第四章 やがて来るもの

 第四章 やがて来るもの


     一


 翌朝、耕平は頭部に鈍痛をおぼえて目覚めた。いつの間に戻ったのか、そこが自分の部部であることに気がついた。何やら、また悪い夢を見ていたような気もしたが、どうしても思い出すことができなかった。そして、昨夜の出来事が鮮明に浮かび上がってきた。その時、耕平は自分が内心青ざめていることに気づいた。もし赤の他人がいまの自分の姿を見たら、顔面蒼白の男が身じろぎひとつしないで、横たわっているように見えたに違いなかった。

 いくらふたりとも酔っていたとは言え、どうしてあのような状況に陥ってしまったのか、自分でもなかなか納得することができなかった。ただ、あの時は酒のせいもあって取り乱して『あたしなんて、いっそ死んだほうがましよ』と、いう亜紀子の言葉に衝撃を受け、必死に宥めようとしていたが、耕平自身もかなり動揺していたために、前後の見境もつかないまま、近い将来自分の母親になるはずの、佐々木亜紀子と関係を持ってしまったのだから、耕平が居ても立ってもいられないほどの、焦燥感に駆られるのも当然のことであった。

 もしも、何かの原因で亜紀子が死ぬようなことになれば、前に山本が言っていた『親殺しのパラドックス』のように、その瞬間に耕平の存在そのものが、この世から消えてしまうかも知れないと考えたからだった。でも、それはただ単に耕平が自分自身を、正当化しようとするための、こじつけに過ぎないことは彼にも充分わかっていた。

 耕平は布団の上に上半身を起こしながら悩んでいた。間もなく朝食の時間だろう。その時、亜紀子と顔を合わせるのがつらかった。どんな顔をして亜紀子と相対すればいいのか、わからないまま布団から抜け出すと、着替えを済ませたところへ足音が聞こえてきた。

「耕助さん。開けてもいい」

 亜紀子だった。

「ど、どうぞ…」

 耕平は平静さを装って答えた。

「朝ご飯の用意ができたから呼びにきたの」

 亜紀子は、いつになくしおらしい口調で言った。

「ゆうべはわがまま云ってごめんなさい。でも、あたしとっても嬉しかった。ありがとう…」

 いままで耕平は、こんなに女らしい言い方をする、亜紀子には接したことがなかった。

「大丈夫でしたか。あれから…。ぼくもいつの間に部屋に戻ってきたのか覚えてなくて、気がついたらここに寝てました…。ちょっと待ってください。いま洗面を済ませたらすぐ行きますから、つい寝坊してしちまったもんで…、すみません」

「そう、じゃあ、なるべく早くきてね。お汁が冷めちゃうから」 

 それだけ言うと、普段の亜紀子とほとんど変わらない調子で、台所のほうへと戻って行った。耕平は複雑な心境だった。彼がこれほど悩んでいるのに対し、亜紀子のほうは意外と楽観的で、むしろああなったことに満足している様子をみて、耕平はますます自己嫌悪に陥りながら、おもむろに立ち上がると洗面を済ませ居間へと向かった。

 居間に入ると食事の準備を済ませた亜紀子が待っていた。食卓の上にはいつもどおりの、亜紀子手作りの料理が並んでいた。

「さあ、冷めないうちに早く頂きましょう」

 炊飯ジャーからご飯をよそって耕平に手渡した。

「頂きます…」

 とは、云ったものの、あまり食欲がなかった。それでも、ご飯をひと口食べて味噌汁をすすった。

「ねえ、ねえ、耕助さん。このクサヤの干物食べてみて、とてもおいしいのよ。あたし大好きなんだー」

 耕平も勧められるままひと口食べてみた。確かに美味かった。そう言えば若い頃の母が、よく食べていたのを思い出していた。子供の頃の耕平は、クサヤの持つ独特の匂いが嫌いで、絶対に口にしようとしなかった。だから、大人になってからも取り立てて、食べてみようとも思わなかっし、きょう生まれて初めて食べてみたが、匂いはともかく味そのものは、なかなかのものであることがわかった。

「初めて食べましたが、結構うまいものですね。これ」

 自分が落ち込んでいることを、亜紀子に悟られてはいけないと思い、耕平はわざと明るい口調で行った。

「え、じゃあ、新潟のほうではクサヤの干物って売ってないの?」

 と、亜紀子が聞く、

「いや、売ってると思いますよ。でも、ぼくがあまり好きじゃないので、売ってたとしても気がつかなかったのかも知れません」

「へえー、耕助さん、クサヤの干物嫌いだったんだぁ。こんなにおいしいのに…」

 そんなことを話しながら、朝食を済ませ部屋に戻って出かける準備をしながら、亜紀子がいつもとかわりなく、自分と接していることにホッとしたが、やはり耕平は自分の母、いや、母になるはずの亜紀子と、関係を持ってしまったことに対し、どうしようもなく底の知れない、後悔の念がどこまでも続いていた。

