第12話 潮騒 II

 寝物語に何度も聞かされた光景がある。


 太陽が照りつける午後だった。陽に灼かれながら、修道士たちは土を耕す労働にいそしんでいた。島の高台の小さな畑には、陽を遮るものは何一つなく、崖の向こうには海と対岸が果てしなく広がっている。

 若い修道士が驚きの声を上げた。常ならざることだった。祈りと労働の時間には静寂が厳しく守られているからだ。修道士は慌てた手振りで発話の許可を求め、声に振り返った修道院長がゆっくりと頷いた。


「子供が、海に赤ん坊を乗せたかごが流れています!」


 院長も周りの修道士たちも、沈黙を守ったまま崖の向こうを見た。海に小さく籐のかごが浮かんでいた。白い布を敷き詰めたかごの口から、空をつかむ小さな手が見えた。


「いっとき、労働を離れる許可をください」


 院長が頷くのを待って若い修道士――グアルドは駆け出した。耕作の相方となっていたフィゲーラスが、物言いたげに院長を見つめる。


「行きなさい」


 院長の言葉と同時に、相方と同じ若々しい足取りで、彼は兄弟修道士の後を追った。

 拾われた子供は名前も身寄りもわからなかった。大戦の爪痕深い彼方から、獣に襲われることなく島に流れ着いただけでも奇跡だった。黒い髪に黒い瞳の子供に、院長はエレスセーア、すなわち海の光という名を与え、修道院に引き取った。大勢の修道士たちと漁村の人間に囲まれて、子供は健やかに育った。


 エレスセーアは、砂州の浅瀬に浮かぶ籐のかごと、裾を濡らしながらそこへ走り寄る修道士たちの姿を、見てきたように思い浮かべることができる。繰り返し聞かされたその出来事は、まさしく自分の誕生の瞬間だった。そこから自分の人生が始まったのだ。

 修道院の中には、世の母親が口にするような、幼な子への甘い言葉はなかったけれど、祝福のキスと優しい眼差しはいつもそばにあった。それでも、いつもどこかで寂しさを感じていた。

 まだ背丈がグアルドの腰に届かないころのことだ。島の子供たちと一日中遊んだ夕暮れ、浜辺に母親たちが迎えに来る。エレスセーアには誰も来ず、島の上への長い階段を上り、一人で修道院に戻った。祈りの時間の僧院はどこも怖ろしく静かで、円柱の並ぶ廊下は暗く、石の壁は冷たかった。走り出したエレスセーアは聖堂の隅にいるグアルドを見つけて大声で泣きじゃくった。エレスセーアが祈りの時間の静寂を破るたび、怒られるのはグアルドだと後から知った。

 母親が欲しいと言い出したエレスセーアに、うちも男所帯だがとガイウスが家に呼んでくれた。プリムスたちが作ってくれた夕食を初めて共にして、みんなが楽しげに喋っているのに驚いた。食事中にしゃべってもいいのかと訊ねたら、家族での食事はいいのさと笑われた。

 文字を教えてくれたのはフィゲーラスだった。複雑な読み書きができるようになると、彼が修道院長に願い出て、エレスセーアにそっと図書室の鍵を渡してくれたから、好きなだけ入り浸った。本だけは僧院にたくさんあったし、物言わぬ修道士たちのかわりに、本が世界を語ってくれた。まだ目にしたことのない様々なこの世のことを。広くて色々な人がいる、大陸のことを。そうして島の外に興味を持った。


 扉を開けると、男たちが一斉にエレスセーアを振り返った。昼間から漁にも行かずに島の男たちがガイウスの家に集まっているなんて、非常事態だ。たとえば戦争のような。


「ごめんなさい」


 戦争。あの人の鈍く輝く金色と、言葉の不穏な響きとがひどく不似合いで、思い出すと涙が出てきそうだ。なぜ気付かなかったのだろう。彼は心静めるべき回廊で、弓を射る仕草をしたのだ。彼は初めからこの修道院を戦いの砦としか見ていなかったのだ。


「ごめんなさい、私が協力したから、地図も潮の時間も……敵をおびきよせて、この島で戦うって……」


 泣きたくないのに嗚咽がもれた。島の外から来た男に心を奪われて、自分は島を危険にさらそうとしている。ガイウスの困ったような顔を認めて、とうとうエレスセーアは顔を両手で覆った。


