第三章 待っていたもの

       一


 どれくらいの時間が過ぎ去っただろうか。耕平はまんじりともしないで布団の中に横たわっていた。と、その時だった。枕元の空気が急に揺らいだような気がした。次の瞬間、そこに誰かが立っているような気配を感じて、耕平は慌ててスタンドに手を伸ばして明かりをつけた。そこには白髪の六十代半ばくらいの紳士が立っていた。

「だ、誰ですか。あなたは…」

 祖父たちは寝静まっているので、声を押し殺すようにして尋ねた。

「たいへん驚かせてしまったようで、申しわけありません。私は決して怪しい者ではありません。初めまして、佐々木耕平さんですね。あたしは吉備野という者で、あなたがあの公園で拾われたタイムマシンの製作者です。少しお話をさせてもらってもよろしいでしょうか」

 吉備野と名乗った紳士は、白髪の頭にやはり白い口ひげを蓄えていた。タイムマシンの製作者なら、よほど高名な科学者に違いないと耕平は思った。普通なら、夜の夜中のみんなが寝静まった頃に、他人の家に無断で侵入してきたら、耕平に限らず誰でも驚くはずだが、今夜の耕平は少し違っていた。タイムマシンの製作者と聞いた瞬間から、最初に抱いた不安などというものは、どこかに蒸発してしまったように消え去り、かわりにある種の期待が積乱雲のように膨れ上がっていた。

「ぼくも明日仕事があるので、少しだけならかまいませんが、何しろ家の者が寝ているので、出来るだけ静かに話してください」

「もちろんです。すぐにお暇しますから、座らせて頂いてもよろしいですかな」

 そういうと、紳士は耕平の横に腰を下ろした。耕平は急いで寝ていた布団を、捲し上げるとふたつ折りに畳んだ。

「吉備野さんとおっしゃいましたね。ぼくに話したいというのは、一体どんなことでしょうか…」

 耕平は紳士のほうに向き直ると、さっそく質問に転じた。

「はい、それではお話いたしましょう。佐々木さん。あなたはあの日、つまり二〇一八年四月九日に公園のブランコの側で、あのタイムマシンを拾ったのは、単なる偶然だと思っていませんか。本当のことを言えば。あそこでタイムマシンを拾ったのも、一九九〇年に行ったことも全部、私が仕組んだ計画だったのです。そこで聡明なあなたは拾った腕時計が、タイムマシンであることに気づきました。そして、急いで二〇一八年に戻って、友人である山本徹さんに相談しました。これもまた、すべて私の計画したことだったのです」

 そこまで黙って聞いていた耕平は急に話を遮った。

「ちょっと待ってください。もし、その話が本当なら何故そんなことをしたんですか。それじゃあ、まるでぼくは何かの実験に使われている、モルモットみたいじゃないですか」

「いい質問です。いやあ、あなたには事前に了解を取って置くべきでした。大変ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ないと思っております。実は、あたしはある研究をしておりまして、その研究のために必要にかられて、永い時間をかけてタイムマシンの開発に成功しました。いろいろと調査した結果あなたの存在を知り、私の研究の実験台になって頂いたというわけです。決してあなたのことを、モルモット代わりだなどとは、考えておりませんので、悪しからず…」

 吉備野は深々と頭を下げると、また穏やかな口調で話しだした。

「私の研究というのは人間の運命に関するもので、人間には人それぞれ持って生まれた宿命というものがあります。

では、この宿命とか運命というものは絶対に人の力。あるいは、その他の手段を持ってしても、絶対に変えることができないのか。このことについて、私は試行錯誤を繰り返しながら、長年にわたり研究を続けてきましたが、最近になってようやく確信に近いものに、達することができたと思えるようになりました。

もちろん、まだまだ推論の域を脱しきれてはいませんが、たとえばですな…。未来から過去の歴史を変えようとして、やって来た人間がいたとします…。彼は自分たちに都合のいいような未来を作ろうと、歴史的に操作を加え未来へ帰って行きます。男は期待に胸を弾ませて未来に戻ってみると、未来世界は男がいた時のまま、何ひとつ変わったところが見られませんでした。これはなぜでしょうか。佐々木さん、なぜだと思われますか?」

「さあ…」

 と、言いながらも耕平は言葉を続けた。

「よくはわかりませんが、もしかしたら、ドラマや映画に出てくるような、パラレルワールドみたいな世界だったんですか…」

 すると吉備野は、してやったりとばかりに話を続けた。

「そのとおりです。さすがは佐々木さん。私の見込んだとおり大変聡明なお方だ。

 この世界には、われわれの目には見えないのですが、同じ次元の中に紙を幾重にも重ね合わせたような、酷似した世界が存在していると考えれらています。もちろん、これもまだ推測の域を脱しきれてはいません。

パラレルワールド、あるいは並行世界・並行宇宙とも呼ばれています。パラレルワールドという考え方は、SF作家のマレイ・ラインスターが、一九三四年に『時の脇道』という作品の中で、タイムパラドックスを回避する、ひとつの方法として使用しています。また、この考え方はSFの世界の中での概念だけでなく、実際の物理学の世界においても、理論的な可能性が語られています。こういった考え方は、あくまでも理論上のものであって残念ではありますが、いまの私たちにはそれを観測する手段は未だに持ち合わせてはおりません」