 朝食を済ませた耕平は、部屋に戻って身支度を整えると、亜紀子と一緒に会社へと出かけて行った。会社に着くと、耕平を待っていたように担当者が言った。

「課長が予定よりも早く話がまとまったとかで、明日最終的な話を詰めて帰ってくるという電話があったんで、君にも知らせておこうと思ってね。いやぁ、早く済んでよかったよ。課長もだいぶ心配していたからねえ」

「佐々木の叔父が、もう帰ってくるんですか。確か、五日くらいかかるかも知れなって、聞いてましたけれども。早かったんですね」

 会社では、耕平のことは祖父の妹の息子という触込みになっていた。

「それが殊の外すんなりと話が進んだらしいんだよ。それじゃあ、ひとつよろしく頼むよ」

 だから、正直ところ祖父が帰ってくると、聞いて耕平は内心ホッとしていた。今夜も亜紀子とふたりだけで過ごすのかと思うと、気が重くなるのを感じていたからだった。祖父さえ帰ってくれば、それだけで気が紛れるし、亜紀子と一緒にいる時間が、少なくなると思ったからだった。

 朝からのしかかっていた、重苦しいものも幾分薄らいだようだが、それでも完全には断ち切れていないのを、感じながら耕平はひとり家路についた。

「ただいま」

 家の前までたどり着いた時もためらいもあったが、いつもと変わりない調子で玄関の戸を開けた。

「はーい」

 と、声がして奥から亜紀子が出てきた。

「おかえりない。きょうは早かったのね。耕助さん」

 何の屈託もみられない亜紀子の顔を見て、耕平は内心ホッとしていた。

「ねえ、それより聞いて聞いて、お父さん予定より三日も早く帰って来れるんだって、さっき会社に電話があったの」

「それなら、ぼくも主任から聞きました。よかったですね。早く帰って来れて、あ、これ、そこのスーパーを覗いたら、安かったんで買ってきました。かつおの刺し身です」

「まあ、うれしい。あたしもかつお大好きなんだぁ」

 耕平からスーパーの袋を受け取ると、亜紀子は嬉しそうに台所のほうへ戻っていった。

 耕平は自分の部屋に入ると襖を前にして座り込み、時計を腕から外して吉備野に言われたとおり、襖の白い部分に時計を向けて、左側についている一番下のボタンを長押しした。すると、襖の横幅の大きさに各部種の図とか、諸々の説明らしいものが映し出された。説明文を読んでみたが、そこには耕平にもわかっていることしか、書かれていないことに気づいた。次のページに移動するには、どうすればいいのか探していると、画面の下の部分に小さな文字で記されていた。

『なるほど、こうすればいいのか…』

と、ひとりで頷きながら投影ボタンの、上のボタンを下方にスライドさせた。画面が変わり次のページが現れた。そこには各部首の注意事項のようなものが、ビッシリと書かれていた。耕平の一番知りたかったことは、設定した時間がズレないようにするには、どうすればいいのかということだった。

 関連項目を調べていると、年代・月日・時刻の合わせの項に、確かにそれは記されていた。

『何、何…、年代・月日・時間の各項目ごとに設定した後、右の第七ボタンでロックするか…』

第八ボタンはロックの解除と、その他諸々の役割があるらしかったが、いまはそれほど必要ではないと思ったので省いた。

 いままで、どうしてもわからなかった部分が、ほぼ完全に把握できてきた。これでもう時間が微妙にズレることも、なくなったと思うと耕平は心の中で、安堵感のようなものを覚えていた。

 その時、耕平はマニュアルの最後のページの下部のほうに、小さな数字が書き込まれているのに気づいて目を移すと、C12.10.2721 と、記されていた。製造された年番号らしかった。

