第9話 海凪

 怪我をして戻って以来、アウレギウスの求める資料は大戦時のものが多くなった。古書倉庫にある資料は古すぎて、大戦時の記録はほとんど見つからない。エレスセーアは迷った挙句、図書室の棚をしらみつぶしに調べることにした。


 この地方の海防を強化しなくてはいけない、と彼は言った。連れてきた部下たちに指示を出し、彼自身も対岸を巡って、海防策のために対岸に住む農民たちに話を聞いているらしい。もう砂州を渡れずに戸惑うことも、ごまかすように笑うこともしない。宿坊に戻ってくる顔は謹厳な軍人そのものだ。


 夕方は一等の宿部屋でふたりきりになる。


「勧誘をあきらめたわけじゃないよ。好きだといったのも本当だ」


 包帯を取替えているときに、アウレギウスは言った。背中の傷を見ながら、エレスセーアは何も答えられなかった。


 鈍い金色の髪をよけて、骨張った肩に流す。シャツを肩から抜いて、過不足なく背中を覆う筋肉をあらわにする。包帯を外せば、日々薄くなっていく傷と、決して消えない禍々しい火傷痕がある。水で傷口をすすぎ、清めた手で鉢から薬をすくう。


「君の探究心と頑張りがあれば、都でも通用する学識を積めるし、中央で官吏の仕事に就くことも十分できるはずだ」


 薬を塗るまでの一連の動作を、エレスセーアは儀式のように息を詰めて繰り返した。何もかもが自分と違う存在の、目の前の背中に圧倒されて、正直アウレギウスに何を言われても現実感がない。


 それでも一日一日と会うたび、明日も顔を見たいと思う。会って話をしたいし、役に立ちたい。張り詰めたアウレギウスの顔が、外から戻ってエレスセーアを見ると少しばかりゆるむのも嬉しかった。


「君が都で勉強して、いつか私の仕事を助けてくれたら嬉しい」


 アウレギウスの声で語られると、夢物語だとわかっていても、聞かずにはいられなかった。閉塞した世界に感じる息苦しさも、夜毎に抱える未来への不安も、彼と話していると不思議なほど薄れた。彼の傷が早く治るようにと、わたつみに祈りながら薬を煎じた。


 ふと火傷の痕にふれたとき、それはいっとき捕虜になったときの拷問の痕なのだとアウレギウスは言った。


「……皮膚を焦がして変形させるのに一番効率の良い道具を使われた。容易に相手を殺さないように、けれど耐え難い、永い苦痛を与えられるように、工夫された拷問具だった。人は動物より優れているというけれど、その非凡な頭脳と器用な手先は、結局こんなことにしか使われないんだ。私にはそれがどうしようもなく苛立たしい」


 普段は快活なアウレギウスの声が、苦く、呪詛のような響きを持って耳を打ち、エレスセーアはたまらない気持ちになった。残酷な出来事は、どうやらまだ彼が若いころ、エレスセーアとそう変わらない年齢の時分に起こったことらしかった。どうして捕らえられたのか、拷問で何を聞かれ、何があって解放されたのか、アウレギウスはそれ以上詳しいことを口にせず、その代わりに独り言のように呟いた。


「拷問のあとの数年は正直よく覚えていない。ただ、平和な都では生きている気がしなかった。戦場に出ると、急に憎しみや敵意が湧いてきて、いろいろ無茶なこともした」


 明るく、自信家で、ときに軽薄にさえ見えるこの男の奥底を、長く支配している怒りと屈辱の記憶があるのだ。もしかするとそんな記憶ゆえに、戦場を怖いと思わないのかもしれない。そのような過酷な経験をしたことのないエレスセーアには、全てが憶測に過ぎなかった。


 だが、修道院にやってくる巡礼者たちを何年も見ていればわかることもある。この世には、口に出せないほどの苦しみがあって、それを耐えるために、人は目を閉じて祈るのだ。自分のために、そしてときには、そんな苦しみを受けている他人のために。


 痛い思いをさせないように、エレスセーアは慎重に、なるべく優しく、引き攣れた皮膚に触れる。アウレギウスはしばらくエレスセーアの好きにさせ、治療が終わって彼が手を離すまぎわに振り返り、必ずその手を強く握りこむ。