 そこまで話すと、吉備野はゆっくりと耕平の顔を見つめた。すると耕平も少し口ごもりながら、何かを考え込むような口調で吉備野に尋ねた。

「そ、それじゃあ、やっぱり一度過去に起こった出来事は、どんなことをしても変わらない、変えられないということでしょうか。そうだ。いま思い出したんですが、友人の山本が云っていたことなんですけど、坂本龍馬の暗殺現場に行って、それを阻止しようとしても、絶対に阻止することができないとかで、もし龍馬を助けることに成功したとしても、それはすべて別の次元の世界での、出来事として処理されてしまう。だから、われわれのいる世界では坂本龍馬は、慶応三年十一月十五日に暗殺されたことは、永久に変わることのない事実として、残っているんだと云うのです。

 でも、ぼくには次元の違う世界とか、眼に見えない世界なんてのは、あまりピンときませんし、例えばですよ。もし、そんな世界が本当にあるとしたら、今回ぼくが巻き込まれた一連の事件というか、こんな妙ちきりんな出来事は一体何なんですか。また別の世界では、こんな変なことに巻き込まれず、平々凡々とした日々を送っている、ぼくがいるとでもいうんですか。教えてください。ほくにはまったくわかりません…」

 すると、少し間を置くようにして吉備野は話しだした。

「ごもっともな質問です。実際にあなたもご存知のように、タイムマシンは実在します。しかし、そのマシンを駆使したとしても、パラレルワールドの存在を証明することは、不可能に近いことには変わりません。私の考えるところでは、パラレルワールドというのは、一枚の紙の裏表のような世界だと認識しています。表側に住んでいる人間は、裏側の世界のことなど知る由もありません。まして、裏側に別の世界があるなどということも、知らないで日々を過ごしているはずです。

 そのような世界が無限大に重なり合っているのが、いわゆるパラレルワールドの概要だというように、物理学上では考えられています。ですから、佐々木さんの身に何も起こらない世界があったとしても、何ら不思議なことではないと思われます。ほかには何か質問がございませんか」

 吉備野は時計に目をやりながら付け加えた。

「さて、私はそろそろお暇をしなければなりません。ただ、ひとつだけあなたにご忠告申し上げておきますが、これから先あなたが遭遇する、現実に対して決して目を背けたり、逃避するようなことは絶対にしないでください。それがあなたにとって最善の道ですので、これだけは必ず守っていただきたいのです」

 そう言いながら、吉備野のはおもむろに立ち上がりかけた。耕平は少し慌てたように尋ね返した。

「あ、ひとつだけ教えてください。山本が気にしていたことなんですが、このマシンの動力源は何なんですか。それからマシンの詳しい操作方法もお願いします」

「やはり気になりましたか。それは当然のことですよね。このマシンの原動力は光です。光子エネルギーを動力源にしておりますで、この世に太陽が存在する限り、永久的に使用可能ですので、安心してお使いいただけます。操作マニュアルは、マシンの左側面の一番下のボタンを長押しいたしますと、コンピューターのディスプレー上に表示されます」

「動力源は光のエネルギー…、だったんですか」

 耕平は、いささか驚いた様子で吉備野に聞き返した。

「しかし、少なくても現代。いや、ぼくのいた二〇一八年時点では、そんな技術が存在したなんて話は、聞いたこともありませんが、それはどういう風に解釈すればいいんでしょうか」

「それはあなたもご存知のように、二十紀後半頃に開発された太陽光発電があります。この技術を極度に増幅させたものが、光子エネルギーの原点なのです。もちろん二十一世紀の技術では、まだまだ実現が不可能なことではありますが…」

「いくらかはわかったような気がします。ですが、操作マニュアルに関しては、いまぼくのいる一九八九年の世界では無理です。第一、この家にはコンピューター自体がありません…」

 すると、吉備野は少々考え込んでから、

「そうでした。これはついうっかりしておりました。マイクロソフト社が。ウインドウズ95を発売したのがいまから六年後でしたね。それでは壁か襖に向かって、マニュアルを照射してください。同じように映し出されます。画面は固定されますので、あとは上下の移動ホタンを使って調節できます」

「あ、それからもうひとつ…」

 と、耕平が加えた。

「あなたと連絡を取りたい場合は、どうしたらいいのでしょうか」

 吉備野のはにっこりと微笑みながら、

「それは簡単です。左側のマニュアル表示ボタンの上のボタンを長押しすれば、私に連絡が取れるようになっています。詳しくはマニュアルをご覧いただければわかりますので、よろしく。ずいぶん長居をしてしまいました。私はそろそろ失礼いたします」

 吉備野はゆっくり立ち上がると、耕平に深々と一礼をして内ポケットから小さな計器のようなものを取り出した。不審そうな顔で見つめる耕平に気づくと、

「これですか…。いまは残念ですが、夜間ですのでマシンは使えません。これはマシンのマザーシステムへの遠隔装置です。これならスタンドの光のような、微量な光でも充分使用可能なのです」