「なんじゃ、そんなことか。泣き虫め」


 ガイウスのたくましい腕が頭を乱暴に引き寄せた。エレスセーアに驚いていた男たちの空気が柔らかくなる。


「いいんだそれで、エレスセーア」


 潮で焼けてしわがれた漁師の声がした。島の子供といたずらをするたび、彼に怒られた。怒ったあとで、もっとうまいいたずらの方法を教えてくれる人だった。


「わしらも戦うんじゃよ。島を守りたいからの」


 別の漁師の声がする。彼はいつもおかみさんと一緒に聖堂に祈りに来る。


「戦うって、ここが戦場になったら……」


 戦って負けたら、この島は灰になる。負けなくても戦うだけで、島は消耗するのだ。敵の行軍は土地を荒し、たくわえを奪う。


「ここが戦場にならなかったら、敵が容易に都に近づいて、結局地方が荒れる。大戦のときにそうだったからな」

「そうなれば男は殺されるし、女と子どもは死ぬより辛い目にあう」

「それを許さないための、戦さなんだ」


 普段は無口な人たちが、噛んで含めるように言葉を継いだ。


「なにも勝てない戦さをしようってんじゃないんだ」


 この声は島随一の船大工だ。昔余った材木で小さなおもちゃを作ってくれた。今でもエレスセーアの部屋にある。


「大戦のときもそうしたんだぞ。上の人らも一緒に戦って勝ったんだ、心配するな、エレス」


 上の人ら、とは修道士たちのことだ。皆、戦うのか。自分を育ててくれた人たちが皆。


「ここで戦わずにいても、いつかどこかで戦さになる。どこかで負けて、敵が海を穢したら、わしらはようやっていけん。ここなら勝てるとあの男が言うんじゃ、間違いはない」


 ガイウスの言葉に、男の背の引き攣れた火傷の痕を思い出した。あれほどの目に遭って、それでも彼は戦い続けている。だから平和が守られているのだ。いつかどこかで、誰かが痛みを負わなくてはいけないのだと、あの傷痕は語っていた。


 涙で顔を上げられなくなったエレスセーアの頭を、男たちの無骨な手が撫でていった。あの人がわしらのうちに来たんだ、対岸の農家にも一軒一軒話しに行っているんだ、たいしたお人じゃないか。たくさんの声が耳元を通って、扉の向こうに消えた。


「そんなに怖がらせるつもりはなかったんじゃがの」


 ガイウスの呟きにやっとエレスセーアは顔を上げた。幼な子のように涙の跡がついた顔を、ガイウスが笑ってぬぐう。ガイウスの家の居間に、二人だけになっていた。


「戦さになっても、海が荒れても、ずっとここで生きてきたんじゃ。わしらが生きてるかぎり島は渡さんし、壊されても作り直す。なくなったりはせんよ」


 人の手の温かさを髪越しに感じて、エレスセーアは頷いた。

 自分の頭を撫でる、ガイウスの荒れた手。

 この手に自分は守られてきた。島人たちの手、修道士たちの手が自分を育ててきた。

 なぜ自分の髪だけは真っ直ぐで黒く、肌は陽に焼かれても白いままなのか、不思議に思ったこともある。まじまじと巡礼客に顔を見られて、居心地の悪い思いをするのは日常茶飯事だ。

 そんな悩みも、今、頬を撫でる荒れた指先の感触に比べたら何程の価値もない。

 ――もう大丈夫。

 涙とともに混乱も流れ出て、エレスセーアは落ち着きをとりもどした。

 アウレギウスの反駁が、先程とは違う響きをもって甦る。彼の言うとおりだ、自分はガイウスたち島人と修道士たちの情けで生きてきた。こんなに深い愛情を受けて、どうして不安になったりしたんだろう。ずっと温かい情に生かされてきたのだから、島の子供でいられないなんて、心配することはないのだ。

 小さくしゃくり上げて、胸の中のわだかまりを飲み下した。

 ――大丈夫だ。もう自分のことで迷うのは止そう。今は島のことだけ考えよう。育ててくれた人たちのことだけ考えよう。


「私も、お手伝いします」


 ガイウスの手に、自分のそれを重ねた。


「私も、皆と一緒に島を守ります」



 一人で石の階段を歩くと、足音が響く。涙が乾いた後のガイウスとの会話が、修道院へ戻るエレスセーアの頭の中に何度となく去来した。


「お前の描いた地図を見たよ。泣き虫小僧だったお前がいつの間にあんな立派な仕事をしよる。皆感心しとったし、わしは鼻が高かった。ようアウレギウスの期待に答えたの」


 恥ずかしくそれを聞いていたエレスセーアは、最後の言葉に顔を曇らせた。


「私、あの人を勝手だと責めてしまったんです。 ついさっき、ここが戦場になるって聞いて…」


 ガイウスが呵呵と笑った。


「なに、責められるのもあいつの仕事のうちじゃ。こき使っといて理由も教えんやつが悪い」


 小気味よさそうに笑いを収めて、ガイウスは窓の向こうの浜辺を見つめた。


「ま、あれだ、あいつも譲れぬ立場じゃろうて。わしらのように土地にへばりついて生きる人間の気持ちはわからんし、軍人の誇りもある。責任もある。だがな、故郷を戦火に巻き込みたくない気持ちは、あいつが一番分かっとるだろうよ。……一族を残らず潰した敵がどうにも憎くて、その気持ちひとつで生きているのかもしれん。許してやれ」

