第4話 潮待ち II
アウレギウスは、息抜きなのか考え事なのか、ときおりテラスに出ては景色を眺めていた。ここでエレスセーアに都の話をしてくれることも多い。
テラスは瞑想の回廊より一段低い位置にあって、同じように対岸を見晴らすことができる。対岸は平らな土地が続いていて、流れる川の川幅は広く、水は滔々と海に流れ出している。
「エレスセーア」
ふたりでテラスにいると、背後から険のある声がした。振り返ると、質素な修道服に身を包んだ男が、修道士の住居に続く外廊下から睨んでいた。
「グアルド。おはよう」
グアルドは手に編み縄と着替えを持っている。
「浜に出るの?」
「いや、西の井戸に降りる。点検に」
「そう、気をつけて。わたつみがお守りくださるように」
エレスセーアは伸び上がってグアルドの額に口づけた。
グアルドは頷いて祈りを受けると、アウレギウスを一瞥してから行ってしまった。この頃彼は機嫌が悪い。
「どうも彼によく睨まれている気がするんだが」
アウレギウスが、廊下を曲がるグアルドの広い背中を見ながらつぶやいた。グアルドは背こそ低いが頑丈な体つきをしている。どこか野卑な顔つきのせいもあって、修道士というより農民か漁師に見える。エレスセーアはとりなす言葉を探した。
「グアルドが海に流されていた赤ん坊の私を見つけてくれたんです。浜辺まで駆けつけて、フィゲーラス、あの、写本管理室の彼と一緒に、必死に海から籠を拾い上げてたって、皆よく話してくれます」
「ああ、なるほどね」
エレスセーアにはグアルドの最近の態度が理解できなかった。
普段は切り離されている世俗の人間が修道院にいるのが気に食わないのだろうか。静寂を守るべき場所で喋りすぎただろうか。
グアルドは、ガイウスのように鷹揚でもなければ院長のように機知に富んだ物言いもしない。けれど、心根は優しいし正直だ。客人にもいつかその良さが伝わるといいけど、とアウレギウスの顔を見上げると、彼は逆光の中で薄く微笑んでいた。
こういうとき、アウレギウスはひどく歳が離れた人のように見える。何を思っているのか全く推測を受けつけない顔でたたずみ、エレスセーアの内心の混乱が収まるころに、忘れたように違う話を始めるのだ。
今もアウレギウスは視線を逸らすと、素知らぬ顔で眼下の海を見下ろした。
「来たときより満ち潮の波が速くなってる気がするな」
波が砂州を隠していく。テラスの下から吹き上げる風に金髪がなびいた。
「ええ、このままどんどん速くなって、夏の満月の日には大潮がきます。ここ数年で一番大きくなるはずです」
青い目が瞬いて、鋭くエレスセーアを振り返った。
「ここの大潮は有名だったね。馬ですら波に追い付かれて逃げきれないって」
「ええ、昔は落命した巡礼客もいたそうですよ。大丈夫だと思って対岸から渡り始めても、思いの外、波の勢いが強くて、砂州を渡り切る前に波に飲まれてしまうんです」
「そんなに?」
「はい。徒歩はもちろん、馬車が飲まれた記録もあります」
わたつみは日々この島に恵みをもたらすが、それだけではないのだ。
「だから、浜では今くらいの時季からあまり渡らないように呼びかけています。漁の時間も変わります」
アウレギウスは数秒考え込んだあとで、ふいにエレスセーアの肩に手をおいた。外にいた手は少し冷たくなっている。
「エレスセーア、きみ、満潮と干潮の正確な時刻は割りだせる? 砂の道の現れる時間も」
「しばらくお時間をいただければ……何日間か、月を見ないとわかりませんけれど」
「頼むよ、できるだけ正確なのを。わかったら二ヶ月先まで予想を立ててくれないか」
期待している、と肩に置かれた手に力が入った。新しい公理を発見した学者のように、アウレギウスの瞳が輝いていた。
朝、宿坊を訪れると男の姿が見えなかった。そのままテラスに向かったエレスセーアは、ぎょっとして外塀に走り寄った。男が、鈍い金色の髪を風になぶらせながら、テラスを囲む塀の上に立っていた。
「何してるんです! 死ぬつもりですか」
