第3話 ワーカホリック
帰省直後の北野間の死と葬儀、それに、その後の雑務は、恒彦の帰京意思を阻む強力な助っ人であった。
「いいかな、東京へ帰っても。すぐ戻るからさ。社の連中も困ってるんだ」
恒彦が伺いを立てる度に、
「駄目よ。いま、帰られたら、本当に困るわよ。よそ者の私じゃ、勝手が分からないし、なんてったって、恒彦さんが喪主で、北野間のおじさんの承継人なんだから。社の皆さんには、電話の対応で何とか間に合わせてよ。源さんのファクスで不便だったら、ここへファクスを取り付ければいいんだから。それにパソコンでインターネットという手もあるし」
麗子は、恒彦をおだて宥(なだ)めすかしてきたが、十日目ともなると、そろそろ限界である。イライラが高じているのが表情から明らかだし、もどかしいのだろう、東京への電話の指示も怒鳴り声が多くなってきた。
(‥‥‥一波乱起きるのは、致し方ないか)
四十九日、少なくとも三十五日をダシに、それまで滞在し、その間に帰京を断念する方向にもって行きたかったが、認識が甘かったようである。
―――とりあえず、今日の結果にかけてみよう‥‥‥。
麗子は仏間の位牌に手を合わせ、午後八時前に自宅を出て、点々と明りのともる夜道を上原家へ向かう。ブタジュウ前を通り、ガラス越しに夫と源治を確認するが、声をかけなかった。南北に延びる、鳳商店街のアーケード下を、うつむき加減に南へ向かって歩く。薬局手前の路地を左に折れると、華やぎと音楽の消えた路地の奥に、上原医院の小さな看板が、蛍光灯の白い光に照らし出されていた。
「ごめん下さい」
母屋の横あいを抜け、奥の離れのドアホンを押した。
「はい、はい」
訪問を告げてあったので、明らかに麗子を迎える好意的な声が返ってくる。
「いらっしゃい」
格子の引き戸が開いて、大きな笑顔がのぞく。大学から帰宅間際のようで、まだネクタイを外していなかった。
「すみません。お忙しいのに」
厚意に甘えてしまい、麗子は恐縮してしまう。
「いや、いや。こっちこそ、申し訳ないです。家内のやつ、詩吟を習いに行ってるらしくて、家におらんのですわ」
靖夫も大きな背中を丸め、苦笑しながら玄関左の応接間のドアを開けた。廊下の奥に居間があるのだろう、テレビと子供たちのはしゃぎ声が漏れてくる。
「いや、いや。うるそうて、かなわんのですわ」
子供が出来ないのを知っているのか、気遣いが口調に現れていた。
「検査結果は、これなんですわ」
ソファーに腰を下ろすと、早速、靖夫はカバンから書類を取り出し、テーブルの上に広げた。
「先日の検査では、大腸癌の再発はなかったんですが、肝硬変がかなり進んでましてね、あんまり楽観できる状態やないですな。ほら、この数値‥‥‥」
靖夫はデータを指し示して、眉間にシワを寄せた。
「―――本当ですね‥‥‥」
麗子も検査数値をのぞき込んで、顔を曇らせた。やはり、東京へは帰らせられないようだ。
「こっちでは無理してないんで体調はエエ言うてたけど、東京へ帰りとうて仕方のない恒彦のいうことやから額面通り受け取れんしね。それに、ここまで悪してたら、肝臓のことやから、ちょっとやそっとじゃ話にならんし。‥‥‥睡眠不足に過労、それに過度の飲酒は命とりやな」
大腸癌より肝臓の方が、よほど深刻だったのだ。
「‥‥‥どうしたら、いいんでしょう?」
東京へ帰れば、一日二十四時間勤務といってよい日々が待ち受けていて、酒は浴びるほど飲むのだ。
「今の仕事をやめたら一番エエんやろけど、記者にこだわりがあるやろし、おまけにワーカホリックやさかい、恒彦は仕事せなんだら、落ち着かれんでイライラするやろしね」
まさに靖夫の言うとおりで、既に禁断症状が出はじめているのだ。
「私は東京へは帰りたくないんです。このまま、ずっと堺で暮らしたいんですが‥‥‥」
「そうやね、それがエエと思うけど、本人が納得せんやろね。何せ、頑固やから。やりがいのある仕事さえ見つけたら、こっちにいてることに抵抗を示さへんと思うんやけど、難しいな」
