第2話 ふるさと

やさしい人だった。父の無二の親友で、子供の時から家族同然に接してきたが、恒彦は北野間に怒られた記憶がない。彼の怒った顔が想像できないのだ。

 父はよく怒る人で、いたずらをするたびに、大声で怒鳴られたが、

「百瀬、そんなに怒るもんやないで。お前も、小さい時はワルサやったやないか。ちょっとは大目に見たれや。―――な、恒ちゃん。今度から気ィつけるんやで」

 いつも北野間がとりなしてくれた。

 恒彦が十一の時、父は事業に失敗して全財産を無くしたが、鳳の家と土地は北野間が買い戻してくれた。

「エエねん、エエねん。わしは独り身やから、広い家はいらへんねん。‥‥‥百瀬、そんなに恐縮するなよ、友達やないか。恒ちゃんのために、もういっぺん、頑張ったれや」

 父を励ます北野間の声が、恒彦の耳の奥に刻みつけられている。

「恒彦。‥‥‥北野間はわしの命の恩人やねん。あいつには命を助けてもろて、おまけに世話になりっぱなしで、―――なんにも返されへんかった。‥‥‥片肺だけになったんも、わしのせいなんや。大事にしたってくれよ、頼むぞ!」

 いまわの際の父の言葉だった。終戦時、フィリッピンで敗走中、マラリアにかかった父を背負って逃げてくれたらしい。極限時での無理がたたり、復員船内で結核を患ってしまった。病気に対する偏見と長い療養生活のために、北野間は婚期を逸してしまった。代書をもっぱらとする行政書士業務で生計を立てていたが、決して裕福でなくつましい生活だった。

 恒彦が十八の時、父が亡くなり、看病疲れのため母も後を追うように、その年の暮れに逝ってしまった。‥‥‥どん底。当時、恒彦にはこれ以外の形容が思いつかなかった。

 父の葬儀も母の葬儀も、すべて北野間が取り仕切ってくれた。

「‥‥‥恒ちゃん。大学はあきらめんで、エエんやで。それくらいの金は、あるさかいな。東京でも、どこでも、好きな大学へ行ったらエエんや。今日から、おっちゃんが、恒ちゃんの家族や。何も遠慮しィなや」

 母の通夜の晩から泊まり込んでくれたが、恒彦が北野間と一緒に暮らしたのは、わずか三カ月だった。家から通える大学だったが、負い目と北野間の優しさが苦痛に感じられて、大学の近くでアパート暮らしをした。

「どうや、よう勉強してるか。ちょっと、この近く通りかかったんで寄ってみたんや」

 月末になると、判で押したようにアパートを訪れては、部屋へも入らずに、北野間は小遣いだけを置いていった。

 大学を卒業して、東京の新聞社に勤めると告げに行くと、

「‥‥‥そうか、新聞社は東京にあるんか。‥‥‥もう、杉本町へ行くみたいなわけにはいかへんのやな」

 目にうっすらと涙を浮かべて、北野間はやせた肩を落とした。痛々しいほどの落胆だった。

 十八年前、麗子を連れて一度、恒彦は堺へ帰ってきたが、彼女が言い出さなければ、帰ることはなかっただろう。

「まあ! それじゃ、恒彦さんの、お父さんみたいな人じゃないの。‥‥‥私、会いたい! 北野間のおじさんに、私達のことを知ってもらいたいの。ね、お願い!」

 送られてくるだけの、淡々とした葉書の文字から、深い愛情を読み取ったのだろう。麗子は北野間に会うことに強いこだわりを見せた。恒彦二十六、麗子二十歳の春だった。薬科大の新聞部員だったので、麗子は取材を口実に春休みを利用して、丸々一カ月、堺で暮らしたが、日帰りの恒彦は女子大生連れの旅行がバレて、同僚たちに散々冷やかされたものだった。

「‥‥‥ね、北野間のおじさんのことを考えているの?」

 十八年前、―――いや、高校を卒業した二十六年前そのままの自室のベッドに、恒彦が寝そべっていると、麗子が二人分の紅茶を運んできた。

「‥‥‥」

 ぼんやりと梁の走る天井を見上げたまま、恒彦が返事をせずにいると、

「ね、北野間のおじさんの手紙、どんな内容だったの?」

 夫が愛用したグレーのスチール机に紅茶を並べながら、麗子がさり気なく尋ねる。

「君はすでに知っているだろう」

 体を起こして、恒彦は苦笑いを浮かべた。いずれも麗子が望む内容で、彼女の意思が色濃く反映されているのだ。相続財産一つとっても、すべて恒彦名義に書き換えられていたが、麗子が実印を送らなければ不可能なことであろう。

