堺鳳ジパング通信局(父・南埜宏と息子・南埜正五郎を守れなかった夫婦の後悔)
南埜純一
第1話 帰郷
【本書を、我が父南埜宏と医師だった息子南埜正五郎に捧げる】
生誕地は東京都港区赤坂。では故郷は? と問われれば、十八年前にたった一度訪れただけの、堺市鳳。麗子はそう断言できる。人情息づく庶民的な町並み、忘れられない印象をうえつけた優しい人。‥‥‥恋しい。東京にいて、堺を恋うる日々だったが、ようやく念願かない、十八年振りに麗子は堺を訪れる機会を持つことが出来たのだ。
―――もうすぐ、大和川。
この川は、堺と大阪市を分かつ一級河川である。かつて黄金の日々を謳歌し、堀と塀で囲まれていた―――自由都市―――堺は、現在この大和川に北限を画されているのだ。
(‥‥‥もう二度と、この川を渡らせない!)
夫を東京へ帰さない決意を、麗子は眼下の川に託した。台風明けの濁流が両岸をなめ尽くさんばかりで、ゴウゴウと渦巻く荒々しい大河が、たくましく頼もしかった。
「間もなく、堺市―――」
大和川を渡ると、次の停車駅を告げる軽快なアナウンスが、車両に響き渡る。
「―――ね、恒彦さん。十八年ぶりの堺よ」
身じろぎもせず天王寺駅から目をつぶったままの、隣席の夫を見上げた。JR杉本町駅を通過したとき、十八年前と同じく、沿線に広がる母校大阪市立大学に目を細めると期待していたのに、恒彦は興味を示さなかった。
「ねぇ、いや、そんな仏頂面。北野間のおじさんの前では明るくしてよ」
無視されたままなので、麗子はふくれっ面を向けて、窓際の夫の肩をゆすった。
「‥‥‥うん。分かってる。分かってるって。大丈夫だって」
「そうよ、その顔。私、大好きなんだから。お願いだから、こっちでは仕事のことは忘れてね」
眉間にしわを寄せた、怒ったような仕草が一番好きだ。麗子は甘えるように夫の右腕を抱いて、体を、少し寄せた。北野間博司に頼んで、恒彦を東京から呼び戻してもらったのである。休暇をとったこの機会を利用し、新聞記者の仕事を辞めさせなければ、主治医の言を待つまでもなく、夫の命が数年で尽き果てるのは明らかであった。
大腸癌を患った仕事の虫には、新聞社の社会部デスクは命の切り売りといってよい激務なのだ。再発の不安におびえる麗子に、追い打ちをかける特派員だった親友の死。カイロでの交通事故が原因だが、恒彦が、ルクソールで起こった無差別殺傷テロ事件の調査を頼まなければ、一ヶ月前に帰国していたはずであった。
「‥‥‥薫さん、今日、急に引っ越されたの。―――もちろん連絡しようとしたわよ。でも、薫さんに止められたの。‥‥‥恒彦さんの顔を見たら、智之君が泣いて、別れがつらくなるって。‥‥‥『ごめんなさい、挨拶もせずに』って。‥‥‥それから、『ご自分をあまり責めないでください』って」
親友の妻は、麗子にだけ別れを告げマンションを引き払ったが、引っ越し先は麗子にも明かしてくれなかった。
「ねえ、生まれ故郷で暮らすつもりはない? 体が良くなるまで、私が働いて、あなたを養ったげるから。薬剤師の免許を使うと、結構、時間給いいのよ。それに、看護師の資格も持ってるし」
鳳駅の手前で、冗談交じりに自分の意図を伝えた。夫の性格を考えると悲観的にならざるを得ないが、麗子には頼もしい味方が三人もいて、すでに彼らへの根回しも済ませてあるのだ。
「おおとりー、おおとりー」
関空(関西国際空港)快速を鳳駅で降り、両手にバッグを下げてホームの階段を上がると、
「おーい! 麗子ちゃん! こっち、こっち!」
改札前で坂田源治が手を振って、大声で二人を迎える。
「何だよ! 源(げん)! 十八年振りに親友に会うのに、嫁さんの名前を呼ぶヤツがあるか!」
笑顔で抱き合いながら、恒彦は親友に悪態をついた。
「‥‥‥ありがとう、源さん。こんにちは」
麗子も微笑みを浮かべて、強い味方に挨拶する。「もとはる」が正式な呼び名だが、麗子も親しみを込めて、「げん」さんと呼んだ。
「‥‥‥ところで、おじさんの具合はどうなんだ?」
十八年振りの帰郷は自らの意思ではなく、大恩ある人の遠慮がちな言動に促されてのものであった。駅前の狭い車道を横切り、パチンコ店裏の路地を並んで歩きながら、恒彦は源治の顔をのぞき込んだ。
「‥‥‥うん。相当悪いよ。上原の話じゃ、気力で持っているようなもんらしい。‥‥‥でも、もう大丈夫だよ。北野間の親父さん、お前を息子のように可愛がってたから、おまえと麗子ちゃんの顔を見ると、きっと元気が出るだろう。さあ、名医殿が、お待ちかねだ。急がないと、上原助教授がカンカンだ」
源治は小学校時代からの親友をダシに、恒彦と麗子の笑顔を誘うが、二人とも深刻な表情を崩さなかった。
「とりあえずここへ荷物を置いて、すぐ大学へ行こう」
鳳商店街一筋西の、源治の店にボストンバッグを預け、三人は源治の車で大学病院へ向かう。
「こんな新しい道路が出来たんだな‥‥‥。以前、狭山町だったのに、大阪狭山市になったのか」
つぶやくように口から漏れたが、車窓の景色も新市名も、恒彦には上の空だった。
三時過ぎに病院の構内へ入ると、上原靖夫が正面玄関へ飛び出してきた。
「おい、早う! 早う! 急がなアカンがな!」
靖夫に急かされ、顔が強張ったまま、二人は彼に従い三階の集中治療室へ飛び込んだ。
「北野間のおじさん! ‥‥‥ごめんなさい。うー!」
麗子が真っ先に駆け寄り、やせ細った北野間の手を握って泣き崩れた。
「‥‥‥おじさん。済まなかった」
恒彦も涙声だった。胃癌とは知らされていたが、病状は素人目にも、末期であった。
「‥‥‥」
唇がかすかに動くが声にはならず、やせた顔に北野間の笑みが寂しかった。麗子が目を拭いてやると、北野間は靖夫を見上げ、頼むような仕草を浮かべた。
「うん、うん。分かってるで。これ、恒ちゃんに渡しとくからな。よっしゃ、よっしゃ、安心してや」
靖夫が白衣のポケットから手紙を取り出すと、北野間は少し口元をほころばせて、恒彦の手を一度だけ小さく握り返した。
「おじさーん! あー!」
麗子の声もむなしく、十月十日、午後三時三十一分、北野間博司は七十五歳の生涯を閉じてしまった。もう五分遅ければ、恒彦と麗子は彼の死に目に会えなかっただろう。
(‥‥‥ありがとう、おじさん。私達が来るまで待っていてくれたのね)
自分のために、北野間が最後の死力を尽くしてくれたのかと思うと、麗子は、やせた細い体がいとおしくてならなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます