*16 怒りをまとう神の使いと別れ

 それまで秋晴れの穏やかな日よりだったのが、急に冷たい風が吹きつけはじめ、辺り一帯が暗くなっていく。

 それまで倒れた忌一を忌々しそうに扱っていた両親が顔をあげ、「何だ、雨か?」と、呟いたその時、一番高い庭木に突然落雷したのだ。

 幾千もの閃光が走り、皆がとっさに目を伏せる。しかしその中の誰も、忌一を庇うようなそぶりを見せなかった。

 ぼやけた意識の中の忌一にもその強い光は届き、眼球の奥を刺激していくのか、ぼうっと目を開けようとする。重たいまぶたはわずかしか開かず、視界は狭い。

 指先にも力が入らず、起き上がることもままならない。ああ、もうこのまま自分は本当にここで死んでしまうんだ――そう、忌一は悟っていた。

 折角、慶光と言う神の使いの許に嫁いでしあわせになれたかと思ったのに、何をどう誤ったのか、またこの家に舞い戻ってきてしまったのが、そもそもの間違いであった。こんな、私利私欲のためにしか忌一の力を使わないような両親であることは、生贄にされた時点でわかっていたはずなのに、どうして戻ってきてしまったのだろう。


(……俺、すごく馬鹿だぁ……折角、慶光様が、俺と祝言あげてくれるって言って下さっていたのに……黙って、出てきちゃったから、罰が当たったんだ……)


 ごめんなさい……そう言いたい相手には、もう会えないかもしれない。

 別れの挨拶さえできないまま、詫びることもできぬまま、自分の心身を根こそぎ搾取するような両親のもとで死んでしまうことになるなんて。悔やんでも悔やみきれない事態に、忌一は静かに涙をこぼし、死を覚悟していた。


『儂の嫁をさらったのは貴様らか!』


 地の底に響くほど恐ろしい声に、忌一は失いかけていた意識がハッと覚醒する。重たかったはずのまぶたをこじ開けて声の方へ顔を向けると、ぼやける視界に黒い煙幕、それをかき分けるようにゆっくりと両親の許へ歩み寄る大きな獣の影が見えた。

 黒く闇色の長い荒々しい髪に三角の大きな耳、大きな太い尻尾、そしてたくましく鍛えあげられた体躯。しなやかな筋肉をまとうそれには、獣ながらに整った鼻梁の鋭い目が怒りを湛えてこちらをにらみ据えていた。

 怒りのこもった漆黒の瞳に睨み据えられ、父親たちは情けなくも腰を抜かし、その場にへたり込んでいる。


「ひ、ひ、人喰い……人喰い、様……あ、あの、これは、あの……」

『お前たちが儂の嫁をさらい、ここまでむごい仕打ちをしたのかと聞いておる!! 答えよ!!』

「ひぃぃ……!! ちが、違います……!」

『嘘を申すな!!』


 慶光の怒気を含んだ雰囲気に気圧され、父親も母親ももはや口が聞けぬほど蒼ざめて震えあがっている。

 何故ここに慶光が……と、忌一が考える間もなく咥えあげられ、背に担がれる。そうして触れた慶光の毛並みの熱さに、忌一は涙が再び溢れ出るほど安堵していた。もう二度と会うことも触れることも叶わないと思っていたからだ。


「……慶光様……」

『捜したぞ、忌一』

「ごめんなさい……俺が、馬鹿なばかりに……」

『わけはあの馬鹿鴉に吐かせた。お前は何も悪くない』


 慶光にそっと頭と背を撫でられ、忌一は子どものように泣きじゃくる。あまりに自分が浅はかであったことが身に染みているからだ。

 しかし慶光は忌一の一切責めず、『よう、耐えたな。迎えに来るのが遅くなってすまなかった』と詫びの言葉を呟く。


『お前が鴉に連れられてここに向かったと聞いて、生きた心地がしなかった……どうかもう、儂の前から黙っていなくならないでくれ』

「慶光様、俺、馬鹿だし、何もできないけれど、慶光様のお傍にいてもいいですか?」

『忌一、お前は決して馬鹿ではないし、何もできぬわけではない。お前は、儂の傍にいるだけでどれほどの癒しや力を儂にくれているか。お前ほど愛らしいものを、役立たずなどと思わぬ』