「恒ちゃん。麗子さんを大事にしたってや。恒ちゃんだけが生きがいなんやで。それから、上原のボンの診察受けてや。おっちゃんの最後の頼みや」

 僅か二行の手紙なのに、恒彦は涙でぼうっとかすんで、なかなか読み進まれなかった。生涯独身を通し、いったい何を楽しみに、と子供心に思ったこともあったが、北野間の手紙で彼の生きがいが、ようやく分かった。しかし、自分は何と恩知らずだったのだろう。読み終えて、恒彦は後悔と慚愧の念に堪えなかった。

「‥‥‥ね、手紙見せてよ」

 麗子に催促され、渋々、カバンの書類入れから、手紙を取り出した。

「‥‥‥下のリビングで、続きを―――」

 溢れる涙で、最後は、声にならなかった。口を押さえ、麗子は逃げるように階下へかけていった。

―――靖夫の診察か‥‥‥。

 椅子に腰を下ろして、恒彦はため息をついた。北野間の遺言とあらば、受けねばなるまい。大腸癌の再発も懸念材料ではあるが、肝臓は確実に要治療の宣告を受けるだろう。本人が自覚しているほどだから、肝臓外科医には一目瞭然なのだ。帰郷がまた一日延びるのかと思うと、恒彦は特集記事の遅延が気になって仕方がないが、無理に帰れば麗子の猛反発を食うのは明白であった。東京と違って、堺では手ごわい味方が彼女の脇を固めていて、こちらの勝手がすこぶる悪いのだ。

 しばらくして階下へ下りると、麗子はリビングのテーブルで泣いていた。両手で顔を覆い、小さな肩がこきざみに震えていた。

 十五畳余りのリビングの西隅に、香典返しが個人の徳を偲ぶように、ひっそりと積み上げられてあった。身寄りがないので、恒彦が喪主だった。人情味あふれる互助が未だ健在で、北野間の死を悼み近隣の人たちが通夜や葬儀を率先して手伝ってくれた。故郷を捨てた不義理な男なのに、鳳は恒彦を温かく迎え入れてくれたのだった。

「―――あっ、恒彦さん。ずるいわ、黙って見てるなんて」

 気配に呼び覚まされ驚いたように振り向くと、麗子はぎこちない涙の笑顔で口をとがらせた。

「さあ、これで美人の麗子サンに戻ったでしょ!」

 リビング奥の洗面から、両手を広げ、おどけた仕草で出てくると、麗子は恒彦の向かいに腰を下ろして軽口をたたいた。子供がいないせいもあると思うが、三十過ぎにしか見えない若さで、小柄だが鼻筋の通った、愛くるしい顔の美人である。恒彦は、艶のあるアルト調の声が特に好きで、電話の応対を受けた知人たちからは、「声美人だね」と、よくからかわれる。

「‥‥‥うん、美人だよ」

 麗子の軽口に、恒彦も自然と笑顔がこぼれた。感情がこれほどストレートに表情に出るのは、十四年振りのことなのだ。第一子を流産で亡くし、術後の合併症によるものか、精神的なものなのか医師にも判断がつきかねるらしいが、不妊症ではないかとの診断が下されていた。責任を感じているのか、急に寡黙になり、恒彦の無茶な生活リズムにも不平を言わなくなった。会話らしき会話のない夫婦生活が長い間続いて、以前の麗子を忘れかけていたのに、鳳へ帰ってからは見違えるような変貌を遂げてしまった。北野間の魂のなせるわざか、鳳という土地柄のせいであろうか、麗子は以前の自分を取り戻したのだ。

「ね、恒彦さん。祭神ヤマトタケルノミコトの、大鳥神社へお参りしたいわ。十八年振りだもん。北野間のおじさんと、よくお参りしたのよ。‥‥‥源さんとも。『麗子ちゃん。仁徳の御陵さんが、堺で一番有名な史跡だとしたら、大鳥神社はその次なんだ。なんてったって、ヤマトタケルノミコトがオオトリになって舞い降りたのが、この神社の森だって言われているくらいだから』って、源さん、鼻高々だったわ。私、その話を聞いて、大鳥神社が大好きになっちゃった。―――ね、お参りしましょ。堺へ帰って、まだ一度もお参りしてないんだから」

 通夜の日は秋祭りが済んですぐだったし、忙しくて参拝など思いも寄らなかったが、初七日が過ぎると心にも少し余裕が生まれる。死者に対する思慕の念は生涯消えることはないが、表面的な日常からは潜行を始める時期なのだ。