「一族を」


 頷いたガイウスは沈鬱に声を落とした。


「大戦でな。北の第二都が陥落したときに、若造だったあいつが一人だけ生き残った。元は名のある武官の家の息子でな、父親は第二都の守護だったがの。都が落ちたときに、一族郎党、焼かれて死んだ。あいつは偶然、虜囚の身だったそうな。大戦で親無し子無しはよくあるが、故郷を丸ごと奪われるのはとりわけむごいことじゃろう」


 あの人の背の火傷、あの人の孤独。回廊を歩きながらエレスセーアは呟いた。あの人の背の傷痕、あの人の孤高。


 北方の第二の都の滅亡は、長きに渡った大戦の中でも最大の悲劇だった。文化の香り高く、一時は王都として繁栄したこともある北の都は、鉄壁の守りと呼ばれ、敵の南下を幾度となく退けてきた。しかし、敵の策略と何者かの裏切りにより、守りの門は内側から開き、街は一夜にして炎に焼き尽くされたのだという。


 生き残った年若い彼を想像すると、胸が痛んだ。できるなら、彼を抱きしめ孤独な心を慰めたかった。一人で生き残ってどんなにさびしかっただろう。何度悪夢を繰り返し、夜の暗闇に目を見開いて息をひそめていたのだろう。


 一人で戦わなくてももう大丈夫だと、大声で言ってしまいたい。だが島の行く末が彼の掌の中にあるかぎり、安請け合いに何かを言うわけにはいかなかった。

ただ無性に会いたかった。会って何を言えばわからないけれど、今朝の非礼を詫び、戦う決意を述べ、それから――。それから、ただ会いたい。


 海の見える回廊でエレスセーアは足を止めた。太陽を反射して波がまぶしく光る。昨日カンテラに照らされながら、ここでキスを受けた。拒むこともできたけど、エレスセーアは拒まなかった。海の前に立つと、素直な気持ちを隠しておけなくなるのだ。


 そのまま海を見つめていると、背後から静かに気配が近づいて、するりと腕が伸びてきた。両手をエレスセーアの胸の前で交差させて肩を抱き込んだまま、男が言った。


「振り向かないで聞いてほしい」


 耳元できいていなければ聞こえないような、低くささやかな声だった。


「さっき、君の出自をあげつらうようなことを言った。悪かった」


 わだかまりのないことを示すために、エレスセーアは彼の腕に片手を添えた。


「それから、私はこの戦さの指揮官だから、自分の選択を最善のものだと思っているけれど、それでも君の島を戦場にすることを当然の犠牲だとは思わない」


 エレスセーアは小さくため息をついた。

 彼が足繁く対岸に通っていたのはこのためなのだと、やっと理解できた。対岸の農家たちを説得するのに時間をかけていたのだろう。相手の心を掴むことに腐心し、補いうる総てを用意して、それでも非難される立場だ。所詮、平和な土地に乱を起こす他人なのだから。

 ――そういう人に、他の誰よりも心惹かれている。矛盾しているとわかっている。彼は島を破滅に導くかもしれないのに、どうしようもなく好きなのだ。


「……私が憎いかい」


 エレスセーアは強引に後ろを振り向き、見上げた。

 見上げないと目が合わないほど高い位置に彼はいる。どう取り繕えばいいのかわからない風情で、彼はこちらを見下ろしていた。いつも堂々としていて、年配者の前でも余裕があって、顔立ちは端正だし皮肉げに笑っても格好のつくひとだが、困っているときの顔は、年よりも若くて頼りない。そういう彼が好きだ。


「戦場でしか気持ちが動かなかったとおっしゃっていましたが、今でもそうですか」


 アウレギウスは面食らった顔をしてから、いや、と首を横に振った。


「あれは、大戦が終わってしばらくのころの話で……今は兵士たちを指揮する責任があるし、戦うのは国の平穏のためだ」


 復讐や、ただ息をするために乱を起こすわけではない。武官長の背負う責任は重い。おそらく、若輩のエレスセーアの想像するよりも、ずっと。


「それなら、ご自分の仕事をしている貴方を恨んだりしません」


 エレスセーアの言葉に、彼のくちびるが強く一文字に引き結ばれる。


「でも、ひざまづいてくれたら、額に祈りを授けます。このままじゃ貴方の背が高すぎて届かないので」


 虚を突かれたようにまた彼のくちびるが開いた。エレスセーアは手を伸ばすと、彼の両肩に置いた。さほどの力を込めなくとも、ゆっくりと彼の肩が下がっていった。

ついに両膝を地についた彼が、今度は見上げる形で、まばたきもせずにエレスセーアを見つめてくる。青くて、透明で、綺麗な瞳。

 暗金の髪をかき分けて、額をあらわにすると、エレスセーアはふたりにしか聞こえぬほどの小さな声で祈りを唱え、そうっとキスをした。


「あなたのいさおしに、わたつみのご加護がありますように。必ず無事でありますように。――それから、約束します。このさき決して、貴方をひとりにはしません」

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