第8話 怒濤

 対岸が砂州でつながるたび、エレスセーアは気もそぞろだった。それも今日で終わる。


「馬が七頭……いや、軍馬が七騎だ、アウレギウス殿が帰ってきたぞ!」


 プリムスの声が見張りの高台に響いた。


「様子がおかしい。どの馬も、後ろに怪我人を乗せている。血だらけだ」


 アウレギウスの一隊が駆け込んでから、修道院の宿坊は一気に騒がしくなった。岸辺には点々と血の跡がついた。村人たちが血みどろの兵士を寝台へ運ぶ。修道士たちが湯を沸かし、即席の治療室を作る。革の鎧と服を脱がせようと動かすたびに兵士たちはうめき声を上げた。

 エレスセーアは、年かさの修道士に教わりながら、ざっくりと切れた傷を縫った。ひとり終わってふと目を上げると、隣の寝台で暴れる兵士の腕を、革鎧を着たアウレギウスが強く握っていた。土気色の顔をした兵士は、うめき声の合間に縋るように暗金色の髪を見上げ、掠れた声を出した。


武官長のお怪我は。ささやきが返る。私はいい、すぐに治る。


 五人のひどい怪我の治療が一段落して、村人たちが宿坊から引き上げて行ったのは、砂州が完全に消えるころだった。怪我人を抱えて馬を走らせてきた兵士たちも、一様に疲労していた。彼らは国都の紋章付きの武具を身に着けていた。

 全員に部屋を割り振り、宿坊に静寂が戻ると、エレスセーアは離れた上客部屋へと向かった。

 角部屋になるここには、夕刻の光がよく入る。扉を開けると、アウレギウスがシャツの紐を解く手を止めた。古びた革鎧が彼の腰掛ける寝台の脇に無造作に転がされている。


「やあ、久しぶり」


 わざとらしいほど暢気な声に会釈を返して、エレスセーアは扉を閉めた。顔を合わせたら何を言おうか、この数日迷っていた。今日の混乱の中で、考えていた台詞はすべて吹き飛んだ。


「……地理学者じゃなくて武官だったんですね。それも平の兵士ではなくて、武官長だったんですね」


 アウレギウスは小さく肩をすくめた。 


「機密の多い仕事でね。地図が必要なのは本当だったし。指揮官にとって地勢の把握は大事なんだ」


 悪びれない態度だった。本当にこの人はうそつきだ。黙っているとアウレギウスが眉を下げた。


「修道院長やガイウスはもちろん知っているんだけど、身分を明かすと余計な面倒が増えるから黙っていてもらったんだ。驚かせてすまなかった。怪我人を連れてくるか迷ったけど、ここの修道士は医療知識も豊かで助かったよ」


 エレスセーアは、薬草の入ったすり鉢と包帯をもったまま近づいた。アウレギウスが腰掛けたまま、上目遣いでエレスセーアを見上げる。


「見ての通り着替えるところなんだが」

「怪我をしているそうですね」

「大した怪我じゃないんだ、かすっただけで。自分でできるよ。わざわざ薬草ありがとう。置いていってくれ」


 好き勝手に振舞ってさんざんこちらを悩ませたくせに、怪我の治療はさせないほど信用がないのか。そっけない男の態度に、エレスセーアは苛立ちを抑えて続けた。


「背中だと聞きました」


 アウレギウスは首を傾げて含みのある笑顔を見せた。


「そんなに心配? それとも私の裸が見たいの? 素直に言ってくれたら見せてあげるよ。『あなたの体が心配でしょうがないから治療させてください』って」


 エレスセーアは反発の言葉を喉に押しとどめた。からかって追い出そうとしているのだ。いつまでもこの男のペースに巻き込まれてなるものか。


「『あなたの体が心配でしょうがないので治療させてください』」


 ほとんど棒読みでアウレギウスの言葉を繰り返した。ここまで折れてみせて、それでも出て行けというなら自分に出来ることはなにもない。

 五秒待ってエレスセーアは満足した。アウレギウスが初めて、本当に困ったような顔を見せたからだ。

 アウレギウスは、こめかみに親指を押し当てるようにして、微かに俯いた。

エレスセーアが包帯をシーツに置くと、観念したのか、アウレギウスは背を向け無言でシャツを脱ぎ始めた。帷子も一緒に肩から落とす。現れた背中に、エレスセーアは言葉を失った。

 それは、黒い巨大な蜘蛛が毛の生えた太い脚を伸ばしているかのような、醜い傷痕だった。溶けた皮膚がありえない方向に捩れ、引き攣れ、硬く盛り上がっていた。爛れて色の変わった部分は、肩甲骨の間から、腰近くまで広がっている。

 西日に照らされたそれは赤黒く、古い火傷の痕だと気づくまで時間がかかった。目が慣れてくると、新しい傷というのは、なるほど古傷の上にわずかに血が滲んでおり、掠めただけのものだとようやく知れた。男は静かにエレスセーアの治療を待っていた。