 吉備野は計器のボタンの一つを押した。すると、彼の身体は現れた時と同じように、物音ひとつ立てずに、耕平の眼の前から姿を消していた。耕平は、しばらく茫然自失の状態から、抜け出すことができなかったが、時計を見るとまもなく午前三時に なろうとしていた。明日のことを考えて、とにかく今夜は早く休もうと布団を敷き直し始めていた。

 翌朝、寝苦しい思いに駆られて耕平は目醒めた。何か悪夢にうなされていたような、気もしたが思い出せなかった。ふと、昨夜のことが頭をよぎった。吉備野と名乗った老紳士は、なぜ急に自分の前に姿を表したのだろうか。

 昨夜の出来事が、まざまざと耕平の脳裏に甦ってきた。あの吉備野という老人は、タイムマシンを創り上げた人物だから、よほど高名な科学者に違いなかった。耕平は自分の記憶を探ってみたが、これまで彼が見聞きした記憶の中には、そんな名前の学者はとんと浮かんではこなかった。そして、その時耕平は頭の中であることに思い当たっていた。

『たしか、タイムマシンの動力源の説明の時、太陽光発電の技術を極度に増幅させて、光子エネルギーを生み出す、テクノロジーがあると云っていたな…。そうだ。こうも云っていたぞ「しかし、もちろん二十一世紀の技術では、まだまだ実現が不可能なことではありますが…」と、いうことは、彼は現代人ではなく未来からやってきた人間……』

 しかし、どうして吉備野老人は、自分のことを研究対象に選んだのだろうか。いくら考えても、それらしい答えは思い浮かばなかった。それどころか、考えれば考えるほど奥の深い迷宮に、吸い込まれていくような気がした。

 そんなことを考えながら、耕平はゆっくり起き出して時計を見た。七時を少し回っていた。洗面を済ませると居間に行った。亜紀子は朝食の準備をしていて、祖父は新聞を黙々と読んでいた。

「おはようございいます」

「やあ、おはよう…」

 祖父は新聞から目を離さずに云った。そこへ亜紀子が入ってきて、

「おはようございます。今朝はずいぶんゆっくりだったのね。耕助さん」

「いろいろ考えごとをしていたら、つい寝そびれてしまって遅くなっちゃって、すみませんでした」

 照れ笑いをしながら耕平が腰を下ろすと、佐々木家の朝食は始まった。雑談を交わしながら食事を済ませると、祖父はさっそく出張の準備に入り、持ってゆく物のチェックや、着てゆく服などの用意を進めていたが、出かける準備が終わったらしく、居間に戻ってくると亜紀子に向かって云った。

「今日は少し早めに会社に行って、社長と最後の段取りをしなくちゃいけないんで、ひと足先に出かけるぞ…」

「気をつけて行ってきてね。お土産忘れないでね。あたし蟹がいいわ。タラバ蟹、お願いね。おとうさん」

「売ってたらな」

祖父は耕平のほうに向き直ると、

「きみも、もうだいぶ慣れたようだし大丈夫だと思うけど、私のいない間会社のほうよろしく頼む。それから亜紀子のことも頼んだよ。なにしろ我がままな娘だからね」

「わかりました。気をつけて行ってきてください」

「それじゃ、行ってくる」

 祖父が出かけてから、しばらくして耕平も亜希子も身支度を整えて、それぞれの会社へと出かけ行った。



      二




 一日の作業も順調に終わり、家に帰ろうとして門を出たときだった。誰かが耕平の肩を叩いた。

「耕助さん」

 振り返ると、そこには子供のようなに悪戯っぽい、笑みを浮かべた亜紀子が立っていた。

「どうしたんですか。こんなところに…」

「ねえ、ねえ。今晩おとうさんいないでしょ。家に帰ってもつまんないでしょう。だから、どっかに飲みに連れてってもらえないかしら」

「え、飲みにですか…。でも、亜紀子さん。あんまり呑めないって云ったけど、大丈夫なんですか。もしも酔っ払って怪我でもしたら大変ですよ」

「だいじょーぶよ。おとうさんが知らないだけで、あたしこう見えても結構いける口なんだから」

 亜紀子は強引に耕平の手を引っ張ると、有無を言わせず歩き出そうとした。

「ちょ、ちょっと待ってください。飲みに行くったって、この街のことあまり知らないし…、それにお金も少ししか持ってこなかったし、また今度にしませんか…」

 すると、亜紀子は胸を反らせるようにして云い切った。

「大丈夫よ。お金ならあたしが持っているから、それに一軒くらいならお店も知ってるし、ねえー、行きましょうよ。あたしが奢るから行きましょう。ねえ、いいでしょう…。ねえ、行きましょう。耕助さん」

 亜紀子は、どうしても飲みに行きたいという、感情を露わにして耕助を誘った。そう言われてみると耕助も、いままで亜紀子と二人きりで、話したことがないのに気がついた。亜紀子の本心を聞いてみるのには、またとないチャンスだと考えて承諾した。