『二七二一年十月二一日…。え、二・七・二・一年⁉。こ、これって、七百年も未来じゃないか…、マ、マジかよ、ええー』

 耕平は驚愕のあまり、しばらく身動きができなかった。

「耕助さーん。ごはんの支度ができたわよー」

 その時、居間のほうから亜紀子の声が聞こえてきた。

「はーい。いま行きまーす」

 耕平は気をとり直して、亜紀子が朝食の用意をしている居間へと向かった。

 居間はすでに亜紀子がごはんと味噌汁をよそって待っていた。

「ほら、見てー。美味しそうだから、耕助さんの買ってきてくれた、かつおのお刺身」

「ほんとですね。ほんとうにうまそうだな。これ」

「それじゃ、頂きましょう」

「いただきまーす」

 耕平はかつおを一切れつまむと口に入れ、

「あ、うまい。これ、ほんとにうまいですね。あんなに安かったのに」

「あたしも、こんなに美味しいかつおのお刺身、久しぶりに食べたわ」

 ごはんを食べながら祖父の話をしているうちに、亜紀子が思い出したようにつぶやいた。

「おとうさん。大丈夫かしら」

「え、何がですか…」

「おみやげよ。お土産」

「え、お土産って…、何ですか?」

「あら、忘れたの耕助さん。カニよ、タラバガニ。あたしがおとうさんに、買ってきてって頼んだじゃない」

 そう言われれば、そんなことも聞いたような気がして、

「タラバガニか、カニの中ではあれが一番食べごたえがあって、ぼくも大好きです。それは本当に楽しみですね。亜紀子さんも好きなんですか。タラバガニ」

「ええ、大好きよ。北海道のは採れたてで新鮮だから、美味しいわよ。早く食べたいなー」

 そんな何の屈託もない亜紀子を見ていると、きょうは一日重苦しい気持ちを、引きずりながら仕事をしてきた耕平にとって、ためらう様子もなく普段どおりの、亜紀子の振る舞いを見ても、自分ではなかなか割り切りことの出来ない、複雑な感情が湧き上がってくるのを、どうすることも出来ないでいた。

 それでも耕平は食事が済んだ後も、いつもと変わりなくテレビを見ながら、談笑をしながら過ごしていた。午後十時を回った頃に、少し調べ物があるのでという、口実を付けて部屋に戻った。


     二


 部屋に戻ってきたものの、耕平にはやることがあったわけでもなかった。あのまま亜紀子とふたりっきりでいると、どのような状況になるのかさえも、予測がつかなかったからだった。

 そんな亜紀子がいつもと変わらなく、振る舞っているのを見ていると、自分だけが頑なに拒んでいること自体、亜紀子に対して失礼であることはわかっていた。

しかし、いくら亜紀子が自分の母親になる女性であったとても、もうこれ以上思い悩むのはやめようと思っていた。そう考えることによって、耕平の気持ちはいくらかは、普段の冷静さを取り戻していた。

 次の日の朝、耕平は不思議なくらいに清々しく目覚め、朝食の時にも亜紀子とは、ごく普通に接することができた。食事のあとも亜紀子とともに、後片付けを済ませて会社へと出勤していった。

 夕方、耕平が残された雑用を済ませていたところへ、大きな手荷物をぶら下げた祖父が姿を現した。

「やあ、耕助くん。ごくろうさん」

「あ、お帰りなさい。よかったですね。早く帰ってこれて」

「うん。先方との話が意外とスムーズについたんでね。さっき着いたばかりだよ。きみもそろそろ終わりだろう。一緒に帰ろうか」

「はい、そうしましょう」

 耕平は急いで仕事を片付けると、祖父とともに会社を後にした。

「ただいま。いま帰ったぞ」

 祖父が玄関を開けると、奥のほうからバタバタと亜紀子が出てきた。

「お帰りなさーい」

亜紀子が息を切らせながら云うと、

「ほら、買ってきたぞ。お土産」

 玄関に入るなり、祖父は手に持っていた大きな包を亜紀子に手渡した。

「わあー、ありがとう、おとうさん。でも、高かったんでしょう。こんなに大きいの」

 亜紀子が眼を輝かせた。

「なーに、大したことはないさ。それに社長が『仕事が早く済んだんだから、浮いた宿賃で家族に、土産でも買ってってやれ』って云ってくれたんで、特別でかいのを買ってきた」