エレスセーアは声を上げた。一歩踏みはずせば真っ逆さまに海に叩きつけられる位置だ。振り返ったアウレギウスは、吹き付ける風のためか寒そうな顔をしていたのを一変させ、笑顔で塀から飛び降りた。もちろん内側にだ。
「まさか。君に死ぬほど恨まれるかなとは思ってたけど」
「はい?」
何のことだと眉を寄せれば、男は、すまないね、とつぶやきながら、エレスセーアの頬をなでた。と思ったら、頬をつまむように横に引っ張られる。
「昨日の夜、地下の秘蔵酒を勝手に開けて飲んじゃった!」
「えっ」
「だって酔いたかったんだよ、しばらく飲んでなかったし。怒られてもいいかと思って」
「ええ、呆れた……」
男が時折、甘えた子供のような調子で話すのにエレスセーアも慣れてきた。
しかし薬用酒を飲むとは罪深い。修道院の地下で蒸留させ、数種類の薬草を溶かし込んで作られた酒には、薬効作用がある。写本技術と同じく、数百年にわたる修道士たちの研究の成果だ。
「あれはいいお酒だね。香りが最高。高級すぎて酔えなかったよ」
「お強いんですね。修道士も、島の人たちも皆そうですけど」
「エレスは?」
「私は体質が違うせいなのか、すぐ酔ってしまって」
自然と声が小さくなる。以前、外から来た巡礼客に言われたことがある。酒に弱いとは酒豪ぞろいのこの島には珍しいね、と。髪や目の色のことを言う客はめずらしくないが、体質の違いをてらいなく指摘されたのは苦い思い出だ。
「飲むと歩けなくなるんです。私がどこから流れてきたのか、わかれば対処のしようもあるんでしょうけど……」
「皆と違うのが気になる?」
顔をあげるとアウレギウスの明るい碧眼がこちらを覗き込んでいた。小さな悩みを見透かされたような恥ずかしさにエレスセーアは顔を赤くして口ごもった。
「普段は別に、わたつみの御前では小さなことですし……」
嘘だった。本当は義兄たちのように、飲んでも手も足もしゃんとしていられたらいいのにと思っている。
「異質であることで悩んでも、誰も君を責めたりしないよ。まして人ならば自分の出自が気にならないはずがない」
深い響きの声が上から降りてきて、エレスセーアは男を見上げた。
(この人の言葉には不思議なほど力がある)
彼の背が高いので、そばにいると首が痛い。それでも、ずっと見つめていたいような気がするし、声ももっと聞いていたい。
アウレギウスは薄い笑みを浮かべると、エレスセーア、と呼びかけてきた。
「北に用事があってね、近いうちにここを留守にするよ」
「どれくらいいらっしゃらないんですか」
「わからない。もし戻れないようなら代理を送る。そしたら頼んでいたことの成果は代理に渡してほしい」
つまり、帰ってこない可能性があるのだ。とたんに元気をなくしたエレスセーアの表情に、アウレギウスは小さな笑い声を立てた。
「なに笑ってるんです」
「かわいいなと思って」
反応に困ったエレスセーアの前髪に、男の指先が触れた。
「いいかな?」
ほとんど反射的にエレスセーアは目を閉じた。額への祈りのキスは、修道院でも島のふもとでもよくある習慣だ。わたつみのお導きがありますように、わたつみがお守りくださるように。両肩に手が置かれて、顔の近づく気配がした。
くち、びる、に。
「……!」
思い切り腕を突っ張ると、男は少しだけ力を緩めた。そのまま男の腕から逃げ出して、手で口元を覆う。くちびるにかさついた感触が残っていた。
「なにをするんですか!」
「おや、祝福のキスはいいのに口づけはいけないのかい? もしかして初めてだった?」
目の前の人の悪そうな笑顔に、エレスセーアは急激に頬が熱くなるのを自覚した。くちびるは特別な場所だ。軽々しく、誰かに明け渡すところではない。
「物知りなわりにうぶなんだな。そういうとこもかわいいね」
一歩近づいたアウレギウスに、失礼しますと叫んでエレスセーアは駆け出した。背中から「好きだよエレスセーア」という声が追いかけてきた。
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