第5話 伊原のおばあちゃん

猛暑の反動だろうか、十月も半ばを過ぎると冷気が肌に刺さる朝が時折訪れ、魔法にかかったように口から漏れる息が白く染まる。植木も寒さに驚いたのか、庭に舞う木の葉の数がめっきりと多くなり、風の強い日は、またたく間に、地肌が赤・青・黄のじゅうたんに覆い尽くされてしまう。鳳駅から歩いて五分、商店街まで二分という好立地だが、二十坪あまりの庭には松・梅・桜それに金木犀が、こざっぱりと刈り込まれていて、北野間の人柄がしのばれる。

「あー! いい匂い!」

 金木犀の下で、落葉を掃く手を止めて、麗子は胸いっぱい甘い香りを吸い込んだ。東京のマンションも公団の分譲だったので、敷地は緑に恵まれていたが、自分のものという感覚はなかった。

「‥‥‥ありがとう、おじさん」

 松の木の下の、手入れの行き届いた椿の小枝を手折った。玄関の一輪挿しに飾って、訪れる人をピンクの花びらで迎えたいのだ。

「おはよう。―――ほう! 寒椿が咲きだしたのか」

 縁側のガラス戸を開け、恒彦が朝の挨拶をする。今朝は殊のほか、機嫌がいい。

「おはよう。綺麗でしょう。―――でも、昨夜の風で、落葉がこんなに一杯」

「そうだな」

 恒彦も苦笑いを浮かべて、玉砂利を覆うカラフルなじゅうたんをしばらく眺めていたが、

「さて、面倒な仕事に取りかかるとするか」

 さも迷惑だと言わんばかりの口調で、縁側のテーブルに腰を下ろし、おもむろにジャンパーの胸ポケットからメモ帳を取り出す。言葉とは裏腹に、B4用紙を見つめる目元が微笑んでいた。昨夜、カクテルラウンジ―――ブタジュウ二階に急きょ設けられた、というより、一人暮らしの源治のダイニングルームそのもの―――で、商店主たちからミニ新聞編集の依頼を受けたらしい。

「今日は私、ゆっくりしていられないから、朝ご飯、一人で食べててね」

 鼻歌まじりで紙面の分割作業に勤しむ夫に断り、麗子はミニサイクルでダイユウへ向かう。十時開店なので、まだ三十分あまり余裕があるが、早めに行って話したい人がいるのだ。

 軽くブレーキをかけながら府道十三号線への坂道を下っていると、風が肌に冷たい。厚手のコートにスラックス、長めのブーツに手編みの特製手袋と、完全防備のつもりだったが、頬が冷たかった。

「おばあちゃーん」

 麗子は駐輪場に自転車を立てかけ、ベンチの老婆に笑顔で手を振る。

「はいはい」

 伊原のおばあちゃんは少しはにかんで、右手を小さく上げた。仕草が控え目で、上品だった。

 おばあちゃんの存在を知ったのは、パートに出たその日だった。イベントホールの椅子に座って、見るとはなしにテレビの画面にぼんやりと視線を注いでいた。麗子と目が合うと、寂しそうな笑顔を浮かべ、すぐ俯いてしまった。

「ね、百瀬さん。伊原のおばあちゃん、あなたが気に入ったみたいよ」

 柴山哲子が二人を見比べて、くすっと笑った。どことなく雰囲気が似ているのだ。

「ね、どんな人」

「‥‥‥それがね―――」

 哲子の話は愉快なものではなかった。

 おばあちゃんは八十九歳。菱木という、バスで二十分ほどのところに住んでいるが、息子の嫁との折り合いが悪く、息子が勤めに出るとすぐ家を出て、ツバサで一日の大半を過ごすとのことだった。

「近所でも評判の、性悪嫁らしいわよ」

 陰口の少ない哲子が顔をしかめるほどだから、額面どおりの女性なのだろう。

 次の日、ブタジュウの定食をパックに詰めてもらい、おばあちゃんを誘った。

「いえ、いいんです。本当にいいんですよ」

 おばあちゃんは膝の上の粗末な弁当を隠して、何度も何度も断った。小さな体が、これ以上小さくならないほど縮こまっていた。

「いいのよ、おばあちゃん、遠慮しなくて。私、おばあちゃんが好きなの。だから、一緒に食べて」

 麗子の目から、いつの間にか涙が流れていた。こんな不条理があって良いものだろうか。九十に手が届くというのに、なにゆえ、このような苦しみを強いられるのであろう。遠慮がちに、隣で箸を運ぶ老婆を見ていると、麗子は自分の幸せが後ろ目たかった。恒彦への感謝の気持ちがこみ上げて来て、食事が喉を通らなかった。

「ね、おばあちゃん。ツバサにいる時は、楽しくしましょうよ。いつでもここへ来て、私の話し相手になってね」

 せめてウイングにいる時だけでも、嫌なことを忘れさせたかった。一言も不平を言わず、はにかむだけのおばあちゃんが、麗子は気になって仕方がないのだった。

「やっぱり、もう来てたのね。寒いでしょう」

 麗子はコートを脱いで、立ち上がったおばあちゃんの肩にかける。

「さあ、従業員の通用口から入って、内で暖まろう」

 細い小さな肩を抱いて、ウイングの中へ入る。外と違い、春の暖気だった。

「‥‥‥な。なんで、こんなに私にようしてくれはるん?」

 おばあちゃんは、いつもの、少し困った遠慮がちな仕草で、麗子を見上げた。

「おばあちゃんが、私の大好きな人に似ているの。控え目で、無口で、とっても優しかったの。‥‥‥私も夫も、その人を大切に、大切にしたかったのに、できなかったの。だから、おばあちゃんには、少しでも楽をしてもらいたいの。―――ね、気を遣わなくていいから。じゃ、あとでね」

 イベントホールの椅子をおばあちゃんに勧め、ひざの上におはぎと小さなポットをおくと、麗子は開店準備のために薬局へ駆けて行った。

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