第5話 謎の輪郭

 定年間近の老刑事には誰も仕事を回さない。残された日々は、年下の署長とチェスでもして過ごしていればいいのだ。誰もがそれでいいと思っている。平和な町なのだ。それをミケーレは誇りに思うことがある。刑事なんか金持ちになる必要は無い、というのが持論だ。刑事は、暇がいい。暇なのだから〈いい給料〉なんか手に出来るはずがない。それでいいのだと思って生きて来た。都会の刑事とは違い、田舎の刑事は暇で、そして住人を睨んだりしなくていいのがいい、と思って生きて来た。だが最後の時が近づく今、なにかがミケーレの中で熱く蠢くのを感じた。〈気になる事〉を放置したままで終わりたくは無い自分が居た。

 しばらくは引き継ぎや手続きなどの雑務に追われたが、ミケーレはリガーロと連絡を取り、署長に許可を貰って、最後の四日間を〈気になる事〉に費やそうと決めた。そしてミケーレはリガーロに会いにボルツァーノを訪れた。古い友人は歓待したが、不思議そうだった。

「なんなんだよ?あんな死亡事案のなにが気になるってんだ?そりゃ、お前の頼みだしさ、ウチの持ってる記録は何だって見せてやれるが」

 そう言いながらハンドルを回すリガーロの隣で、久しぶりに訪れた街の景色を眺め、ミケーレは黙っていた。署に着くとリガーロは議員の妻の死亡事案に関する全調査書を小さな部屋に運び込んで言った。

「俺はオフィスの方に居る。まあ気の済むまで頑張ってくれよ。夜は泊まってけるんだろ?ウチの奴がお前に御馳走するって楽しみにしてたんだからな。あと、なんかあったらその電話で二番を押して声掛けてくれ」

 そう言うとリガーロは業務に戻って行った。ミケーレは長テーブルに置かれた小さな段ボール一つと、その横の薄いファイルを見た。その量の少なさが、事件の〈何でも無さ〉を如実に物語っている。自然死とされたのだ。鑑識による記録の他には検案書があるだけで、関係者の調書も数点あるくらいだろうと考えた。

「自然死――」

 心に張り付いたままのその言葉がミケーレの口から零れた。

 ジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれに掛けて腰を下ろすと改めて書類たちを並べてみた。幾つかの証拠品が密封袋に入れられている。それをざっと見まわすが興味を引くものは無い。次にファイルを開いた。写真が数枚貼られている。うつ伏せの夫人はバスローブ姿だったが、着衣に特段の乱れは、ない。プラチナブロンドの長い髪は背中で多少の乱れを見せてはいたが美しい物だった。

 ページをめくる。次に何枚かの現場写真が並び、そしてさらにその次のページに検案書が添付されていた。それにも全身と部分の写真数枚が添えられていたが、その中の一枚にミケーレの目は釘付けになった。

「こ、これは!」

 仰向けに寝かされた夫人の髪は片側に流され、首筋から胸元が露わにされていた。その首に一筋の微かな痕が見て取れる。添付された拡大写真に〈擦過〉と書き添えられている。

――検死官も一応は注目したのか。

 ミケーレは息を飲み、暫くそれを凝視していたが、下段の記述を呼んで溜息を吐いた。

〈発汗痕と下肢の軽度浮腫――心不全によると思われる自然死〉

 ミケーレは呻いた。

「有ったはずなんだ。何かが。首に痕を残す何かが。新しい傷だぞ?何処に行ったってんだ?何かの方法で女たちを殺した誰かが持ち去ったってのか?他の宝飾品はそのままじゃないか!そんなことじゃないはずだ。物取りでもないが、普通の殺しでも無い。これは一体…」

 ミケーレはファイルを閉じ、もう一度段ボールの中を見回してみた。夫人の傍に散乱していた物で特別気になるものは無い。不意にミケーレの視線が一つの袋に留まる。それは財布らしかった。持った感じは軽く、触った感触でも中身はカードと札が数枚といったところだろう――と想像した。ミケーレはドアを見て、財布に視線を落とした。本来、封入された証拠品に触れるには裁判所の許可が必要だ。ミケーレは逡巡した。が、袋をそっと開け始めた。扱いは慣れている。開封した痕跡を残さずに綺麗に復元する事もミケーレには造作も無いことだ。

