第5話 潮待ち III

「なんでそんなに逃げ腰なのかな」

「こっちに来ないでください!」


 理不尽を言っているのはわかっている。机をはさんで片や窓近くに腰掛け、片や入り口から離れないのでは、これ以上距離のとりようがない。ここはアウレギウスの宿坊である。エレスセーアは嫌々ながら、それでも生真面目に頼まれていた本を渡しに来たのだ。


「君が好きだからキスしたのに嫌われてしまった」


 窓際の男が肩をすくめる。エレスセーアの顔が、怒りと羞恥で赤くなった。昨日のこの男の行状を、必死に忘れようと努力して失敗した。今この瞬間まで、一秒だって頭から離れなかった。


「あ、なたは、世界一軽薄な人です!」


 アウレギウスは笑い出した。エレスセーアの警戒ぶりを笑っているのだと思うと、ふつふつと沸るように反発心が湧く。彼はひとしきり笑うと、椅子の背にもたれるように顎をあげてエレスセーアの立ち姿を眺めた。部屋の壁にかかったわたつみの十字架に午後の光が差していた。


「世界一ね。世界一。君の世界はどれくらい広いんだい?」


 青い二つの目がエレスセーアを見据えている。


「この島から出て過ごしたことは?」

「もちろんあります!」

「どこまで?」

「ニレオンの滝まで」

「何をしに何度?」

「ガイウスさまの交易の手伝いで、二度」

「ほかには? カッシラドの城を見たか? ドル・ベレタスの冬を知っているか? 都には来たことがないんだったね。花咲くアバランセも知らないんだろう。この先、日がな一日僧院に閉じこもって写本にいそしむだけの君に世界を語られるのはたまらない」


 エレスセーアは顔をしかめて反駁した。


「修道士の生活を愚弄されるおつもりですか」

「そういう生き方もあるだろう。でも君は本当にそれがしたいのか?」


 一瞬の沈黙があった。エレスセーアが答えを見つけだす前に、男はたたみかけてきた。


「世界を見たくない? 白亜の都や、馬の群れの駆ける草原を見たくない? 勉強がしたいって言ってたね。君の頭につまってる知恵や知識を、島の外で役立てたくないかい?」

「……おっしゃる意味がわかりません」

「勧誘だよ。私の仕事が終わったら、一緒に都にこないか」


 今度こそ沈黙し、だが、エレスセーアは男の誘いに乗らなかった。


「少なくとも、貴方と一緒には参りません!」


 唇をわななかせると、エレスセーアは部屋から出て行った。



***



 ため息をついてアウレギウスは今度こそ本当に椅子の背にもたれた。思ったよりもむずかしい。島の外の話をするたび目を輝かせて聞き入っていたから、誘いにも素直に喜ぶかと思っていた。許しのない口づけに怒っているとしてもだ。何か島を出て行きがたい懸念でもあるのだろうか。

 コツ、と壁をノックする音がして、開けたままの部屋の入り口に修道院長が立っていた。


「院長」

「エレスセーアの声が聞こえましたが、大丈夫ですか」


 アウレギウスは苦笑いで立ち上がった。


「これは……騒がしくしましたか」

「いいえ。今は労働の時間ですから、他の修道士は耕作地にいますよ」


 労働。すなわち沈黙の時間だ。修道士たちは、テラスよりも奥にある、自給自足のための高台の畑にいる。彼らは互いに語り合うでもなく、ただわたつみに奉仕するという一つの目的をもって、働き蟻のように結束している。


「あまりうるさいと、そろそろ皆さんに睨まれてしまいそうだ」


 アウレギウスは常の習慣で軽口を叩いた。実のところ、修道士は皆一様に、逗留中のアウレギウスを空気のように扱う。初めて訪れた食堂で、アウレギウスはそばにいる修道士に話しかけようとして、食堂は沈黙の場なのだと諭された。彼らの、異質な存在を無視して普段と変わらぬ生活を貫くさまは、いっそ見事だ。

