第6話 幕間

 エレスセーア。

 わたつみの愛し子。

 お前はこの島の光、私の光。

 私は誰よりもお前が愛しく、そしてあの男を嫌悪する。



 そもそも私が修道院に入ったのは信心からではない。

 生まれついて私は醜かった。右の目と左の目が別の向きについている。誰もが、幼い私の顔をのぞきこんで「この子はすがめだね」言った。私が最初に覚えた言葉は「すがめ」だったのではないかと思う。少なくとも、グアルド、という自分の名前より先に知っていた。

 そのうえなにをやっても愚鈍で、近所の子供らからよく笑われた。体は大きいのに走るのは遅く、愛らしい物言いもできなかった。親であった人は私を嫌い、すぐ後に生まれた弟だけをかわいがった。

 幼少の頃の記憶は耐え難い。誰しも、近しい人に笑われたり省みられなかったりで悲しい思いをすることはあるだろうが、時たまそんな経験をするのと、毎日それを味わうのとでは重みが違う。日々繰り返される恥辱と寂しさは、私という人間を幼い時分から損ないかねなかった。

 いや実際、故郷から逃げ出した日、私の魂はすでに何割か損なわれていたのだろう。あの日、北から兵士が攻めてきて、私の生まれた町は混乱の渦に飲み込まれ、親は弟の手を引いて家を飛び出した。たまたま足を怪我していた私は(この足の怪我も私の愚鈍さから負ったものだった)取り残され、足を引きずりながら必死で納屋の隅に隠れた。

 誰も私を連れて出ず、探しに戻らなかった。納屋の暗闇の中で、混乱を極める外の気配におびえながら、私は激しく人間たちを呪った。私を捨てた親、私から親の愛情を奪った弟、私の友人になってくれなかった同年代の子供たち。町を襲った敵兵よりも、身近な人間へ憎しみがつのって、町の人間が戻る前に、私は荒れはてた故郷を捨てた。

 南へ下って目的地もなく右往左往し、あっという間に乞食のようななりになった。行く先々の町の知らぬ人間は、やはり、おかしなものでも見るように私の目元を見てきた。

 人目を避けて田舎へ進み、私はやがて海辺の島に辿り着いた。私は疲れていた。まだ成人前だったが世を倦んでいたし、この先、人に愛される希望もなく、誰の目に触れぬ場所へ隠れてしまいたかった。島にはその小ささに見合わぬ立派な修道院があって、わたつみを信仰していた。海だろうと火だろうと、私がみじめで虫けらのような人生を歩んでいるときに、助けのひとつももたらしてくれなかった神々などに興味はなかったが、信心の証を立てなければ修道院の中には入れない。堅牢な修道院の入り口で、私がわたつみへの信仰心をかき口説き、どうか修道士にしてくれとわめくと、対応に出た修道士は私の目をじっと見つめた。いつものことだと思って嘘八百を並べながら、私はふとおそろしくなった。彼が見ているのは私の醜いすがめではないと気付いたからだ。だが彼は私を偽善者と追い出すかわりに、寝床とスープ、見習い修道士のための粗末な服を与えた。

 修道士の温情は、私にとって初めて触れるものだった。彼は私の魂にわずかに残った再生の可能性に賭けたのだ。彼は言った。「貴方がここに来たのが、わたつみのお導きだということを忘れずに。いつか、準備が整ったら、ここで与えられたと思うものを周りへ返していきなさい」

 こうして始まった修道士生活は、私のねじくれた人間観を一変させた。修道院では誰もが互いを分け隔てせず、ただひたすら、わたつみへと身を捧げていた。初めて会えば目を見つめられ、どれくらい見えるのかと訊かれたが、問題がないと知られれば、労働の手順を教えられた。自給自足の生活のための、畑仕事。料理、洗濯、清掃、生活に関するありとあらゆるものの作成と修繕。日の出前から始まる一日七度の祈り。

 祈りの時間、私はただぼんやりと膝をついて手を組み、周りの修道士の詠唱を聞いていたが、あるときふと、ここで与えられたものはなんだろう、と考えた。屋根。眠る場所。蔑みを含まない視線。怒鳴られない静かな時間。壊れたら直すこと。仕事の仕方。できなくても笑われず、無視もされずにもう一度丁寧に教えてもらえること。わたつみに祈る方法。

 私は愚鈍ではあっても頑丈で健康で、人より力があったので、ときには労働に重宝された。生まれて初めて私は、人に求められ、役に立ったのだ。私の粗野な言動は幾度か修道士たちを驚かせたようだが、私を兄弟と呼ぶことを躊躇する者は一人もいなかった。だから私も彼らを兄弟と呼び返した。与えられたと思うものを、周りへ返していく。それがわたつみのお導きで、最初に話した修道士との約束だ。

 こうして私はこの島で海の荒れる冬を何度か越した。島の漁師や多くの修道士たちと違って、私は生まれついたときからわたつみの恩恵を感じる立場にはなかった。だが、見習い生活の中で、私の中の損なわれていた何かが少しずつ埋められていくのを感じた。

 南下する敵兵との戦いが本格化するころ、私は見習いを卒業し、生涯をわたつみに捧げることを十字架の前で誓った。誓いの中で、今までの人生と、修道院の入り口で語った虚偽を告白したとき、私は激しく泣いた。不揃いな両目から涙を流しながら、私を受け入れてくれた場所があること、その場所がわたつみに守られていることに、私は心から感謝した。修道院の入り口で私の対応をしてくれた修道士は院長になっていた。院長は私の誓いにうなずいて、私の額に、海から汲んだ水をつけた。額から垂れる水が顎先で涙と混じり合って落ちた。私の魂は回復した。

