*6 人喰い様の機嫌を取るには

 人喰い様の屋敷に来てからさらに七日ほどが経つが、一向に忌一は喰われる気配がない。それどころか、栄養価が高く皿数の多い食事に触発されているのか、段々と食が太くなり始めている。今朝など初めて軽く一膳分の米飯を食べきることができたのだ。


「いやぁ、忌一様! よくお召し上がりになりましたね!」


 空になった茶碗をお膳において満腹の溜め息をつく忌一に、馬食が幼子を誉めるように讃えてくれる。そんな大袈裟なほどに褒められたことなどない忌一は、嬉しさと恥ずかしさで恐縮してしまい、顔を真っ赤にして俯く。


「そ、そんなことは……」

「いえいえ、最初の頃なんて茶碗に半分もお召し上がりになれなかったのに……ねえ、主様」


 食べ終えた食器やお膳を片付けながら、食後のお茶を飲んでいる人喰い様に馬食が声をかける。人喰い様はお茶を煽るように飲み干しつつ、『そうだな』と、密やかに笑って同意した。馬食のように大っぴらに褒め称えはしないが、人喰い様の密やかな笑みがより顔を赤らめさせるのだと忌一は思う。


『米も汁物も、初日よりうんと食うようになった。まあ、目方はまだまだなようだが』

「え、あ、ひゃあ!」


 俯いていた忌一の傍に人喰い様の大きな体躯の気配がぐっと近づいたかと思うと、有無を言わせず抱え上げられた。初日のように担ぎ上げる格好ではなく、赤子にするように横抱きに。

 人喰い様の腕の中にすっぽりと納まった忌一の様を見上げる馬食は、「おやおや」と言いたげに目を丸くし、やがてくすくすとおかしそうに微笑む。


「お庭に小鳥がたくさん遊びに来ていましたよ、主様」

『そうか。見に行くか』


 馬食の言葉にうなずくが早いか、人喰い様はすぐさま座敷を抜け、縁側に出てそのまま草履をはいて庭を歩きだす。腕には忌一を抱えたままで。

 陽射しは春よりも強く眩しく、庭に息づく緑は活き活きとしている。蔵にいた頃より、ここは空気が濃いような気がする、そう、いつも忌一は思いながら肺一杯に吸い込む。そうして吸い込んだ空気は、うすっぺたな彼の体いっぱいに満ちていく。

 忌一が深呼吸を繰り返している様を、人喰い様がじっと見つめていることに気付き、忌一は気まずさで顔を赤らめる。その慌てぶりに、人喰い様はおかしそうにくすくすと笑う。


『忌一は食事よりも美味そうに息を吸うんだな』

「……すみません」

『なに、それだけこの地の空気が美味いという証しだ。朝餉やらもだいぶ口にするようになったしな』


 そう言いながら見つめてくる人喰い様の眼差しがあたたかく、忌一は縮こまっていた心が小さくほどけていく気がした。


(不思議だ……俺はこの方に食べられるはずで、怖いはずなのに……いまは、なんだか怖くない気がする……どうしてだろう……)


 いままで抱いたことがない、あたたかで少しくすぐったい感情が、忌一の中に湧き水のようにこんこんと湧いてくる気配がする。しかもそれは屋敷にいた頃よりはるかに心地よい感覚を忌一にもたらしてくれる。それが何故なのか、忌一はとても知りたくなった。


「ひ、人喰い様」


 思い切って自分から声をかけ、人喰い様がこちらを改めて見つめてくる。吸い込まれそうなほど深い色の瞳に映し出される自分の小ささに驚きながらも、忌一が知りたくて仕方がないと思っていることを口にしようとした時、ぽたりと何かが落ちてきた。

 雨だろうか? そう、二人が顔をあげると――そこにはよだれを垂らして忌一を凝視している大きな黒い鳥、たしか、鴉とかいうものではなかっただろうか。

 忌一がそう思い返している間に、鴉は大きく口を開き、真っ赤な口中を見せつけるようにしながら迫ってくる。その中央には深い喉を、長い蛇のような舌がのたうつ。

 一体、何が……そう、忌一が事態を把握するより早く、彼を抱きかかえていた人喰い様の拳が鴉の横顔に炸裂していた。鴉は、潰されたカエルのような声をあげ、あっさりと真横に吹き飛んでいく。


『儂がいる前で堂々と儂のものに手を出そうとは……随分舐めた真似をしてくれるな、鴉』

“ッケケケ……随分思い入れがあるようだなぁ、その忌み子に。可愛がって手懐けてどうしようっていうんだ?”

