最終章 二〇四四年 春

        一


 その日も、あの時と同じように爽やかな風が吹きすぎて行き、空にはまばゆいばかりの太陽が輝いていた。

 耕平が一九九〇年の世界に旅立ってから、すでに二十七年という歳月が過ぎ去っていた。

 二〇四四年、春。東北の一地方都市でもあるこの街にも、また、あの季節が廻ってきた。山本徹はこの時期になると、毎週土曜日と日曜日には公園にやつてきて、耕平が戻っては来ないかと当てもなく、公園内を散策するのが長年の習慣になっていた。そして、山本自身もつい一ヶ月ほど前に、五十五歳を迎えたばかりだった。

 四月のとある日曜日、今日もまた公園のベンチにひとりで座り物想いに耽っていた。山本は、ここ数年来自分の上に伸し掛かってくる、重圧感のようなものに苛まれていた。

 何故、あの時、耕平を強引に引き止めるか、一緒について行かったのかという、断腸の思いに苦しめられていた。しかし、あの時はああするより仕方がなったし、できる限りの協力も惜しまなかった。それなのに、これほど罪悪感に苦しんでいる自分に、たまらなく腹立たしさを感じていた。しかし、耕平の身に何かが起こったことは確かだろう。やはり、タイムマシンの動力源が切れたのか。いや、それはないな。と、山本は思った。もし、タイムマシンのエネルギーが、切れたのであれば耕平が旅立った、すぐ後に五十四歳になった耕平が現れるはずだった。これは間違いなく、彼の身に何かがあったと見ていいだろう。

 それにしても、二十七年と言えばすごく長い年月のように、感じられるかも知れないが山本にしてみれば、あっという間に過ぎたようにも思えた。そして、それは山本が自分ひとりで仕舞い込んできた、耕平とタイムマシンに関する秘密を、誰にも漏らすことなく黙々と過ごしてきた、山本自身のささやかな歴史でもあった。

 耕平は、どこでどうしているのか。と、山本は改めて考えていた。耕平から『自分が戻らない時は、時々母親のところに顔を出してやってほしい』と、頼まれたこともしっかり守り、できる限り耕平の母のところへ通い続け、そのうちに必ず帰ってくるから、気を落とさないように励ましもした。しかし、月日が経過するに連れて、その慰めも徐々に虚しいものにと、化していったことも事実だった。その母親も耕平がいなくなってから、二十七年が過ぎ去った現在、すでに七十を過ぎてはいたが昔と、少しも変わらない美しさを保っていた。

 山本が時々訪ねていくと、まるでわが子が帰ってきたよううに、喜んで迎えてくれてくれたのだった。耕平が姿を消したばかりの頃は、見るも無残なまでに落ち込んでいたが、それから徐々にではあるが、元気を取り戻していくのがわかり、山本も安堵に胸を撫でおろしたものだった。

当初は、このまま病気にでもなって、もし万が一のことでもあったら、耕平に顔向けが出来なくなることを恐れていた。そんな山本の心配は、ただの取り越し苦労に終わり、耕平の母は元気な姿を取り戻していった。

 この地方都市でさえ、二十七年の間には都市の再開発が、幾度となく行われ駅の周辺地域を中心に、超高層ビルが林立するようになっていた。そして、最近では、この周辺地域にまで高層マンションや、ホテルなどが立ち並ぶようになっており、耕平がいた頃の街の面影などは、まったくと言っていいほど見られなくなっていた。昔のままの姿で残っているものと言えば、この公園と神社仏閣の類だけになっていた。

 さらに驚くべきことには、ここ数年来の技術革新により、コピューターなどの人工知能の分野でも、高性能化が進み一度プログラムされたものは、コンピューター自体が独自の判断で、すべてを処理することが出来るようになった。これにより、人間が機械を管理するという労力が、それまでに費やされてきた労力を、半減することが可能になったことだった。

 しかし、社会的には賛否両論が巻き起こっていた。SF小説や映画で扱われているように、機械が人間に取って代わって、社会を乗っ取られでもしたら大変だ。と、いうのが反対派の意見だったが、大半の者は便利になったし仕事も楽になったと、喜んでいる者のほうが多かった。

 こんな時代になったことを、もちろん耕平は知らないだろうが、知ったところでアイツのことだから、どうせ驚きもしないだろうと山本は思った。それにしても、耕平はどこで何をしていのだろうと、山本はまたひとつため気を着いた。毎週ひまを見つけては、この公園に通いつめている山本には、自分自身でさえも気づきもしない、心の奥のもっとも深い部分では半分以上は、諦めているのかも知れなかったが、表面的にはそんなことは絶対に、受け入れられないことのひとつでもあった。

 人間という生き物は、他人のことをいくら親身になって同情したり、大切に思っていたとしても、結局のところ最終的には自分のことや、自分の家族のことをやはり優先順位の、筆頭に持ってくるのが世の常なのだが、山本の場合には少しばかり違っていた。まず、寝ても覚めても耕平のことが頭から離れず、雨の日も風の日も一回たりとも休まずに、公園へと通って来るのであった。

