、とても無理です」


 伝令に伝える指示を間違えると、兵士たちは正しく動けない。戦い慣れた副官の出す指示を、その場の状況に合わせてかみくだき、島の兵士たち――正しくは、付け焼き刃の兵士である島民と修道士とに、伝える。アウレギウスが任せてきたのは、そういう仕事だ。

 島側の動きを左右しかねない役が自分に務まるとは思えない。そう言うと、アウレギウスはおかしなことでも聞いたように、くすりと笑った。


「あんなに興味津々で私の部下を質問攻めにしていたんだ、学んだことを実践する良いチャンスじゃないか。君、そんな動きづらい服のわりに足が速いし」

「ふざけないでください」

「大丈夫さ。実戦の指揮のために副官たちを残していく。だけど島を熟知しているのは君だ。島の人たちがどうしたら動きやすいか、よく知っているだろう。だから君が指揮を咀嚼して、考えて決めるんだ。次にどうしたらいいのかわからないと、誰しも戦意がぐらつくからね」

「……島のみんなが、戦いやすいように考えて、伝えるということですか」

「そうだよ。戦さの手順は私の部下が決めても、人の心は君がつなぐ。君しか出来ない。君なら出来る」

「なぜ、できるとわかるんです」

「いつも君がしていることだから。それに君は この島で唯一、戦いに最初から参加している」


 アウレギウスが手元の資料をさした。


「君が地図を作り、潮の時間を計った。君以上に作戦の土台を知っている人はいない。これで私の買いかぶりなら、ガイウスが止めただろう」


 アウレギウスは言葉を切ると、立ったままのエレスセーアの手を引き寄せた。憮然とした表情のエレスセーアを、猫のように目を細めて見上げる。


「それとも何、たった二日間会えないのがさびしいの?」


 軽く睨みつけて手を引いたが離してはもらえなかった。エレスセーアは諦めて力を抜いた。


「人を見る目がなかったと貴方が言われないよう努めます」


 アウレギウスは破顔して、それから切なそうに眉根を寄せると、取った手の甲に口づけた。


「こんな目に合わせてすまない」


 呟いた顔を、そのままエレスセーアは両手で包んだ。ガイウスもプリムスもグアルドも、明日、対岸へ渡る。アウレギウス自身が軍の先頭に立ち、自分は失敗の許されない大役だ。自分の人生をまるきり変えてしまった男の顔を、エレスセーアはそっと撫でた。


「他に何か、私にできることは」


 今度は困ったような顔をした。背中を見せるように迫ったときと同じ顔だ。しばし口をつぐんだあとで、アウレギウスは言った。


「これはもう遅い忠告だけど」


 するりと彼の右の手のひらが、エレスセーアの左手首を包む。


「戦闘前の男に近づくのはおすすめしない」

「なぜです」

「気が立っているから。普段抑えているものが抑えられなくなるのが人の性だ」


 アウレギウスは、ゆるいけれど掴まえたと表明するに足る力でエレスセーアの手首を持ち上げると、その内側に口づけた。くすぐったいような感覚がする。

 額へのキスは神の祝福。くちびるを合わせるキスは世俗の愛欲。手首へはなんだろう、禁じられていただろうか、とぼんやり考えているうちに、そのまま強く吸い上げられ、反対の手で腰ごと抱き寄せられた。


「キスして、エレスセーア」


 吐息が聞こえるほど、宿坊は静まり返っていた。座っている男の顔はエレスセーアより少しだけ低い位置にある。急に鼓動が早くなるのを感じながら、身をかがめ、おそるおそるくちびるを重ねると、アウレギウスの手が背に回った。そのまま押し開くようにして舌が入ってきて、腕で囲われた体ごと、くるりと寝台に押し倒された。

 温かく、柔らかいものが、遠慮なくエレスセーアの中を探っていく。肩を押し返してもびくともせず、熱い体がのしかかってきた。やっとくちびるが離れるころには、エレスセーアは息も絶え絶えになっていた。


「驚いた?」

「し、舌、」

「うん。もっとすごいこともする」

「ここではだめです!」

「ここでする」


 アウレギウスはエレスセーアの真上から少しだけ体をずらしてみせた。壁にかけられた十字架が、エレスセーアの視界に入るように。ろうそくに照らされて、十字架の影が、大きく壁に映っている。


「君の神様に、君が私を選ぶんだとちゃんと見せて」


 エレスセーアの喉がかすかに、だが鏑矢のように鋭く鳴った。ことの重大さにやっと気づいた彼を、青い瞳が射るように見つめてくる。覚悟を求められている。部屋の弱い光に瞳孔がひらいて、蒼穹の色が濃く深く、輝いていた。


 ――今夜、自分はわたつみに身を捧げる道を捨てて、この人と生きるのだ。


 胸の奥で、昔から決められていたことのように、理解した。エレスセーアは腕を男の首に回すと、体が離れないように、しっかりとしがみついた。

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