第五章 耕平の成すべきこと

      一


 それからの耕平には、地獄のような日々が続いていた。あの日、公園から帰ると亜紀子は祖父のもとへ行き、きょう産婦人科病院に行ったこと。その結果、自分が耕平の子供を宿していることを告げた。祖父は少し驚いたようだったが、素直に喜んでくれて亜紀子と結婚して、佐々木家の婿養子になってくれと言ってくれた。しかし、そんなことができようはずがないことは、耕平自身が一番わかっていたことだった。まして、実の母親と結婚するなどということは、絶対に許されないことだった。それだけは、何としてでも避けなければならかった。

 耕平は、ここ数日間悩みに悩み抜いていた。これが地獄でなかったら、いったい何だろうかとさえ思われた。こんな時、どうすればいいのだろうか。ふと、山本徹のことが頭に浮かんだ。アイツなら何て言うだろうか。二〇一八年に戻って、山本に相談してみようとも考えたが、それは見送ることにした。あの時、山本は必死で自分を引き止めようとした。いまさらこんな手前勝手なことで、虫のいい相談などできるはずもなかった。

 それに、山本が言っていた人間の過ごしてきた歴史の中には、『いつどこに、どんな落とし穴があるかわからないんだからな』と、いう、言葉が妙に生々しく思い出された。

『落とし穴?…。そうか…。もしかしたら、これが山本の言っていた「落とし穴」だったのか…』

 と、耕平は思ったが「後悔先に立たず」の諺どおり、いまとなってはもう手の施しようのないことも、また明白な事実として受け止めなければならなかった。

 あの吉備野という老博士は、初めからこうなることを知っていたに違いない。確か、人間の運命の研究をしていると言っていたが、そうだとしたら自分がこれからどうなるのかも、知っていたに違いないと耕平は考えた。来年生まれてくる亜紀子の子供は、佐々木耕平に間違いないのだから、これはうかうかしてはいられなかった。

 吉備野氏から直接そのことを聞いてみるのが、手っ取り早いという結論に達した耕平は、すぐさま元いた時間に戻ってきた。

 その晩、みんなが寝静まった時間に起きだすと、吉備野博士に連絡を取るために、マシンの通信用ボタンを長押しした。すると、音もなく耕平の傍らに吉備野が現れた。

「こんばんは。何かご用でしょうかな。佐々木さん」

 吉備野が腰を下ろすのを待って、耕平は自分の中で燻ぶっている、疑問について尋ね始めた。

「突然呼び出したりして申し訳ありません。二、三お聞きしたいことがありまして来て頂いたのですが…、あなたはぼくの運命というか、もしかしたら、この先ぼくに起こることのすべて対して、何から何までわかっていて、今回の計画を立てられたのですか…、教えてください」

「あなたには、大変申し訳ないことをしたと思っておりますが、そのとおりです。前にも申し上げたと思いますが、あなたは私の研究対象の中でも、極めて珍しいタイプのパターンを、お待ちになっておられるのです。そのことにつきましては、後ほど詳しくご説明いたしますが、あなたが知りたいと思っていらっしゃることは、私も充分わかっているつもりでおります」

「それじゃ、なぜあの時にこうなることを、前もって教えて頂けなかったのですか。前もって注意してもらえたら、こんなことにはならなくて済んだはずなのに…」

 耕平は、自分の苛立ちを抑えながら、吉備野に詰め寄った。

「それは、出きなかったのです」

「何故ですか。あの時に教えて頂いていたら、こんなことにはならなかったはずです」

「いいですか、佐々木さん。あの時あなたに本当のことを告げたら、確かにあなたが現在抱えているような、苦悩からは逃れられたでしょう。しかし、その瞬間にあなたの存在自体が、この時間軸の中から、抹消されたかも知れないのですよ。あなたは、それでもよろしかったのですか」

「え、何ですって…、ぼくの存在が抹消…」                            

 耕平はあまりにも唐突な言葉に、思わず絶句してしまった。

「その通りです。これはあくまでも、不確定な要因によるものなので、はっきりとは断言出きないのですが、時間軸には自己治癒力とでもいうべきものが、あると考えられております。これが些細な出来事、つまり歴史的にさほど影響を及ぼさないことや、自然淘汰的に修復されることも考えられますが、世界大戦などの大きな出来事や人間の生死、つまり存在などにはあまり関係しないようなのです。ですから、人間ひとりの存在は時間連続体から見れば、大変重要な役割を果たしていることになるわけです。佐々木さんひとりの存在もまたしかりなのです。時間連続体からすれば、これもまた重要な役割を果たしているのです」