 直後に大戦に島が巻き込まれ、私は先頭に立って戦った。島という第二の故郷への愛が私を奮い立たせたため、私は怖気づくことがなかったのだ。兄弟たちが危ないところを何度も助けた。ここで救われた私の魂は、この島のために使うのだ。戦さが続いたある夜、久方ぶりに私は両親を思い出した。今の私を見ても、彼らには私が誰かわからないだろうと思ったのだ。私は今やわたつみのための戦士に生まれ変わったのだから。


 大戦が終わって、敵が北に退き、穏やかな日々が訪れたころ、私はエレスセーアを見つけた。彼は海に流されてきたのだ。私は自分が不恰好な目に生まれつたことを感謝せねばなるまい。この目がなくては——といっても私は正しく配置された目がどのように世界を見ているのか真実知っているわけではないのだが——きっとエレスセーアをのせた籐の籠が視界の隅に映ることはなかっただろう。

 修道士の温情が初めての奇跡ならば、エレスセーアは私の身に起こった二度目の奇跡だ。小さいエレスセーアを海から引き上げ、腕に抱いて育てた日々のことを思い出すと、私はいまだに胸が熱くなる。

 もちろん子育ては一筋縄ではいかなかった。赤ん坊には規則正しい一日などという概念はない。エレスセーアは抱いても簡単には泣きやまず、好きなときに排泄し、短い時間で眠っては起きるので、私は相当に手を焼いた。長い労働のすえ床についた夜中に泣き出されて苛立つことも日常茶飯だった。隣室の兄弟修道士たちがなだめすかしに来てくれなければ、右も左もわからぬ赤ん坊を怒鳴りつけていたかもしれない。

 だがエレスセーアの存在は、世俗でも僧院でも私が決して経験しえなかっただろう幸福を私にもたらした。彼はてらいなく私に触れ、笑顔を見せ、四つ足で歩けるようになれば私のあとをついて回った。初めてエレスセーアが私の名前を呼んだときの喜びは、言葉では表せない。舌足らずな発音は愛らしく、修道士の間では一時自分の名前をエレスセーアに教えて呼ばせることが流行した。満足に歩けるようになると、エレスセーアは修道院のそこらじゅうを探険し、思わぬところから現れて修道士を驚かしては喜んでいた。

 修道院が狭くなると、院長の勧めもあって彼は下の村に毎日降りていった。修道士の私は僧院から出ることが出来ない。エレスセーアが目の届く範囲にいないことは私を不安にさせたが、幸い彼は島の子供たちとすぐなじんだようだ。土産と称しては貝殻や草花を僧院に持ち帰ってきた。泥だらけになって戻ってきた日は叱らないわけにはいかなかったが、不思議とエレスセーアは手のかからない子に育っていった。

 ただ自分のおいたちの特殊さに気付いたのもその頃で、なぜ自分の髪だけ黒いのだ、母親はどこにいるのだと泣き出すこともあった。その度、フィゲーラスが幼い彼に噛んで含めるように言い聞かせた。私はそういう言葉を尽くした説明が苦手で、いつもフィゲーラスに任せていた。それほど大事にもなるまいと思っていたせいでもある。容姿の違いを思い悩むのは辛いことだが、エレスセーアのそれは、私の醜さとは全く別のものだった。育て親の欲目を差し引いても、彼はかわいらしい子供だったし、彼の異質さは、思わず目を引きつけられるような、ずっと見つめていたくなるような類のものだ。親すら目を背けた私の面貌とは正反対だ。

 やがてエレスセーアは村の頭領の家に出入りするようになった。僧院の中だけでエレスセーアを育てるのは限界がある。わかっていたが、初めてエレスセーアが村に泊まったときは、ひどくさびしかった。夜、物音一つ立てなくなった狭い僧坊が、急にがらんどうに感じられた。そもそも拾った経緯ゆえにここで引き取っただけで、彼はいつでも院の外へ出ていける身なのだ。いや、成人したあかつきには、修道士にならない限りここを出ていかなくてはいけない。久方ぶりに一人になった夜、私は五年、十年先を思いやってため息をついた。


 子供が育つのは潮が満ちるように早い。エレスセーアは気付けば成人間近となっていた。あの男が現れたのは、その年の、大潮に向かって日々海が荒れていく季節だった。

 始めからどことなく気に食わなかったが、それは私という人間が出来ていないからだ。謂われなく人を嫌うのは、人を見た目で判断していることの証。恥すべきことだ。だが、日を浴びてテラスで話す男とエレスセーアを見たとき、はっきりと心は波立った。エレスセーアが、私の知らない表情で男に話し掛ける。男はそれに微笑み返す。曇りない空の下で、彼らは完璧だった。私の歪んだ目が限りなく美しいものを映す。男の手がエレスセーアの風に遊ばれる髪を撫でた。息を呑んだ瞬間、前触れなく青い双眸がすいと動き、男と目が合った。


 私は踵をかえし、足音も荒く廊下を歩いた。沸き上がるのは怒りばかりだ。なぜあの男なのだ。輝くばかりの金の髪の男。よく切れる刃のような視線を寄越した男。彼は美しかった。他人からも身内からも、蔑まれ愚鈍だと笑われたことのない人種だ。全てを肯定されて育った人間だ。卑屈を知らない男がエレスセーアを奪っていく。

 エレスセーア。

 私の意識は急激に闇から醒めた。どこをどう歩いたか、私は地下聖堂まで降りていた。自分が逃げるようにあの場を立ち去ったことに気付き、屈辱が再び私を支配した。

 エレスセーア、私が育てたお前が、よりによってなぜあの男を選ぶ。

 私は醜かろう。親にも捨てられるほどに。だがなぜお前まで私を置いていく。

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