第3話 潮待ち

「すごいな、よく見つけてきてくれた。地図もつけてくれたのか」


 アウレギウスのよく響く声に、エレスセーアは笑みをこぼした。嬉しいのだ。このところ、彼にほめられたくて必死で毎日書庫をひっくり返している。子供っぽい行動をしている自覚はある。


 修道院に逗留して二週間、アウレギウスの地勢調査にエレスセーアは毎日付き合っていた。


 調査に必要な資料を探して取り揃えるのがエレスセーアの仕事だ。対岸から島にいたる地勢図を作るためには、おどろくほどの量の資料と下調べが必要だった。それらの仕事をするのに修道院ほどおあつらえむきの場所はない。その土地の記録を中心とした古い文書が保存され、複数の言語を読み下す修道士たちのいる修道院は、海岸地方一帯の学問所の役割も担っている。


「君がこれを書いたの? とても見やすくていいね」


 アウレギウスは様々な資料を要求した。島を含めた地方全体の地図、年々の気候の記録、作物の収穫高の記録に修道院の構造図と島の主たる家の見取り図。エレスセーアは書庫を漁って埃をかぶった紙の束を見つけ出し、見取り図は夜なべをして自分で描いて、彼に渡した。アウレギウスはそのたびに、助かるよ、ありがとうと大げさなくらいに喜ぶ。その笑顔にエレスセーアは骨折りが報われた思いがするのだった。


 エレスセーアが持ってきた資料は次の日にはアウレギウスの手によってまとめられ、石高も気候の変動も一目で推移がわかるように石板に図式化されていた。机の上に大きく広げられた荒い手触りの紙には、一日目には何も描かれていなかったのが、海岸線が描かれ、等高線が描かれ、家々が記されて日に日に意味ある形を成している。次第に土地の姿が浮かび上がっていくさまにエレスセーアは心を躍らせた。そこには古代語を読み写す仕事とはまた違う楽しさがあった。


 今しがた渡したのは島に生育する薬草と毒草の一覧だ。場所がわかりやすいように小さな地図を添えたのはエレスセーアの心遣いだった。


 お礼をしないとね、と言った男に、エレスセーアは都の話をしてくれと頼んだ。


「都の話は好きかい?」


 素直に頷きながら、エレスセーアの胸はわずかに痛んだ。島の外の話ばかりを求める自分に、養ってくれた人たちへの後ろめたさを感じる。


 来春からの自分の身の振り方をエレスセーアは決めかねている。禊を受けてこの修道院の修道士になるか、島民の生活を支える義父の交易を手伝うか。


 だが、この島で、育ててくれた人たちの恩義に応えたいと思っているのに、思考の隅にちらつくのはまったく違う第三の道だ。都へ、国の中心に出て、勉強がしてみたい。もちろん夢のような話だ。金もかかる。単に都に憧れているだけと言われたらそれまでで、こんな思いをとても島の年長者たちには打ち明けられない。


 アウレギウスはなにを話すか考えを巡らす様子を見せてから口を開いた。


「新しい執政官の奥方と息子は君に似たまっすぐな黒髪だ。奥方は東方出身だから、君もそっちのほうから来たのかもね」


 言いながら彼は軽くエレスセーアの髪を梳いた。触れるか触れないかの指先の熱が伝わってきて、エレスセーアは身じろいだ。都ではこの黒髪が珍しくはないのだ。


「お兄さんたちも、修道士たちも短いのに、君は長いんだね」


 エレスセーアの長く伸びた髪は、島の習わしで彼がまだ成人していないことを示す。十七歳になれば、修道士は短く髪を刈り上げるし、漁村の男たちも断髪する者がほとんどだ。それを言ったら、アウレギウスは自分の長い暗金色の髪をつまんで「しまった、私も子供に見えるかな」と真顔で尋ねた。