 ある時、業を煮やした妻が山本に問いただした。

「一体、あなたは耕平さんと、わたしとどっちが大事なの。いい加減にしてよ」

 そんな時、山本はいつもこう言うのであった。

「決まってるだろう。お前に决まってるじゃないか。バカ」

 と、いうよりも早く、そそくさと出かけて行くのだった。

 そんなことを言いながらも、山本の頭の中は耕平のことで一杯だった。なぜ、そこまでして公園にやって来るのか、正確な理由は山本自身の中でも、それ自体がまるで風化した遺跡のように、薄ぼんやりとしたものに変化しつつあった。ただ、ここに来て耕平が戻ってくるのを待つという行為こそ、大袈裟な言葉で表すならば山本に残された、最後の砦のようなものになっていた。そして、その試練ともいうべきものこそが、山本の紛れもなく生に対する、これ以上は譲れないという山本の、ささやかな抵抗なのかも知れなかった。

 そんな中、事情を知らない世間の目は冷ややかであり、好奇の目を持って見ている者も多かった。公園通いを始めてしばらく経った頃、知人からこんなことを聞かれたものだった。

「山本さん。あなた、ここんところ毎週くらい公園に、通い詰めているようですが、一体何をしてらっしゃるんですか?」

 すると、山本は決まってこう答えるのだった。

「はあ、別に何もしていません。ただ、待っているだけです。友だちが来るのを…」

 それ以上のことは何も話さず、公園内を散策したりベンチに座ったまま、黙々と待ち続ける山本に周囲の人々は、ますます好奇の目を向けるのだったが、昔から『人の噂も七十五日』というくらいで、そのうち山本の奇行のことなど、人々の記憶の片隅に押しやられて行った。

 そして、今日も一日が終わろうとしていた。そろそろ帰ろうとして腰を上げた時だった。

「あの…、山本…徹さんでしょうか…」

 誰かが声をかけてきた。

「はい、そうですが、どなたですかな…」

 声のするほうを振り向いた山本は、自分の顔面から見る見るうちに、血の気が退いて行くのを感じた。山本は一瞬まばたきをしてから、素っ頓狂な声を張り上げていた。

「こ…、耕平…」

 なんと、そこに立っていたのは、二十七年間待ち続けた佐々木耕平だった。

「こ、耕平…。本当にお前なのか…」

 山本は、豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして聞き返した。

「ああ、オレだよ。二十七年振りになるのかな…、こっちでは」

「お、お前…。ほ、本当に…、佐々木…、耕平なんだな…。幽霊じゃないよな…」

 山本は、まだ信じられなという表情で聞き返した。   

「間違いなく、オレだって…。幽霊でも妖怪でもない。正真正銘の佐々木耕平だから、安心しなよ。ほら、ちゃんと足だってあるんだから…」

 と、いいながら、耕平は山本の隣に腰をおろした。

「しかし、この街並みにしても山本にしても、すっかり変わっちまったんで、少しばかり驚いていたところだよ。まさか、お前が白髪頭のおっさんになってるとは、考えてもいなかっし、たかだか二十七年なんて気軽に考えていたけど、これが時の流れってものなんだな、きっと…。

 それにしても、さっきお前を見つけたとき、声をかけたらいいものかどうか、一瞬とまどいを感じて迷ってたんだ。いや、こんなにも白髪の増えた山本なんて、想像もしてなかったからな…」

 耕平は感慨深げにあたりを見回した。すると、山本もようやく落ち着きを取りもどしたのか、耕平の姿をまじまじと見つめながら話しだした。

「まさか、お前が昔と少しも変わらない姿で、現れるとは思ってもいなかったから、少し驚いただけだけど…。でも、どうして、もう少し早く帰ってきてくれなかったんだよ。おふくろさんもオレも、どれだけ心配していたかなんて、お前にはわからないだろうがな…。そんなことより、早くおふくろさんことに行って顔を見せてやれ。おふくろさん喜ぶぞ。きっと…」

「う、うん…」

「どうした。早く行ってやれよ。早く、早く…」

 山本は急かせたが、耕平はいっこうに動こうとはしなかった。

「実はな。山本…。実は、オレおふくろには逢えないよ…。いや、逢わないほうがいいんだよ…」

 耕平は、苦しそうな表情であえぐように言った。

「一体、どうしたんだ。お前らしくもない。あれほど、おふくろさんのことを心配していたお前が…。だからオレは、お前に頼まれたとおり時々は顔を出して、おふくろさんを見守ってきたんだぞ。それが、何を云ってるんだ。いまさら、逢えないだの逢わないほうがいいだのと、どうしようってんだよ。この期に及んで…、ええ、耕平よ」

 確かに、山本が苛立っているのが耕平にもわかった。うつむき加減になったまま、しばらく思い悩んでいた耕平だったが、急に山本のほうに向き直った。

「いままで、お前にばかり心配かけて、本当にすまなかった。お前にだけは、オレが体験してきたことを、すべて話すから聞いてくれるか…」

 山本は黙ってうなずいた。

「話すといっても、この辺で話すわけにもいかないから、そこらのホテルでも借りるから、一緒にきてくれないか。お前に渡すものもあるしな…」

 耕平がひどく苦しんでいる様子をみて、『これは尋常な話しではないな』と、悟った山本は耕平の誘いを受入れて、最近出来たばかりのホテルへ向けて歩きだした。 


       二


 二十四階建ての高層ホテルに着くと、山本は最上階の部屋をキープした。さすがに最上階というだけあって、カーテンを開けると市内を一望することができた。ふたりは窓際にイスを寄せると、向かい会って腰を下ろした。