 黙って話を聞いていた耕平が、急に思いついたように吉備野に尋ねた。

「ひとつ伺ってもいいですか…。ひとつだけ教えて頂きたいことかあるのです。もし、ぼくが自分の父親であるなら、本当のぼくの父親はいったい誰なんでしょう。もしかしたら、あなたはご存じなのではないのですか」

「さあ…、それは私にもわからないのです。ですが、もしあの行為をあなたが拒んでおられたら、確実にこの次元からあなたの存在が、消滅してしまうことは確実だったでしよう。ですから、あなたは正当かつご自分を守り抜いた行為を、選択されたことになるのだと思うのですよ。私は」

 耕平は、もう何が何だかわけがわからなくなっていた。それでも、得体の知れないモヤモヤとしたものが、自分の中で渦巻いているのを、耕平は抑えることができなかった。

「ですが、先生…」

 この七百年後の未来からやって来た、吉備野のことを初めて先生と呼んでいる、自分に気づいて耕平は自分でも少々驚いていた。この老紳士を先生と呼ばせたのは、タイムマシンの開発者でもあり、耕平自身も知らない彼の数奇な運命に、興味を示して自らの研究対象として、地道な研究を続けてきたこの老科学者に対する、畏敬の念だったのかも知れなかった。

「考えれば考えるほど、頭の中がめちゃくちゃになって狂いそうなんです。何とかしてください。先生…」

 吉備野はしばらく何かを考えていたが、耕平を見てこう言った。

「わかりました。あなたがそれほど苦しんでいるのでしたら、それは私にも一因があることですから、ぜひ一緒に来ていただけますか。実は、私も少し気になることがありましてな。あなたと一緒に考えてみましょう」

「行くって、どこへですか…」

「私の研究所です。さあ、行きましょう」

 そう言いながら吉備野は立ち上がった。つられて耕平も立ち上がると、吉備野は耕平の肩に手を触れるようにして、片手でコントローラーを操作した。すると、二人はたちまちその場から姿を消していた。


      二


 吉備野の研究所の中は、部屋全体が光に満ち満ちていた。その明るさは、照明器具などの光源ではなく、壁や天井・床といった室内全体から、放出されているという感覚のもので、その証拠に自分の足元に、影が映っていないことを見ても明らかだった。部屋の中央には、円筒形の機器が設置されており、計器類が目まぐるしい速さで点滅していた。

「これが、タイムマシンのマザーシステムで、私をあなたのところへ転送したり、戻したりしている機器です」

 吉備野は、そのマシンを指して耕平に説明した。

「………」

 耕平は珍しそうに部屋を見渡していたが、中央部に置かれた巨体なモニターに気づいて、

「先生、あれは何ですか」

と、吉備野に尋ねた。

「ああ、あれですか。あれはその年代、つまり時代時代の場所、月・日・時間・分・秒をインプットさえすれば、ここにいても立ち所にその時代に起こった、出来事が映し出されるRTSSと云う、時を超えて実際に起こった事象を、即座鑑賞できるという装置です」

「え、本当に過去に起きた事件や、出来事なんかが見られるんですか…」

 まさかそんなことが、とでも言うように尋ねると、

「そうです。佐々木さん、何か見たいものがおありですか。もし、よかったら何かお望みのものがありましたら、お見せしましょうか。何がお望みですか?」

「本当に見せて頂けるのでしたら、古生代の石炭紀と呼ばれている、時代の映像を見せてください。石炭紀の日本がどうなっていたのか、一度ぜひ見てみたいと思っていたんです」

「そうですか。よろしい、それではお見せいたしましよう」

 吉備野は手早く機器類の操作に入り、巨大モニターには映像が映し出され始めた。

すると、モニターが作動し始めると周囲の空間に、広大な原野のような風景が映し出された。耕平の知っている映像は二次元映像なのだが、そこに現れたものは三次元化された立体映像だった。遥か遠くのほうには火山が噴煙を上げているのが見て取れた。吉備野がズームアップすると、耕平が見たこともないような、巨木が一面に繁茂していて、底辺部は湿地帯と見えて、多量の水分が含まれているのが分かった。ところどころに水溜まりができており、シダ植物のような下草が生い茂っている。その上を耕平の知っているものよりも、二〇倍はあろうかと思われるトンボが、群れを成して飛んでいるのが見えた。

