*7 本当の名を

『――何故そのようなことを、お前は簡単に申すのだ』


 振り絞るような声で呟く人喰い様の苦しげな様子に、忌一は戸惑いが隠せず、言い訳の言葉をつむごうにもつむげず、あわあわと狼狽うろたえるばかりだ。

 人喰い様、と呼ばれるからには、嫁という名の生贄として差し出された自分は一刻も早く喰われなければならない――そう、忌一は信じて疑っていなかった。そうすれば、ようやく自分は村の役に立て、疎んじていた両親を喜ばせることができるだろうと思っていた。

 それなのに、そうしてくれと自ら口にしたら、その喰らってくるはずの相手が表情を歪ませて苦し気にしている。忌一は自体が呑み込めず混乱をしていた。


「だ、だって俺は、人喰い様に食べられるために嫁に来たんでしょう?」

『誰がそのようなことを申していたのだ』

「父さんも母さんも……村のみんなが、“こういう時こそ役に立て”って……。俺が食べられたら、みんながひと冬越せるくらいの米や麦がもらえるんでしょう?」


 食べられることは痛みが伴うだろうことぐらい、忌一にも察しがついていた。だから食べてくれと言った理由を話しながらその細い身が震えだして止まらない。

 人喰い様にしがみつく形になりながらも、どうにか真っ直ぐ彼の方を見てそう告げた忌一であったが、内心は叫び出したいほど恐怖心でいっぱいだった。いつ、人喰い様が牙をむいて噛り付かれるかわからないのだから。

 着物の袷を掴む忌一の指先は微かに震え、眼差しも揺れている。それでもどうにか人喰い様の機嫌を損ねまいと無理矢理に口角をあげて笑顔を作ろうとするのだが、歯の根も合わなくなっている。

 ああ、もうダメだ……半ばあきらめて観念したように忌一が固く目を閉じ、いつでもその細い首に噛みつかれてもいいように身体に力を入れて構えていた。

 しかし、次の瞬間忌一を包んだのは痛みでも血のりでもなく、濃く獣の匂いのする暑いほど温かい肌だった。それが人喰い様の抱擁だと気付くのに随分と時間を要し、そして素っ頓狂な声をあげそうになるほど驚いたのだ。


「ひ、人喰い様?!」

『儂は……お前を喰ったりはしない……お前だけではない、人は、一度も喰ったことはない』

「……え? じゃ、じゃあなんで、人喰い様、なんて……」

『お前、馬食から儂の出自を聞いておらぬか?』


 この屋敷に着てすぐの頃、人喰い様の従者である馬食が話していた、人喰い様と呼ばれる所以ゆえんを忌一は思い出す。豊穣の神の使いとして村を助けたのに、狼の姿故に人を喰うものと誤解され、弱い立場の者が生贄として差し出されること、それを憂いていること。しかし、だからと言って人間を救わない選択肢はないことを。


『ヒトと関われば、少なからず煩わしさが生まれる。思い込みによる誤解、怖れ、己のことしか考えぬ者たちの理不尽な仕打ち……ことにお前は、それを一身に背負わされていた』

「……だから、あの夜、俺におにぎりをくれて……腕を治してくれたんですか?」


 そう言いながら忌一が右の袖をまくり上げると、付け根の辺りに色の濃い痣のようなものが小さく覗く。人喰い様はその痕にそっと指を這わせ、『痕が残ってしまったか……』と、申し訳なさそうに呟いた。


『すまぬ、完璧に治したとばかり思っていたのだが……』

「ううん。これがあったから、俺、人喰い様にあって、嫁にしてやるって言ってもらえたのが夢じゃないって思えました。この世のどこかに、俺をそう思ってくれる人がいるんだって、嬉しかった」

『忌一……』

「だからね、俺……人喰い様になら、食べられても良い。もう一杯、美味しいもの食べさせてもらったし、綺麗な着物ももらえたし……全然、怖くなんか……」


 怖くなんかない。十二分に良くしてもらって、しあわせも味わえたし、あたたかな満腹というものも知れた。だから、もう悔いはない……そう、思っていたはずなのに、どうしていま、視界が揺れて滲んで震えがまた止まらないのだろう。

 これではまた人喰い様の機嫌を損ねてしまう。焦って気持ちを落ち着かせて涙や震えを止めようとしているのに、体が言うことを聞かない。

 折角腹を決めたのに、なんで……悔しさと悲しみの入り混じる感情が忌一の闇色の目からあふれ、白い肌の上を滑り落ちていく。


『忌一、案ずるな。儂はお前を決して食べはしない』

「人喰い様……?」

『儂とお前は、夫婦めおとになり、儂はお前を必ずしあわせにする』


 喰われることは決してない、と言い切られ、その上しあわせにしてやるとまで言われた忌一は、あまりに思いがけない言葉の数々を受け止めきれず唖然としている。

 嫁になれれば幸せになれるかもとは確かに密やかに願ってはいたが、それは喰われるために打ち砕かれた儚い夢でしかないと思っていた。それなのに、いま自分をやさしく抱擁している大きな犬耳を生やした男は、大きく長い指先で忌一の頬を伝う雫をそっと拭って微笑んでいる。言葉の通り、忌一をしあわせにしてくれそうな誠実さも感じることができる。