靖夫は思案顔でメガネをはずすと、薄くなり始めた髪を左手でしきりになでた。
「‥‥‥そやな、来年ちゅうことになってたけど、少し早めにやってみよか。恒彦の経験も生かせるし、興味を示してくれたら、もうけもんや」
鳳の若手商店主を中心に、地元の振興のためにタブロイド判の月間新聞を出す計画があるらしい。単なる商店の宣伝では面白くないので、時事問題や読者の要望も入れた、ミニ新聞を発行しようということになったが、適当な編集者がいないので、計画が暗礁というほどではないが、先送りのような事態を余儀なくされていた。
「それだったら、私も手伝えますし」
月間新聞と聞いて、麗子も身を乗り出した。大学の新聞部で、キャプテンまで務めた身なのだ。
「ほなら、谷口印刷の社長と話し合ってみるさかい、取り敢えず、検査結果が思わしくないんで、もう一度、十分な検査したいから、一週間後に再検査する言うて、恒彦を納得させてもらおかな」
「はい、そうしていただけると助かります。本当にありがとうございます」
帰り際、玄関前で、
「本当にありがとうございました」
再度、靖夫に深々と頭を下げて、麗子は彼の家を後にした。来る時と違い、スキップでも踏みたい気分であった。源治が《動(どう)》であれば、靖夫は《静(せい)》で麗子を応援してくれる。好対照な二人が頼もしくて、夫がチョッピリうらやましくなった。
「おじゃましまーす」
ニコニコしながらブタジュウのドアを開けると、恒彦が眉間にしわを寄せて、源治に反論していた。
「何いってんだい、馬鹿! 俺なんか、毎日、ボトル一本空けてたんだぞ。ビールの一本や二本、屁でもないんだ。水臭いこと言わずに、もう一本よこせよ」
「コラッ! 恒。もっと体を大事にせんか。俺も肝臓やられたから、肝臓悪いヤツ、顔見れば分かるんだ。お前の顔は大ビン二本まで。後はウーロン茶、ウーロン茶」
「そうよ、ウーロン茶で今夜はお開きよ」
最後の客の勘定を済ませ、麗子が二人の間へ割って入る。
「‥‥‥ホント、面白くないよ。お前らね、よってたかって、俺を東京へ帰らせまいとして、共同戦線はってんだろ。―――あー、いやだ、いやだ。周りが敵ばっかりで、おまけに体がなまって仕方がねぇよ。早く東京へ帰りたーい」
恒彦は酔いがまわってきたのか、少し機嫌が悪い。
「―――で、どうだったんだ。名医さんの見立ては? どうせ、靖夫まで味方に引き入れてんだろ」
今度は、自分の横に座った麗子にからみ出す。
「もう一度、十分な検査をしたいから、一週間後に、再検査ですって」
「何を言ってるんだ! 一週間だって! ‥‥‥社の連中になんて言い訳をすればいいんだ。俺は明日、絶対帰るぞ! これじゃ、仲間に言い訳がたたないじゃないか。馬鹿も休み休み言えよ!」
恒彦は声を荒げて、麗子の肩をゆすった。
「社の皆さんには、社をやめるって言って下さい。このままじゃ、二、三年しか体がもたないから、女房のために社をやめたい。これまで夫らしいことを、なんにも、してやれなかったから、これからは女房とゆっくり話をする時間を持ちたい。買い物にも一緒に付いて行ってやりたい。食事も一緒にしてやりたい。子供がいないから、夜、一人で待たせるのはかわいそうだ。‥‥‥ね、私がどんな思いで毎晩、あなたの帰りを待っていたか、考えたことがあるの? ねぇ、どうなのよ! 黙ってないで、ちゃんと、答えてよ!」
麗子は居直ってしまった。泣きながら恒彦の肩をゆすっていたが、
「もし東京へ戻るんだったら、あなたの葬儀の翌日、私も死ぬのを覚悟して、戻ってくださいね。北野間のおじさんの気持ちと同じなんだから。―――もう! この分からずや!」
最後の言葉を告げると、目をぬぐって一人でブタジュウから帰ってしまった。
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