 火傷の上に斜めに伸びた真新しい擦過傷を水で注ぐ。汲んだばかりの井戸水の冷たさにか、アウレギウスが小さく息をついた。


「……戻る途中で敵の遊撃部隊に鉢合わせてね。襲われて馬を何頭もやられた。敵も本隊は北に留まってるんだが。思ったよりも北の戦況が芳しくないんだ」


 ぽつりぽつりと溢すようにアウレギウスは話しだした。それを聞きながら、薬草を擦って作った練薬を湯で薄める。苦い香りが立ち上った。薬鉢をかき混ぜていると、背中の激しく変色した皮膚が、いやがおうにも目に入る。

 一体何があったのか、見れば見るほどひどい状態だった。

 人より遥かに丈高い悪魔が、重たく分厚い燃える手で人の背中を鷲掴み、逃げようともがく体を上から押さえつけたら、こんなふうにもなるだろうというようなありさまだった。


「この火傷、ひどい痕ですね」

「ああ、だいぶ昔のだよ」

「治っているんですか」

「もう痛まない」

「……怖かったですか」

「え?」


 聞き返した男の顔が少しだけこちらを向いた。よくみれば、火傷のほかにも、無数の小さな傷跡がある。こちらに向けた右のおとがいの下にもひとつ。これまで気づかなかったのがうそのように、たくさんの戦さの痕跡を、男は体に残していた。


「戦さに出るのは、怖くないんですか」


 脈拍三回分ほどの沈黙が降りた。


「……戦うように育てられたからね」


 この人は古い血筋の家柄なのだろうか。エレスセーアは、傷痕のさらに下に、永く鍛えられた肉体があるのを感じた。服を着ているときはすらりとした印象が強いけれど、改めて見れば、アウレギウスの上半身は少しも無駄のない筋肉で覆われていた。

 武功を立てることは立身出世の必要条件である。この片田舎の島には縁のない話だが、中央で成り上がろうとするものや、政治の中心に近く生まれたものにとって、戦士として戦うことは避けて通れない。


「普通の兵士は怖がらないんですか」


 兵士のうめき声を思い出す。あんな大怪我を初めて見た。傷口から血がとめどなくにじみでて、縫うたびに兵士は悲鳴を上げ、シーツはすぐに赤く染まっていった。


「怖くなる前に気持ちを高める。士気を上げるのも指揮官の仕事だ。君は戦うのが怖いと思うか?」


 清潔な布で傷跡を押さえる。男の心臓の脈動が手のひらに伝わってきた。落ち着いていて力強い。


「想像がつきません。怪我をするのは嫌ですけど」


 軍人は静かに笑って、私も痛いのはきらいだな、と呟いた。


「じゃあ君は何が怖い?」


 今度は脈拍五回分の沈黙が降りた。


「人の期待に添えないことです」


 練った薬を傷口に置いていく。しみるはずだがアウレギウスは反応しなかった。


「それは、修道院と島の人たちの?」

「はい。……孤児の私を育ててくれたのに、ここを出て行ったら、きっとがっかりさせてしまう」

「そうかな。子の栄達を願うのは世の親の常だよ」

「それは、血の繋がった親ならそうでしょう。……この世に生まれ落ちる前から、父や母と、そのまた父や母を通じて、土地と繋がっている人なら、なんの不安もなく出ていけるでしょうけれど」

「一度出たら、戻ってこれない気がする?」

「自分から捨てるような真似をすれば、そうなってもおかしくないと思っています」

「……そうか」


 それきり会話は途絶え、包帯を巻く音だけが空気を揺らした。

 アウレギウスの部屋を出たあと、エレスセーアは馬房に向かった。島の客人用の馬房は今日来た軍馬たちでほとんど埋まっていた。村人が手分けして世話したのだろう、あぶみも鞍も外されている。どの馬も、駆け込んできたときは全力疾走のあとでひどく興奮していたが、今は落ち着いて静かにエレスセーアを見つめてくる。栗毛や鹿毛の立派な馬たち。うす暗い馬房の奥で一頭、輝くような白馬が頭をあげた。


『アレアトール。大変だったね』


 古代語で話しかけて首筋をなでると、白馬は顔を寄せて甘えてきた。胴を見れば後ろのほうが赤黒く汚れている。アウレギウスが、一番怪我のひどい兵士を後ろに乗せて走ってきたからだ。エレストールは、固く絞った布で、馬の毛にこびりついている血を拭くことにした。

 無心に拭いていると、今日起こったことが一気に頭に押し寄せてきた。


 ずっと気になっていた人が帰ってきた。

 見たことのない革の鎧。

 血みどろの兵士たちを連れていた。

 修道院の広い部屋が、男たちのうめき声で埋まった。

 初めて誰かの大きな傷を縫った。

 走り回って、血と体液で汚れたシーツを替えて。

 あの人の裸を見た。

 ――背中の、巨大な、火傷の痕。


 張り詰めていた息を吐いた拍子に、目に涙が浮かんできて、エレスセーアは馬の背に顔を埋めた。馬房はもう暗くなっていて、泣いても誰かに見られる心配はなかった。

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