「どれ、お前の体験談とやらを聞こうじゃないか」

 と、山本はさっそく話とを切り出した

「うん、わかった。その前にお前に渡すものがあるんだ…」

 と、いいながら、耕平はカバンの中から新聞紙で無造作に包装した、小さな包みを取り出して山本の前に置いた。

「なんだ、これ…」

 包みを開けると、中から札束が五つほど出てきた。

「五百万ある。お前に借りた金と、いままで借りてた分の利息だ。取っといてくれ。オレは、もう必要ないからな…」

「ど、どうしたんだ。これは…、オレが貸したのはたかだか二〇万くらいのものだぞ。それに、こんなにいらないよ」

 山本は急いで新聞紙に包み直すと耕平のほうに押し返してよこした。

「それにしても、どうしたんだ。こんな大金を…」

「お金なんて、あって困るものでもないし、遠慮しないで取っときなよ。別に怪しい金じゃないから、安心して使っていいよ。あとで詳しく話すけど、たまたまというか。偶然というか。とにかくラッキーだったんだ」

 耕平は、改めて包みを山本の前に戻し、右手を膝の上にのせると、顎に拳を当てながら話しだした。

「えーと、何から話そうか…。あ、そうそう、最初から話すとオレが行ったのは、一九九〇年ではなく一九八九年だったんだ。そこでもマシンの時間制御が、目的よりもきっかり一年分ズレ込んでいたんで、もう一度一九九〇年に飛ぼうと思ったんだけど、せっかく一年前に来たんだから、家の様子を調べようとウロウロしていると、横丁の角の辺りで女の子にぶつかりそうになり、避けようとして自転車ごと転んでしまって、肘のところを擦りむいてしまったんだ。そして、倒れた自転車を起こしていた女の子は、結婚する前のオレのおふくろだったんだ…」

 そこまで話すと、耕平は苦しそうにため息をついた。

「それで、どうした…」

 黙って耕平の話を聞いていた、山本がひと言だけ聞いてきた、

 それから自分の家に連れて行かれたこと、そこで死んだ祖父に出逢ったことなど、自分が体験してきた一連の出来事を話し終えた。そこまで、耕平の話を聞いていた山本が突然、

「ちょっと待ってくれよ…。確か、お前は行方知れずの父親のことを、調べに行ったんだよな。それなのに、お前の話を聞いていると、父親の「ち」の字も出てこない。一体、お前の親父さんの消息はどうなったのか。そこんところを、もっと詳しく聞かせてもらわないと、二十七年間悶々として過ごしてきた、オレの気持ちはどうなるんだよ。お前にわかるか。オレの気持ちが、ええ、耕平よ」

 山本は、そこまで一気にまくしたてると、深いため息をついて耕平の次のひと言を待った。すると、耕平は表情を少し強張らせながら、おもむろに話し出した。

「これから話すことをお前にするには、オレが向こうに行った頃より、もう少し時間が経って年代にしたほうがいいと思ったんだ。最初、向こうの時代から間もない、時期に戻ろうとも考えたんだが、いまから話そうとしていることを、その頃の山本に話したら、お前が激怒するだろうなと思って、この時代を選んだんだ…」

「オレが怒るって…、それはどういうことなんだよ。耕平」

 山本はすかさず聞き返してきた。

「怒らないで聞いてくれよ、山本。父親は確かにいたよ。父親は、オレの父親は……、つまりオレだったんだ…」

「お前の父親が、お前…。それって、一体どういう意味なんだよ…」

 突拍子もない言葉を聞かされて、山本は思わず聞き返した。

「本当に怒らないで聞いてくれ。一九八九年に行って間もなく、オレは若い頃のおふくろと、已むに已まれぬ事情もあって、関係を持ってしまったんだ。それで、結果的にオレが生まれることになった…」

 耕平は、そこまで話すと口を噤んでしまった。山本もまたひと言も口にしないまま、ふたりの間にしばらく沈黙が続いた。

「だから、あれほど、過去に干渉してはいけないと云ったんだぞ。それなのに、なんて大それたことをしてくれたんだよ。お前は…」

 山本は自分が忠告したことに、耳を貸さずに勝手な行動をとって、歴史の流れに多少なりとも、汚点を残してしまった耕平に、腹立たしさを感じたように喚き散らした。

「とにかく、お前はとんでもないことを、仕出かしたことには間違いないんだから、どうするんだよ。これから…、ほんとに困ったヤツだな…。お前ってヤツは」

 山本に言われるまでもなく、自分でも深い後悔の念を抱いていたし、このまま何もなかったような顔をして、過ごそうとも思っていなかった。山本が怒ることも痛いほどわかっていたが、どうすれば山本の心の高ぶりを、抑えることができるのか、皆無に等しいことも知っていた。