 耕平と亜紀子は、夕暮れ迫る街中をゆっくりと歩き出した。時計に目をやると午後六時を回っていた。繁華街までくると買い物客や、帰路を急ぐ人でごった返していた。とあるビルの前までくると亜紀子は足を止めた。

「ここの地下にあるの」

 狭い階段を降りてゆくと、亜紀子は一軒の店のドアを開いた。中に入るとカウンターとテーブルが、六卓ほど並んだシンプルな感じの店だった。

「いらっしゃいませ」

店長らしい男が声を掛けてきた。カウンターにはまだ時間が早いこともあり、客が二・三人しかいなかった。カウンターの一角にふたりが腰を下ろすと、

「何にいたしましょうか」

店長が尋ねてきた。

「あたしおビールをいただくわ。耕助さんは」

「じゃあ、ぼくもビールお願いします」

 耕平はひと通り店の中を見渡すと、

「静かな感じでなかなかいい店ですね。亜紀子さん、よく来るんですか。この店」

「ううん、きょうで二度目よ。前に友だちに連れて来られただけ。あたしあまり飲めないから、こういうお店来たことがないの。でも、きょうはすごく飲みたくて、ずうっと忘れていたのを思い出して、それで耕助さんのこと誘ったの」

 亜希子は、まるで遠い思い出を懐かしむように、目を細めながら囁くようにつぶやいた。

「はい、お待ちどうさま。ビールお持ちしました」

 そこへ店長がビールとお通しを運んできた。

「はい、それでは乾杯しましょうよ」

 耕平にも勧めてから自分もジョッキを持つと、

「えー、何に乾杯しょうか。まあ、いいか…、何でも。それでは、カンパーイ」

「乾杯」

 亜紀子はゴクゴクと喉を鳴らして、ジョッキの三分の一ほどのビールを流し込んだ。

「あー、美味しいわ。最初は一気に、これくらい飲まないと、飲んだ気がしないんだなぁ。あたし」

「でも、一度にそんなに飲んじゃあ、身体に毒ですよ。亜紀子さん。でも、いいですね、ここ。オレ気に入っちゃったなぁ。この店…」

耕平は、もう一度店内をゆっくりと見渡した。

「彼女、どうしてるかなぁ…」

亜紀子が急につぶやいた。

「え、誰ですか…」

「あたしを初めて、ここに連れて来てくれた娘…。しばらく会ってないから、どうしてるかなと思って。そうだ。電話してみよう」

 亜紀子は、バッグの中から携帯電話を取り出すと、

「ねえ、耕助さん。電話してもいいかしら、彼女この近くに住んでいるから、ちょっと電話して見るわ」

 亜紀子はカウンターから、立ち上がると店の隅のほうへと向かい、耕平のほうをチラチラ見ながら誰かと話していた。二、三分で話を済ませるとカウンターへ戻ってきた。

「彼女、いまこの近くで買物してるんだって、誘ったらすぐ行くって云ってたわ」

「来るんですか。その人…」

 耕平が尋ねると、

「うん。向こうもすごく懐かしがって、誘ったら二つ返事OKしたわ」

 亜紀子が持っていた携帯電話をバッグに仕舞おうとした。

「ちょっと、そのケータイ見せてもらえませんか」

 亜紀子は黙って携帯電話を耕平に手渡した。亜紀子から受け取った携帯電話は、耕平が二〇〇〇年代に使っていた、ケータイやスマホのような長方形ではなかった。電話機本体が全体的に丸みを帯びていて、掌にすっぽりと収まるほどの大きさで、上部右側にはアンテナが付いていた。これが時代の流れというものだろうかと耕平は思った。珍しそうに携帯電話を眺めている、耕平に亜紀子は言った。

「それはちょっと古いタイプなの。最近出回っている新しいのには、アンテナが付いてないのよ。でも、耕助さん。携帯電話が珍しいの?」

 亜紀子に聞かれて耕平は慌てたように、

「あ、いや、そうじゃないけど…、どうもなんていったらいいのかな。あ、これ返します。どうもすみませんでした」

 すこしドギマギしながら携帯を渡した。そんなことを話しながらビールを飲んでいるところへ、買い物袋を手にした若い女性が店内には入ってきた。

「亜紀子、ひさしぶりねー」

 懐かしそうな表情を見せて、ふたりのところへ駆け寄ってきた。

「ホントだねー。何年ぶりかしら」

 耕平は立ち上がって、席をひとつずらすと彼女に勧めた。

「そうねえ。成人式のとき以来だから、もう二年半くらいかな。ところで亜希子は元気してた?」

「もちろんよ。ご覧の通りピンピンしてるわ。あ、それから、こちら坂本耕助さん。父の会社を手伝ってもらっているの。この娘はあたしの友だちの由起子。よろしくね」

 亜紀子はふたりを紹介すると、店長にビールの追加を頼んだ。

「坂本です。よろしくお願いします」

「柏原由起子と申します。よろしくお願いします」

 ふたりの自己紹介が終わると、亜紀子は待っていたようにジョッキを持つと、

「それでは、柏原由起子との二年半ぶりの、再会を祝しまして乾杯をしたいと思います。ふたりとも用意してちょうだい」

 ふたりがジョッキを持つのを確かめると、

「カンパーイ」

「かんぱーい」

「乾杯」

 亜紀子と由起子は、しばらく昔話に花を咲かせていた。耕平は、それをおとなしく聞きながら、ひとり静かにビールを飲んでいた。すると、急に柏原由起子が、耕平のほうに向き直った。

