始まりの島 見習い修道士と運命の大潮

透綿

第1話 砂州

「エレスセーア、対岸からお客人だ」


 義兄の声に、エレスセーアは黒髪を揺らして振り返った。義兄が見張り台の望遠鏡を覗いたまま喋っている。


「砂の道で止まっちゃってるな。ずいぶん立派な白馬だ。迎えにいってやれ」


 はい、と返事をしてエレスセーアは浜辺の馬小屋に向かった。


 砂州を通ってやってくる人間を、島では「お客人」と呼ぶ。そのほとんどは巡礼者だ。


 丘の上高くそびえる修道院のほかには、ふもとにへばりつくようにひしめく漁師たちの家しかない小さな島だが、わたつみへの篤い信仰が人を呼ぶ。この片田舎の海岸に浮かぶ小島まで、ときには国の中央から、人々は徒歩や馬で巡礼にやってくるのだ。


 日に二度、干潮になると海から浮かび上がる砂州が、島と対岸を結び、陸の人間を島へと導く。


 エレスセーアは質素な修道服の裾をひるがえし、青空の下を急いだ。丈の長い麻の服は、浜へと駆け降りるには向かないものだが、幼いころからの習慣でエレスセーアの体にはすっかり馴染んでいる。


(早く行ってあげないと)


 砂州を渡ることは時に危険を伴う。一キロに満たない距離で、客人があえなく波に飲まれる悲劇を防ぐために、島には見張り台が設けられていた。今なら波の来る心配はないとはいえ、不安だろう。


 ふもとで乗った馬を軽く走らせながら、濡れて輝く砂州の上にエレスセーアは目をこらした。


 客人は遠目にも質の良い布で仕立てた上着を羽織っている。えんじ色のフードで顔は見えないが、ずいぶんと背の高い男だ。白馬のたてがみを宥めるようになでながら、何事か馬に話しかけていた。


「お客人」


 声をかけると男が振り向いた。


「お困りのようですね。馬が動きませんか」


 エレスセーアが馬から降りて近づくと、客人はフードをはずした。とたん、流れ出た鈍い金色の光がエレスセーアの目を射抜いた。


 腰まである金髪、白皙の頬、空よりも明るい蒼の瞳。


 目に飛び込んできた光の奔流に、エレスセーアは呼吸を忘れた。厳しさを感じるほど整った顔だちの男が、高い位置から見下ろしてくる。


「……」


 気圧され、見つめあった数秒の後に、へにゃりと音がしたかと思うほど、目の前の男の相貌がくずれた。


「いやあ来てくれて助かった! もうどうしようかと思った、このまま潮が満ちて馬と一緒に溺れ死ぬかと思ったよ」


 眉毛の両端が下がっている。先刻の、息が詰まるほどの感覚は霧散していた。


「急に動かなくなっちゃったんだよ、うんともすんとも言わないんだ。アレアトール、お前一体どうしたんだい」


 男が馬の前でひらひらと手を振る。馬の黒目がじっと男を見てから逸らされた。わかってくれない主人にはこちらから取り合わないという態度だ。馬は賢く、気位が高い。


「あの、ちょっとよろしいですか」


 進み出たエレスセーアに男がのんびりと笑って道を譲った。

 

