第11話 潮騒
朝、エレスセーアが宿坊で資料を渡すと、アウレギウスは紙面を睨んだまま黙り込んでしまった。
視線がこちらに向かないのをいいことに、エレスセーアは彼の顔を観察する。昨夜はひどく疲れていたようだが、一晩休んですっきりしたのか、男らしく整った顔立ちに疲労の影は落ちていない。資料を読む彼の頭脳は高速で回転して海防案を考えているのだろう。島で療養している兵士たちや、近隣に泊まっている直属の部下たちと話すと、彼が指揮官として有能で慕われているのがわかる。
この人と一緒に、世界を見たい。それを考えると、波が増すように、希望がエレスセーアの胸でふくらんだ。
だが島を出て行く決心はつかなかった。父とも兄とも慕うグアルドは彼を否定した。グアルドたちに認められないのはつらい。意に染まぬまま島を出たら、自分は彼らの子供でいられるだろうか。島にとっては「お客人」に過ぎないこの人について出て行って、この島の人間だといえるだろうか。
あまりに長い時間黙っているので、何か間違いでもあっただろうかとエレスセーアが不安になったころ、やっとアウレギウスは顔を上げた。青い両目が強く輝いている。
「よくやった、エレスセーア、勝てるぞ」
「はい?」
「君の資料で確信したよ、潮の強さも時間も敵を迎え撃つには完璧だ」
今日渡したのは満潮の時間と砂の道に関する報告だ。まだアウレギウスが地理学者を名乗っていたころに頼まれた。
「勝つって……迎え撃つってどういうことです?」
「どういうこと? 言葉通りだ、戦さで勝つ」
「海防のためなんでしょう?」
ああ、いや、違うんだ、とアウレギウスが首を振った。
「もちろん先々海防は強化する。だが今はとにかく敵をここまで引き入れて戦うつもりだ」
引き入れて戦う、と呆然としてエレスセーアは繰り返した。
「北では思ったより敵の戦力を削げなかった。進軍してくるつもりの奴等を中途半端に食い止めておくよりも、やはりここまで南下させたほうが有利だ。敵軍に対岸近くを通らせるように部下たちを配置させている。私がここに部隊の主力を置いていると、適当に向こうへ情報も流しているしね」
アウレギウスの指が、見えない敵の道筋を辿るように空中を横切った。
「奴等としてもこの島を無視して都に進軍するのは悪手だと思っているだろう。横から補給路を断たれたくないだろうからね。奴等が都にたどり着く前に、ここで一戦して、殲滅させるさ」
珍しい鳥を見つけた少年のように、アウレギウスの声が弾んでいる。机の上に広げていた地図を彼は指差した。幾度となくエレスセーアの心を浮き立たせてきた、手製の地図だ。この地図を作るためにあらゆることに協力した。
「海のおかげでここは堅固な要塞だ。地の利を生かせば必ず勝てる」
「……ここを戦場にするのですか」
「対岸が主だがね」
音を立ててエレスセーアが椅子から立ち上がった。彼の険しい視線にアウレギウスはやっと気づいた。覚えのある目だった。昨日対岸の農夫たちから、同じまなざしを浴びたばかりだ。
「聞いてません、ここで戦争するなんて」
怒りを含んで上ずった声に、アウレギウスはエレスセーアの顔を見つめ、聞き間違えようもない発音で返した。
「有利な場所で戦うのが勝利の原則だ。この島なら敵をおびき寄せられる。それに、ここは小さな島だけれど、大戦のときに不落の要塞として人心の支えになってきたことは、君も知っているだろう。ここなら落ちないという人間の心証というのは案外大事なんだ」
「心証ですって? ここは、ただの漁村と修道院があるだけの土地です」
「変更はない。ここで戦う」
エレスセーアは声を荒げた。止められなかった。
「国の争いに巻き込まないでください!」
「といってもここも国の一部だ」
答える声はいっそ冷静なほどだった。
「敵が国内を進んでくるのに高みの見物を決め込めるとでも? それは随分甘い考えだ。都が落ちたらこんな田舎はひとたまりもないよ。ああ、もちろん派兵について中央と連携は取れている。ここに兵力を集めたからって中央に睨まれる心配はない」
「ここは僧院です、政治とは関係ないでしょう」
「君が関係ないと言い張っても敵はやってくる」
「あなたが呼ぶんでしょう! 島の外から突然やってきて……やめてください!」
アウレギウスが顔をしかめた。黙っていたのは悪かったが、と口の中でつぶやいた言葉は、しかし、会話を続けるほどの音にはならなかった。
賢明だ、と煮える頭でエレスセーアは思った。今、彼に何を言われても、言い訳にしか聞こえないだろう。
「院長殿もガイウスも最初から承知の上だ」
「私は知りません、島の人たちにも関係ない。余所者のくせに、勝手なことしないでください!」
アウレギウスの眉が一気につりあがった。
「余所者余所者というがね、君だって元々島の人間じゃないだろう! 修道院や漁師の情けでここにいられるだけじゃないか」
アウレギウスが我に返るより早く、エレスセーアは宿部屋から走り去っていた。
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