第4話 パート勤務
昨夜の妻の反撃がよほど応えたのか、朝、階下へ下りてきた恒彦は神妙だった。
「はい、これ。コーヒーがいい? それとも紅茶?」
ハムエッグの皿を夫の前において、麗子はことさら明るく尋ねた。
「‥‥‥うん。―――紅茶」
恒彦はうつむいたまま、ぼそぼそと口ごもった。こんなしょげた表情を東京でされたなら、
「いいわよ、恒彦さんの思いどおりにしたら。記者の女房になる決意をした時、すでに覚悟はできてんだから」
麗子は無理にでも、自分の意思を殺しただろう。しかしここは堺で、かつて信長にさえ楯突いた、ジパングの町なのだ。人情厚い人たちが住み、心強い仲間もいる。夫の健康を考えると、北野間博司が守ってくれた、この家に住むのが麗子には最良の選択に思えてならなかった。
「ね、ダイユウで、薬剤師のパートを募集しているの。行ってこようかなって、思ってるんだけど」
紅茶をカップに注ぎながら、さりげなく聞いてみる。募集は三日前のチラシで知ったが、タイミングを見計らっていたのだ。
ダイユウというのは、鳳駅から東へ三○○メートルほど下がった、府道十三号線沿いの大きなスーパーマーケットで、ウイングという翼型のビルの大半を占有していた。
「‥‥‥うん」
朝刊に目を落としたまま、箸もとらず、恒彦は気のない返事を口から漏らした。
「それじゃ、今日、面接に行ってこようかな。―――でも大丈夫かな。卒業以来、薬剤師の免許なんて、使ったことないから」
一応、迷いを口にしたが、応募の決意は固かった。東京へ帰る足かせになるなら、どのような既成事実でも積み上げるつもりなのだ。
昼食をブタジュウでとり、恒彦をそこへ残して、麗子は一人でダイユウへ向かった。上原や山上の奥方、それに源治に連れられて既に三度訪れているが、広い敷地に翼型の壮大なビルがマッチして、スーパーのイメージからかけ離れた存在であった。店内もイベントホールを持つ、娯楽施設としての機能を兼ね備えていた。
飲食店街ならびにある広いガラスドアを開け、腕時計に目を落とすと、一時五分前。買い物客で賑わう一階フロアを横切り、
「あのう、一時に伺うことになっていました、百瀬というものですが」
西隅の薬局で、主任の柴山哲子に、緊張した面持ちで名前と来店理由を告げる。
「いやー、エエわねぇ、東京弁って。何とのう、アカ抜けしてて。私なんか、憧れてしまうわ。―――ま、こんな調子で、ざっくばらんやけど、よろしう頼みます」
採用は即決だった。しかも翌日から、見習いを兼ねて来てほしいというのだ。
ダイユウは現会長が、神戸の中央区で薬の安売り店から始め、全国規模のスーパーを作り上げたもので、特に薬品には力を入れているらしい。阪神淡路大震災で阪神間の店舗が大きな被害を受けたこともあり、ここツバサ店も営業時間を夜八時まで延長して、収益の向上につとめているとのことである。
「医薬分業になったでしょ。だから急に忙しくなってしもて」
事情によっては、すぐやめなければならないが、柴山はそんな麗子でも大歓迎だと言ってくれた。
喜び勇んでブタジュウへ顔を出すと、源治が遅い昼食を口に運んでいて、彼の前で夫がブスッとした顔でコーヒーをすすっていた。
「へぇー、良かったじゃないか。―――実は、恒のアルバイトも決まったんだ」
源治が恒彦にチラリと視線を送ってから、意味あり気に麗子に笑いかけた。
「まあ! どんなアルバイトなの?」
嬉しそうに夫の横に腰掛け、源治の顔をのぞき込んで興味を示す。
「いやぁ、それがさ。―――何と! 喫茶ブタジュウのカクテルコーナー専属の、バーテンダーなんですよ、奥様」
「何だよ! もう、馬鹿にして! 靖夫の検査が終わるまでだぞ! それ以上は、やんないから。誰かみたいに鳳中毒になって、日がな一日、鳳、鳳って口走るようになったんじゃ、たまんねぇからな。‥‥‥アル中より、よっぽどタチが悪いんだから」
恒彦は眉間にシワを寄せ、いつもの仕草で悪態をついた。
源治の話によると、客の要望に応え、恒彦が冷やかしで店内の洋酒にライムや野菜汁を混ぜたカクテルを提供するのだが、これが意外なほど好評でファンクラブまで結成されかねん勢いなのだ。
「麗子ちゃん。恒のやつ、結構、ご婦人方に人気があるんだ。『マスターのお友達の、あのハンサムな方、お名前は?』なんて聞く女性ファンが多いんだ。気をつけろよ、麗子ちゃん」
「はい、はい、分かりました。‥‥‥でも」
恒彦には、アルコールを飲んでもらいたくないのだ。麗子が言いよどんでいると、
「分かってるって、常識だろ! 自分の商品に手をつけないのが、プロなんだから。シラフでやるって。酔っ払ってカクテル間違うなんざ、―――そんなみっともないまね、するわけねぇだろ!」
恒彦はウンザリした顔で二人を見回し、ブツブツ文句を言った。
その日の夜から、お好み焼き喫茶ブタジュウの二階に、カクテルコーナーが開設された。営業時間は午後八時から十一時までの三時間。開店祝いに駆けつけたのは、常連客と恒彦の小学校時代の腕白仲間、それに鳳商店会の店主たちだった。
(‥‥‥ありがとう、源さん)
客たちの注文に、言いたい放題の悪態をつく夫を見ながら、麗子は隣席の源治に感謝せずにおれなかった。これでまた一つ、夫の足かせが出来たのである。
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