「どうぞどうぞ。いやぁ変だな、この子滅多に止まらないんだけど。海を怖がってたりするんだろうか」


 エレスセーアは、視線を白馬に移した。義兄の言ったとおり、この島の近くでは滅多に見ないような見事な毛並みの馬だ。


「この子の名前は、アレアトールでよろしいので?」

「そう」


 アレアトール、「博打うち」なんて変わった名前だ。こんな立派な白馬なら、「真白」…カンディドゥスなんてどうだろう。単純すぎて田舎っぽいだろうか。


 エレスセーアは白馬の首に手を伸ばした。驚かせないように、だが労りの気持ちをこめて、しっかりとなでる。


『はじめましてアレアトール。一体どうしたの』


 古代語で話しかけると、頬に強い視線を感じた。金髪の男が興味深そうにこちらを見ている。

 アレアトールは二度、右前足を踏み鳴らし、文句を言うように頭を振りかぶった。視線が自然とそこへ向く。


「あ」


 二人の声が上がったのは同時だった。真っ赤に怒った小さなヤドカリが、馬の右前足にはさみを立てていた。



 アウレギウスと名乗ったその男は、よく通る若々しい声でしゃべった。その快活な響きは漁にでている島の男たちにはないもので、ふもとの家々のあいだの細い道を案内すると、島に残っている女たちは振り返って二人を眺めた。なにしろ彼は目立つ。巡礼客を見慣れている島人の目にも、頭一つ抜きん出た長身の、身なりの良い男はまぶしく見えるだろう。


「若いのに優秀なんだね、古代語が話せるなんて」


 アウレギウスはもう打ち解けた感じで笑顔を見せた。


 かつて動物も話したと言われる古代語は、廃れて日常で使われることはない。耳で聞いて理解できる人間は限られている。習得するのは主に、写本を引き継ぐ修道士、万神の神事を執り行う神官、大学にいる学者、勉学に金を費やす余裕のある貴族や大商人の息子。


 巡礼客を迎え入れる側の常で、エレスセーアは客人の身分に想像を巡らしたが、容易に答えは出なかった。男は、これまで見たことのあるどんな人とも違う人間のように見えた。


「写本の手伝いをしているので少しわかるのです。古代語で書かれたものが圧倒的に多いので」

「君、修道士なのかい?」

「いいえ、まだ十六歳なので、見習いの身分です。でも、来年の春にはそうなるかもしれません」


 そうなるだろうか、本当に、と心のうちだけでエレスセーアは呟く。このところ、自分の先行きを考えるたびに、密かに悩みを反芻するのが癖になっていた。わたつみに一生を捧げる修道士になるか、修道服を脱いで世俗にくだり、島の男として生きるか。


 島の頭領ガイウスのところへ案内してくれと男は言った。巡礼ではなく、ガイウスに会いにきたのだという。ガイウスは行商人として内陸に足を伸ばすことが多く、顔が広い。とはいえ、彼のような知り合いが訪ねてくるのは珍しいことだった。


 客人用の馬小屋にアレアトールをつないでガイウスの家へ向かえば、ガイウスはすでに玄関先に立っていた。後ろに長男のプリムス、次男のセクンドゥスも控えている。

 お迎えご苦労、とプリムスがエレスセーアに手を上げた。先ほど見張り台で「お客人」を見つけたのは、エレスセーアの義兄であるプリムスである。

 

ガイウスは顎髭の生えた顔をくしゃりとさせて、男の肩に手をかけた。


「アウレギウス。生きとったか」

「生憎と。貴方は元気そうでなによりです」


 アウレギウスの横顔をエレスセーアはまじまじと見つめた。ガイウスとは年齢に開きがあるはずだが、ものおじしない口調だった。荒っぽい物言いの村の漁師とも、言葉を惜しむように声を落とす修道士とも違う。砂州で見せた情けない表情はすっかり消えている。



 日暮れ前から、客人は夕食をガイウスたちと共に囲んだ。義兄たちの作ったスープを食べ終え、台所で水を張った桶に皿を片付けながら、エレスセーアは居間にいるガイウスと客人との会話に耳を傾けた。


「……私もびっくりしましたよ、貴方があんなかわいい子を養子にとってたなんてね」


 ふいにアウレギウスが台所に視線を送ってきたが、自分が話題になるのが気恥ずかくてエレスセーアはうつむいた。癖のない黒い髪が垂れて視界にうつる。


 エレスセーアは正式に養子縁組しているわけではないが、ガイウスは俺の子だと言って憚らなかった。それは半ば自分への気遣いからなのだと、エレスセーアは思っている。


 島の外からの客に挨拶するたびに、自分の立場をどう説明していいのかエレスセーアは迷うのだ。まだ髪の長い子供なのに修道士の服を着て、それでいながら修道院の外を出歩いているのだから、不思議に思われるのは無理もない。明らかに島の血筋ではないエレスセーアを、いぶかしげに見る巡礼客もいる。


