第6話 名医の診断

ふるさとは遠きにありて―――と、詠んだのは室生犀星であった。しかし、恒彦は東京でふるさとを思わなかった。北野間に対する負い目を忘れるためにも、甘く切ない郷愁を絶つためにも、意図的に避けてきたのに、堺へ帰ってからは子供のころの記憶が堰を切ったようによみがえってくる。

 海恋し―――と、晶子が詠んだ大浜も、十歳のころは白砂青松をとどめていて、靖夫とよく泳ぎに行った。いまは見る影もないだろうが、松並木を並んで歩きながら、彼と交わした会話の一部始終を恒彦は思い出すことが出来る。密閉されていた分、記憶が鮮明なのだろうか。東京での日々がぼんやりとヴェールに包まれたままなのに、少年の日の出来事が、色彩を帯びた明るい画像でよみがえってくるのだ。

「―――な、恒彦。ぼくは森鴎外みたいな人になりたいんや。文学だけやのうて、医者としても立派な人やったんやで。僕も頑張るさかい、恒彦もヘミングウェイのような人になってや。知ってるやろ、あの『老人と海』、書いた人。新聞記者やったんやて。―――新聞記者から文学者。どっちも最後は文学に向いたとこが共通してるやろ」

 小学校四年の時、アイスキャンデイーをなめながら靖夫は語りかけたが、彼の言葉で記者という職業を選んだように思う。

 ―――さて、名医殿の診断を仰ぐとするか。

 二十七日の金曜日、恒彦は苦笑しながら、縁側のロッキングチェアから立ち上がった。新聞記者を選ばせた張本人に、今後の身の振り方を決めさせるつもりだ。

「よう、源。車を借りるぞ」

「うん。靖夫に、ウチのバーテンやめさせんように言ってくれ。カクテルコーナー廃止になったら、お前もブラッディメリー飲まれへんぞって」

 愛車のキィを手渡しながら、源治はいつもの軽口をたたいた。

 雲一つない透き通る青空の下、七十年代初期の名車「スカG」は、ロックビートの力強いエンジン音を響かせ、午後三時前に大学病院の駐車場に着いた。急な階段を足早に上り、正面入り口から新館への通路に入る。エレベーターを待っていると、新館奥から靖夫が書類を右手に抱いて、小走りにかけてくる。腕時計に目をやっていて、こちらに気付いていない。

「‥‥‥よう」

「おお! 待たしたらアカンと思うて、―――ちょうど良かったわ」

 靖夫はエレベーター前で恒彦を見上げ、息を弾ませた。

「エヘン。―――一応、検査結果は、‥‥‥いや、エエわ」

 せき払いをして改まったが、自ら腰を折ってしまった。恒彦の横でパラパラと書類のページをめくって、思案顔だったが、

「どや、ちょっと歩こか」

 エレベーターの表示が二階まで降りてくると、ようやく意を決したのか、苦笑しながら靖夫が誘った。

 新館奥のドアを開け、緑に囲まれた中庭を二人並んで黙って歩く。

「―――昨日の雨で、落葉がようけ落ちてるやろ」

「‥‥‥そうだな」

「この匂いかぐと、雨の後、大鳥神社へ行った時のこと思い出してな‥‥‥。不思議やな、子供のときのことは、匂いまで鮮明や」

「うん」

「‥‥‥な、恒彦。覚えてるかな、お前と大浜へ行った時のこと」

「うん」

「あの時、ませたこと言うてしもて、―――せやけど、あれがお前との約束のように思えて、俺なりに必死に頑張ったつもりや。鷗外と同じ大学へ入ったまでは良かったけど、なかなかドイツ留学はまわって来えへんかったわ。毎日、研究室と自宅を行き来するだけでな、東京にいてるのに親友のお前と会う機会さえ持てへんかったやろ。―――結局、体こわしてしもて、‥‥‥いったい俺の人生、なんやろ、って思うようになったんや。エリスを捨てて名声をとるか、それともエリスとの恋に生きた方が良かったか。鷗外は死ぬまで悩んでたように思うたんや。そしたら、嫁さんが急にいとおしなってな、堺へ帰る決心ついたんや」

 藤棚の下で立ち止まると、靖夫は照れながら頭をかいた。

「‥‥‥お前、白衣が似合ってるよ」

 恒彦も立ち止まって、こぼれる笑顔を靖夫に返した。

「うん。‥‥‥ま、お前が決めることで、医者としての俺の言えることは、あんまりエエ状態やないということやな」

 急にかしこまると、靖夫は背筋を伸ばして最期の言葉に力を入れた。

「うん。分かってるよ。このままだと、親父の二の舞になるのは分かっているが、踏ん切りをつけられないんだ。‥‥‥意地かな。でも、お前の話を聞いて、少しは楽になったよ。一人じゃないってことだな」

「―――せやけど、エエ嫁さんやないか。源に聞いたぞ。麗子さん、迫力あったって。―――分かってると思うけど、俺も麗子さんの味方や。本音を言えいわれたら、なんぼでも言うけど‥‥‥、まあ、今日はここらでおいとくわ。一応、医者やからな。さあ、帰ろか」

 本音を言いかけて、靖夫は照れを隠すように、親友の肩をポンとたたいた。

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