「なあ、山本。前に一度お前に、このタイムマシンの開発者のことを、話したことがあったよな…」

 耕平は意を決したように話を切り替えた。

「ん、そんなことも聞いたような気もするな…」

 不機嫌そうな表情を変えずに山本は答えた。

「その人は吉備野博士といって、七百年後の未来からやってきた科学者だったんだ」

 耕平の話に、少しは気を引かれるものがあったのか、山本は黙って耳を傾けていた。

「で、その吉備野先生は人間の運命っていうか、そういうことを研究してこられた人で、長年の研究の末にタイムマシンを開発された。そして研究を進めて行くうちに、博士はオレの運命に興味を持たれたらしい…」

 山本はポケットから手帳を取り出し、何やら熱心にメモを取り始めた。

「そんで、実際に吉備野博士の研究所に連れて行かれて、RТSSという機械で過去の日本の、石炭紀の映像を見せられたんだが、一面が密林っつうか巨大な樹木が、ビッシリ生い茂ったジャングルが続いていて、遠くほうでは火山があちこちで、煙を噴き上げているのを見せられたんだ。しかも、いまの二次元のスクリーンじゃなくて、三次元の立体映像なんだぜ。あれを見せられた時には、オレ本当にビックリしてしまって、とても信じられないくらいだったんだ。博士がいうにはビッグ・バンがあって、この宇宙が誕生した時点から現在に至るまでの事象は、すべて過ぎ去ったものではないと云うんだ。いまでも時間連続体の中では、現存した形で存続しているというんだが、オレには少し難しすぎて全然わからなくってさ。お前なら、これどう思う…」

 すると、山本はいくらか機嫌を取りもどしたのか、しきりにペンを走らせていた手を止めると顔を上げた。

「うーん…。何とも云えんが、未来からやってきた科学者が、そういうのなら多分その通りなんだろうが…」

「いや、オレもそう思ったよ。最初は、あんなアンモナイトとか恐竜なんかが、次元こそ違うとはいえ同じ時間連続体の中で、いまでも生存しているなんてことは、とてもじゃないが信じられなかったが、オレも実際に過去へ行くって、自分が中学生の頃に亡くなった、おじいちゃんに逢って来たんだから、たぶん本当のことなんだろうけど…」

 そこまで話すと、ふたりはまた黙りこくってしまった。

「でもなあ、山本。お前は信じるかどうか知らないけど、もしオレが若い頃の母親と関係を持たなかったら、その時点でオレの存在そのものが、この世界から抹消されていたって聞いた時には、オレ本当にビビッてしまったんだぜ。考えてもみろよ、もしオレがこの世に生まれて来なかったらお前とも、ここでこんな話もしていられなかったんだぜ。そんなこと考えられるか、山本…」

 また、しばらく沈黙が続いた後で山本が言った。

「うーん…、そう云われても、どう考えればいいのか…。でも、お前の父親がお前ってえのが、どうしても理解できねえんだよな…」

 山本は、また額に拳を当てるような、仕草をして黙り込んでしまった。

「それは吉備野博士も、一番の謎だって云っていたし、いろいろ必死になって調べてくれたんだが、結局のところそれらしい根拠すら、わからず仕舞いだったらしい…。しかし、こんなことも云っていたな…。確か、オレの人生の一部にはパラレルワールドが、関わるような〝何か〟が存在している、可能性もあるのかも知れないとか、なんとか…。でも、それは単なる仮説であって、専門外のことでもあるので、まるっきり常識外れの見識かも、知れないとも云っていた…」

「なーるほどなぁ…。お前の話を聞いていると、ますます訳がわからなくなってくるな…。うーん。でも、それにしてもお前の親がお前ねえ…、さっぱりわからん。うーん…」

 山本徹は半白の髪の毛を両手で掻きむしると、ポケットから煙草を一本取り出して火をつけながら、

「いくらオレがSFが好きだからって云っても、ごくありきたりの生活を送っている。ありふれた人間なんだぞ。それを捉まえていきなり過去の世界がどうとか、パラレルワールドがどうとか云われても、いまのオレにはどうすることもできないよ。それより、どうだ。久しぶりに逢ったんだから、これから酒でも呑みながらゆっくり話せば、何かいい方法が浮かぶかも知れない。確かお前には前に一回失業中の頃に、奢ってもらったこともあったし、ここのホテルのバーは日中でもやってるから、電話をかければ待ってきてくれるはずだ。ひさしぶりに呑もうか…」

「そうだな。じゃあ、少しだけなら付き合うよ」

「よし、わかった。いま持ってきてくれるように頼むから、ちょっと待ってろ」

 山本は立ち上がると、電話機ほうへ行くと早速バーに電話を入れ、酒とつまみ類の手配を済ませた。


       三


 ふたりは、ひさしぶりに酒を酌み交わしながら、山本が耕平と別れてからの一部始終を語りだした。

 耕平がいなくなってからの母が、しばらく落ち込んで体調を崩して、一時は命も危ぶまれるのではないかとさえ、思えるほど体が衰弱してしまって、もし万一のことでもあったら、耕平に顔向けが出きなくなると思ったこと。自分の時間が許す限り、耕平の母親のところに顔を出し慰めていたこと。毎週この公園に来て、耕平が戻ってくるのではないかと、待ち続けていたこと。そして、最近になって山本自身の中でさえ、半分以上は諦めかけていたことなどを話した。