「よーし、あたし頑張って調理するから、ふたりつとも居間のほうで待ってて」

 亜紀子は大きな発泡スロールの包を、抱えるようにして台所へ消えて行った

 耕平は一旦部屋に戻り、着替えをしてから居間に行くと、祖父もやっとくつろいだという、表情で耕平を待っていた。

「耕助くんも、ご苦労さんだったね。私がいない間、大変だったんじゃなかったのかね。仕事のほう…」

「いえ、たいしたことはなかったです。ぼくもだいぶ慣れましたから」

「そうか、それならよかった」

「耕助さ―ん。ちょっと来てもらえないかしら」

 その時、台所から亜紀子の呼ぶ声がした。

「はーい、何ですか。いま行きます。すみません。ちょっと行ってきます」

 急いで立ち上がり台所へ行くと、

「ねえ、これ見てー、こんなに大きいのよ。このカニ」

 亜希子が手に持った皿の上には、甲羅の直径が三十センチは下らないと思われるタラバガニが載せられていた。

「うわぁ、何ですか、このすごくでかいカニは…」

 亜紀子の盛り付けた皿の上には、大きなタラバガニが乗せらていた。

「そうなのよ。あまり大きいんで、あたしも驚いちゃったの。それより、これとビールを先に持ってってちょうだい。あたしもすぐ後から行くから。お願いね」

「わかりました。それにしても、でかいよなぁ。これー」

 耕平がカニを乗せた大皿と、ビールを手に持って茶の間に入ると、祖父はすこぶる得意そうな表情を見せながら、

「どうだ。ちょっとした物だろう。それは」

「はあ、すごいですよ。ほんとうに、これは…」

「店の人も云ってたがね。それくらいのクラスの物になると『この辺でもめったに入荷しない』んだそうだ」

「そうでしょうね。ふつう店で見かけるのは、甲羅の大きさはせいぜい二十四、五センチですから、これは少なく見積もっても二十七、八センチはありますからね」

「これも店の人に聞いた話なんだが、一般的に出回ってるものは五年物って云うんだそうだ。このクラスになると六年、いや七・八年は経ってるとか云ってたな」

「へえー、そうなんですか」

 そこへ亜紀子がグラスを持ってやって来た。

「さあ、準備ができたわよ。みんなで頂きましょう。はい、おとうさん。ご苦労さまでした」

「ほんとうに遠くまでご苦労さまでした」

「いや、いや、これが仕事だから仕方ないさ。さあ、それより早く食べよう。耕助くんも遠慮しないで食べたまえ」

「はい、頂きます」

「ねえ、でも、これ高かったんでしょう。おとうさん」

「だから、そんなことは心配しなくていいから、早く食べなさい」

「はい、はい、頂きます」

 亜紀子は父親のグラスにビールを注ぐと、盛られたカニに手を伸ばした。こうして、佐々木家のいつもと変わらない団らんが始まった。


     三


 それから一ヶ月ほどは、何事もなく平穏な日々が過ぎ去った。

 ある朝のことだった。世間話に花を咲かせながら朝食を執っていると、亜紀子が急に口元を押さえると、トイレのほうに駆け出していった。

「どうしたんだ。アイツ」

 祖父が怪訝そうな顔をした。

「どうしたんでしょうね。亜紀子さん…」

 二人でそんなことを話しをしていると、亜紀子が戻ってきた。

「どうしたんだ。何かしたのか…」

「どうしたんですか。一体、顔色が悪いですよ…」

 耕平もつられて尋ねた。

「ううん、何でもないの。ただ、ちょっと気持ちが悪くなっただけだから、大丈夫よ」

「お前、なんか悪いものでも食べたんじゃないのか…」

「そんなんじゃないのよ。何でもないんだったら…、ただ気持ちが悪くなっただけだから」

 耕平と祖父は顔を見合わせ、心配そうに亜紀子の顔を覗き込んだ。

「なーに、ふたりとも…、そんなに見つめないでよ。何でもないだから、そんなに見られたら、恥ずかしいでしょう」

と、言いながら、亜紀子はまたご飯を食べ始めた。

「まあ、それならいいが、ほんとに気をつけろよ」

 食事を終えた祖父は、傍らに置いてあった新聞を読み始め、亜紀子は食べ終わった食器類の後片付けに入っていた。

 耕平は部屋に戻ると押し入れて置いたカバンを取り出し、中から何やら四角い茶封筒を取り出した。その封筒はかなり分厚く何かが詰まっていた。彼は無造作に中のコピーした用紙類を取り出すと、畳の上に二等分に分けて並べた。そう、それは耕平がこちらに来る前に、図書館に行って新聞の縮刷版から、九〇年前後起こった事件や流行、その他の出来事を何かの参考にできなかいと、コピーして集めてきたものだった。

 しばらくコピーした記事を読んていたが、これと言って直接的に役立つようなは、何も見当たらなかった。こうして、コピーを片付けようとしていた時、一枚の記事が目に止まった。それは、新潟競馬の記事だった。