 傷みに堪える様な顔をしている慶光に、忌一の胸が軋むように締め付けられる。こんなにもたくましく大きな彼が、自分のせいでこんなにも心を乱している。その姿が、たまらず忌一は愛しいと思った。

 愛しい――初めて抱いた感情は甘く切なく、それでいてたまらなく心地いい。涙があふれる程その感情が湧きだしてきたいま、忌一はそれを慶光に向けて伝えようと口を開く。


「俺、慶光様のお嫁さんになって、慶光様を好きでいていいですか? 俺、慶光様がすごくすごく好きなんです」

『儂もだ、忌一。儂の嫁になってくれ』


 喜んで、とうなずく代わりに忌一が慶光の太い首にそっと抱き着き、その三角の耳元に触れるような口付けをした。慶光のそこがほんのり赤く染まる。

 甘い菓子のような空気が周囲を覆い始める中、それまで蹲って震えていた父親たちが畳に額をこすりつけながら喚き始めたのだ。


「ひ、人喰い様……! む、息子はお返しいたします……! あの、何卒、お許しを……」


甘い空気を乱されて父親たちの言動が逆鱗に触れたのか、慶光の怒りは再び吹き返し、忌一を抱えている腕と反対の手でへたり込んでいる父親らに向かって牙をむき、睨み付けながら顔を近づけてさらに言いつのる。父親の顔が恐怖と苦しさで歪んでいく。


『人の大切なひと時を邪魔しおって……』

「すすすすすみません! すみません!」

『では、儂がいまから尋ねることに、正直に答えよ。カケラでも偽ってみろ、貴様を丸のみにしてやるからな』

「ひぃぃぃ!! 答えます、なんでも答えますぅ!」


 父親の言質を取って少し溜飲が下がったのか、慶光は父親からわずかに身を離し、ひとつ息を吸って訊ねてきた。


『忌一の本当の名を申せ』

「へ? ええ?」

『申せと言うておる!!』

「ひぃ! 言います、言いますぅ……き、忌一は、きいちでございます」

『それは忌み子という意味であろうが!!』

「いいいいいえ、きいちは生まれてすぐに私共が名付けた名でござます。ただ、文字が違いまして……」

『どう書く?』

「希望の“希”に維新の“維”、治める、と書きます……」


 締め上げられながらも宙にそらで忌一の本当の名を綴る父親の指先を見つめ、ようやく納得したのか、慶光は投げ捨てるように父親から視線を外す。慶光の威嚇から解放された父親は母親の傍へ及び腰で歩み寄り、身を寄せ合って震えている。


『希維治か……ふむ、良い名ではないか』

「あああありがとうございます……!」


 気が動転しているのか、なんなのか、父親も母親も怯え切ったままひれ伏して慶光に礼を言っている。その姿はあまりに無様で、情けない。忌一……もとより希維治は呆然と見つめていた。こんなふたりが、いままで自分を支配していたのか、と。