 初めて見る映像に度肝を抜かれたように、見惚れている耕平に吉備野は言った。

「いかがです。ご満足いただけましたかな。お見せした映像は太古の映像ですが、これはすでに過ぎ去った、時間の残像などではありません。時間連続体の中では現在でも、この時代の時空間にいまでも存在しているのです」

「……………」

「あなたも、すでに経験されたはずではありませんか。タイムマシンを拾われた時間帯に戻って、ご自分の部屋に来られたように、あなたのおられるこの年代にしたところで、あなたが実際に住んでおられた、二十一世紀から見ればすでに過ぎ去った年代なのです。これがあなたには残像に見えますか」

 言われてみれば、確かにその通りだった。しかし、いま見た石炭紀の森林や、その時代や年代ごとにアンモナイトや恐竜、ネアンデルタール人やクロマニヨン人が、現存して生きていると言うこと自体が、耕平には信じられないという思いでいっぱいだった。

「さて、余談はこれぐらいにして、そろそろ本題に入りましょうか」

 吉備野氏は,少し考え込むような仕草を見せてから、

「先ほど、佐々木さんがお尋ねの件ですが、現時点で亜紀子さんが宿しておられるお子さんは、間違いなく佐々木耕平さんあなたなのですが、現在ここにおられる佐々木さんの父親も佐々木さんあなたなのです。この問題を何とか解き明かそうとして、私は私なりに手を尽くして調べては見たのですが、どうしても核心に迫るところまで、辿りつくことができないのです」

 何をどう聞けばいいのかさえ、わからなくなり黙り込んでいる耕平を他所に、

「ある時、私はひとつの仮説を立ててみました。佐々木耕平さんの人生の中に、パラレルワールドに抜ける分岐点が、存在しているではないかと考えたのです。しかし、パラレルワールドそのものの実体が、未だに具象化されておりません。

 時間軸、つまり時間の縦の流れと時間連続体、これは過去から現在・未来へと流れている時間ですが、私たちに認識できているのは、実はここまでなのです。時間軸は〝揺るぎない物〟としての確固たる存在なのです。しかし、ここにも私たちには計り知ることのできない、何かが存在していることは確かなのです。

 現在でもあらゆる方法、それこそ全精力を尽くして探ってはいますが、結局は何も得ることができなかった。と、いうのが実情でもあります。ですが、確かに佐々木さんの出生については、何かしら謎めいた部分があるのはわかるのですが、それが一体何であるのか長年の研究をもってしても、一向に認識することさえできないでいるのです」

 そこで吉備野は軽くため息をついた。

「先生のお話しはあまりに難しすぎて、ぼくにはわからない部分のほうが多いのですが…」

 耕平は、蟻地獄から必死に逃れようとしている、蟻のようにどうしようもない、焦燥感に囚われながら吉備野に聞いた。

「母のほうは、どうなのでしょうか…」

「お母さまと申されますと……」

 吉備野は怪訝そうな顔で尋ねた。

「母が生まれた時代には、何か変わったことがなかったかと思いまして…」

「ああ、それなら別に何もなかったと思われますが、それが何か…」

「いや、それならいいんです。どうも、そのパラレルワールトというのが、ぼくの中では完全に理解できてない部分があるのですが、その存在を確かめる手段というのは、本当にないものなのでしょうか」

「そう云われると、私としましても非常に心苦しいのですが、パラレルワールトというのは何分、専門外のことでもありますし、専門に研究されている方々の間でも、大変苦慮されているところでもあるのです。パラレル、すなわち〝並行あるいは多元〟と呼ばれている宇宙も、ビッグ・バンとともに、われわれの存在している宇宙と、並行した形で生み出されたと考えられています。その実態を解き明かすことは、われわれのテクノロジーを以ってしても、未だ立証することは不可能に近いと、思って頂いても結構です。

 パラレルワールドは、三次元と四世次元空間の中間、つまり三・五次元とでも云うべきところに、存在していると考えられています。この世界はとても不安定なものとして、捉えられてきましたが、並行世という概念すらなかった時代から、不思議な世界を見てきた話として『浦島太郎』伝説のようなものが、日本でも古くから伝わる民話や、伝承として語り継がれてきたのではないかと、私は考えておりましたが…」