「こんにちは、坂口さん。いろいろお世話になり、ありがとうございました」

 自宅近くのお寺の前で、温厚な老夫婦に、通夜と葬儀の礼を言う。

パチンコ店の裏路地を抜け、商店街へ出て北へ歩くと、五分余りで大鳥神社に着く。

「視聴者の皆さん、こんにちは。今日も○○(マルマル)テレビ特ダネワイドショーの時間がやってまいりました。本日のゲストは、記者の鑑(かがみ)とマスコミ界では呼ぶ人もおりますが、記者の妻たちからはブーイングの絶えない、百瀬恒彦さんです。百瀬さん、こんにちは。―――インタービューアーは、わたくし、マムシのお麗こと、百瀬麗子です。それでは最初の質問ですが、百瀬さん。小学校入学時、マスコットの亀さんを裏返しにして、校長先生から大目玉を食ったというのは本当でしょうか」

 鳳小学校前で、麗子が笑いながら、マイクをつきつける真似をする。

「‥‥‥本当に腕白だったのね」

 麗子に言われるまでもなく、腕白の限りを尽くしてきた。源と靖夫、それに商店街で寿司店を営む山上豊吉が仲間だった。靖夫は祖父の代から自宅で医院を開業し、地区の人たちには「上原のボン」と呼ばれるほどの、ぼんちだったが、腕白付き合いはよかった。

「ねぇ、こんなマンション、なかったのに」

 大鳥神社近くに差しかかると、外壁がレンガ風の瀟洒なマンションが民家の屋根の奥に控えていた。

「―――そうだな。‥‥‥十八年か」

 思い出が古いページの片隅に追いやられて寂しくなったが、幸いなことに、神社の境内はほとんど変わっていなかった。

「♪ うさぎ追ーいし、かの山ー ♪ こぶな釣ーりし、かの川ー ♪」

 恒彦の右腕を抱きながら、麗子は小さく口ずさむ。

 神社の境内で兎を追ったことはなく、二キロほど東にある家原寺(えばらじ)の裏山がもっぱらだった。しかしこの境内と違い、開発で今は跡形もないだろう。麗子の歌う「ふるさと」が妙にうら悲しく、恒彦は体の芯がしびれるような感覚に襲われるのだった。

「ね、ドングリ!」

 うすく色づき始めた楓の下で、麗子がしゃがんでドングリを拾う。

 妻と、こんなおだやかなときを過ごすのは、恐らく初めてだろう。大学の新聞部へ講師に招かれたときは、よく構内を二人で歩いたが、結婚後は、二人で散歩することも無かった。誇れるものではないが、新婚旅行にすら行っていないのだ。

「これじゃ、釣った魚にエサはやらないってのと同じじゃないの!」

 新婚当初の口癖が、麗子と境内を歩いていると、恒彦の耳に甦ってくる。

「―――いいから、‥‥‥寒くないのに」

 本殿前で、渋る麗子の肩に、恒彦は自分のグレーのカーディガンをかけた。

 堪能するまで大鳥神社を散策し、商店街裏の《お好み焼き喫茶ブタジュウ》へ入る。丁度、昼の定食時間帯で、源治は鉄板前で格闘していた。

「源さん、手伝うわ」

 麗子が腕まくりをして、カウンターの内へ割り込む。十八年前、一カ月近くアルバイトをしたので、仕事の手順は体が覚えているのだ。

「ありがとう、麗子ちゃん。これ、一番テーブルへお願い」

 髭の中から白い歯を見せ、源治が焼き上がった豚玉を鉄製トレイに乗せる。

「よう! 恒」

 奥のテーブル席から、豊吉が恒彦を招く。タバコをくゆらせ、小太りの笑顔が優しい。

「いいのか、豊。こんな時間に、商売敵のところで油を売っていて」

 椅子に腰を下ろし、初七日の仕出し料理と巻寿司の礼を述べると、恒彦はさっそくコーヒーを口に運ぶ親友をからかう。

「いいよなあ! 豊んとこは、頼りになる若いモンが一杯いるから。親方がサボってても、ちゃんと仕事をしてくれるんだもんな。俺も、あやかりたいよ」

 源治も、鉄板にジュウジュウ、テコを押しつけながら追い打ちをかける。

「源さん、ひがまない、ひがまない。今日から、ブタジュウは強い助っ人が入ったんだから。私がずっと手伝ったげるわよ。豊さんとこの、若い衆にも負けないから」

 麗子は夫の反応を見たかったが、背中を向けているので彼の顔は見えなかった。

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