「そうか…、オレが過去に行ったことで、山本にずいぶん迷惑をかけてしまったんだな…」

「何を云ってるんだ。耕平、お前らしくもない。いいから、さあ呑め、呑め」

 山本は酒を勧めてから、まじまじと耕平を見つめながら言った。

「それにしても、お前あの頃とぜんぜん変わってないんだな」

「そりゃあ、そうだろう。ここでは確かに、二十七年経ってるかも知れないけど、オレのほうじゃ山本と別れてから、まだ一年も経ってないんだから、当たり前だろう」

「そうか。それで自分の子供を宿した、おふくろさんはどうしたんだ…。お前は、生まれたばかりの自分を見てきたのか?」

「山本、何云ってるんだよ。そんなこと出きないよ。そんなことをして、いつまでもモタモタしていて、オレが生まれてしまったらどうするんだよ。出生届けやなんかどうするんだよ。第一、あの時代にはまだオレの戸籍は、存在していないんだからな。そんなこと出きるわけないだろうが…」

 山本からあまりに無頓着なことを言われて、耕平は少しばかり苛立ちを覚えた。

「しかしだな。さっきお前も云ったじゃないか、『もしオレがこの世に生まれて来なかったら、お前ともこうして話してられなかった』って。もしもだよ。もしも、お前が生まれて来なかったら、今回みたいなややこしい出来事なんかに、出逢うこともなかったわけだが、パラレルワールド的な考え方をすれば、Aの世界には現にこうして佐々木耕平は、ここに生きているわけだが、Bの世界では佐々木耕平という人間は、そもそも存在しなかったかも知れない。存在しないから、当然オレはお前に出逢わない。出逢わないから今回のような事件にも出くわさない。どうも、その時間連続体のどこかで、何かしらの〝歪み〟のようなものが、生じているんじゃないかと思うんだ。これは、もう鶏が先か卵が先かなどという、生やさしい問題じゃないかも知れんぞ。耕平」

 山本はいつになく真剣な表情で言った。

「ひとりの人間が、本人自身の親だなんて、そんなことは絶対にあるはずがないんだ。もう、これは正気の沙汰じゃないぞ。何かが狂っているんだ。おい、耕平。その吉備野博士とかいう人、お前に何か云っていなかったのか。そのことについて…」

「いや、別に何も云ってはなかったが…」

 耕平は吉備野が言ったことについて、何か忘れていることはないかと、必死に頭を巡らせていたが、

「オレにはあまり難しすぎて、わからないことのほう多かったんだが、ビッグ・バンが起こって、この宇宙ができた時ほぼ同時期に、パラレルワールドも出きたらしいんだけど、七百年後の未来世界においても未だに、パラレルワールドの存在を確認できる手段というか、それを認識できる方法は発見されていないと云うんだ…。そうだ、思い出した。これは吉備野博士の仮説だと云っていたが、オレの人生の中にパラレルワールドに、繋がる分岐点のようなものが、隠されているんじゃないかって云うんだが、これもまた雲をつかむような話なんで、オレにはやっぱりお手上げ状態だったんだが、お前ならどう思う…」

「云ってることは、わかるような気もするんだが、実感としてはあまりピンと来ないというか。これもやはり、七百年後から来た科学者の云うことと、現代社会に住む一般人との、違いかも知れないなぁ…」

「そうかぁ…」

 ため息交じりに、つぶやきながらビールを一口飲むと、耕平はまた黙り込んでしまった。

「まあ、それはそれとして、これからお前どうするんだ。耕平」

「何が…」

「謎の真相については、わからないとは思うんだが、わからないからと云って、このまま何もせず手をこまねいていても、事態の進展はないと思うんだが…」

「………。じゃあ、何をやればいいって云うんだよ。オレに…」

「何をすればいいか。と、云われれば、返答に困るんだが…、例えばだよ。例えば、もう一度過去に戻って、もう少し詳しく調べてみるとか…」

「戻るって云ったって、一体いつの年代に戻るって云うんだ。お前に何か心当たりでもあるのかよ…」

「そう云われると困るんだが、うーん…。いつ頃にすればいいのかなぁ。あ、そうだ。オレも一緒についてってやるよ」

「え、お前が一緒に……」

「何だ。不服でもあるのか。第一、お前をひとりにして置いたら、また何を仕出かすかわかったもんじゃないからな。それに、この前みたいに二十七年も、待たされたんじゃたまらんからな。ちょっと、ここで待っててくれ。家に帰って用意してくるから」