「子供にしては大きすぎますね」


 エレスセーアが返答すると、こらえきれないようにアウレギウスは笑い出した。


「私も昔は小さかったんだ。兄や従兄弟たちからチビ助と呼ばれていたのに、君ぐらいの年でむくむく伸びた」


 エレスセーアも笑いながら首をかしげた。小さいこの人を想像できない。


「お兄さまたちも都にいらっしゃるんですか」


 アウレギウスは首を横に振った。


「いや、大戦で亡くなった。だから兄たちは、今の背が伸びきった私を知らないんだ。惜しかったんだ。あと少しですぐ上の兄を追い抜くってときだった」


 十六、七で大戦を経験したのか。エレスセーアは彼の来歴の一端を知って、なんとなくその態度が腑に落ちた。目の前の男は、自分のちょうど二倍ほど生きている計算になる。ガイウスや修道院長よりずっと若いのに、堂々と二人と渡り合っているところを見ると、胆力のある人なのだなと思う。


 同時に、妙に軽い口調で冗談を言ったりふざけたりすることもあって、そういうときは同い年の人間と相対しているような気持ちにもなった。話せば話すほど、不思議な人だった。



 巡礼に来たのではない、と言い切っていた通り、アウレギウスは本当に調査に来ただけで、まるきり信心はないようだった。


 修道士たちの、日に七回の祈りの時間のうち、朝晩二回はみなで聖堂に会して行うのだが、彼はその朝晩の礼拝に一度も参加していない。それとは別に、麓の村人たちが毎朝、聖堂に祈りにやってくるが、彼はその様子も数度、聖堂の後列から眺めただけで、彼自身が祈っている様子はなかった。修道士席の末席に並んだエレスセーアに気づくと、彼はにこりと笑ってウインクまで寄越してきたが、さすがに反応できずに視線を外した。堅物と思われているに違いないが、礼拝ではちゃんと祈ってほしい。


 今日も宿坊の簡素な机の上で、アウレギウスがコンパスを使って円を引いていく。単純な原理の道具でこんなに綺麗な線がひけるなんて、コンパスの発明は人類の叡智そのものだ。エレスセーアは大袈裟にそんなことを考えた。机の上をすべる男の手の動きがしなやかで、目が離せない。


「どうして島の地勢をお調べなんですか」


 机の上を見つめながらエレスセーアは尋ねた。


「あぁ……ここら辺はまだ詳しい地図がないから。元老長の命令でね」

「元老長に拝謁されたことがおありで?」

「うん、たまに会って食事する」

「食事!」


 思わず声が大きくなった。アウレギウスが机から顔を上げる。


「どうしたの?」

「いえ、あの、雲の上の人ですから、想像できなくて」


 元老長は国を動かす元老院の長で、この国にひとりしかいない。

 アウレギウスがくすりと笑った。


「そりゃあ人間だもの、食事くらいするさ。私にはここの生活のほうが信じがたいな」


  彼はコンパスを脇に置いて手を休めた。


「毎日、日の出前から日没まで七回もわたつみに祈りを捧げて、沈黙の時間は手話で会話。食事中でもしゃべっちゃいけない。食堂に行ったとき、静かすぎて最初は修道士から無視されてるのかと思ったよ。村の人たちは気さくだけど……」


 アウレギウスは最後まで続けなかったが、彼の意味するところはよく分かる。修道院はわたつみに祈りを捧げるために生活のすべてが定められている。漁村の人々も、一日たりとも海から離れることはない。あまりにも完結した島の世界のなかで、エレスセーアは時々息がつまりそうになる。


 ため息をつくように、男は言葉をこぼした。


「余所者には居づらいね」


 エレスセーアは胸をつかれた。その胸の痛みが、拾われ子の自分の出自のせいなのか、男の声の調子が意外なほど苦しげだったからか、彼にはわからなかった。


「余所者ですか」

「都なら私みたいな根無し草でもまったく平気だけど」

「元老長とお食事できる方が根無し草なんて」


  明るい声を取り戻したエレスセーアに、男は目を細めた。


「……仕事柄、一ヶ所には留まれなくてね」

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