「……ありがとう」


  それ以上の言葉も、口づけもないけれど、互いの目を見つめていると、心が通じているような気がした。包帯を替えるたびに、ふたりはそれを繰り返した。



 その日の朝、エレスセーアが替えのシーツをもって宿坊の部屋に足を踏み入れると、アウレギウスは机で手紙に目を通していた。沈鬱な表情で、朝から疲れた目をしている。北からの報告か、都からの連絡なのか、あまりいい知らせではなさそうだった。


 エレスセーアは手早くベッドのシーツを取り替え、そのあいだもアウレギウスの眉間の皺が取れないのを見てとってから、遠慮がちに声をかけた。


「あの、もし今日、急ぎの用事がないのでしたら、何か気晴らしになるようなことをしませんか」


 アウレギウスは今目覚めたかのように顔を上げた。


「気晴らし?」

「はい。戻ってらしてから、一日も休んでないでしょう。今日はいい天気ですし、仕事は抜きで、対岸に行くとか。都と違って何もないところですけど」


  アウレギウスは手紙を置くと、いいね、と呟いた。


「アレアトールに乗って思い切り走りたい。一緒に駒駆けしよう」


 それぞれの馬に乗ったまま、対岸の小高い丘の頂上に立つと、目の前には広々とした耕作地が広がっていた。今はちょうど刈り入れの時期で、去年の秋に播いた小麦が黄金色に実っている耕作地と、すでに収穫を終えた畝が交錯して、色とりどりのコントラストを描いている。


 刈り取られたばかりの区画では、草の残滓が点々と残る土の上に、脱穀前の麦の束が整然と積まれている。


 収穫前の畑では、風が穏やかに吹き渡るたび、麦がまるで柔らかい金色のいきもののようにうねって輝いた。


 麦畑とは反対側の、遠くの丘では、ラベンダーが夏の陽光に照らされていて、一面が紫にかすんでいる。花々が密集して咲く中に、ところどころに空いた空間があり、その間からは土の色が垣間見えた。


「見事だね」


  アウレギウスが思わずこぼした言葉に、エレスセーアはうなずいた。目の前の景色は、この時期だけ人間に与えられる、畑と植物の神々が織り出した繊細な絨毯だ。


 遠目に小麦を運んでいく荷車が見える。エレスセーアは栗毛の馬に乗ったまま、それを指さした。


「ここの小麦は都にも運ばれているでしょう。今の時期から、小麦商人はとても忙しくなるみたいです」


 アウレギウスはため息をつくように返事をした。


「ああ。今は軍人にも繁忙期だ。季節がいいっていうのは戦さにも向いてるってことだよ。とくにこの時期に行軍するのは、行軍先での大々的な兵糧摘発も狙ってのことだ。食料がどうにかならないことには兵士は動かせない……」


  彼はそこで言葉を区切って、白馬の首を返した。


「いや、やめよう。せっかく君が連れ出してくれたのに、楽しくない話だった。それより君、いつの間にアレアトールと仲良くなったの」


 エレストールはそれに答えずに、笑って走り出したが、アウレギウスはすぐに追いつき、追い越して行った。


 白馬のたてがみと暗金色の髪が風になびき、蹄の立てる音が風に乗ってどこまでも響いていく。主人の意図をよく汲み取って、白馬は青空の下を力強く疾走した。


 アウレギウスが満足するまで走ったあと、修道院から持ってきた平たいパンを食べ、デザートに木の枝になった果実を探した。


「あの木にしましょうか」


 大木の上のほうに、赤い、小さなプラムがいくつも実をつけている。エレスセーアは修道服の裾を手早くからげた。


「君が登るの?」

「はい。鳥が食べる前に食べちゃいましょう」


 足をかけやすい場所を見つけて、幹に手を伸ばす。アウレギウスは腕組みをして、木に登っていくエレスセーアを見守ってから、端的な感想を述べた。


「意外とやんちゃだ」


 登りきったエレスセーアは、


「落としますよ。ちゃんと拾ってくださいね」


と叫んで、枝を振り、鈴なりの果実を落としていった。赤い実が宙を舞って、ぽとぽとと音を立てて地面を跳ねる。エレスセーアは、アウレギウスが声を立てて笑うのを久しぶりに聞いた。


「待って、エレスセーア、全部落とすつもり?」


 枝から降りたエレスセーアは照れ笑いを浮かべた。


「はい、でも少し面白いと思って……」


 島に持ち帰る分もふたりで拾って、のんびりと歩き、乾いた木陰を選んで座る。とりとめもない会話をしながら、アウレギウスは手慰みにエレスセーアの髪を指に巻きつけていたが、何を思いついたのか、複雑な編み方をし始めた。