 それから吉備野は三時間ばかりかけて、自分の研究について事細かく説明してくれた。耕平も吉備野の講話を、聞きもらすまいとして熱心に耳を傾けている。そんな中、何を思ったのか吉備野は立ち上がると、

「しばらく待っていてください。いま飲み物でもお持ちさせますから」

 吉備野が部屋を出て行ってから間もなく、若い女性が飲み物を持って部屋に入ってきた。「イラッシャイマセ。ドウゾ、オ召シアガリクダサイ」

 彼女は、耕平たちが通常使っている日本語とは、少しニュアンスの違う言葉で挨拶をした。

「はあ、どうもありがとうございます」

「イマ少シオ待チクダサイ。間モナク、ジイガ来マスノデ」

 何ともタドタドしい変な日本語だった。彼女が部屋を出ていくのと前後して、吉備野が戻って来た。

「お待たせしました。さあ、どうぞお召し上がりください。その飲み物はあなたのいた年代では、まだ作られていない飲み物で、栄養価も非常に高いので、どうぞ遠慮なく召し上がってください」

 勧められるままに、耕平はグラスに手を伸ばして口もとに持ってくると、何とも言えない香りが鼻腔いっぱいに広がって行った。口に含むと、これまで一度も味わったことのない、奥深い味わいがあった。

「いかがですかな。お味のほうは」

「はい、すごく美味しいです。何という飲み物ですか。これは」

「お気に入られましたか。それは火星で採取された苔の一種で、第三次探検隊の隊員が採取してきたものを、地球に持ち帰り培養したのが始まりでした。それを生成して作られたのが、その飲み物なのです。しかも、地球では考えられないほどの栄養素が、その一杯に含まれているというのですから、まさしく驚きのひと言に尽きます」

 吉備野は耕平の顔を見て満足そうな表情で、

「先ほどそれをお持ちしたのは、私の孫娘ですが何か粗相はなかったでしょうか。あれはまだ、近古代語にはなれておりませんので、心配しておりましたが…」

 この時代では、二十一世紀のことを近古代に、分類しているのかと耕平は思いながら、

「いえ、大丈夫です。よくわかりましたから」

 と、答えた。

「それは何よりでした。さて、先ほどの続きに入りましょうか…」

 それから吉備野は耕平の運命談議に戻ると、あらゆる角度からふたりの抱いている、疑問に迫ろうという試みに没頭して行ったが、これもまた核心に触れることもできないまま、耕平と吉備野の周りを、時間だけが無情に過ぎ去って行った。

 それから間もなく、耕平は失望に打ちのめされるような思いで、吉備野の元から一九八九年の世界へと帰って行った。

 あまりに落ち込んでいる耕平を見るに見かねて、吉備野は何かわかり次第知らせてくれるという、約束をしてくれたのが耕平にとっては、たったひとつの希望ではあったが…。


      三


 それから、さらに三ヶ月が経過していた。その後も亜紀子は体内に、やがて佐々木耕平として生まれてくる、生命を宿しながら何事もなく、順調な日常性生活を送っていた。

耕平にしてみれば、その一日一日が地獄のような苦しみを、味わって生きていたと言っても、決して過言ではなかった。時間が経つにつれ、それが次第に彼の中で大いなる不安となって、自分でもどうしたらいいのかわからず、茫然自失の状態に陥っていた。

 このままここにいたら、やがて生まれてくるであろう佐々木耕平を、自分の手で抱き上げている姿を想像すると、突然発狂してしまうのではないかという、恐怖さえ覚えるのだった。このままではいられない。何とかしなければいけない。そんな思いが募る日々が続く中で、このままじっとしているわけにはいかなかった。かといって、どうすれば一番いいのか見当もつかない、自分に苛立たしさを感じながら、もしこの時代から自分がいなくなったら、どうなるのだろうと考えてみた。

子供ができたことで、亜紀子も祖父もあんなに喜んでいるのに、それはあまりにも残酷過ぎると思えた。それに、やがて生まれてくる自分を抱えながら、生きて行かなければならない、亜紀子を考えると居た堪れない思いがした。

