第13話 幕間 II
金髪の男が扉の向こうへ消えると、集会室にざわめきが戻ってきた。先ほどまでは驚きと緊張で多くの兄弟たちが黙っていたが、集会が終わってしまえば、今は沈黙の時間ではないので、修道士は普通に喋る。
部屋のところどころで声高な、興奮した声が聞こえだした。大戦の記憶が一気によみがえって、喋らずにはいられないのだろう。私の隣で、しばし呆然としていたフィゲーラスが、「またこの島が戦場になるとは……」と呟いた。彼は非常に知的な男だが、一等の宿部屋を使う「お客人」が島に戦さをもたらすという展開は予想していなかったようだった。
アウレギウス。この国の武官長。つい先ほど、私が図書室でエレスセーアといるときに、割って入った男。
ちょうど彼のことを咎めているときに邪魔されて、私は最後まで言い切れなかった。エレスセーアは忠告に聞く耳をもたなかった。直後の、修道士たち全員を集めたこの場で、院長の隣に立った男から明らかにされたのは戦さの計略だ。集会のあいだ、目も合わなかったが、私は彼がこの島に悪い風をもたらすという自分の予想が当たっていて驚いたほどだった。
この先の準備と戦略とやらを説明したあと、彼はこれから島の下の村人たちに、そして明日には対岸の農夫たちにも計画を明らかにするのだと言って出ていった。
コツコツと足音がして顔を上げると、他の修道士たちと話していた院長が、私たちのほうへ向かっていた。立ちあがろうとする私たちを手で制し、手近な椅子に院長が座られる。
「フィゲーラス、グアルド」
いつもながらの落ち着いた声で、呼びかけられた。
「アウレギウス殿について、どう思っていますか。彼は自分を信頼して事に当たってほしいと言っていますが、できそうですか」
あの男を信頼して、戦いに臨み、蛮勇をふるえるか。先ほどの集会で院長は、全面的に武官長の方針に従い、いくさの準備をすると言った。集会といいつつも、院長に対して絶対服従の僧院では、実質、院長からの通告である。これはその確認なのだろうか。
フィゲーラスは茫としていた顔を引き締めて、座り直した。
「この島の対岸へ、大潮の日に敵を引き込むという発案には驚きましたが、武官長としての判断は我々が口を出すところではないと思います。アウレギウス殿の指揮なら間違いはないでしょう。あの若さで武官長に登り詰めたのだから、都でもたいへんな人気だとか。元老院の信任もあついとうかがっております」
「ふん、誰も彼も、あの男の表面的な美しさや口の上手さに騙されているだけだろう」
思わず口をついて出た雑言に、院長が口元の皺を深めた。
「グアルドは違う考えのようですね」
取り繕うような器用さはないので、私は傲然と顔を上げて言葉を重ねた。
「国軍の長に従うという院長のお考えに否やはありません。対岸で戦うのも、いずれ敵の南下が避けられないなら仕方がないことです。ただ、私にはあの男が島に来て、ここで善をなしているとは思えません。ありていに言えば、人をたぶらかすような真似をする」
「それはエレスセーアのことですか」
先日の、男が刀の切っ先のような視線を投げてよこした光景を思い出し、私は顔を歪めた。心のうちに澱のように積もっていた苛立ちがあらわになる。あの男、図書室では一言で私の神経を逆なでて、高みから見下ろし笑っていた。
「そうです。エレスはまるで愚かだ。都の男の派手な立ち振る舞いに目が眩んで夢中になっているのです。質素で飾り気のない性格があの子のいいところなのに」
「グアルド」
フィゲーラスがたしなめるように私の名を呼んだが、院長は動じた様子もなかった。
「なるほど。たしかにこの小さな島で育ったあの子にはいささか刺激的な出逢いだったかもしれませんね」
そして間をおかずに続けた。
「でも気づいているでしょう。素直でてらいのない性格だけが、あの子の資質ではない。頭がよくて、粘り強くて、あまり表には出さないけれど、好奇心が強いでしょう。あの子にはこの島におさまりきらない輝きがある。アウレギウス殿は、ここにきてすぐ、あの子に気づきましたよ。そしてあの子のそういう美点を引き出している」
そう言いながら、私の顔をじっと見つめてきた。それは昔、私が修道院の入り口でわめいていたときに送られた視線によく似ていて、私はたじろがずにはいられなかった。
「しかし、あの男のやり口は、きょ、虚飾、ではないですか。むやみに褒めて子供をおだて、使うだけ使って……。そんなふうに人を動かそうとするのは傲慢ではありませんか」
私の反駁に、院長は視線を少し和らげられた。
「アウレギウス殿のやり方が傲慢かどうかはさておき、エレスセーアは彼の求めによく応えて、いい働きをしているようです。そうでしょう、フィゲーラス」
