第2話 僧院

 修道院の最上階につづく階段は初夏の陽に照らされていた。吹きさらしの窓からは太陽の下に輝く海を見ることが出来る。階段を上るエレスセーアの、癖のない黒髪がはらはらと風に揺れる。


 修道院は島で唯一の高台の上に立っている。高く聳える尖塔は、沖合や対岸から見える目印となって、船乗りや行商人たちの道行を助けてきた。無論、一朝一夕で石をこの高さまで積み上げたわけではない。


 ここまで積むのに二百年。


 エレスセーアは、この階段を昇るたびに、これまで費やされてきた、気の遠くなる年月と数世代にわたる人々の祈りの深さを思う。ここから海を眺めていると、自分がちっぽけなのがよくわかってとても気持ちがいい。ときおり心をいっぱいにしてしまう悩み事も、この尖塔の偉大さと、地平線まで広がる海原の果てのなさに比べれば、取るに足りない寝言のようなものだ。


 ふもとの家からは見られない光景に、エレスセーアは肺深くまで息を吸い込んだ。


 塔の上にたどり着き、院長室をノックすると中から入室を促す声がした。静かに扉をあけて足を踏み入れる。


「やぁ、エレスセーア」


 声をかけてきたのは昨日の客人だった。修道院で唯一の柔らかいソファの上に座っていた。微笑みかけられてあわてて会釈すると、向かいに座った修道院長が、しわのよった頬をゆるめた。


「おや、アウレギウス殿、彼をご存知でしたか」

「ええ、昨日砂州で助けてもらってね。ガイウスの家に連れて行ってもらいました」


 客人の声は昨日と変わらず快活だった。

 院長は常日頃から厳格をもって知られている。エレスセーアが拾われた頃にはすでにこの修道院の院長を務めていて、年齢も、客人よりはるかに上だ。この島の人間なら誰もがぬかづく老院長に、アウレギウスはごく自然な態度で対等さを保っていた。

 院長はゆったりと頷いた。


「エレスセーアはふもとと修道院を行き来しているので、島のことは一番よく知っています。院にある古書の管理も手伝っていますし、賢い子です。必ずお役に立つでしょう」


 院長の褒め言葉は滅多に聞けない。エレスセーアは表情に出さないようにしながらも、それを喜んだ。


「エレスセーア、アウレギウス殿は島の地勢を調べにいらっしゃった大事なお客人です。宿部屋にお連れしてから院の中を案内してさしあげなさい。ここにいらっしゃる間のお世話はあなたに任せます。食事は我々と一緒に、食堂で。ご要望にはなんでもお答えするように。院内のどこでも出入りは許可してあります」


 破格の扱いだった。巡礼者も漁村の者も、修道士の生活の場に入ることは禁じられている。


「はい、院長さま、仰せのとおりに」


 アウレギウスが無造作にソファから立ち上がった。この島にいてそんな柔らかい腰掛けに座れることは、もうめったにないですよとエレスセーアは心の内で呟く。


「エレスセーア、来春からのことは考えてくれましたか」


 突然水を向けられ、エレスセーアは口ごもった。


「申し訳ありません、あの、いま少し……」


 立ち上がった院長の表情が柔らかくなる。


「いいのですよ。焦らせるつもりはありません。 これからの人生を決める大事なことですから、ガイウスとも相談してみなさい」


 老人特有のやせた手がエレスセーアの前髪を梳いた。まだかすかに子供らしさを残した、白く柔らかい輪郭の額が現れる。


「我がめぐし子にわたつみの恩寵がありますように」


 エレスセーアはそっと目を閉じて祝福のキスを額に受けた。目を開くと、アウレギウスがおもしろそうにこちらを見つめていた。



「また会えてうれしいよ、昨日はあまり話せなかったから」


 宿部屋に行く道すがら、アウレギウスはエレスセーアの目を上からのぞきこんで言った。


「こちらこそ。院長のお客様だとは存じ上げませんでした」


 正直なところ、昨夜ガイウスの家を出たときは後ろ髪を引かれる思いだった。遠方からの客人の話はなんでもおもしろいけれど、彼の声にはもっと聞いていたくなるような響きがある。


「ガイウスに会いたかったから一日早く来たんだ。君がガイウスからも修道院長からも可愛がられてるのには、正直驚いた」


 驚いたのはエレスセーアのほうだ。院長の上客なら、同じわたつみを祀る修道院からの高僧だろうと想像していた。一等の宿部屋はめったに使われることがないし、それが世俗の者ならなおさらだった。


「同じ島でも修道院と行商では生活が全然違うだろう」

「ええ、そうですね。私は修道士に拾われてここで育ったんです。でも修道院の中だけでは他に子供がいないからと、下の村にもよく出されました。下の人たち――ガイウスさまたちもよくしてくれます」