 子供ひとりを育てるには金が必要だが、子供が高校を卒業するまでにかかる費用は、養育費まで含めてどれくらい掛かるのか、耕平には予想もつかなかった。亜紀子の生活費と合わせて五百万くらいか、いや、一千万円くらいかも知れない。もしかしたら、それ以上かも知れなかった。そんな大金は、いまの耕平にはたとえ逆立ちをしたとしても、どうすることも出来ないほどの金額なのだ。そこまで考えると耕平の思考回路は、ショート寸前にまで追い詰められていた。

 それは、どう考えたとしても不可能か少なくとも、それに近いものであることだけは確かだった。だから、それ以上はいくら自問自答を繰り返したところで、何ひとつとして回答など、得られるものではないことを、耕平自身もわかってはいた。しかし、それでも何とかしなければという、思いのほうが先に立っていた。

 それでは、『どうすればいいのか』という問いに対して、『どうすることも出来ない』という答えが、同時に沸き上がってきて耕平を苦しませていた。

 もし、自分が突然姿を消してしまったら、亜紀子はどうするんだろうと考えた時、耕平はあることに気が付いてハッとした。すべての真相が鮮明に見えてきた気がした。

『そうか。そうだったのか……』

 どうして自分には父親がいないのか。という疑問。そして、父が若い頃に死んだというのなら、ふたりで撮った写真が残っていても、不思議ではないにも拘わらず、位牌や墓さえ存在しないのは何故かという、耕平が少年の頃から抱き続けてきた、疑問が一気に解けたのだ。それは暗黒の闇の中に隠されていた、薄汚れた氷塊のごとく白日の下に、晒されると忽ち蒸発したかのように、消え去って行くのが耕平にもわかった。

 やはり、自分の父は自分だった。と、いう現実に少なからず戸惑いもあったが、耕平は一刻の猶予も残っていないことを悟った。出来る限り早い時期に、この時代から姿を消そうと決心していた。そのためには、まず佐々木耕平という人物が、この時代に存在したという痕跡は残してはならないこと。わずかなもので残せば『未来である二〇〇〇年代に、どんな悪影響を及ぼすかわからない』と、山本から口が酸っぱくなるほど、言われていたからだった。

 亜紀子とふたりで撮った写真がないことは、子供の頃の記憶を辿るまでもなく、存在しないことは確かだから、まずこれは大丈夫だった。あとは近くの本屋で買った、SFの文庫本が五・六冊だけだから、始末さえしてしまえばこれもOKだ。あとは、やがて生まれてくる自分に掛かる養育費と、亜紀子が仕事をしないでもしばらくは、暮らして行けるだけの生活費用だった。しかし、これが一番の難問だった。人間には出きることと、出きないことのふた通りしかないのである。

 時間さえ賭ければ金を貯めるなり、稼ぐなりして手に入れることも可能だろうが、耕平には金を得るための時間さえないのだから、もうこうなったら神仏に頼るか、ギャンブルしか方法が浮かばなかった。

『ギャンブル……』

 このあいだ見たばかりの、ここに来るときに図書館でコピーしてきた、新聞記を思い出していた。

『け、競馬、競馬だ…』

 耕平は、自分でも驚くほどの速さで、押し入れの襖を開けると、中から新聞のコピーが詰まったカバンを引きずり出し、紙封筒を取り出し畳の上に一気にブチ撒けた。その中から一九八九年十一月十二日に、京都競馬場で開催された「第十四回エリザベス女王杯」の、コピーを見つけ出して食い入るように読んだ。その記事によると、一着に入ったサンドピアリスという馬は、二〇番人気という人気最下位の馬だった。だからこそ、単勝で四三〇・六倍などという、信じられないような高配当になったのだろう。記事を読み進めて行くうちに、耕平は自分でもわけのわからない興奮に浸っていた。

「これだ…。これなら絶対行けるぞ」

 耕平は、思わず小さな叫び声をあげていた。十一月と言えば、まだ四ヶ月も先のことだった。耕平は急いでカバンの底のほうに仕舞って置いた、この年代に使える山本から借りてきた、紙幣の入った封筒を取り出した。いくら残っているのか気になって数えてみた。まだ、十五万とちょっと残っていた。

『配当が四三〇・六倍だから、これだけあれば何とかなるな…』

 ペンを取り出すと、耕平は必死に計算を始めた。

『これだけあれば、何とかなりそうだ…』

そう思うと、耕平はますます気持ちか高ぶっていくのを感じた。

『これから、四ヶ月間待てばいいか…』

 そんな考えも浮かんだが、あまり悠長なことも言っていられなかった。例え、短い期間とはいえ、少しでも過去の歴史に干渉した以上、いつまでもここに止まってはいられない、という考えのほうが優先していた。そして、これから直接一九八九年十一月十二日に行ってみようと思い立った。