「ねえ、坂本さん。聞いてくださいよ。この娘ったらひどいんですよ」

「え、どうしたんですか」

「二年半前の成人式が終わってから、亜紀子のことをここに連れてきたんですよ。そしたらね。たった一杯のビール飲んだだけなのに、酔っ払っちゃって意識不明になって倒れたんですよ。あたしも一緒に来た友だちも驚いちゃって、仕方がないからマスターの手を借りて、タクシーに乗っけて家まで送り届けたのよ。それなのに亜紀子ったら、全然覚えていて云うんですよ。ひどいと思いません。マスターも覚えているでしょう?」

 矛先を向けられた店長も笑みを浮かべながら、

「はい、私どもはこういう商売をやらせて頂いている以上、一度見えられたお客様のことは忘れませんし、特に印象に残ったお客様のことは決して忘れません。あの時は大丈夫だったんですか。お嬢さん」

 と、亜紀子に尋ねてきた。

「ここに来たことは覚えているんですけど、その後のことはまったく記憶に残ってないんです。ご迷惑をおかけしてほんとうに申し訳ありませんでした」

 照れ笑いを浮かべながら、マスターに深々と頭を下げた。すると、店長はこう付け加えた。

「なーに、いいんですよ。そんなことは、たぶんお嬢さんはお酒を飲まれたのが、初めてだったんでしょう、急性アルコール中毒ってやつですよ。若い方にはよくある話なんですよ」

「へえー、初めてだったの、亜紀子。でも、きょうはまともに飲んでいるところを見ると、どうにか一人前になったようね。亜紀子も」

 そんな他愛のないことを喋りながら、三人はしばらく飲んていたが、そのうち亜紀子の様子が変わってきた。

「マスター、おビールちょーだーい。おビールちょーだいヨ。ねえー…、もう一杯…。うーん……」

 段々亜紀子の呂律が回らなくなってきた。左腕に頭を載せたまま、顔も揚げられない状態だった。『これはまずいぞ』と、思った耕平は、

「もう、だいぶ酔ったみたいだから、そろそろ帰りましょう。亜紀子さん。このひと、どれくらい飲んだんですか。マスター」

「七杯…。いや、八杯です」

「そんなに飲んだのか…。ぼく連れて帰りますから、すみません。マスター、タクシー呼んでもらえますか」

「大丈夫ですか。亜紀子さん、亜紀子さんったらー」

 耕平が肩を揺すっても、亜紀子は微動だにしなかった。

「困ったものね。この娘にも、これじゃ昔とちっとも変わってないじゃない…」

 タクシーが来たというので、マスターに手伝ってもらって亜紀子を車内に乗せた。

「きょうは由起子さんにもマスターにも、いろいろご迷惑をおかけしてすみませんでした。それじゃ、これで失礼します」

 見送る由起子とマスターをあとに耕平と亜紀子を乗せたタクシーは静かに走り出した。



      三



 家についた頃、亜紀子はいくらか意識を取りもどしていたが、普段の状態にはまだまだほど遠いものを漂わせていた。亜紀子を車から降ろして部屋に連れて行こうとした。

「耕助さん…。悪いんだけど、お水を一杯頂けないかしら」

 耕平は亜紀子を居間へ連れて行くと、テーブルの前に座らせて、

「ちょっと待っててください。いま水持ってきますから」

 水を持って戻ってきても、亜紀子はまだ腕に頬を乗せたままの状態だった。

「はい、亜紀子さん。水持ってきましたよ。さあ、飲んでください」

 ようやく頭を上げると亜紀子は耕平からグラスを受け取ると一気に喉に流し込んだ。

「ああ、美味しかった。ありがとう。耕平さん」

 いくらかしゃきっとした様子で耕平にコップ渡すと、

「ねえ、耕助さん。もう一度ビール飲みましょうよ。ねえ」

「え、まだ飲むんですか…。もうだいぶ酔ってるんですから、休んだほうがいいんじゃないですか」

「だーいじょうぶよー。もう家に帰って来たんだし、酔ったってすぐ寝れるんだから、飲みましょうよ。ねえ」

「でも、ほんとうに亜紀子さん。かなり酔っているみたいですから、休まれたほうがいいですって」

 耕平が執拗に食い下がると、亜紀子は急に表情を変えて、

「こら、こーすけ。早くビールを持って来い。言うことを聞かないとお尻ペンペンするわよ」

 耕平は、その言葉を聞いてハッとした。その言葉、「言うことを聞かないとお尻ペンペン」という言葉こそ、子供の頃に母が耕平を叱るときによく使う言葉だったからだ。恥ずかしいような、懐かしい感情が耕平の胸に込み上げてきた。『間違いなく、この人は自分の母親なんだ』と、いうことを耕平は実感していた。