フィゲーラスは能書家で、書庫や図書室の管理を一手に預かっている。エレスセーアがどのようにあの男を手伝っているのか、私などよりよく知っているのだ。
「はい、毎日いそがしくしていますし、資料探しの勘所も良いようです。アウレギウス殿に、私が何か手伝うことはあるかと尋ねた折にはエレスがよくやっていてくれるから大丈夫だと。とても褒めていらっしゃいました」
少し間をおいたフィゲーラスは、私がむっつりと黙っているのを見て続けた。
「アウレギウス殿が、毎日エレスにやさしい言葉をかけるのを見ていて、私は虚飾というよりも、むしろ、我が身を振り返って反省するところがありました。私たちは、エレスに、自信をつけてやるような言葉……あるいは、とにかくただ可愛いと、大事に思っているという言葉をあまりかけてやらなかった。表面的な甘い言葉が、傲慢や、過度の愛着につながってはいけないからと律してきたからですけれど、幼い人にはもっとそういうものが必要だったのではないかと」
思わず私はその意見をさえぎった。
「そのようなものなくても、私たちは必死に育ててきたのだ。この十六年、口にせずとも当たり前に大切にしてきた。それを横合いから、今だけ島を利用しに来た男の、歯の浮くような言葉で踊らされて、情けない」
再び苛立ちが込み上げて、私の言葉は支離滅裂になり、結局黙り込んだ。悔しいが、口の上手さであの男に勝てる見込みはなかった。そんなものに価値があると、エレスセーアに思ってほしくない。
院長は私をまたじっと見つめて、気遣わしげに私の肩に手を置くと、やがて静かに言った。
「親の心子知らずとはよく言ったもの。お前たちがどんなにあの子に心を砕いてきたか、周りは皆よく知っているけれど、あの子だけは知らないのです。でもそれこそが子どもの特権です。幼子というのは無条件に愛されるべきものですから。あの子は私たちに感謝する必要はない。どこへなりとも出ていって、花開くことを許されていると思いませんか」
「……わたつみに与えられたものを、周りに返さずにですか」
心苦しく言い返した私に、院長は深く頷いた。
「そうです。あの子はわたつみから与えられたもの。むしろ我々が、彼を世に送り出し、いっときでも我々のもとにいてくれたことを、感謝するべきではないですか」
夕食の時間まで、私はエレスセーアと話さなかった。幼いころはともかく、エレスセーアが見習い僧になったこの二年は、部屋も、食事の席も離れていたし、逆に言えばそれくらいしか「親離れ」としてやれることがない、というのがこの修道院での現状だった。
夕食から就寝までは、皆、沈黙を守る。食事中も、たとえば塩をとってほしいとなれば手話で示すのが基本で、世俗とは違って食事は歓談の場ではない。
それを当たり前だと思っていたし、ここに来たばかりの頃は他人と話さなくて済むのがありがたかった。が、フィゲーラスの意見を思い出すと、確かに幼な子を育てるには、あまりに異質な環境だったかもしれない。
だからといって、会話が禁じられていなくても、私が幼いあの子に情愛豊かな言葉をかけることができたとは思えない。そのような言葉を、私はついぞ親からかけてもらったことがないからだ。自分の中にない言葉を、取り出すことはできない。
まっすぐな黒髪を見るとはなしに見ていたら、食堂から退室する間際のエレスセーアと目が合った。今朝方、図書室で言い争いにはなったが、さしてわだかまりがあるわけではない。いつもの習いで口だけを動かして「おやすみ」と言えば、同じように無音の「おやすみ」が返ってきた。
次の日、朝の祈りの時間より早く、私は一等の宿部屋の前に立った。扉をあけた男は、待ち構えていた私に驚いた顔をした。
「聞きたいことがある」
話し込むのが嫌で、私は矢継ぎ早に言った。
「この土地に住んでる以上、島の人間は戦うが、あんたが戦う理由は一体なんだ。殺し合いが好きなわけじゃないだろう」
体よく島を利用しにきて、ただ命懸けの戦さをしろというなら許しがたい。エレスセーアをさんざん良いように使った男だ。納得できる理由が聞きたかった。
彼は私の意図をはかりかねたのか、用心深くこちらを見返してから口を開いた。
「一般化して言うと」
一般化するな、と思ったが、聞いてやることにした。この男が、大勢の兵士を動かしていることには違いない。
「兵士たちを動かしているのは、だいたいふたつだ。家族か、金」
黙っていると男が続けた。
