第7話 ミニ通信

 適当な言葉が思いつかないが、‥‥‥根を下ろすという感覚だろうか。鳳が好きだ。東京生まれの東京育ちが、十八年前、初めてこの地を訪れ、恒彦が生まれ育った家で一カ月、思う存分暮らした。夜、一人になると、涙があふれて仕方なかった。八歳の時に父が亡くなっていて、母は麗子が中学二年のときに再婚した。父の姉である伯母に引き取られ、育てられていたこともあるのか、東京に鳳に感じるような情は湧かなかった。

「エエ町やろ。わしは、鳳が好きでな、‥‥‥この家は恒ちゃんの家やから、麗子さんの家になるんやで。‥‥‥いつか、帰ってきてな」

 遠慮がちな口調だったが、北野間の願望が嵐のように伝わってきて、麗子は悲しいほど胸が苦しかった。

「分かってるわ、おじさん。必ず帰って来るから」

 笑顔で涙をごまかしたが、あの時の約束がようやく果たせ、麗子は恒彦と鳳に住み、鳳で働いているのだ。親しい友人たちに囲まれて、彼らと心ゆくまで語り合う。なんて充実した毎日であろうか。

 東京にいる時は、夫中心の生活だった。社に近いからと、千代田区のマンションに住み、買い物とカルチャーセンターへ通うだけで、電話番のような日々だった。

―――さあ、今日も頑張るぞ!

 駐輪場に二十四インチのグリーンのママチャリを立てかけ、麗子は一人ほくそ笑んだ。夫の心が、自分の願う方向に傾き始めている自信があるし、昨日、店長からお墨付きをもらって、今日からミニ通信局の開設準備にとりかかるつもりなのだ。

 ダイユウのイベントホールには、常連のお年寄りがたくさん訪れるが、家庭内に悩みを抱えている人が少なくなく、病気や老いの不安も深刻だった。しかも、ツバサへ来れる人はまだ恵まれている方で、知り合いの大半は家に閉じこもって、悩みを話す相手もおらず、ストレスを発散する術も持っていないという。また、消息を知りたいのに連絡先の分からない人も多いらしい。麗子が簡単な連絡名簿を作って手渡すと、一部消息が知れただけでも、皆、子供のようなはしゃぎようで、あまりの感謝に、こちらが恐縮してしまったが、連絡は電話が主で、便利な一面、限界もあった。

「それじゃ、ミニ通信―――ちょっと大げさだけど、連絡帳みたいなものをね、そんなのを発行したら、どうかしら。―――大丈夫、私がおばあちゃん達の代わりに書くから」

 麗子の発案で、ミニ通信を発行して、各々の意見や感想を載せあってはどうかという運びになった。意見や感想は、家族がダイユウへ買い物に来るとき持参してもらい、一カ月に一度、つまり月刊のミニ通信に掲載するのである。

「いいですよ。百瀬さんが編集して発行してくれるんだったら、当店もバックアップしますよ。店のCMを入れたりすると、採算が取れるかも知れない」

 店長の滝田栄一が快諾してくれた。

「お年寄りの皆さん、昔訪れた堺の旧跡をもう一度、見てみたいと言われるんですが、私がビデオ撮影したのを、イベントホールの画面で流してもいいですか」

 恐縮しながら、麗子が無理な願いも告げると、

「ええ、午前中の三十分くらいなら、いいですよ。土・日と祝祭日は無理ですけどもね」

 こちらも、笑顔でOKをくれた。

 うまく行けば、鳳商店会発行予定のミニ新聞と合体させ、堺の名所旧跡案内、時事通信も載せられるものにしたいと考えている。

「ね、おばあちゃん。連絡したい人がいたら、この紙に書いてね。―――うん、ひらがなで大きく書いてくれればいいの。ここへね、見たいところを書いてくれると、希望者が多ければ、私がビデオで撮ってくるわ。午前十時から、三十分。あの画面で見られるわよ」

 麗子は記入事項を説明しながら、ホールのテレビ画面を指さす。

「お昼休みに、いま配った用紙を貰いに来るからね。もし書けてなかったら、家で書いて、いつでもいいから、薬局前の連絡箱に入れといてね。それじゃ。―――はーい。いらっしゃいませ」

 ゆっくりと用件を伝え、麗子は急いで薬局へ戻る。本業をおろそかには出来ないのだ。今日は早番で、麗子の仕事は十二時で終わりである。イベントホールのお年寄りからアンケート用紙を集め、

「それじゃ、失礼します」

「はい、お疲れさん。明日もお願いやからね」

 哲子に見送られて、ダイユウを出る。

「ただいま」

 ブタジュウに寄ると、源治が額の汗にタオルを当て終え、鉄板で焼きソバを焼くところだった。

「手伝おうか」

 麗子が笑顔で助っ人を申し出る。角切りの、大きなキャベツが青々と新鮮だ。

「うん、頼むよ。―――でも、その前に二階」

 源治が渋い顔をして、二階をアゴでしゃくった。どうやら、招かれざる客のようである。

 恐る恐る階段を上がると、上り口に擦り切れた靴が、夫のゲタの横に並んでいた。

「‥‥‥お邪魔します」

 ドアを開けると、

「やあ、奥さん! ご無沙汰しています」

 編集局長の前田道成だった。

(‥‥‥これは、手強そうだ)

 首をすくめて、麗子は夫の横に腰を下ろす。

「奥さんからも、よく言ってくださいよ。もし東京がダメだったら、『大阪本社勤務でもいいから』って言ってるのに、恒さん、首をタテに振ってくれないんだ。―――困るよ、今やめられたら。大体、もったいないよ。一体なに考えてんだろうね! まったく!」

 前田はまだ言い足りないようで、ブツブツぼやきながら、たばこを灰皿に押しつけてギュッと揉み消した。

「えっ!? 今、何ておっしゃいました!」

 近視の目で、麗子はまじまじと前田の顔を見つめた。開いた鼻がデンと据わった、鬼瓦のような厳つい顔。不思議なことに、その顔が急に仏様の慈悲の顔に変わってしまったのだ。

「もう、いいよ。何度も同じことを言わせるんじゃないよ。―――そうさ、やめるよ。やめればいいんだろ」

 今度は恒彦がふてくされた。

「うれしいッ!」

 あまりの喜びに、麗子は夫に抱きついてしまった。

「おい。やめろよ! やめろってば! ―――子供みたいじゃないか。‥‥‥ったく、もう!」

 恒彦に逃げられて、仕方なく前田に向きなおると、

「このようなわけでありまして、ご了承願いたいと思いますので、どうぞよろしく」

 麗子は、あっけにとられている前田に、両手をついて深々と頭を下げたのだった。

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