「わかりました。ビール取ってきますから、待っててください」

 台所からビールを持ってくると、耕平の手を見ながら亜紀子が聞いた。

「あら、グラスはどうしたの」

「いま水を飲んだのがあるから、いいかなと思って…」

「そうじゃなくって、あなたの分よ。あなたのグラスはどうしたの」

「ぼくはいいですから、亜紀子さん飲んでください」

 耕平が亜紀子のグラスに注ごうとした。

「いやよ、そんなの。せっかく耕助さんとゆっくり話をしようと思ったのに、さっきは由起子を呼んでしまったから、出来なかったじゃないの…。だから、今度こそ飲みながら話しましょうよ。早くグラス持ってきて」

 亜紀子に急かされて、耕平は自分のグラスを持ってきた。

「それじゃ、ぼくも付き合いますけど、でも、あまり飲まないでくださいよ。亜紀子さん」

「わかってるわよ。それじゃあ、改めて乾杯しましょうか」

 ふたりのグラスが、カチンという音を立てた。亜紀子は家に戻ってきた時より、いくらか酔が覚めたのか、いつもとあまり変わりない口調になっていた。

「耕助さん。きょうはごめんなさいね。見苦しいところを見せてしまって…」

「かまいませんよ。亜紀子さん、そんなに酒が強くないの知ってますから、でも、どうしてあんなになるまで飲んだですか」

「そう云われると面目ないんだけど、ああして由起子が飛ぶように来てくれたでしょう。それがすごく嬉しかったのよ。だから、つい話に夢中になってあとの事も考えずに、飲んでしまったんだわ。ほんとにごめんなさい。耕助さん」

「いや、いいんですよ。ぼくは、でも、その気持わかるなぁ。ぼくにもそんな友だちがいるから…」

 その時、耕平の頭の中には、山本徹のことが浮かんでいた。あいつ、いま頃どうしているだろう。そんなことを考えていると、

「あ、忘れてた」

 亜紀子が、突然何かを思い出したように叫び声をあげた。

「え、どうしたんですか」

 驚いて尋ねると、

「あの店のお勘定よ。どうしたかしら、もしかして耕助さんが払ってくれたの?」

「いいえ、それが…、ぼくが払おうとしたら由起子さんが『わたしが払うからいいわ』って、みんな払ってくれたんです」

「そう…、何だか悪いことしちゃったな…、由起子に。でも、まあいいか。今度会ったらお礼云っとくから、それより飲みましょう」

「はい、いただきます」

 それから、ふたりは会社のことや、祖父のことなどを話しながら飲み始めた。

「でも、不思議ねえ…」

「何がですか…」

 キョトンとした顔で耕平が聞くと、

「だって、そうじゃない。あの日たまたま耕助さんの自転車が、あたしにぶつかって怪我をしたから、あたしんちに連れてきて、手当をしてあげただけなのに、あの時もそうだったけど、初めて会ったのに全然違和感がなかったし、むしろ昔から知っている人に会ったような、懐かしさみたいなものを感じたの。父も云ってたでしょう。それが不思議なのよ。ほんとに、たまたま偶然に起こった出来事だったのに…」

 偶然?…、あれは決して偶然ではなかっのだ。と、耕平は思った。それは、若き日の母である佐々木亜紀子に、ぶつかったのは偶然だったかもしれないが、自分は意図して二〇一八年から、この時代にやって来たのだから、逢うつもりはなかったにしろ、亜紀子に出会ったことも、同時代に存在しているからには、起こっても不自然ではないことだった。

「亜紀子さん。ひとつ聞いてもいいですか」

「え、いいわよ。なあに」

「前にも一度聞いたと思うんですけど、亜紀子さん本当に付き合っている人って、いないんですか…」

「いないわよ。そんなひと。どうして…」

 あっけらかんとした表情でいうと、またビールを飲んだ。

「亜紀子さんほど、若くて綺麗なひとをほっとくなんて、世間の男は見る目がないのかなと、思ったから聞いてみたんです」

 すると、亜紀子は目を細めるようにして、

「そんなに、あたしのことが気になるんだったら、いっそのことあたしのことを、耕助さんのお嫁さんにしてくれる…」

「え…」

 その時、耕平は一瞬ド肝を抜かれたような思いがした。まさか、近い将来自分の母親になる女の子から、嫁にしてれなどと言われるとは、夢想だにしていなかっからなおさらだった。

