第4話 奇妙な一致

 ミケーレの言う通り、イタリアの田舎町では大した犯罪は滅多に起きない。流れ者が土地に不慣れな観光客相手にひったくりや置き引きをすることはあっても、殺人や強盗といった重大犯罪は稀だ。都市とは違い、田舎ではなかなか起き難いものなのだ。だが、遡ること三年前、メラノの中心部から田舎道を西に十㎞ほど行った場所にある小ぢんまりとした集落・ナトゥルトに住む或る老婆が変死体となって発見されるという出来事が起きた。死んだのは地元小学校の教員を長らく勤めたディアーナ・ボナッツオーリ。第一発見者は夫で、小さな農場を営むアレッサンドロだった。

 その日、農場に出かける支度をしていた夫に、ディアーナは嬉しそうに言った。

「今日はあなたと初めてデートした日よ。なに?覚えてないのね?まあいいわ…。お目かしして待っているから早く帰ってよ。あなたの好物のハトの詰め物やとっておきのワインを開けますからね」

 ディアーナは満面の笑みで夫を送り出した。普段から質素を好み、派手な事を嫌う妻だったので、〈おめかし〉と聞いてアレッサンドロは不思議に思ったが、それはそれで楽しみだ――と思い、送りに出たディアーナに笑顔で手を振り、出掛けて行ったのだった。

 アレッサンドロが異変に気付いたのは昼近くだった。いつも通り飼育しているヤギの様子を見ていたアレッサンドロは、普段ならばこの時間になると決まってディアーナから来るはずのメールが来ない事に気づいた。不思議に思い、早めに作業を切り上げて家に戻ることにした。古ぼけたピックアップトラックで、でこぼこの道を急ぎ戻ると庭先に車を止めた。

 アレッサンドロは妙な胸騒ぎを感じていた。ディアーナは〈普段通り〉を好む妻だったが、普段ならばこの時間は庭で趣味の花の世話に勤しんでいるはずなのが、その姿は無かった。急いで家に駆けこんだアレッサンドロがそこで見たものは、床に倒れ、息絶えている妻の姿だった。

 当然、メラノ警察も現場と遺体を確認したが、転んだ際に出来たらしい小さな打撲痕以外、ディアーナに目立った外傷は無かった。後日の検死で、体内から毒物も検出されなかったため、他殺の線は消えた。何より、村での余所者の目撃証言も無いうえ、ディアーナとアレッサンドロの仲の良さは誰もが知っている事だったのだ。事件性は無い――警察が、そう見立てるのは当然と言えた。

 その死亡事件に、ミケーレは最初から関わっていた。

 現場に駆け付けた際にはミケーレも〈事故死〉若しくは持病なりが原因の自然死の線で考えた。現場に殺人の匂いは無かったのだ。だが、臨場の際にディアーナの遺体を観察していてミケーレは「おや?」と思った。首に一筋、微かな擦り傷があったのだ。ミケーレは辺りを見回した。リビングのテーブル近くで倒れていたディアーナは、倒れる際にテーブルクロスを掴んだらしく、幾つかの食器と花瓶が床に散乱し、庭で摘んだらしい小さな花も彼女の傍に散らかってはいたが、ミケーレが探す物は見当たらなかった。ミケーレはもう一度ディアーナの首の傷を見た。致命傷になるようなものではない。本来なら見落としてもおかしくは無いほど僅かなその傷が、何故かミケーレの注意を引いた。

「装飾品の類だろうが、じゃあそれは何処行っちまった?痕が付く程ずっとしてたんだろう?婆さん。切れたなら傍に有るだろうし、外したってんなら――」

 ミケーレは夫であるアレッサンドロに尋ねてみたが、頭を抱えて泣きじゃくる老人は、やっとの思いで首を横に振った。

「分からねえ。あいつは飾りなんか…安いモンだったけど、俺との結婚指輪してたくらいで、なにも…。今日が初めてデートした日だ――って…記念だから――って、めかしこむんだって言って…あんなに楽しそうによぉ…」

 そこまで話し、泣き崩れたアレッサンドロを親戚の者が抱きかかえた。ミケーレは現場状況を記録する鑑識の右往左往の慌ただしさの中で振り返って床のディアーナを見た。胸に生まれたモヤモヤはその後も消える事は無かったが、幾ら調べても他殺を否定する証拠しか出なかった。

 ディアナは自然死なのだ。ミケーレもいつかその事を自分に言い聞かせて事件はファイルの一つに納められ、保管庫に片付けられた。それで終るかと思われた。それから約三年が経った。

 定年退職が数週間後に迫っていた或る日の事。ミケーレは隣の大きな町・ボルツァーノで同じく刑事をしている友人のリガーロと電話で話していた。

「やっとお役御免か?長かったな」

「あぁ、まあな。お前はあとどれくらいだ?」

「そうだな、無事生きてられりゃ二年とチョットってとこか」

「奥さんも大変だったろう。こっちとは違って少しは危険や難事件なんかも有ったろうからなぁ」

「それはな。退職したらせいぜい孝行してやるさ。まぁ難事件と言っても実際には、昨日だって一人死んだ奴は居るんだが、これが議員の奥さんだってんで、面倒臭いってくらいの話さ。ただの心臓発作かなにからしくてな。まあ事件ってモノでもない、そんなもんだぜ、ボルツァーノといってもな」

「へえ?議員さんのな。若かったのかい?」

「いや、うんまあな。五十二だったかな?旦那は八十近いんだぜ」

 さも羨ましいと言わんばかりの口ぶりにミケーレも笑い、「奥さんが聞いたら『出てってくれるのが一番の孝行よ』なんて言われちまうぞ」と、からかうように言った。

「へん、放っとけ。いや、それがさ、俺だって刑事の端くれだ。難事件の一つや二つ関わりたいと思うじゃねえか?『議員の妻殺人事件』とか言ってさ。だが死体は何て事無い普通の――。まあ、首に傷があったんで『おっ!』と思ったんだが」

「ん?何に傷だって言ったんだ、今…」

「あ?いや、首にな。イヤ何てことなくてさ、ただの擦り傷なんだが、なんかこう細い物が擦れた程度のさ。だから司法解剖でも全然…」

 途中からリガーロの声を遠く感じた。ミケーレの胸に固く詰まった物が蘇る。

(首に…擦れた傷痕…)

 ミケーレは、あの日見たディアナの姿を思い返していた。

(首に…)

 電話を握りしめたまま、同僚も殆ど帰った警察署内の自分のデスクの上のカレンダーを見つめた。三週後の火曜日が赤い丸で囲まれている。ガブリエッラがイタズラした『ジイサンおめでとう』の文字が小さく書かれているのも見える。ミケーレは、定年を迎える自分が何故ここまでこの二人の死に関心を持つのか、自分でも判らなかった。のどかな町とは言えども刑事の魂はある。それが何かを嗅ぎつけている――としか言い表す言葉を見つけられないミケーレだった。

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