 取り敢えずきちんとした身なりに着替えると耕平は、

『百万円の札束の厚さは確か、一センチぐらいだったかな…,二億くらい入るカバンかなんかを、買わなくっちゃしょうがないかな』

そんなことを考えながら、デパートのカバン売り場へ向かっていた。そして、二億円はらくに入りそうな革製のカバンを買い込むと、十一月十ニ日の京都競馬場へ向けて飛んでいた。

 競馬場は相変わらず人でごった返していた。もちろん、耕平は順を追って各レース毎に買うつもりでいた。結果はわかっているので、これほど確かなことはないのだから、赤子の手を捻るより簡単なことでもあった。

 それを、メーンレースの「エリザベス女王杯」に賭ければ、間違いなく二億などという金額は、あっという間に集まるのは間違いなかった。

 最初に耕平が買ったのは四レース目だったが、これに三六〇円の配当がついていた。これに持ち金全部を注ぎ込むと、払い戻し金が四千五十万円になって戻ってきた。もう、これだけあれば余計なレースは買う必要がなくなっていた。あとはメーンの「エリザベス女王杯」まで待って、五万円ほど賭ければ軽く二億は超すはずだから、これで大丈夫だと耕平はホッとひと安心する思いだった。

 しかし、世の中には競馬や競輪・競艇といったギャンブルに、何百万・何千万という金を注ぎ込んで、身を持ち崩して人もいるというのもひとつの現実だった。自分だけ大金を独り占めするというのも、いささか後ろめたいような感覚に襲われたが、これもすでに確定された歴史なのだから、後々の歴史には直接の影響を与えるようなことはないはずだ。と、いうのも、耕平が自分のやっている行動に対して、正当化しようとするひとつの言い訳に過ぎないことは、本人が一番よく分かっていた。

 こうして、濡れ手で泡とでもいうべき手段で、まんまと二億五千数百万という大金を、手にした耕平は大金の詰まったカバンを手に、競馬場を出て駅前に向かうとホテルに部屋を取った。ここにやって来たのは、この先自分がどのように行動すれば、最良の道なのかを考えることと、もし自分が突然姿を消した場合に、亜紀子はどうするのかということだった。それは子供の頃の自分を思い返してみても漠然とはわかっていた。耕平の子供の頃に『自分の父親はどうしていないの』という問いに対し、母はただひと言『お前が生まれる前に死んだ』とだけ答えるのが常だった。そうやって母は、やり場のない哀しみをひと言も口には出さず、ここまでひたすら生きて来たのだろうと耕平は思った。だから、これから生まれてくる耕平自身にも、また同じ答えを繰り返すのも確かだろう。それなら祖父の場合は、自分がいなくなったことについて、どんな風に感じていたのだろうか。ところが、そのことについては耕平の中にまったく、それに関する記憶は残っていないのだった。これはただ単に、男女の違いだけで済ませてしまってもいいものなのか、耕平にはどうしてもその回答は見いだせそうにもなかった。

 とにかく、この競馬で得た金の中から亜紀子には、二億五千万は渡してやりたかった。最初は二億円を目標にしていたのだが、運がよく五千万ほど余分の収穫があったのだから、実に幸運としか言いようがなかった。後の残りは、山本から借りた分に利息をつけて返してやろうと考えていた。それから耕平はホテルを出ると、銀行に行って貸金庫を借りて金の詰まった、カバンを預けて四ヵ月後の世界へ帰って行った。


      四


 それから、またひと月ほど過ぎ去り、耕平はいつもの通り朝になると、祖父の会社に通勤していた。与えられた仕事をこなし、退社時間になると何もなければ、祖父と共に家に帰ってくる。そんな、ごく普通の生活を送る日々が続いていた。

 ただ耕平は、ここのところある種の不安に苛まされていた。夜寝ていても、ほとんど毎晩のように悪夢にうなされるのだった。驚いて起き上がると、体中が汗でビッショリと濡れていることもしばしばだった。それでいて夢の内容は思い出そうとしても、何ひとつとして覚えていないのである。それでも、ひとつだけはっきりしているのは、何かはわからないが得体の知れない〝何か〟に、追われている夢であることだけは確かだった。誰かに相談しようにも、この年代には相談したくても、相談に乗ってくれるような友達もいないのだ。こんな時、山本でもいてくれたら、どんなに心強いか知れないのだが、それも出来ない現状に耕平は辟易していた。この世界に存在していることへの限界さえ感じていた。