『忌み子ではない。儂の嫁だ』

“ホウホウ……それじゃあれかい? 夜伽の慰みの調教でもしようって腹かな? 嫌われ者同士ならたいそう具合も良かろうよ”


 下卑た声で笑う鴉の言葉に、流石の忌一も不快感を覚え、眉をしかめる。人喰い様はと言うと、不快感どころではない、憎悪と怒気をない交ぜにしたような、強い感情を隠すことなく鴉に向けていた。

 しかし鴉は怖気づくこともなく、下品に嗤いながら不快な言葉を吐き続ける。


“そんな嫁なら、それはそれは美味であろうなぁ……どれ、ワシにも一つ分けておくれでないか?”


 滴るように笑いかけてくる鴉の横面に、人喰い様の拳がめり込んだのはその次の刹那だった。先程よりも数段威力が強かったらしく、鴉は随分と遠くへ殴り飛ばされていき、そのまま悪態をなにやら吐きながら飛び去って行った。

 呆然とその様を見ていた忌一が、恐る恐る人喰い様の方を窺うと、人喰い様は忌々しそうに鴉を殴りつけた拳をほどいて振り払って溜め息をついている。


『まったく……結界があってもこれでは埒が明かぬ……』

「……申し訳ありません」


 どうしてこうも、忌一が人喰い様と少しでも心通わせようとすると、妖たちが横やりを入れてくるのか。忌一が人喰い様に喰われることが前提であるにしても、いたずらに不快感や不安をあおり焚きつけてくる言動を取られては、忌一の心がひとところに落ち着けないままだ。

 その上、人喰い様の機嫌を損ねられ続けては、いつ何時忌一が打ち捨てられてしまうかもわからないし、その怒りの矛先が村に向かわないとも限らない。人喰い様の機嫌を取り、村の飢えを解消してもらうよう託されたのだから、それだけは絶対に避けなければならない。

 それなのに……これではおちおち人喰い様の機嫌を取ることもままならないし、妖を退ける手間もかけてしまう。


(もしこのまま、“もうお前なんぞ要らん”って言われて、ここからも追い出されちゃったら……俺、どうしたら……)


 右も左もわからぬ山に放り出されれば、蔵の外の世界のことを何も知らない忌一は、きっとたちどころに死んでしまいかねない。同じ命を落とすことであれば、まだ人喰い様に喰われてしまった方がマシではないだろうか。そう、忌一は考え至る。


『しかし、このままというわけにはいかぬな……さて、どうしたものか……』


 忌々し気に、鴉を殴り飛ばした拳についた鴉のよだれなどを拭って顔をしかめている人喰い様に向かって、忌一は意を決してこう言った。


「ひ、人喰い様! お、俺をいますぐ食べて下さい!!」


 庭木の下の木漏れ日の中、忌一は人喰い様の着物のあわせの辺りに縋りつくようにつかんでいる手が震えているのも構わず言い放った。その言葉に後悔がないと言えば嘘になるが、もはやこれ以上人喰い様の機嫌を損ねないためにはそれしかないと思えたのだ。

 どうして妖たちが人喰い様をからかうようなことを言い、自分も含めて嗤ってくるのかがわからない。しかしその原因のおおよそは自分の存在にあるのだろうことぐらい、察しの悪い忌一にも勘づいていた。

 元はと言えば、人喰い様の機嫌を取るために差し出された生贄なのだ。今日まで、まるで客人や御大臣のように扱われてきたから、勘違いをしてしまっていた。自分の命など、取るに足らないものであることを。

 いっそ一思いに、頭から被り付いてくれたらいい。それならあまり痛みも感じないだろう。そう、忌一は震えながら考えて待ち構えていた。いつでもかぶりと食いつかれ、骨身が砕かれてもいいと覚悟を決めていた。

 ――それなのに、いっかなその気配も様子もない。頭を噛み砕かれるどころか、頬に触れてくるものすらない。

 どうして……? ぎゅっとつぶっていた目を、恐る恐る開いていくと、悲し気に痛みを堪える様な顔をした人喰い様が、忌一の方を見ている。その眼差しに、自分を取って喰うような恐ろしさも獰猛さも感じられなかった。



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