「何してるんです」

「ちょっと待ってて」

「器用ですね」

「縄でノットを作るのは軍人の最初の訓練だよ。たとえば、簡単には解けないけれど、どこか一箇所を引いたらすぐにほどける結び方は、覚えておくと役に立つ」

「こういうときに?」

「こういうときに」


 次にアウレギウスは花をいくつも摘んで、編まれたエレスセーアの髪にさしていった。花といってもひとつひとつは目立たない小さな野の花だ。


 黒い髪の上に、名もない野草の白、青、黄の花弁が揺れだすと、今度は、まばらに、少し大きな明るい朱色の芥子の花をさしていく。身を引いて全体を確かめてから、アウレギウスは誇らしげに頷いた。


「こうやってみると、綺麗だね。君のその地味な修道服のおかげで花の色が引き立つ」

「そうです、か?」


 エレスセーアは、好きなように遊ばれた自分の髪を見下ろした。ここだけが、作り込まれた極小の花畑のようになっている。修道服のおかげというよりも、アウレギウスの手先が器用、かつ色彩感覚がいいからこその出来栄えではないのか。彼の服の質がいいのは都の品物だからで、似合っているのは骨格がいいからだとばかり思っていたが、こうしてみると、なによりも彼自身の洗練された趣味が反映されているからなのだろう。


 アウレギウスはなぜだか、してやったりという顔で笑って、エレスセーアの顎先に軽く触れ、顔を上げさせた。


「身を飾ってるけど『清貧』そのもの、可憐で清らかだけど奢侈じゃない」

「え?」

「それに私たちは周りを気にせずしゃべっているけど、ふたりきりだから静かだろう」


 エレスセーアは目を瞬いた。確かに、離れた川のせせらぎが聞こえるほど、静かだった。周囲には、葉擦れと鳥の羽ばたきしか存在しない。


「こういう『静寂』もあるわけだ」


  アウレギウスの青い両目が、近くからのぞき込んでくる。ひらりとその目の奥でゆらめいたものがあった。


「あとは、なんだっけ……『貞淑』かな」


 貞潔です、と言おうとしたくちびるの上を、アウレギウスの親指が軽く押さえた。

 そのまま、なぞるようにふれていく。くちびるの柔らかさを確かめるように、左から右へと。

 気づけば、アウレギウスの上体がおおいかぶさるように近づいていた。


「他の男に許さずに私にだけ許してくれたら、私にはそれで十分、貞淑だ」


 男の低い声が、近すぎる場所で聞こえる。

 あわててエレスセーアはアウレギウスの手を口もとから引き剥がした。


「『貞潔』はそういうことじゃありません」


 言いながら、血が首筋にまでたちのぼって肌が薄赤くなるのを自覚した。

 のぞき込まれた一瞬、青い瞳の奥でゆらめいていたものの正体を、エレスセーアは知らなかった。口づけをされるまでは。島の生活では目にしたこともない、自分への、――男の欲望を、アウレギウスはときおり隠し立てもせずに見せてくる。


「エレスセーア、ここは僧院じゃないよ」


 薄く笑ってアウレギウスは言ってきたが、そんな言葉にはとても乗れない。不埒な、という気持ちを込めて無言でにらんだ。


「はは、だめか。じゃ、せめてこれで」


 言うなりアウレギウスは、エレスセーアの太ももの上に寝転んできた。


「困ります」

「君、痩せてるなぁ。もっとしっかり食べたら」

「聞いてください」

「誰も見てないよ。それにちゃんと三つのモットーを守ってる」


  目元をたわませて、アウレギウスが見上げてくる。


「癒してくれるんだろう、私のこと。犬かなにかだと思ってくれ」


 こんな大きな犬がいるかと思ったが、アウレギウスは頬をつけるように頭を動かし、良い位置を探して目を閉じてしまった。


 上から見ると、まぶたの皮膚の薄さや目の下のわずかに暗く落ちくぼんだところが目立つ。朝から見えていた疲れの様子を残していて、それ以上は強く言えなかった。


 犬なら首筋をなでると喜ぶだろうか。手を伸ばし、静かに髪のあいだに指をさしこんでさすると、アウレギウスは目をつぶったまま、満足そうに膝に頬を寄せた。かすかな葉擦れに囲まれて、エレスセーアはいつまでもそうしていた。

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