「ねえ、ねえったらー。耕助さん、聞いてるの。ねえ、耕助さんったら…」

「え、ああ、聞いてますけど…。でも、急にそんなことを云われても困ります…」

 耕平は内心ドギマギしながらいうと、亜紀子はさらに続けた。

「ほんとうよ、耕助さん。あたし、ほんとに耕助さんのこと好きになっちゃうから…、いいでしょう」

 耕平は戸惑いを隠せなかった。自分は昨夜の続きで悪夢を見ているのだろうか。と、さえ思えたが、これは夢でもまぼろしでもなく、現実に起きていることは確かだった。

「ねえ、ほんとうよ。ほんとに、あたし耕助さんのお嫁さんになっちゃうんだから…。もう一杯おビールちょうだい」

 亜紀子は自分のグラスを耕平のほうへ差し出した。

「もう、ないです。さっき注いだのでお仕舞いです。もう休んだほうがいいですよ。亜紀子さん」

「いやよ!。もっと飲むのよ。飲みたいの。もう一本持ってきてちょうだい」

 耕平は、これまで母が酒を飲んでいる姿を一度も見たことがなかったし、彼が勧めてもきまって『わたしはいいから、お前飲みなさい』と、断るのが常だった。そう言えば一度だけ、どうして酒を飲まないのか、聞いたことがあるのを思い出した。母によれば『けして飲めないわけではないが、酒は飲まないことにした』と、いうのが答えであった。

 理由を聞いても、何も答えてはもらえなかったから、母がどのような事情で酒をやめたのか、結局のところわからず仕舞いになっていた。そんなことを考えていると、

「とにかく、もう一本だけビール持ってきてよ。耕助さーん」

 亜紀子がわめき始めた。

「いいわよ。持ってきてくれないんなら、自分で持ってくるから…」

 亜紀子が立ち上がろうとするのを見て慌てて、

「あ、わかりました。いま持ってきますから、ちょっと待っててください」

 ビールを取って台所から戻ると、亜紀子はまたテーブルの上に両腕を組んだ上で顔を伏せていた。

「はい、亜紀子さん。ビール持ってきましたよ」

 それを聞くと亜紀子はハッとしたように、おもむろに頭を持ち上げた。グラスにビールを注いでやると、

「ありがとう」

 と、云ってグラスを口に持っていこうとしたが、耕平のほうに向けられた亜紀子の目は、もう半分以上うつろになりかけていた。

「もう、ほんとうにやめたほうがいいです。グラス貸してください」

 耕平は強引に亜紀子の手からグラスを取り上げた。

「何すんのよー。もう少し飲むんだからグラス返して…、返してってばー

 まるで駄々をこねる子供のように亜紀子は喚き散らしている。

「きょうのところは、ぼくの云うことを聞いて、休んだほうかいいですって、明日も会社あるんでしょう。さあ、部屋まで連れて行ってあげますから、ぼくの肩に捉まってください」

 耕平にそう云われると、亜紀子はもう何も言い返す気力もなく黙って立ち上がった。

「さあ、行きますよ。足元に気をつけて…」

 耕平は亜紀子の体を抱え込むようにして、ゆっくりと茶の間から出て行った。


    四


 亜紀子をベッドに座らせると、

「ぼくは向こうを片付けてきますから、その間に着替えを済ませておいてください。また後で来てみますから…。まさか、ぼくが手伝うわけにもいかないから」

 そう云って、耕平は亜紀子の部屋を出て台所の後片付けを済ませると、着替えが終わった頃合いを見計らって戻ってくると、亜紀子は寝巻き姿になってはいるものの、まだベッドに腰を下ろしたままだった。

「あれ、まだ休んでなかったんですか」

 亜紀子は何かを思い込んでいる様子で黙って頷いた。

「早く横になってください。布団掛けてあげますから」

 耕平が亜紀子をベッドに寝かせて布団を掛けようとした時だった。

「ちょっと待って、耕助さん…」

いきなり耕平の手を掴んだ。そして、その手を自分のほうへと引き寄せた。女の娘とは思えないほどの力だった。酒を飲んでいたせいもあって、不意をつかれた耕平の体は、一瞬バランスを失い、亜紀子の上に倒れ込んでしまった。左手で体を支えようしたが勢いあまって頬が、亜紀子の右の胸に触れてしまっていた。

「あっ」

 と、耕平は小さな声を立てた。亜紀子の胸はふくよかに脈打っいており、そのまま温もりが耕平の頬に伝わり、ようやく顔を上げると亜紀子の目と合った。

「あたしを抱いて…、耕助さん」

 耕平は自分の耳を疑った。自分でも信じられないほど狼狽していた。近い将来自分の母親になるであろう、女性から言われたのだから当然のことだった。耕平は慌てて亜紀子の手を振り解こうとしたが、亜紀子は一向に力を緩めようとはしなかった。

