第7話 徒波

 金髪の男を見なくなって二週間経つ。

 エレスセーアはテラスに出ると日時計のそばに寄った。目の前の海は潮が引いていて、浮かび上がった砂州の波打ち際を追いかけるように、海鳥たちがしきりに泥をつついている。泥の中に住む小さな生き物たちを食べているのだ。時間を確かめ、海の潮の引き具合を検分し、エレスセーアは自分の立てた時間予測が正しいことを確認した。

 天と地の間に起こることは全て、わたつみが、雨師が、風伯が治めている。太陽と、星と、月が支配している。人は神々の施すところを受け取るのみだ。そうして受け取ったものを目で見て耳で聞き、よく確かめ、咀嚼することに全力を注いで初めて、人間は神々のやりように手がかりを得て、この世のことを少しだけ理解できる。

太陽が昇って沈み、再び昇る、それを一日と数えるように、天と地にはその巡り方に法則があり、天体の道筋に支配されている。海の潮が満ちるのは一日二回、引くのも一日二回である。時間は少しずつずれ、しかし満潮と干潮がなくなってしまったり、日に三度もあることはない。

 海面が最も高くなるときと最も低くなるとき、その海面の高さの差は時期によって違う。海辺に住む者たちは皆、干満差が新月と満月の時期に最も大きくなることを、経験則で知っている。満潮の時間が日々少しずつずれていくことも、季節によって大潮の波の速さが変わっていくことも。

 だがあの男は正確な時間が知りたいと言った。時間を推論から導くためには、経験則を目に見える形に――つまり数字に、置き換える必要がある。天気にすら左右される波のことだ、本当に推論通りになるかはその日その時までわからないけれど、正確に観察し、順序よく導けば、かなり的中する予想を立てることはできる。

 これから二ヶ月の間に起こるだろう大潮の時間の予測。エレスセーアは石板に書き留めた数字を見つめた。

 これを見たら、あの人はなんと言うだろう。よくやってくれたと褒めるだろうか。

知らず漏れ出るため息が潮風に混じっていく。

 言い合いの翌日、部屋を訪れたら、ベッドはもぬけの殻だった。荷物の一部は残されているが馬はいない。探しまわって、砂州の見張り番の義兄にたずねれば、義兄はこともなげに言った。


「アウレギウス殿なら夜明け前に砂州を渡っていった。しばらく北に行ってくるとか……聞いてないのか?」


 聞いていない、いつ出る予定だったかは。戻らないかもしれないとは聞いている。

 最後に会った日の言葉が脳裏をよぎる。軽薄だと罵る直前に言われたのだ。「君が好きだからキスしたのに嫌われてしまった」と。

 好きだなんてうそばっかりだ。こちらの無知を煽ったあげく、よくわからない誘いだけ投げかけて、出るとも告げずに出ていくなんて。

 こうして毎日観測していると、日に日に、潮の引いていく距離が長くなっているのがわかる。勢いよく引き、勢いよく戻っていく海の水は、人の呼吸と同じように、間断なく砂州を現しては隠している。わたつみの住まう場所は、他の生き物と同じように、その土地自体が生きているのだ。常に細かく震え、鳴動している。エレスセーアの体の中心にある、心臓と同じ。

 自分の心臓がどうやらおかしくなってしまったと自覚したのは最近だ。プリムスたちに悟られていないことを願う。この季節はいつも修道院に寝泊りするのに、いつ帰るかもわからないあの男を避けるためだけに、ガイウスの家に泊まっている。

 頭からあの男に言われた言葉が出て行かないのだ。


『世界を見たくない?』


 それから蒼穹の色の瞳、人の悪そうな笑い方、対岸を眺める横顔、くちびるの感触と温度。柔らかい他人のその場所を、自分のくちびるに感じるのは、生まれて初めてだった。

 頬が熱くなった気がしてエレスセーアは目を強く閉じた。

 信じられない、あんなことするなんて。

 貞潔を旨とする修道院で。

 俗人どうしだからって。

 心の中で罵るほど、感触は強く甦った。

 腕の中から逃げる直前、触れ合ったあの人のくちびるは動いて、エレスセーアのそれを押し開こうとしていた。無理やり開かされていたら、どうなっていたのだろう。あのとき手を離してもらえなかったら。

 落ち着こうと、息を吸っては少しずつ吐き出す。


『一緒に都にこないか』


 自分ももうすぐ成年に達する。次の春までには身の振り方を決めなくてはいけない。

 腕力はからきしないが、貿易の手伝いは楽しかった。商売の数字を組み立てて取引するのはわりと得意なのだと思う。義兄たちも来いと言ってくれている。でも、ガイウスと跡取り息子たち、補佐の数人で行商は手が足りている。

 院長からは修道士の道を勧められている。世俗では教わらない知識を、修道士たちは惜しみなくエレスセーアに与えてくれた。今、大潮について調べているように、わたつみの支配する世の理を知ろうとするのはおもしろかった。写本の腕は筋が良いと認められているし、崇高な生き方だ。学んだことを生かせば、院長やグアルドたちへの恩返しにもなるだろう。でも。


『君は本当にそれがしたいのか』


 エレスセーアは記録をつけた石板を握りしめた。

 祈りと労働にすべてを捧げ、一生この島に生きる日々を想像すると、まるで深い濠の中に閉じ込められているような息苦しさを感じた。こんな気持ちはわたつみに尽くす者としてふさわしくない。

 都の話をする彼の声が何度も耳に甦る。本当は島の外に行きたい。世界の広さを自分の目で見て確かめたい。許されるならば、自分の可能性を試したい。

でもここを出て行ったら、二度と戻ってこられない気がして怖いのだ。今こうして風に吹かれている自分の黒髪は、手触りさえ島の子供たちと違う。この土地に連なるよすがが、自分の体にはない。

 拾われて、他人の厚意に囲まれて育ってきた。家がないのに、居場所をもらった。ここを去ったら、落胆させてしまわないだろうか。皆の心に当然のようにある期待を裏切ることになりはしないか。

 あの男が来るまで、誰もエレスセーアに島から出る選択肢を口にしなかった。島の子供は皆、この島で生きるのが当たり前だから。もらった故郷を自分から捨てて、自分勝手に生きるのは、許されるのか。

 ずっとそのことばかり考えていた。あの男が来る前からだ。あの男のせいで余計に考える。きっと今夜も容易に寝付けない。


「……いつ戻ってくるんです」


 ずるずるとその場にしゃがみ込んで、エレスセーアは腕の中に顔を伏せた。

 彼は今どこにいるのだろう。何をしているのだろう。鮮やかな碧眼とともに、あの日、背中を追いかけてきた声が甦った。――好きだよエレスセーア。

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