 丈夫なビニールで出来た袋はジッパーで封がされ、更にその上から封印がなされているが、ミケーレは事もなげにそれを開けていく。やがて財布が取りだされた。開けてみた。キャッシュは、そう多くは無かったが、カード類とレシートが数枚入っている。キャッシュはそのままにして、レシート類を取り出し、テーブルに並べてみた。全部で六枚。それは書店のものや、歯科医院での支払い、近所のパン屋のものなどで、特に気になるようなものではなかった。最後の一枚は他の物より少し小さめの紙だった。

「なんだこりゃ?」

 老眼鏡の位置を直してよくよく読むと、それは手書きの受領書であることが分かった。

「手書きって――なんだよそりゃ」

 書かれているのは日付の他には受領金額と商品名だけだ。その欄でギクリとした。そこに〈アクセサリー〉の一言があった。ミケーレは唇を舐め、唾を飲んだ。夫人は議員と共に摂った昼のあと、一人になった数時間の間に死んだ事が分かっている。

「受け取ったのは死んだ日だ。じゃあなにか?誰かから何かを買って、その後に死んだってのか?」

 その日の夫人の詳細な行動記録を見たいと思ったが、与えられた資料の中にはない。ミケーレの視線が金額に注がれた。

「二百三十ユーロ(約三万六千円)――。議員夫人様が身に付けるアクセサリーにしちゃあ安すぎないか?こんなもんか?俺には判らんが。そもそもアクセサリーの売り買いで手書きの領収書ってのはどうなんだ?」

 遺体写真をもう一度よく見てみた。間違いなく老婆の時同様の傷だ。ミケーレは同僚に笑われても替えない初期のスマートフォンを取り出すとガブリエッラの携帯番号を押した。

「ハイ!ミケーレ、調子はどう?何か判った?」

 ガブリエッラはミケーレがディアーナの死に疑問を持っている事を知っていた。そして今回定年退職前の時間を使って何かを調べるためにボルツァーノまで来ていたことも。

「あぁ、まあな。なあ、ガビー、ちょっと頼みがあるんだがいいか?あの婆さんが死んだ日の…そうだな一日二日前でいいんだが、宅配業者とかが何かをあの家に届けてないか調べてみてくれ。あぁ、日数はそんなモンで構わん。俺の勘が正しけりゃ〈届きたて〉だったはずだからな。あ、イヤなんでもねえ。じゃあ頼むよ。何か分かったら報せてくれ」

 そう言って電話を切り、証拠品を元通りに戻し始めた。箱に詰め終ると立ち上がって窓際に歩み寄り、ブラインドを開けて三階からの景色を眺めた。街の中央部に位置する公園が石畳の道の果てにチラリと見えている。常設の市場には人が溢れ、賑わっているようだった。

「訳が分からん。同じアクセサリーなのか?だとしても何で同じような傷が残って、当の首輪だかは消えてるんだ?もしも同じ奴から買っているとしたら――」

 ミケーレは考えをめぐらしたが、現時点で分かっている事は二人に共通の傷があるという事だけで、あとは謎だらけだった。情報が上書きされるまで、謎は幾ら考えても推測しか生まない。推測だけで行きつける答えに刑事は用が無い。証拠が欲しかった。

 廊下に出て無料のコーヒーをカップに入れ、部屋に戻る。飲み終えるとまたコーヒーを入れに行く。手持ちのタバコは底をついた。溜息を吐いているところに電話が鳴った。出ると電話の向こうからガブリエッラの陽気な声が聴こえてきた。

「無かったわよ配達なんて。あの地域に配達している業者は限られてるの。二社だけ。それ全部当ってみたんだけどさ、該当は無しね。念のために死亡日のひと月前まで遡ってみたけど、あのおばあちゃんの家に配達された物はゼロよ。今時宅配使わないで生きてられるって或る意味凄いわね!私なんか――あぁ、それはどうでもいいわね。ねえ、ミケーレ、どういう事なの?あの死亡事案が今さらなんでそんなに?ていうか、そもそもそれを調べるのになんでボルツァーノなわけ?」

 黙って聞いていたミケーレはガブリエッラには聴こえないほど小さな溜息を吐いた。

(違っていた。通販で買ったってわけじゃあないのか?じゃあ直接誰かから買ったのか?)