『何でこんなもの取ったんだろう』

不思議に思いながら記事を読んでみると、一九八九年十一月十二日付けの物で、新潟競馬場で行われた、「第十四回エリザベス女王杯」の結果だった。

『ん…、何、何。配当金が…、四三〇・六倍だって! こりゃあ、大穴じゃないか…』

 こんな記事を何のために、コピーしたのかまるで記憶になかったが、多分こんな大穴滅多にでないから、珍しいと思って取ったのかも知れなかった。

 時計を見ると出勤時間が迫っていた。耕平はコピーした記事をかき集め、もとの封筒に入れてカバンに戻した。

「おーい、耕助くん。そろそろ出かけようか」

 祖父の声が聞こえてきた。

「はーい、いま行きます」

 耕平は急いで上着を引っ掛けると玄関へ向かった。

「すみません。お待たせしました」

「おお、きょうもいい天気だね」

 玄関を出ると、祖父が空を見上げながら言った。

「富良野も天気は良かったが、向こうはいまが春真っ盛りだからねえ。もう、そろそろ桜も咲き始めるんじゃないかな」

「あ、北海道ってそんなに遅いんでしたっけ…」

「うん、地元の人も云っていたが、地球の温暖化の影響かなんかで、それでも最近は例年よりも、二・三週間も早く咲くそうなんだよ」

「へーえ、そうなんですか。そう云えば、この辺も最近だいぶ暖かくなるのが、早くなって来てますからね。地球温暖化か…、これからどうなって行くんでしようね」

 そんな話しをしながら、ふたりは会社へと向かって行った。

 会社に着くと主任の松本が寄ってきて、

「課長、おはようございます。昨日はご苦労さまでした。あ、ちょっと坂本くん。きょうの日程のことなんだが、実はきょうはいつもとは違う、仕事のほうに回ってほしいんだ」

 耕平を現場のほうに誘いながら、仕事の内容について話し始めた。

「……と、云うわけなんだ。ここは誰かにやらせるから、きょうは君にやってもらいたいんだ。頼むよ。坂本くん」

「はい、わかりました。やらせて頂きます」

「いやあ、助かるよ。ほんとに君はよくやってくれるんで、会社のみんなも喜んでるんだ。坂本くんがアルバイトだなんて、本当にもったいないなあ。もし君さえいいのだったら、正社員にしてもらえるよう、僕のほうから社長に頼んどいてやるよ」

「はあ、ありがとうございます。考えてみます」

「じゃあ、頼んだよ。坂本くん」

 それだけ言うと、松本は自分の持ち場へと戻って行った。

 松本に言われた部署に出向いた耕平は、すでに仕事は始まっていた。みんな忙しげに働いていた。耕平が仕事場にに入って行くと、作業をしていた中年の社員に声をかけた。

「おはようございます。松本さんから云われてきました。坂本と申します。よろしくお願いします」

「ああ、君か課長の甥子さんというのは、吉田といいます。よろしく。いやあ、君のことは主任から聞いてるよ。若いのによく働いてるって関心してたよ」

「そんなことないですよ。で、何をやればよろしいでしょうか」

「あ、そうだ。君にはこれをやってもらおうか。これらとこれらを箱詰めして、コンベアーで送り出してくれればいいんだ。それが終わったら、これとこれを運んで行って、向こうの班まで届けてくれればいい、ここの台車を使っていいからね。それじゃ、頼んだよ」

 吉田に言われたとおり、耕平はテキパキと仕事をこなし、作業は午前中のうちに終わった。午後からは本来の配送車の誘導やら、その他もろもろの雑用係に戻っていた。

 夕方になって退社時間になった。帰り道に耕平は、本屋に立ち寄ろうと思った。行きつけの本屋だった。が、それは耕平のいた二〇一八年の話であって、ここはあの日耕平がやってきた時よりも、さらに一年早い一九八九年の店なのだ。店内に入ると、

「いらっしゃいィー」

 と、言う、あの独特の声がした。やはり五十代を少し過ぎたくらいの、ゴマ塩頭の店主が店番をしていた。

 いろいろ物色をして、五・六冊の本を手に取ると耕平は、店主のいるレジへ向かった。目の当たりにしてよく見ると、一年前とほとんど変わりない様子だった。もっとも、あの時は目を合わせただけで、ド肝を抜かれたような思いがして、すぐ店を出てしまったから、あまり覚えてはいないが、耕平が知っている七十を過ぎた、あの爺さんとはまったく違う人物に見えた。