 もう、もとの世界に帰ろうと思った。しかし、二〇一八年に戻るのには、少しばかり抵抗があった。何故なら、こんな結果になってしまった以上、母親にどんな顔をして接したらいいのか、まるで自信がなかったからだ。それに、もし山本にいまの状況を知らせたら、間違いなく逆上して怒り出しかねなかった。

 それなら二十七年後はどうだろうかと思った。タイムマシンの動力源が切れた場合を想定した年代なら、山本も五十三歳か四歳になっているはずだから、そうむやみに怒ったりしないだろうと耕平は考えたのだった。

 こうして、ようやく二〇四四年に行く決心を固めた耕平は、その晩、亜紀子に宛てた手紙をしたためていた。



 佐々木亜紀子 様


  亜紀子さん。こんなことを書けた義理ではありませんが、突然徒然お別れ

をしなければならなくなりました。どうぞ僕のわがままをお許しください。

  実は、僕自身も少し戸惑っているのですが、どうしても行かなけれはなら

ないところができてしまいました。もうここには帰って来れないかとも思っ

ています。

  僕は決して亜紀子さんのことを嫌いになって、こんなことを書いているの

 ではありません。むしろ好きです。大好きなのです。愛していると云っても、

あなたには信じてもらえないかも知れませんが、これには止むに已まれない

事情があるのです。どうか、僕の身勝手なわがままをお許しください。

  ここに、生まれてくる子供の養育費と、亜紀子さんの生活していける分の

 お金が用意してあります。

  この金は決して怪しい金ではありませんので、どうぞ安心してお使いくだ

さい。身勝手な僕の行為は、いくら謝ったところで、到底お許し頂けるよう

なものではありません。

  本当に申し訳ありません。心からお詫びいたします。それでは、これでお

別れいたしたいと思いますます。さようなら。

 

 坂本耕助



 耕平は、手紙を書き終えた。熱いものが胸に込み上げて来るのを感じながら、わけもなく涙がしたたり落ちてくるのを、抑えることができなかった。

 もっと多くのことを書き残したいと思っていたが、もう、それ以上のことは言葉にならなかった。出来るだけ過去において、これから生まれてくる自分や亜紀子に、影響が与えるような言葉は、避けなければならないと考えたからだった。

 次の日から耕平は、この世界に別れを告げるための準備に取りかかっていた。身の回りの整理と言っても特別なこともなかったが、自分が少しの間でもここにいたという痕跡を残さないように気を配っていた。自分がしていることを亜紀子や祖父に気づかれないように、十分な配慮を要することでもあった。

 それから、また数日が過ぎて耕平はすべてのやるべきことを終えた。金曜日の午後、用事があるという口実で時間を取って、銀行の貸金庫からカバンを取り出し、家に持ち帰り押し入れに仕舞ってから会社にもどって行った。

 日曜日になった。その日の耕平は朝食を済ませるとすぐ部屋に戻ると、金の詰まったカバンと亜紀子に宛てた手紙を部屋の隅に置くと、自分の荷物の入ったカバンを窓から外に出した。

 しばらくしてから、居間に行くと新聞を読んでいた祖父に、

「これから、ちょっと友達に会う約束があるので、出かけてきます」

と、ひと言告げて外に出た。物置に入れておいた自転車を取り出すと、耕平はゆっくりと公園に向かって走り出した。

 昼近くになっていた。耕平はタイムマシンを拾ったあたりまで来ると、マシンの時間合わせに取りかかった。どうせ行くなら、やはり暖かな春先にしようと思った。

 二〇四四年四月十日にセットし終えて、耕平はホッとひと息ついた。公園を見渡すとさまざまなことが、耕平の脳裏に浮かび上がってきた。思い返せば、これまでに起こったことのすべては、この公園でタイムマシンを拾ったことから始まったのだった。だけど、もうそんなことはどうでもいいと思っていた。これから、未来の山本に会っていままでさんざん迷惑をかけたことを詫びて、彼から借りた金を返したら誰も知らない時代にでも行って、ひっそりと暮らそうと耕平はひそかに心を決めていた。

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