「家族というのは戦う理由であり同時に心の支えだ。家族持ちの兵士は芯があって頼りになる。守るものがあるからね。金は、とくに独り立ちしたい若者には何より必要なものだから、腕っぷしに自信があれば、兵士になるのはいい選択肢だ」
「あんたには都に妻や子どもがいるのか」
「いいや。私に家庭はない。面倒をみる親戚もいないし、みられてもいない」
「じゃあ金か」
男は肩をすくめた。
「金はまあ、俗物を動かすには役に立つけど、個人的にはさほど重要じゃない。必要だと思えば借りてでも使うし、何もなければ貯めておく」
「じゃああんたの理由は一体なんだ」
私の声は苛立ちを含んでいたが、男は至極落ち着いていた。
「さっき言ったふたつのほかに、命の危険を承知で戦うとすれば、志だ」
「こころざし」
意外すぎておうむ返しに言葉が出た。
「そう。使命感といってもいいし、野心と呼ぶ人もいるだろう。最善だと思うことに、自分の身を投じることだよ」
理解できない、と私の顔に書いてあったのだろう。男は少し困ったような顔をして、言葉を続けた。
「君だって、強いられた訳でないのにわたつみに祈ったり、頼まれもしないのに拾った子を育てたりするだろう」
幼いころのエレスセーアの顔が浮かんだ。
「私の場合は、たまたまそれが軍役であり、この国を守ることだった。私がやらなくても誰かがやるだろうが、この世に生を受けて、偶然あの大戦を死なずに過ごしたから……自分の命の使いどころを、この仕事に賭けてきた」
私は返事ができなかった。
最善だと思うことに、自分の身を投じる――私がエレスセーアを育てていたのと同じ時期、同じ理由で、この男はひたすら武官の勲功を積んだのだろうか。
飲み込めないでいる私に、男は軽い口調で言い直した。
「偉そうに言ったけど、軍人をやっているのは成り行きだ。たいそうな理由はないよ」
午後になり、大戦のとき以来長らくしまっていた剣を取り出してみた。革鎧や小手は他の用途に革を使い直して手元にないが、こちらは大戦後も、用心のために残していた。他に使いようもないからだ。刃はぎりぎり錆びついてはいないが曇ってきている。研いでいると、昔の色々が思い出された。
大戦の一端でもあった修道院のための戦いは、他の人々には陰惨だったろうが、私には人の役に立って認められる契機だった。こんな私でも――親の見捨てた、出来の悪い人間でも、兄弟修道士たちを助け、求められることがあるのだと、初めて自分を誇らしいと思う瞬間があったのだ。
エレスセーアはその夜、遅くまで図書室にいたようだ。よほど早く寝るよう声をかけようかと思ったが、もう来春には十七になるあの子に言う言葉でもない気がして黙っていた。幼いあの子に毎日言ったのは、早く寝ろとかもっと食べろとか、そんなことばかりだ。
もうひと晩眠り、私はようやく、苛立っていた自分の気持ちを飲み下すことができた。先日修道院長に向かって、持って回った言い回しであの軽薄な男を非難したのを、恥ずかしく思った。私がただあの男が気に食わず、エレスセーアの目が余所者に向いていることに我慢がならず、さらに言えばあの男もエレスセーアの方をしかと向いているのを看過できずにいたことを、院長はよくご存知だったのだ。集会のあとの話は、あの男について訊かれたようでいて、実際は私の、気のもちようについて諭されたのだ。
エレスセーアが修道士ではなく下の村の人間として生きることはあると思っていた。ただ、島の外へ出ていってしまう想像は、ついていなかった。あの男が来るまでは。
あの男がエレスセーアを見つけたように、あの男のせいで、エレスセーアは外の世界に気づいてしまった。私を散々な目に合わせたろくでもない外の世界、わたつみに守られない厳しい世界。あの子が出て行くつもりなら、せめてその世界が、敵の少ない、安全な場所であってほしい。私が故郷を捨てたときとは違って、安心して巣立っていけるように力を尽くすのが、今の私にできることだ。
その日、労働の場からふと目を上げると、遠くのテラスでエレスセーアが武官の男に祈りのキスを与えているのが見えた。男は両膝をついてそれを受け入れていた。不思議と心は波立たなかった。ただ、あの子の姿は私の目にまぶしく、胸の奥には痛みがあった。
あの子には一軍を率いる将をひざまずかせるだけの胆力があり、その力をもって、この島をいつか出ていくのだろう。その日を考えると、なぜだか肌寒く、胸が刻まれるように痛いのだった。
あの子が自由に、望むように生きるためなら、私は戦おう。あの子が心底、あの気に食わない男の隣で生きていきたいと望んでいるなら、どうしてそれを邪魔できるだろうか。
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