「あたしのこと、抱くのいやなの…」

 亜紀子は、弱々しい声でつぶやくように言った。

 亜紀子の口から放たれた言葉は、耕平にしてみれば青天の霹靂であったことも、否めない事実であったし、どうしても戸惑いを隠せないままでいた。

「耕助さん。お願い…、今夜はあたしをひとりにしないで…、お願い…」

 亜紀子は、上体を起こすと耕平にすがりついてきた。彼女は必死で耕平を、ベッドに引き入れようとしている。耕平は強く握りしめられている、右腕に痺れを感じ始めていた。

「わかった、わかりましたよ。亜紀子さん。その手を離してください。ちょっと痛いんです…」

 耕平に言われて亜紀子は、ようやく握りしめていた手を離す、よほど強く握りしめられていたのだろう、耕平の右手首にはかすかに赤く跡が残っていた。

 耕平はあくまでも、平静さを装いながら亜紀子に言った。

「それじゃあ、亜紀子さんが眠りつくまで一緒に添い寝してあげますから、それでいいですか」 

 亜紀子は嬉しそうに微笑みながら、こっくりと頷いた。耕平は布団をめくると静かに亜紀子の脇へ横たわった。

「ごめんなさい、耕平さん。でもあたし、いつかはあなたにこうして欲しかったの…」

 亜紀子は耕平のほうに向き直ると、耕平の胸に腕を乗せてきた。

「こうしていると、何だかとても落ち着くわ。あたし、幸せ……」

 そして、静かに耕平の手を取るとそっと自分の胸の上に置いた。そこには、いつの間にか寝間着の前が開けられていて、亜紀子の柔らかくふっくらと隆起した乳房に触れた。

「あ、何をするんですか…」

 驚いた耕平は起き上がろうとするが、亜紀子は手を離そうとはしなかった。

「お願い、耕助さん。あたしを抱いて…、抱いてください。一生のお願いだから、あたしを抱いて…」

 耕平は正直のところ、なんと答えればいいのかわからなかった。しばらく身動きひとつしないで、じっとしていると亜紀子の鼓動が、通常よりもいくらか早い間隔で、掌を通して伝わってくる。耕平は自分のものと比較してみたが、やはり同じような間隔で脈打っていた。耕平は何かを言おうとしたが、なかなか言葉にならなかった。

「いけない…、亜紀子さん。いけませんよ。そんなこと…」

 すると亜希子は、一層両腕に力を込めて耕平にしがみ付いてきて、

「ねえ、お願い…。あたしを抱いてください。あたし、ほんとうに耕助さんのこと好きになってしまったの。だから、あたしのこと抱いて…、お願い」

 耕平は途方に暮れていた。こんな時、なんと言えばいいのか、女性のほうから言い寄られた、経験もない耕平にはまったく検討もつかなかった。それも相手が自分の母親になるはずの、若い娘なら当然のことだったろう。

「あたしのこと、嫌いなの…、耕助さん。だから抱けないの」

「ち、違います。好きです…。でも…」

 耕平が口ごもっているのを見て、

「嫌いなんだわ。あたしのこと、きっとそうなんだわ…」

「違います…、それは違いますよ。亜紀子さん。ぼくがあなたを嫌いなわけないじゃないですか…」

「じゃあ、どうしてあたしのことを抱いてくれないの…」

「どうして…って、ぼくは…あなたの……」

 と、言いかけて、思わず耕平は口を噤んでしまった。この時『ぼくは、あなたの息子なんです』と、言えたなら、どんなにか胸に支えているモヤモヤとした、わだかまりのようなものがスッキリするだろうと思った。

「え、何、あたしの何なの…、云って…」

「い、いや…、何でもありません…」

 いま、こうして亜紀子といるこの瞬間が、耕平にとっては言葉では形容し難いほどの苦悶に満ちた時間であった。亜紀子はますます両腕に力を込めて抱きついてくる。

 亜紀子は耕平の唇に自分の唇を押し当ててきた。

「あ、う、ぐっ…」

 耕平は小さくうめいた。亜紀子の行為をどうすることも出来ないでいる、自分に苛立ちを感じながら、顔を横に背けるようにして亜紀子から逃れた。

「なぜ、何故なの…耕助さん……」

 見ると亜希子の瞳には涙が浮かんでいた。その涙が見る見るうちに、頬を伝いひと粒の涙となって、耕平の頬の上にしたたり落ちてきた。亜紀子は泣いていた。声も立てずに泣いていた。大粒の涙が止めどもなく、亜紀子の頬を伝い耕平の頬に落ちてくる。

「いいわ…、あたし、いいわ。死んじゃうから……」

「どうしたんですか。亜紀子さん…。急に泣き出したりして…、それにいきなり死ぬだなんて云いだすし…」

 耕平はそう尋ねたが、自分でもどうしたらいいのか、すっかりわからなくなっていた。亜紀子は声を出して泣き始めた。

「あたし、生まれて初めて男の人を好きになったの…。あなたよ。耕助さん」

 亜紀子は泣きながら続けた。

「それなのに、あなたは何にもしてくれない。そんなの嫌よ。それなら、いっそ死んだほうがましよ。あたしなんて…、う、う……」

 その時、耕平は思わず亜紀子を抱きしめていた。まるで思考能力を失ってしまったように、力いっぱい亜紀子の体を抱きしめた。なぜそうしたのか、耕平自身にもわからなかった。だが、この時は亜紀子のことが愛おしく感じられ、自分の母親であることをも忘れて、ただひたすら抱きしめていた。こうして、ふたりの周りではゆっくりとした速さで時間だけが流れ去って行った。


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