 そういうと、部屋を出て行こうとする山本に、

「おい、山本。一緒に行って云ったって、お前会社のほうとか、家のことはどうする気なんだよ」

「なあーに、気にすることたぁないさ。終わったら、またこの時間に戻って来れば、それで済むことじゃないか」

 と、言い残すが早いか、山本はそそくさと部屋を出て行ってしまった。それから三十分ほど経ったと思われた頃、背後で空気か揺らぐのを感じてふり向くと、

「やあ、こんにちは、佐々木さん。また、やって来てしまいました」

 そこには吉備野が立っていた。

「先生、どうしたんですか。何かわかったんですか。ぼくのことで……」

「いや、特別そういうことではありません」

 耕平が、テーブルの椅子を勧めると、吉備野はゆっくりと腰を下ろす。耕平も窓際から椅子を引き寄せて掛ける。

「あなたと、山本徹さんのお話しを拝聴いたしまして、ひと言だけご忠告いたしたいと思い、急遽参上した次第です」

「忠告と云われますと…、何か…」

 吉備野が突然やって来たことについて、訪ねようとした時だった。いきなり部屋のドアが開いて、小さなバッグを持った山本が駆け込んできた。ハァハァと息をしながら、吉備野に気がつくと無言で頭を下げた。

「何だ、山本ずいぶん早かったじゃないか」

「ほう、あなたが山本徹さんですね。直接お目にかかるのは初めてですね。私は吉備野と申します。どうぞ、お見知りおきのほどを」

 吉備野は椅子から立ち上がると、山本に深々と頭を下げた。

「はあ、あなたが吉備野博士ですか…。お話は耕平から伺っております。ハァ、ハァ…」

 よほど急いで戻って来たのだろう。山本は、まだ息を荒げている。

「実はな、山本、吉備野先生はオレたちに何か忠告があって、やって来られたらしいんだ」

「忠告とは、どういうことですかな。吉備野博士」

 山本はやっと息が整ったのか、落ち着いた口調で吉備野に尋ねた。

「実を申し上げますと、失礼ながら私はRTSSを使って、あなた方おふたりのお話しを、拝聴させて頂いていたのですが、あなた方はこれから、もう一度過去に遡って、佐々木さんのことを探ろうと、していることを知りました。この前、佐々木さんとお別れしてから、私もあらゆる方法を駆使して、さまざまな方向から調べてみたのですが、解決の糸口になるようなものは、何ひとつ見つけることはできませんでした。ですから、もし行れたとしましても結局のところ、残念ではありますがおふたりの努力は、徒労に終わる可能性のほうが、多いと思われますので、ひと言ご忠告を申し上げたいと、参上した次第なのです」

「それじゃ。私らが行っても、無駄だとおっしゃるのですか。博士」

 と、山本。

「さよう。どうしても回答が見出せない以上、おふたりで行かれたところで、無駄足になるというものですから、止められたほうがよろしいでしょう」

「では、オレたちはとうすればいいんですか。先生」

 耕平も、山本と同じように訊ね返した。

「よろしい。それでは、もう一度私のところへ来て頂けますか」

 吉備野は立ち上がり、ふたりを招き寄せた。

「このように、山本さんも佐々木さんの肩に手を触れてください」

 山本は言われたように、耕平の肩に右手を乗せた。吉備野は手にしたコントローラーのスイッチを押すと、三人の姿はたちまち部屋から、かき消すように見えなくなっていた。

 ほんの一瞬だった。気がつくとまばゆい光に、満ち溢れた場所に立っていた。初めて見る未来社会の、吉備野博士の研究所だった。山本は驚きの色を隠せない様子で、研究室の中を見回している。部屋の中央には耕平から聞かされた、タイムマシンのマザーシステムが設置され、奥のほうにはこれも耕平から聞いた、巨大なスクリーンが置かれていた。あれが耕平の言っていた、三次元映像を映し出す立体モニターなのだろう。周りでは吉備野の孫娘らしい若い女性と、助手と思われる数人の男たちが、マシンの操作に携わっていた。

「さあ、おふたりとも、こちらにお座りください」

 吉備野に案内され、耕平と山本はソファーに腰を下ろした。吉備野は助手を呼ぶと何事か指示を出した。日本語には変わりなかったが、普段山本たちが使っているそれとは違う、微妙な感じを受ける言語ではあった。自分たちがいた二十一世紀から七百年も経てば、言語文化も当然変わるのだろう。もし自分が七百年ほど遡って、鎌倉時代や安土桃山時代に行ったとしたら、現代日本語がうまく通じるのだろうかという、疑問が山本の内部で渦巻いていた。当時の言語は、その地方の方言が主流を占めていたのと、武家言葉と一般庶民の言葉では、著しく差異があったからである。

「先生、あれから何か新しいことは、掴めないのでしょうか」

 耕平は堪らなくなって、吉備野に訊きただした。

「それが残念ですが、まったくわからないのです。私としてもいまのところは、お手上げ状態なのです。誠にもって、面目次第もありません」

「もし、あの時に公園にも行かず、このタイムマシンを拾わなかったら、どうなったのでしょうか」

 耕平は、自分が抱いている疑問を、素直に吉備野に向けてみた。

「それは何とも云えませんね。私があそこに置いたタイムマシンを、あなたが拾われたという事実は、すでに確定された歴史の一部なのです。あるいは、パラレルワールドに於いては、あの日公園にも出かけず、タイムマシンも拾わなかった、佐々木さんがいたとしても、まったく次元の違う世界の話なのですから、あくまでもAの世界とBの世界では、まるっきり事情が異なるわけなのです。従って、もともとAの世界にいる佐々木さんと、Bの世界の佐々木さんとでは、ご本人が遭遇される事に微妙なズレが、生じている可能性があると推測されます」

