第10話 潮曇

 立て付けの悪い図書室の扉が音をたてて開いた。


「エレスセーア。そろそろ砂の道が出てくるころだぞ」


 グアルドが棚のあいだから顔をのぞかせた。ここしばらくエレスセーアが砂の道の現れる時刻をつけているのを、修道士たちはみな知っていて、こうして時々教えにきてくれる。


「ありがとう、グアルド」


 図書室には天窓があり、そこ出れば天体観測が可能だ。梯子を登りきって天窓につくと、エレスセーアは図書室の資料を日に焼かないように素早く窓を閉め、器具を取り出して太陽の角度を測った。テラスで観測していた潮の満ち引きとあわせて、今日までの記録から、砂の道の現れる時刻もおよそ確信を持って計算できる。


(よかった、これでまた少し、あの人の役に立てる。急いで計算すれば、明日には予測時刻を渡せるだろう)


 梯子を降りると、まだグアルドが図書室に立っていた。眉間にしわを寄せてエレスセーアを見つめている。どうしたの、と訊く前に、グアルドは強い口調で言った。


「あまりあの男に入れ込むな」


 誰の話かすぐにわかって、エレスセーアの浮き立った心は一気に静まった。


「あの男は島の人間とは違う。お前はすっかり都の風に当てられてるみたいだが、深入りしても泣きをみるだけだ」

「そんな言い方をしないで。最初は身分をいつわってたけど、悪い人じゃないよ、グアルド……」

「あの男は軍人だ。争いを呼ぶものだ。知らないのか、あの男が来てから悪い風が吹いている。怪我人を連れてきてからはなおさらだ」


 風が濁るのは北の国境で敵の軍勢が増えているからだ。敵が南へいつ侵入してくるかわからないから、都の元老院は海防強化を決定し、武官長のアウレギウスが島にまで派遣された。


「風はあの人のせいじゃない」


 思わず言い返した言葉に、グアルドが腕をつかんできた。腕をひねり上げられるほどの、思いもよらぬ力にエレスセーアはたじろいだ。


「どうかしてるぞエレスセーア、軍人風情の言い草に必死になって、写本も労働もおろそかになってるだろう」


 それは院長に客人の要望を最優先にしろと言われたからだ。しかし言い返す言葉は出てこなかった。激しい目つきで睨まれると、エレスセーアの足はすくんだ。


「余所者に夢中になって、わたつみへの祈りをないがしろにする気か」

「違う、グアルド、はなして」

「お前のために言ってるんだ。あんな男に……!」

「いたい」


 顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。息が苦しくて止まりそうになったそのときに、


「へぇ、修道士も感情的になるんだな」


 後ろから唐突に声がかかった。

 薄暗がりにも金の髪が輝いている。唇の片端を上げて、アウレギウスが扉の前に立っていた。とっさにグアルドが腕を離すと、出て行くことを促すように手の平を優雅に差し伸べて、アウレギウスは扉の脇にどいた。

 グアルドが足音荒く出て行くと、アウレギウスは顔から笑みを消した。無表情、というよりは、どういう顔をしていいのかわからないようだった。


「……大丈夫?」


 エレスセーアは頷くだけで精一杯だった。つかまれた腕がまだ痛い。少しだけ腕をさすってから、調べかけの棚に戻った。

 追ってきたアウレギウスはしばらくエレスセーアを見つめてから、新しい本を抜き出そうとした彼の手を後ろから止めた。


「大丈夫?」


 そのまま手を下ろさせ、エレスセーアの華奢な体を背後から抱きしめる。


「怒鳴られたのがショックだった?」


 エレスセーアは目尻を袖でぬぐうと、うつむいたまま言った。


「グアルドのこと、悪く思わないでください」


 やっとのことで聞き取れる小さな声に、アウレギウスは頷く。


「思わないよ」


 くせのない黒髪に軽く顎を寄せる。


「本当は優しい人なんです」

「うん」

「私を拾ってくれた人なんです」

「うん」


 エレスセーアは体を反転させると、男の胸に顔を埋めた。背を温かい手が撫でていったので、なんとか息を吐き出し、目を閉じた。やっと息ができるような気がした。



***



 アウレギウスが対岸の農家から出たとき、月はすでに海の向こうに沈みかけていた。広大な平野には音無く流れる河以外何もなく、星がひどく明るく見える。河が流れ出る先には、遠く修道院のそびえる島があった。