 ただし、エレスセーアを拾ったというグアルドという修道士だけには、すでに二、三度睨まれている。エレスセーアといると目につくのだろう。


「エレスセーアはお役に立っていますか」

「ええ、とても。彼はおそろしく頭がいいですね。あの出来なら都でも十分通用するでしょう。それに島中の人に好かれている」


 院長は口元の皺を深めて笑みをこぼし、頷いた。

 エレスセーアのまっすぐな黒髪と黒い瞳は、彼がこの島の生まれでないことを如実に物語っていた。だが、ふもとを歩けば親しげな挨拶やからかいの声がかかる。拾い子の身の上にも過ごした年月に情が深まり、今では島全体の養い子とみなされているようだ。


「それで都へ誘っていたのですか」

「聞かれましたか。見事に振られました」

「からかわれたと思っているのですよ。修道士たちはあまり冗談を言わないので」


 島にとってエレスセーアが特別な子供であることは、修道士たちを見てもわかる。互いが向き合う食堂ですら沈黙を守る彼らが、エレスセーアを見ると微笑んで片手を上げる。時には楽しげに言葉を交わす。アウレギウスが一人で院内をうろついているときの、見えぬがごとき扱いとは大違いだ。


「本気で言ったのですが、信じてもらえないのは私の不徳ですね。厄介者はしばらく北に行こうと思います」


 院長は軽く首をかしげた。


「北に? 貴方のふるさとですか?」

「まさか。あそこは今でも手つかずの廃墟です。私が呼ばれたのはもっと海岸寄りですよ」


  少しばかり話をしたあと、院長は「どうぞお気をつけて、道中わたつみのお守りがありますように」と小さく祈りを捧げて去っていった。

 部屋にひとりになり、机の上に丸めて積まれている地図と資料に、アウレギウスは目をやった。エレスセーアの手助けでここまで進んだ。黒目がちの瞳を輝かせて、初めての作業や新しい知識に夢中になっていた。


(しっかりした子だ。見た目は華奢でまるきり女の子みたいだが)


 あれくらいの年のころ、自分はどんな少年だっただろうか。最前、院長の口からふるさとという言葉が不意に出た。答えながら舌に苦味が広がった。実のところ、幸福だった少年時代はぼんやりとかすみがかかったように淡い記憶で、よく覚えていない。自分の未来が無限に広がっていると、根拠もなく信じていたことは確かだ。親や兄たちから、無条件に愛されていた。

 ああいう時間はもう自分の手元には戻らないのだと思い極めてきたが、エレスセーアは不思議とそれを思い起こさせて、目を引いた。この先の可能性が、いくらでも広がっている子。彼なら、都で自分を支えてくれる優秀な文官になるかもしれない。もしくは頼りになる家宰でもいい。あの子なら、経験が浅くても信用できて、生活の一部分を任せられる。いずれにせよ、辺境の修道院にくすぶらせておくには惜しい人材だ。

 壁にかかった十字架の下には、清貧、貞潔、静寂の文字が刻まれている。海の神に捧げる三つの誓い。アウレギウスは無感動にそれを眺めた。自分にはどれも縁のない言葉だ。

 修道士たちのわたつみへの信仰心は、アウレギウスの理解を超えていた。彼らは毎日、日の出前から始まる一日七度の祈りを頑なに守る。祈祷の合間には労働だ。自給自足が原則のために、猫の額のような土地を耕し、巡礼者からの喜捨とふもとから捧げられる魚だけで世俗とつながっている。そんな生活で一生を終えることを、あの少年が望んでいるようには見えない。


「……禁欲的なことだ」


 わきにおいてあった手紙をアウレギウスは取り上げた。北方からの報告だった。数日北に行かないといけない。しばらくあの黒曜石のような瞳が見られなくなるのは惜しかった。故郷を出て以来、ひとところから離れがたいと思うことなどなかったが、思いがけずあの子の隣は心地が良かった。


「まぁいいさ」


 アウレギウスは椅子の上で目を閉じた。

 出発前に話ができてよかった。これでエレスセーアは数日悩むだろう。

 会えない時間の意味をあの子はまだ知らない。離れているほうが、より強く想うものだ。

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