「それでは、私が以前に考えたように、耕平が存在しない世界とか、私が存在しない世界もあり、得るということですね…」

 横から山本も口を挿さんで来た。

「さようです。ですから、二十八世紀の現在でもパラレルワールドや、次元の違う領域については、それを証明する手段は皆無と云えるでしょう」

「では、やはり、ぼくたちが経験してきたことの証明とか、謎を解き明かす方法はないということですね」

「非常に残念です。これから、私の一生を掛けてでも全精力の傾けて、研究は続けてまいりますので、何か有力な手掛かりが発見されれば、佐々木さんが何処におられようとも、必ずお知らせしたいと考えております」

 吉備野は深々と頭を下げて謝意を表した。

「せ、先生、ぼくは何とも思っていませんから、頭を上げてください。本当に…」

「本当です。博士、頭をお上げください」

 山本に言われて、吉備野はようやく上体を起こした。

「先生,それではあまり長居をするとお邪魔になりますので、ぼくたちはこれで帰りたいと思います」

 耕平は、自分でもわからなかったが、なぜか清々しい気分になっていた。

「そうですか。もう帰りますか。いや、本当に面目次第もありません。それでは、こちらからお送りいたしましょう」

 吉備野は助手に命じて転送の準備に取りかかった。

「どうぞ、佐々木さんと山本さん。こちらの方へきてください」

 ふたりが、指定された場所へと進んで行き、吉備野がサインを送るとふたりの姿は、ね瞬時にしてその場から見えなくなっていた。


      四


 耕平と山本は、元いた二〇四四年のホテルの部屋に戻っていた。

 ふたりとも、椅子に腰を下ろしても、しばらく口を開かなかった。山本は無言で耕平のグラスに、ビールを注いでやった。それから、タバコを取り出して火をつけた。タバコの煙が、漂っていくのを見つめながら、最初に話し出したのは耕平だった。

「なあ、山本。お前はどう思う」

「何がだ…」

「だって、そうじゃないか。オレがこれから、生まれてくるオレの父親なら、ここにいるオレはどうやって、この世に生まれて来たって云うんだ。それを考えると、もういまにも気が狂いそうになるんだ。何でもいいから何とか云ってくれ。頼むよ。山本」

 珍しく耕平は取り乱していた。山本にも充分、その気持ちはわかってはいたが、どう言ってやればいいのか、見当さえもつかないでいた。しかし、何か云ってやらなければ、心が折れそうになっている、耕平があまりにも哀れだった。同じ年の生まれでありながらも、ふたりの間には二十七年という、時間の隔たりがあった。

耕平は、まだ二十八歳のままだったが、山本はあと十数年もすれば、定年という年齢に達していた。その分、山本は社会経験を積んではいたが、こんな場合どのようにして、耕平に接してやればいいのか、見当もつかないまま、

「なあ、耕平よ。お前もオレも初めての経験で、わからないことばかりで、本当はどうすればいいのかさえ、わからない始末なんだが…」

 そこまで話すと、山本はまたタバコを取り出して火をつけた。

「もう、ここまで来た以上は気持ちを切り替えて、前向きに生きて行くしか、ないんじゃないのかな…。いまのオレには、それくらいしか云えない…。許せ、耕平」

 無表情のまま山本は、グラスに残っていたビールを飲みほした。それだけ言うのが山本にも、精いっぱいだったのだろう。

「オレは、ここに来る前にひとつだけ、心に決めたことがあるんだ…」

 いままで黙っていた耕平がぽつりと言った。

「何だ。それは…」

 あまりにも深刻な表情で話し出したので、山本もつい条件反射的に聞き返した。

「今日ここに来て、お前にいままでオレが体験してきたことを報告して、お前に借りてた金を返したら、誰も知らない世界にでも行って、ひとりでひっそりと暮らそうかと、考えていたんだ…」

「何だって…、どっかに行くったって、いったいどこに行くんだよ。それに、おふくろさんはどうするんた。たったひとりで、お前の帰りを待っていたんたぞ。おふくろさんの生活はどうするんだよ」

「いいから、黙って聞いてくれ。山本」

 突然の予想もしていなかった、言葉に驚いて聞き返す山本を制して、耕平はさらに続けた。

「なあ、耕平よ。もう一度考え直してくれ。どこかに行くって云ったって、一体どこの時代に行くつもりでいるんだ。お前は…」

 山本の問いかけに、耕平はどこか遠くのほうを見つめるように答えた。

「わからない……。ただ、自分でもわからないくらい遠い世界に行って、誰も知らない山の奥にでも住んで、ひとりで静かに暮らそうかと思っている…。いくら山本に止められても変わらないよ。もう、心に決めっちまったんだからな…」