「集落に行きますか」


 部下の言葉に首を横に振る。夜は更けたが、部下たちの駐留する集落よりも、島に戻りたかった。今を逃すと、砂の道が次に現れるのは日が高くなってからだ。お気をつけて、という言葉に送られて、平野を白馬のアレアトールとともに歩き出す。


 アウレギウスはひどく疲れていた。土地との絆の強い民を説得するのはいつでも骨が折れる。彼の話に、農夫は押し黙り、彼の妻と子供は怯えた顔をしていた。戦さの勝利のためにはあらゆる準備が不可欠だが、土地の人間の心を得るのはもっとも重要な要素であり、往々にして困難なものなのだ。


 砂州を歩むアレアトールの足音で、すでに砂利が水を含んでいることがわかる。島の周辺の潮が満ちる勢いは激しく、特に今の季節は、渡っているうちに思いがけないほど早く水位が上がっていく。昔から多くの巡礼者が海に飲まれ命を落としたというのも無理はない。


 島のふもとの家々は暗く闇に融けていた。すでに寝静まったようだ。昨日の島民との会合を思い出してアウレギウスはため息をついた。ガイウスの統率力のおかげで島の人間はおおむね自分に協力的だが、余所者扱いは避けられない。島の上と下の生活が切り離されていることにも不安が残っていた。修道士と漁村の人間は基本没交渉だ。聖堂での祈りや収穫物の奉納でしか顔を合わさない。このままの状態で、アウレギウスの思い描く目的を達成することができるのか。


 島にたどり着いて厩舎に馬をつなぎ、石畳の道を上った。修道院の門をくぐる。傾斜の急な階段を上り、アーチの連なる聖堂を抜けると、修道院の二階を取り巻く吹きさらしの廊下に出た。


 ここからは修道士とエレスセーアだけに許された空間だ。戦さの懸念がなければ、アウレギウスのような男は、一生立ち入ることもなかっただろう。風に金髪をなぶらせながら歩くと、足音が石積みの片壁に響く。


 テラスから見える海の暗さに、エレスセーアの黒い瞳を思った。昨日、肉親代わりの修道士に怒鳴られた直後で、彼を会合に呼ぶには時機が悪すぎた。重大な話だけに、神経の高ぶった彼を呼ぶことができなかったのだ。修道士も島民たちも、彼の欠席をいぶかしんだが、仕事を任せているのだと言ってごまかした。今日は一日会っていない。


 回廊を曲がるとカンテラの光が目に飛び込んで、エレスセーアが驚いた顔をして立っていた。


「あ……おかえりなさい」


 アウレギウスはすぐに言葉が出なかった。ひどく島に戻りたかった理由に気づいてしまった。


「遅かったんですね。対岸にいらしてたんですか?」


 まっすぐな彼の髪が暗がりにさらさらと音を立てる。オレンジ色の光に照らされて、エレスセーアの目が水に濡れたように光っていた。


「君も遅いね」

「図書室にいたので。資料、明日持っていきます」

「そうか」


 沈黙が落ちて、波がせり上がる音が耳に届いた。砂の道が消えていく。


「お疲れのようなので、よく休んでください」


 小さく笑顔を見せて、エレスセーアが会釈をした。行ってしまう前に名前を呼び、アウレギウスは腕を引き寄せた。少し甘えてもいいだろうかと自問し、思ったままを口にした。


「エレスセーア、キスしていい?」


 エレスセーアが困ったように眉を下げる。


「だめですよ」

「額だけ。だめ?」


 彼は少し赤くなり、どうぞ、と呟いた。


 前髪をより分けて、額にキスをする。祈りより少し長い時間をかける。自分の顎までしか届かない頭を抱きしめ、こめかみにキスをし、ゆっくりくちびるを下ろして、頬に口付け、顎を上げさせると、最後に鳥のように軽くくちびるをついばんだ。


 エレスセーアは一度胸を逸らすように口づけから逃げたけれど、構わずそのまま緩く抱きしめると、うそつきですね、と言って小さく微笑んだ。腕の中におさまる体は、細いけれど暖かく、思いがけないほどぴったりと、アウレギウスの体に沿っていた。

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