 宿坊の角部屋に客人を通す。君が昨日の夜に用意してくれた部屋だね、とアウレギウスはにっこりした。一等とはいえ、壁は白い漆喰がむきだしで、簡素な机と椅子、ベッド、ランプ、作り付けのクローゼットがあるだけの部屋だ。しかし、シーツの布地は平修道士のそれより上等で、壁にはわたつみの恩寵を示す十字架がかかっていた。


「他の巡礼者は誰もいないんだね」

「ええ、今の時期は暖かいですが潮の満ち引きが荒いので、巡礼は推奨されていないんです。お話し相手がいなくて、おさびしいかもしれませんけど」

「いや、ちょうどいいよ」


 アウレギウスが唇の片端をつりあげた。顔立ちは整っているが、そういう笑い方をするとずいぶん人を食ったような印象を与える。


(昨日はガイウスさまたちと楽しそうにされていたのに、おしゃべりは好きじゃないのだろうか)


 尋ねてみたかったが、客の事情を詮索するようでエレスセーアはためらった。皮肉っぽい笑い方には、どこか他人が踏み込むのを拒む気配があった。


 言われるままにエレスセーアは院内を案内した。聖堂、食堂、厨房、大浴場、労働を行う高台の畑、工具場、地下礼拝堂、図書室、古文書倉庫。石造りの建物はどこも涼しく、夏でも底冷えがする。薄暗い室内には昼間からどっしりと重たい空気が漂い、狭い窓から浜辺を見ると眩しさに目がくらむ。


 最後に小さな中庭の四辺を囲む回廊に出た。回廊の一辺は対岸に臨んでいる。花頭型に連なる窓は吹き抜けで、はるか下に浜があり、そこから対岸までの道が波に見え隠れしていた。


 その窓の一つの前に立つと、アウレギウスは弓を射る動作をした。流れるような所作だった。目はじっと対岸を見つめている。

 エレスセーアが目をみはっていると、言い訳をするようにアウレギウスが苦笑した。


「ガイウスたちはここから弓を射ったのかと思って。昨日はあのあとも、ずいぶん思い出話をしたんだ。なにしろ先の大戦ぶりだったからね。島でも戦ったんだろう?」


 回廊は修道士たちの瞑想の場であって、常日頃から静寂がたもたれている。窓の外へ向けて弓を射るなど考えたこともなかった。ガイウスからそういう話を聞いたことがあっただろうか。


「どうでしょうか。普段ここには島の人は一切入れませんけれど」

「そうなのかい?」

「世俗のかたが修道士の生活の場に入ることは禁じられていますから」


 アウレギウスは考えこむように顎に指を当てた。骨張った指は長く、遠目にはほっそりとした印象だったが、そばで見れば実に頑丈そうだ。


「修道士たちと島民はずいぶん厳格に分離されているんだね」

「はい。この修道院の、清貧、貞潔、静寂を守るためです」


 エレスセーアは真面目な顔つきで述べた。この三つのモットーは修道院が建てられたころからのものだ。数世紀にわたって守られてきた。


 男はふいに、エレスセーアの瞳をのぞき込むように見つめてきた。


「君はそういう生活が好きなの?」

「え?」

「修道院の、厳しくて静かな、誰ともかかわらない生活が好きなのかい?」


 唐突な質問にエレスセーアは面食らった。わたつみに祈りを捧げる生活が、好き嫌いの問題だとは思われない。神々とは、人の好みを超越した尊い存在であるはずだ。


「好きというか、ここで育ちましたから」

「君から見て、修道士と島民の心は離れている?」


 今度こそエレスセーアは声を失った。黙った彼にアウレギウスが少し申し訳なさそうな顔をする。


「不躾な言い方ですまないね。つまり、何かするために協力したりできるのかってこと。大戦でこの島は勝ち星をあげたけど、どうやって戦ったのかと思ってね」


 それは十六年も昔のことだ。エレスセーアが拾われる以前の話である。今、島は平和に守られている。


「生活は離れていますけど、わたつみを敬う気持ちは漁師も修道士も同じだと思います」


 エレスセーアはなんとか返事を絞り出したが、それは客人の求める回答ではないような気がした。そうか、と頷くと、それきりアウレギウスは質問をやめて、対岸を見つめながら都の話をした。


 曰く、都は内陸にあって丘に囲まれているし、建物が多いから、こんな風に水平線が見渡せることはない。かわりに街外れに古い城壁が残っていて、今の季節にそこに登って都の内側を眺めると、白亜の万神殿とそれを囲む家々が美しい。全国から行商が集まるから、東西南北のものが手に入る巨大な市場がいつも開かれて賑わっている。


 エレスセーアが尋ねれば、彼は都の暮らしのどんな小さなことでも教えてくれたし、彼の話はどれでもエレスセーアを魅了した。


 その日、アウレギウスは教師が課題を出すような口調で、修道院の見取り図を用意してくれ、と言った。

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