「しあわせって……また、お腹いっぱい食べてもいいんですか?」


 思いを巡らせてようやく絞り出せた言葉はそんなもので、それに対して人喰い様がおかしそうに小さく笑んだことで、忌一は恥ずかしさで頬を染めうつむく。

 人喰い様はそんな忌一を強く抱き寄せ、赤く染まる耳元で囁いた。


『ああ、たんと、存分に食うがいい。何でも、忌一が好きなものを馬食に作らせよう』


 しかし、食べ物のことだけでよいのか? と、人喰い様に顔を覗き込まれて問われ、忌一はますますバツが悪そうにうつむいて顔を背ける。それすらも人喰い様の琴線に触れるのか、なかなか抱擁が解かれそうにない。

 そのあたたかさに、忌一の喰われるとばかり強張っていた心ごとほどけていくのを感じ、涙腺が緩んでいくのを感じる。


「ありがとうございます。……あ、あの、一つ、お聞きしてもいいですか?」

『なんだ?』


 ゆるく抱擁を解かれ向かい合い、忌一は先程から気にかかっていたことを問うてみた。


「あの……あなたは、俺も、誰も人を食べないんですよね?」

『ああ、そうだ』

「じゃあ……本当のお名前を、教えて頂けますか? だって、人喰いじゃないんでしょう?」


 人は一切口にしたことがない、と言い切った先程の彼の言葉を思い出し、忌一は本当の名を訊ねる。夫婦であれば、互いの名前を呼び合うものではないのか、と思ったからだ。それでなくとも、人を喰わないものを人喰い様と呼ぶのはそぐわないと考えたのだ。

 大きな彼はくしゃりと顔をゆがめ、そして再び忌一を抱き寄せて答える。


『――慶光けいこう、だ』

「慶光、様?」

『慶びの光、と書く』


 そう言いながら人喰い様――いや、慶光は、忌一の手のひらに字を綴る。だが、忌一は読書きが全くできないためピンと来ていない様子だ。


『お前、読書きできぬのか?』

「はい、自分の名前の字も知りません」

『……そうか。ならば儂が教えてやろう』

「いいんですか?!」


 まさか読書きまで教えてもらえるなんて思っていなかった忌一は、思いがけない申し出に目を輝かせる。屋敷にいる頃、名前すら読書きができないことをひどく周囲に嗤われていたからだ。

 嬉しそうに微笑んでいる忌一の名を慶光が呼び、顔をあげると、突然に唇が重なり合った。しかも重なり合っただけでなく、口中に何かが入り込んできて濡れた音を立て始める。


「ン……っふぅ……っは、あぁ」

『うむ、これでよかろう』


 口の端からわずかによだれをこぼす忌一の底を拭いながら、ひとりうなずく慶光に忌一が問うように目を向けると、慶光は深く微笑んでこう言った。


『これでもう、あの鴉やらの妖どもに煩わされずに済むだろう』

「え、どういうことですか?」

『いま、儂から忌一に僅かだが神通力を分け与えた。これはこの屋敷の中でならお前を守ってくれる。ただ……』

「ただ?」

『儂と同じくらいの力を分けてやりたいのだが……そのためには、お前の本当の名前が要る。忌一、お前、これは本当の名ではないな? 名を呼ばれるたびに顔が曇る』

「え……?」


 物心ついた頃から“忌一”と呼ばれていた彼にとってはこれが名前であると思っていたのだが、本来の名である“希維治”の文字を知らないため、本当の名を知らぬも同然の状態なのだ。

 まったく考えもしなかった話に忌一は驚きを隠せず、力を分けてもらえたことを喜んでいいのかがわからないでいる。

 戸惑いが隠せない様子の忌一に、慶光は困ったように苦笑し、俯く頭を撫でてこう告げた。


『儂が読み書きを教えてやるから、その中にきっとあるはずだ。焦ることはない。時間はたんとある』

「……ごめんなさい……」

『謝ることはない。大事ない、きっとわかる。……ああ、そうだ。お前の名がわかったら、祝言をあげよう。そうして互いの名を呼び合い夫婦の契りをかわすのだ』


 どうだろう? と、俯く忌一に微笑みかけてくる慶光のやさしさが嬉しく、忌一は泣きたい気持ちになったが、どうにかこらえて微笑んでうなずく。

 その様子に安堵したように傾向も微笑み、そっと頬に口付けてくる。その優しい感触が、忌一には切ないほど甘く感じられた。



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