 代金を支払おうとしていると、

「お客さん、あんまり見かけない顔だね。うちは初めてかい」

 と、尋ねてきた。

「ええ、まあ、そうですけど…」

「それじゃあ、これからもひとつ御ひいきに、よろしくどうぞ」

 支払いを済ませて帰ろうとするすと、

「まいどありィー」

 また、いつもの声を背にして耕平は店を出た。 家の近くまで来たところで、亜紀子が買い物袋を手に帰ってくるのに出会った。

「あら、耕助さん。きょうは遅かったのね」

「きょう主任から急に別の仕事を頼まれて、そっちのほうを手伝ってい手、それに本屋にも寄ったので遅れました。佐々木のおじさんはもう帰ってますか…」

「ええ、帰ってきてるわよ。それより、耕助さん。なに買って来たの、ご本」

 耕平が手に持っているBOOKSと印刷された紙袋を見て亜希子が聞いてきた。

「あ、これですか。いまそこの本屋を覗いたら、たまたま売ってたんで買ってきたんですよ。ただのSF小説です」

「へえ、耕助さんってSF小説なんて読むんだ」

「昔、高校時代にSF狂いの友人がいましてね。ぼくはほとんど読んだことがなかったんですが、ちょっと読んでみようかなと思って、買ってきただけですよ。ただの気まぐれですよ。こんなの、ハハハハ…」

 耕平は照れ笑いをしながら、本の入った袋を持ち替えると、亜紀子と並んで自宅のほうへ歩き出した。

「今日は一日中、何だか知らないけど調子悪かったの。あたし」

「え、どうしてんですか。何かあったんですか」

「うん。何だか体がだるくて変だったの」

「どうしたんですか。一体」

「わからないの。でも、大丈夫よ。すぐ良くなると思うから…」

「でも、心配だなぁ。一度病院で診てもらったほうがいいですよ。亜紀子さん」

「あたしもそうしようと思って、明日にでも時間をもらって行ってくるわ。でも、おとうさんには内緒にしといてね。心配するといけないから」

 家に着くと玄関の前で、祖父が何かをしていた。

「ただいま帰りました」

「やあ、お帰り、きょうはふたりお揃いかい」

「うん。そこでちょうど耕助さんとあったのよ」

「それより、きょうは済まなかったね。耕助くん。ひとり急に体調を崩して、休んだものだから、君まで借り出したりして、本当に悪かったね」

 祖父は耕平に対して、済まなさそうな表情で詫びを入れた。

「いやぁ、こんなことはぜんぜん平気ですから、気にしないでください。これからも、ぼくに出来ることでが、ありましたら何でもしますから、いつでも気軽に言い付けてください」

「そうかい。そう云われると助かるが、じゃあ、また、たまにはあるかも知らないから、これからもよろしく頼むよ」

 それから家に入ると、亜紀子は夕食の準備に取り掛かり、耕平は部屋に行くと机の前に座り、さっそく買ってきた本を取り出した。中身はすべてタイムマシンや、タイムトラベルをテーマにした小説ばかりだった。山本が言っていた、タイムパラドックスというものが、耕平にはいま以てチンプンカンプンで、わからない部分のほうが多かった。文章になっているものを読めば、少しは理解できるのではないかと考え、それらに分類されるSF小説を、買い求めて来たのだった。これらの小説の末尾には必ずと言っていいほど、その作品に関する解説や、著者の記した後書きが載っていることが多かった。耕平が昔読んだことのある、外国の有名なミステリー物にも、例外なくそれはあったからだ。

 買ってきた本の解説の部分を、片っ端から読み始めた耕平だったが、いま自分の置かれている環境に、類似した作品を見出すことはできなかった。彼が一番知りたかったのは、自分が生まれる前とは言え、こうしてすでに他界している祖父と、まだうら若い母になる前の亜紀子と、同じ時間帯に存在していることを、明確に理解できるような記述など、買ってきた本のどの解説を見ても、どこにも見つけることができなかった。

 耕平は苛立っていた。自分がこれほど悩み苦しんでいるのに、そのヒントさえ掴めないでいるのだ。所詮作り話である小説の中に、それを求めること自体が何の意味も持たないことも、充分過ぎるほどわかっていた。自分が好きな推理小説にしたところで、どんな有名な名探偵や敏腕刑事が、いくら難解な事件を解決したとしても、それも所詮書き手である小説家が、でっち上げた作り話なのである。しかし、現実はそう簡単には行かないことも、耕平にも充分わかっていることだった。

 そうこうしているうちに、夕食の準備ができて食事が済んだあと、耕平も亜紀子の後片付けの手伝いをしたり、しばらく団らんを過ごした後自分の部屋に戻ってきた。


     四


 自分の部屋に帰ってきて、先ほどの続きを考えていたが、いくら考えてみたところで、誰も経験したことのないことが、到底耕平にわかるはずがなかった。こんな時パソコンでもあって、ネットを駆使して調べることができれば、何とかヒントのようなものでも、掴むこともできたかも知れないが、ここにはパソコンがないのだから、耕平も諦めるほかはなかった。