 客人は卓の上で指をおってみせた。


「貴方の息子は上から順にプリムス、セクンドゥス、テルティウス、一二の三のわかりやすい名前なのに、四番目の子だけエレスセーアとは洒落てますね。そこは普通クァルトゥスでしょう」

「修道院長がつけたんだ。籠に乗せられた赤ん坊が、海で光ってたから『エレスセーア』」

「へえ」

「そもそも弟のかわいさはうちの家系じゃないですけどね」


 よこあいから混ぜっ返したのは三番目のテルティウスだ。義兄たち三人の、目の色、髪の色はガイウスにそっくりだ。島の浜と同じ砂色。


「エレスは来年、成人なのに、小さくてかわいいでしょ」

「テルティウスも昔は女の子みたいじゃったが、今じゃあこのありさまだ」

「荒れくれになるまでしごいたのは親父だよ」

「そうかそうか」


 食卓を囲んだ男たちの笑い声がはじける。ガイウスはかたい顎髭をさすって、ゆったりと溜息をついた。


「今はプリムスが島の警備、エレスセーアが修道院との連絡役をやってくれとるから、わしは行商に専念できる。対岸の百姓もここ数年は実入りがいいし、島の住民の暮らしも安定しとるよ」


 ガイウスとアウレギウスとは、先の大戦以来の知り合いだという。大戦はこの小さな島をも巻き込んだ未曽有のもので、内陸にはその時の爪痕が、いまだ点々としていた。


「北部の、昔、敵兵の通ったところは相変わらず土地がやせていますね」


 もともと結びつきの弱い地方同士は未だ分断し、時折、外敵の侵入を許しては小さな戦火があがっている。


 海から流されてきて修道院に拾われたエレスセーアも、大戦のとき大勢いた戦争孤児のひとりに違いなかった。


「ここら辺は滋味も豊かで回復が早い。やはり北のほうが守りがつらいのです」

「うむ……」


 アウレギウスは都で地勢の調査をしているらしい。地理学者みたいなものだよ、と彼は言ったが、エレスセーアの学者のイメージは、目の悪い猫背の老人が研究に没頭する姿だ。アウレギウスの明るい声や、堂々とした華やかな容姿は、ちっともそのイメージと重ならなかった。

 修道士も、大量の写本を読み解き、この世の神秘を解明しようとする点では学者と同じだが、もちろんアウレギウスとは似ても似つかない。


 ガイウスの肩越しに客人と目が合って、エレスセーアはあわててまた視線を落とした。島に青い瞳の人間はいない。色素の薄い瞳に、他人の見た目ばかりを気にしている自分を見透かされているような気がして、長く見ていられなかった。


 桶に張った水に、夜より深い闇色の目と髪が映っている。島の人間の髪は伸ばせばゆるく波打つ。ちっとも空気を含まない自分の髪も、修道士のように短く刈れば目立たなくなるだろうか……。


 エレスセーアは、唐突に修道院の用事を思い出した。


「いけない。すみませんガイウスさま、私、急いで戻らないと」

「うん? まだいいだろう、あと少し」


 手早く皿を片づけていくエレスセーアに、ガイウスが太い眉を下げた。俺がやっておくよとセクンドゥスが椅子から立ち上がる。


「明日大事なお客人がいらっしゃるんです。なんでも院長さまのお知り合いで、長く泊まられるとか。一等の宿部屋を準備しなきゃいけないのに忘れてました」


 おやすみなさい、と告げて家を飛び出した。ばらばらと上がるおやすみの声に囲まれて、アウレギウスがじっとエレスセーアを見つめていた。もの言いたげな客人の、青く光る虹彩が、エレスセーアのまぶたに焼きついた。

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