 黙っているとガブリエッラが心配そうに言った。

「ねえミケーレったら。大丈夫?あのさ、プロ中のプロにこんな事言いたかないけど、あなたもう明日明日定年退職なのよ?なにもそんな、幾ら気になるからって――」

 ミケーレは片手で顔を撫で、フゥッと大きく息をついて笑った。

「そうだな。うん、そうなんだが、どうもな…」

 耳元でガブリエッラの笑い声が聞こえた。

「お婆さんの方はさ、私もいま書類を見返してたのよ。まあ、あなたほど何かに気づくことは無いかもしれないけど」

「すまんな、気にさせて」

「いいのよ。お婆さん、全然普通ね。毎日同じことを繰り返してたみたい。変ったことなんて一つも――。あぁ、そうだ、書類には無いんだけど、さっき旦那さんにも電話して聞いてみたのよ。荷物の事とか変わったことが無かったかって」

「うん。で…?」

 そんな事は事件直後に聴き終えていたミケーレだったので期待はせずに耳を傾けていた。

「何も無し。毎日毎月同じことの繰り返しなのよ。死んだ前の日にも育ててる花を買い取ってくれる移動販売車を待って広場で年寄りのお仲間さんと立ち話して、花を買い取ってもらった後はチョットその店を眺めて、あとは普通に帰ったらしいし」

「なに?」

「ん?だから花を…」

「そうじゃない…!何を待って?」

 ミケーレは鳥肌が立つのを感じた。

「え?あの…移動販売の…」

 ガブリエッラは口ごもり、自分のメモを捲って〈それ〉を探した。

「その業者、分かるか?」

「言われると思った。今見てる。えっと…あ、あった。どうする?自分で訊く?だよね?私じゃ判んないもの」

 ガブリエッラから移動販売業者の電話番号を聞き、ミケーレは電話を切った。すぐさま番号を押して待つと、数コールで明るい男の声がした。

「はい!バロテッリ移動販売です!ご注文でしょうか?」

 ミケーレは名乗り、用件を切り出した。

「おたくの販売記録、手元で分かるかい?いつどの街に行ってたかっての」

「あぁ、はい、わかりますけど?ちょっと待ってくださいね。今パソコンを…あ、はい、どうぞ」

 ミケーレは老婆が死んだ前日を指定した。キーを叩く音が聞こえ、そして男は唸りながら言った。

「うーん…あの…」

「どうなんだ?行ってるのか?ナトゥルトの広場」

「行ってないです」

 男はキッパリと言った。

「行って…無い?間違いないのか?記録に残ってないとか誰かほかの社員が――」

「行ってません。間違いないです。だって」

 男は恥ずかしげにミケーレに伝えた。

「うち、俺一人でやってるんですよ。いえ、オヤジが牧場を失敗しましてね。それで工業大学行ってたんですけど俺、急きょ実家に――あの?もしもし?あの…」

 ミケーレは電話を切った。

「じゃあ…」

 ミケーレは混乱した。

「じゃあ誰なんだ?その移動販売ってのは」

 ミケーレの中で謎の輪郭がさらにぼやけた。

(一人は何処の誰かは分からない移動販売で恐らく首に付ける〈何か〉を買った。そしてもう一人はその三年後に通信販売で〈アクセサリー〉を買い、どちらもその日か、翌日には死んだ。首にソックリな微かな傷を残して――)

「何が起きてんだ、一体!」

 ミケーレは、光を失った議員夫人の虚ろな眼差しと首の傷の写真を見返し、冷えたコーヒーを一気に飲み干した。

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聖コイン伝説 宝力黎 @yamineko_kuro

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