 パソコン、つまりパーソナルコンピュータ自体は、一九七〇年代から存在はしていた。その頃はとても高価もので、一般家庭で簡単に買えるような、代物ではなかったらしい。吉備野と名乗った、老紳士も言っていたとおり、Microsoft社がWindows95を、発表して以来コンピュータ業界も、飛躍的な発展を遂げてはいるが、いま耕平のいる一九八九年からすれば、まだまだ先の話しなのである。

 こんなことをしていては、時間の無駄だと悟った耕平は、タイムマシンの操作方法がわかっのだから、一度二〇一八年に戻ってみようと思った。タイムマシンを拾った四月八日に行って、自分のパソコンで調べれば手がかりになるような、何かを得られるかも知れないからだ。確かあの日は母が朝からいなかったから、自分が公園に出かけた直後に行けば、自分自身と鉢合わせしないで済むはずだ。そう考えると、居ても立ってもいられない衝動に駆られ、まんじりともしないで朝が来るのを待った。

 次の日の朝になると、どこからも見えない場所に行くと、タイムマシンの時間を調整した。あの日、公園に行ったのはお昼過ぎだったはずだから、午後一時なら絶対に自分と、鉢合わせする心配はなかった。調整をし終えると、横に付いているスタートボタンを押した。周りの風景が、一瞬ゆらぎまたもとに戻った。辺りの風景はまったく変わっていない。考えてみると、マシンの正確な操作を覚えてから、初めての時間移動だった。本当に四月八日に戻って来たのかどうか、耕平には確信が持てなかったが、このまま家の中に入ることはできなかった。いまは六時を少し回ったばかりだから、あの日の自分はまだ寝ている時間なので、このまま入ったら一年前の自分と、間違いなく鉢合わせしてしまう。それだけは、どんなことがあっても、避けなければいけなかった。午後一時までの時間を、どうやって過ごそうかと考えた。そして、ジョギングを装って街の中を、ぶらつくことを思いついた。もし、知り合いに出会ったとしても、一年前の自分は部屋で寝ているのだから、誰にも怪しまれないで済むはずだ。

 しばらく街の中を走ってみたが、ここのところの運動不足が祟ったのか、太ももの筋肉が痛くなってきた。それに少し空腹を覚えた耕平は、近くのコンビニに立ち寄ると、パンと牛乳を買って三時頃に、タイムマシンを拾うはずの、公園に向けて歩き出した。

 時間は七時半をいくらか過ぎてはいたが、公園には人影もまだ疎らで犬を連れて、散歩をしている人がふたりほど、行き来している程度だった。耕平はベンチに腰を下ろすと、買ってきたパンを頬張りながら、紙パックの牛乳を飲み始めた。

 パンを食べ終わると耕平は、一緒に買ってきた文庫本を読み始めた。まだ、四月の初めだというのに、ほとんど寒さは感じられない、絶好のお花見日和のいい天気だった。これも、いま世界的に騒がれている、地球温暖化の影響なのだろうか。などと、考えながら本を読み始めて二時間ほど経った頃、耕平はあることに気が付きハッとした。まだ時間があるとしても、ここに止まっていては、まずいことになると思った。もし、家に向かう途中で向こうからやってくる、一年前の自分に出くわしでもしたら、とんでもないことになるのは必至だった。一年後の自分と現在の自分が出会ってしまったら、それこそ山本が言っていたとおり、未来である来年に影響を及ぼすかも知れないのだ。だから、こんなところでいつまでも、グズグズはしていられなかった。

 確か、あの日は公園に来るまで家から、一歩も出ていなかったはずから、先回りして物置にでも潜んでいて、過去の自分が出て行くのを待とうと考え、急いで家のある方向を目指して歩き出していた。

 幸いにも家に到着するまで、知り合いに会うこともなく着くことができた。家の様子を気にしながら物置に隠れ、もう一人の耕平が出かけるのを待った。

 それから、さらに三時間半ほど経過した。入口の戸を細目に開けて、聞き身を立てていると、玄関の戸が開く音がしてた。ようやく、自分が出かけた時間が来たようだった。

 自分がいなくなるのを確認すると、耕平は中に入り居間に掛けてある、日めくりカレンダーを見た。母が毎朝欠かさずに日めくりを、剥がすことを日課としていたから、平成三十年四月八日という、文字が印刷されているのを見て、何となくホッとした気分になり、耕平は自分の部屋へと向かった。