「お前がどこに行こうとしているか、オレにはわらないけど、そんな誰も知らない世界ったって、お前に何か当てでもあるのか。それにしたって、そんなところじゃあ、食料とかなんかはどうするつもりなんだよ。それに山奥に行くって云ってたけど、本当にひとりでなんてやっていけると思っているのか…。大体お前は昔から考えが甘いんだよ。だから、今回みたいなひどい目に遭うんだぞ。やめといたほうがいいぞ。ホント悪いことは云わないから、止めとけ、止めとけ……」

 山本は耕平が一度言いだしたら、誰のいうことも聴かないことは、昔から知ってはいても、それでも二十七年前に味わったような思いは、二度としたくないという気持ちのほうが先に立って、耕平をなんとか引き留めようと、山本を必死にさせていた。

「ありがとう、山本…。お前の気持ちは、ものすごく嬉しいよ。多分お前には、ずいぶん心配かけたんだろうな…、二十七年間も…」

 山本は何も云わなかったが、耕平は独白するように続ける。

「お前は知らないと思うんだが、タイムマシンのこのリセットボタンを押すと、パネルの表示窓の数値がすべて、ハイフンマークになるんだ。西暦一年と表示すると、〇〇〇一という数字が出るんだが、それ以上マイナス方向にしようとすると、すべての計器類の数値は全部ハイフンマークになってしまうんだ…。つまり、このタイムマシンは紀元一年までしか、設定されていないのか。便宜上そうしたのかは吉備野先生に、訊いてみないことにはわからないけれども、とにかくハイフンマークにすると、紀元前の世界に行けるのではないかと思うんだ」

 こいつはやっぱり、違う次元の世界に行こうとしているんだ。と、いう、思いをひしひしと感じながら、山本は耕平に向かってこう言った。

「耕平、お前の気持ちはよくわかったよ。しかしだなぁ、どうして、ぜんぜん知らない世界になんて、行こうとしたんだい。なぜ、元いた二〇一八年に、戻る気にならなかったんだ」

「何を云ってるんだよ。そんなこと、出きるわけないじゃないか。第一オレにおふくろと、どんな顔をして逢えって云うんだ。オレはな…、オレは犬や猫にも劣るような、恥ずべき行為を犯してしまったんだぞ。それなのに、どうして平気な顔で逢えるっ云うんだ…。そんなこと、出来るはずないじゃないか。そんな恥っ晒しなことが…」

「それじゃ、せめてひと目だけでも、顔を見せて行ってくれ。それも出来ないのか。耕平よ…」

 山本は、なおも食いさがる。

「だから、もう逢わないほうがいいんだよ。こっちが惨めになるだけなんだから、何回云わせるんだ。山本」

 耕平も最後のほうは、やや語気を強めて言い放った。

「ああ、そうかい、そうかい。なんて奴なんだ。お前ってヤツは、ええ、耕平よ。たとえ犬畜生だってだなぁ、もう少し深い情けってえものを、持ってるとオレは思うぞ。それを何だ。それがたったひとりの、母親に対して云う言葉なのか、耕平。お前ってヤツは、本当に見下げ果てた奴だな。オレは、もう知らんぞ。遠いところでも山の中でも、世界の果てでも好きなところに、どこへでも行っちまえばいいんだ。馬鹿野郎…」

 山本も、また売り言葉に買い言葉で、声を荒げて怒鳴り散らした。

「ああ、そうするよ。あとはお前とも、もう二度と逢えないかも知れないから、山本も体に気をつけてな…」

 耕平は静かに立ち上がると、後ろもふり向かずに部屋を出て行った。山本も続いて部屋を出ると、耕平はすでに廊下を曲がろうとしていた。その後ろ姿を見送りながら、

「バカヤロウ…」

 山本は、ひと言だけつぶやくように言うと、両方の拳を握りしめたままで、その場に立ち尽くしていた。

 耕平は、また公園にやって来ていた。すべてはここから始まったことなのだから、締め括りもここで、終わらせなくてはならないと思ったからだ。いろんな時代の、いろんな時間帯を行き来したが、おそらくはこれが最後の旅に、なるだろうと耕平は思った。

 耕平はいささかの食料が、詰まったバッグを背負い、かつて山本から貰った自転車に、学生時代に部活で使っていた。競技用のアーキュリーセットが、入ったケースを積んでいた。何故そんな物を持ってきたかと言えば、どれくらい前の時代に着くのかは知らないが、紀元前の世界に行くのだから、用心に越したことはないと持ったからだ。

 この時代とも、これでお別れかと思うと、耕平の胸に熱いものが込み上げて来るのを、どうしても禁じ得なかった。周りを見回すといつもと同じように、いろんな人たちが犬の散歩やら、当てもなく散策する姿が見てとれた。

 耕平は、しばらくそれらの人々や、周りの街並みなどを見ていたが、気を取りなおすように、自転車にまたがるとゆっくりと走り出した。

 走りながら、タイムマシンのメモリーの、数値をすべてハイフンに戻した。公園内を一周するようにして、またブランコの辺りまで辿りついた時、マシンのスタートボタンを押した。すると、耕平の乗った自転車は音もなく、たちまち霞のように消え失せていた。辺りを散策している人々は、耕平の姿が消えたことに、誰ひとり気づく者はいなかった


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