 ずっと重石のように自分の中にのしかかっていた負の感情が、この瞬間解かれた気がした。


『しかし、貴様らが希維治にした仕打ちを許すわけにはいかぬ。このまま黄泉の国まで吹き飛ばしてくれるわ』

「ひぃぃぃ! そ、それはご勘弁くださいませぇ!!」

『黙れ! これだけの悪事をはたらき、思い残すことももはやなかろう!』


 そう言いながら慶光が寄り添いながら怯える両親に再び牙をむいた時、それを、背に乗せられていた希維治が慶光の首に抱き着いて止めたのだ。


『おい、希維治。何をしておる。放せ』

「……もう、いいんです、慶光様」

『何故だ? お前を長いこと虐げた上、更に精根果てるまで搾取したのだぞ? こんなやつら、いない方が世のためだろうに』

「確かに、父も母も良くないことをたくさんしましたし、俺もたくさん悲しい想いをしました」

『ならば……』

「それでも、この二人がいなかったら、俺は、この世にはいないのです……こんなふたりでも、俺の、二親なんです……」

『希維治……』

「それに、俺、慶光様に誰かを殺めるようなこと、して欲しくないです。人喰い様じゃないって言ってたじゃないですか」


 黒く大きな目から滂沱ぼうだの涙をこぼしながら訴えてくる希維治のいじらしさに胸を打たれた慶光は、若干不服そうにしながらも、牙をおさめ、両親に向かってこう告げた。


『希維治に免じて、お前らを黄泉の国に送ることはやめてやろう。ただし、もう二度と希維治にも儂にも関わるな。いいな?』


 守らねばすぐさま丸呑みしてやるからな、という脅しを付け加えるのも忘れず約束を迫ると、二人は震えながらうなずき、きっと守る、と誓った。

 ようやくそうして慶光の留飲は下がったのか、背負っていた希維治を下ろしてやり、『別れの挨拶をして来い』と、促す。

 そっと背を押されて向き合った両親は、随分とみっともなく年を経ている初老の男女で、自分の二親ではあれど、それ以上の感情は浮かばなかった。しかしそれでも、自分の親であることに変わりはない。

 言い募りたいことは山の様にあったはずなのに、改めて向き合うとその言葉が霧散していく。いま目の前で向き合っているのは、一目でいいから正面から見つめ合いたかった両親の姿。たとえそれに、何の愛情を覚えなくとも。


「希維治……その……すまなかったな、いままでのこと、ずっと」

「うん……でももう俺、慶光様と一緒になるから」

「お前は、それでいいのかい?」


 母親がすがるように問うてきたが、希維治に迷いはなかった。ためらいなくうなずき、朗らかに微笑んで返す。


「うん、だって慶光様は、誰よりも俺を大事に愛して下さるから」

「……そう、それならよかったこと」

「じゃあ、俺、行くね」


 そう言いながら希維治はちょこんと二人に頭を下げ、慶光の許へ駆け寄る。

 慶光は駆け寄って来た希維治を再び背に乗せ、そっと後ろを振り返り、二人に深く頭を下げると、地を蹴って高く飛び上がり、そのまま空高く飛んで行ってしまった。

 瞬く間に雲間に消えた二人の影を、両親がぼんやりといつまでも見送っていたらしいが、希維治も慶光も知る由もない。

 慶光の背の上で、希維治はそっと慶光の毛並みに頬を寄せ、ひっそりと泣いていたのを、慶光は気付いていないふりをしていた。

 希維治を抱えていた慶光はやがて白い光の中に飛び込み、瞬く間に見慣れた屋敷の前に辿り着く。

 着くなり馬食が泣きながら二人を出迎え、やつれた姿の希維治を見て悲鳴を上げる。


「湯あみ! まずは湯あみにしましょう!」

『ならば儂が入れてやろう』

「え……?」


 人型を取った慶光の思い掛けない申し出に希維治も馬食も戸惑いが隠せない。しかし、慶光はごく当然のようにこう告げた。


『希維治を儂の嫁にするための儀式を行う』

「……儀式?」


 事態を把握できないできょとんとしている希維治に対し、馬食はカッと顔を赤らめつつも、心得たようにうなずく。


「わ、わかりました……それならば、主様にお任せいたしますね」

「馬食さん? どういうこと?」


 事情が呑み込めずうろたえる希維治の肩をそっと叩き、馬食はやさしく微笑む。

「大丈夫ですよ、きっと、希維治様もお悦びになれますから」

 馬食の言葉におずおずとうなずく希維治の手を慶光が取り、促すように牽いていく。何かただならぬことが行われようとしていることはわかる。しかしその詳細がわからない。

 一抹の不安を覚えながら、手を牽いて歩く慶光の方を見上げると、慶光はやさしくこちらを見ながら囁く。その頬と耳がほんのりと赤い気がする。


『案ずるな、きっと善くしてやる』


 仔細はわからないままではあるが、慶光のその言葉が希維治を何より安心させていく。

 そうしてふたりは、屋敷の湯殿へと入って行った。



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