 机に座るとすぐパソコンの電源を入れ、ブラウザを開きタイムトラベルに、関することを検索し始めたが、何を調べたらいいかわからず困惑していた。

 そんな時、ふとインターネットのフリー百科、ウィキペディアを思い出し立ち上げてみた。これなら、正確にはわからないまでも、何かしらのヒントでも得られるのでは、ないかと考えたからだった。しかし、どの項目にしてもいくら調べても、耕平の知りたいと思っていることは、何ひとつ見つけることは出来なかった。

 それはそうだろうなと思った。何しろ、タイムマシンはおろかタイムトラベルなど、現代人の誰ひとりとして、体験したことがないのだから、そんな記述が載っていたら、反対におかしいと思われた。もし、本当にそんなことが載っていたのなら、下手なSF作家がでっち上げて書いた、いい加減な記事に違いなかった。耕平は、それからなおも自分で思いつく限りの、事柄を片っぱしから調べていった。しかし、それらの努力もすべて虚しい徒労に終わっていた。

 翌日の夕方、仕事を終えた耕平が帰ってくると、亜紀子が玄関の前で待っていた。耕平を見つけると亜紀子が近づいてきて、

「ちょっと、お話しがあるの。公園に行きましょうよ」

と、誘った。

「何ですか。いったい…」

耕平が訊くと、

「ここでは、ちよつと…ね。公園に着いたら話すわ。さあ、行きましょう」

 と、耕平を急き立てながら、亜紀子は花歌まじりに歩き出し、耕平は後ろからついて行く。

 公園に到着すると、ふたりはベンチに腰を下ろし、亜紀子が口を切った。

「あのね。きょう、午後からちよっと時間を頂いて病院へ行ってきたの…」

 亜紀子は、珍しくモジモジしながら、

「あたしね、あの…、出来ちゃったみたいなの…」

「何がですか…」

 何を言おうとしているのか、わからないまま耕平が尋ねると、亜紀子は顔を真っ赤にして、聞こえないくらいの小さな声で言った。

「きょう…、時間をもらって病院に行ってきたの…。そしたら、先生に『おめでとうございます。妊娠五週目ですね』って云われたの。あたし赤ちゃんができたのよ。耕助さん、あなたの子供よ」

「え…」

 耕平は自分の耳を疑った。それは耕平にとって、まさに青天の霹靂だった。頭の中が、真っ白になって行くのがわかった。そして、それが暗黒の渦のように逆巻きながら、耕平自身を飲み込んで行くような、感覚に捕らわれていた。自分の一番奥深いところで何かしら振動のようなものが沸き上がり、心の中で何かが音を立てて崩れ去るのを感じながら、全身を悪寒が走り抜けていった。

 金縛りにでも遭ったように身動きしないでいる耕平に気づいて、亜紀子が振り向いた。

「どうしたの、耕平さん。あなた嬉しくないの。あなたの子供よ、あなたの…」

「…………」

 言葉が出なかった。あまりにも唐突な出来事に、耕平は自分自身を見失いかけていた。どうしても言葉が見当たらなかった。それでいて何かを言わなければいけないとわかってはいても何をどう言えばいいのか、まったく思いつかなかった。こんな時、普通の人はなんて言うんだろうと考えてみたが現実は稀にみる異常な出来事であり、耕平の知る限りの常識の範囲をはるかに上回っていた。

 その時、耕平はあることに気づいてますます驚愕した。十ヶ月後といえば耕平が生まれた月に当たるのだ。

『オレの父親がオレ……』

 大地がグラグラと揺れだして、いまにも地割れが起こって、自分を呑み込んでゆくような恐怖に包まれていた。

「どうしたの…、耕平さん。顔色が真っ青よ、いったいどうしたのよ。どっか具合でも悪いんじゃないの」

 亜紀子は耕平の尋常でない表情に気づいて、腰を浮かして耕平に近づいて行った。

「何でもないんです。ただ、急に云われたもんだから、ちょっと驚いちゃて…」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。その時ふたりでいろいろと話しをしたが、耕平は自分が何を話しているのか、記憶することも出来ないまま、腹話術師の操ていることを亜紀子に、気づかれてはならないという観念だけが、耕平の中で強固までに高まっていた。

「さあ、帰りましょうか。おとうさんが待ってるわ。行きましょう」

 亜紀子が立ち上がった。続いて耕平も立ち上がると祖父の待つ家路についた。


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