*5 甘いお菓子のわけ

 人喰い様の嫁として屋敷に住むようになって数日が経つ。やはり、一向に忌一は喰われる気配がない。


(人喰い様は、いまはお腹がいっぱいなんだろうか?)


 忌一は庭先の野花を摘んでもてあそびながら考える。食べる素振りはおろか、人喰い様は忌一にほとんど触れようとしない。屋敷に来た最初の日に抱え上げられはしたものの、そこから味見をするように指先に触れたりもしてこないのだ。

 それどころか、忌一に何かと理由をつけてあれやこれや喰えと言う。食が細くてたくさんは食べられないと初日の夜に告げたので、お膳に山の様に料理を盛り付けられることはなくなった。今度は代わりに、お膳にはひと口ほどの少量の料理をいくつも皿に盛って並べられるようになったのだ。

 現にいまも、朝のお茶の時間だと言われ、縁側に座る忌一の人喰い様の間に、馬食が何皿もの菓子や果物を並べている。


「きれい……」


 かき氷という、見ているだけで涼やかな気分になるもの、草色の餅にあんこを包んだというものや、金平糖という砂糖の塊のような硬くて甘い小さな粒なども並んでいる。果物もどれも色鮮やかで、既に甘いにおいがする。そのどれもが夏の日差しを受けて輝いていた。

 思わず忌一が感嘆の溜め息をつくほど目にも美味しい光景に、馬食は得意げな顔をする。


「そうでしょう? お好きなもの、みぃんな召上ってくださいね」

「え? 俺、食べていいの?」


 馬食の言葉に思わず忌一が人喰い様の方を見やると、人喰い様は煙管きせる紫煙しえんをくゆらせながらゆるりと笑ってうなずく。


『甘いものなら握り飯などよりも喉を通りやすかろう。どれでも好きなだけ食うがいい』


 菓子を好きなだけ。そんな夢のようなことなどいままで忌一の身の上は勿論、屋敷の両親だって経験がないことだろう。忌一の家は酒問屋で村の中では裕福な方ではあったが、村自体が辺鄙へんぴな土地で裕福とは言えないため、菓子や果物をこのように好きなだけ食べられることなどほとんどなかった。

 身に余る、という言葉を忌一は知らなかったが、身震いしそうなほど良くしてもらっているのは重々承知している。そして同時に、厚遇への後ろめたさや、自分を生贄として差し出した両親や村の人たちのことが過ぎり、胸がふさがる思いが去来し、たちまち喉がふさがったようになる。


『どうした? 甘いものは好かぬか?』


 何と言えばよいだろう。良くされることが心苦しく、受け取っていいかがわからない。もしそのままを伝えて、人喰い様の機嫌を損ねてしまったらどうなるのか。己の一挙手一投足にこの先の寿命が圧し掛かり、息苦しくてたまらない。

 うまく心情を吐露できないでうつむく忌一を、人喰い様と馬食が顔を見合わせ、揃って覗き込んでくる。その視線さえも、忌一にとっては責められているようにも感じ、一層言葉が出てこなくなる。

 ようやくの想いで忌一はかぶりを小さく振り、甘いものが厭なわけではないことをどうにか示したが、それが伝わっているかはわからない。

 盛夏の日差しが降り注ぐ縁側に気づまりな空気が漂う。自分がたくさん食べられないばかりに……と、忌一が申し訳なさで途方に暮れていると、不意に庭木の方から不気味な声が聞こえてきた。

 驚き振り返ると、大きな黒いカラス……とはまた違った、目が大きくぎょろりとした鳥が枝に止まってこちらを見ている。その眼は鳥のクセにヒトのように表情があり、明らかにこちらを――忌一を見て嗤っていた。


“忌み子に食わせるならワシらにくれよ”

『お前らなんぞにやるものか。これは忌一のために用意した菓子だ。去れ』

“ケケケケ……随分お優しい人喰い様だぁ。やっぱり同じ穴のむじなのようなもんだからかわいいんだろねぇ”

『黙れ。八つ裂きにされたいか?』


 人喰い様が鳥をにらみ付けて低い声で返すと、“おお、怖い怖い”と肩をすくめるようにして鳥が飛び去っていく。飛び去った反動で揺れる枝を見つめながら、忌一はよく解らない申し訳なさでいっぱいになっていた。同じ穴の狢、という言葉の意味を忌一は知らないが、良くない言葉であることだけはわかったからだ。

 自分のせいで人喰い様まで嗤われている。それが一層忌一を心苦しくさせる。


『馬食、塩を持ってこい』

「は、はい!」


 鳥が飛び去ったあと、人喰い様は忌々しそうに呟き、馬食が慌てて厨から持ってきた粗塩を掴んで先程の気や枝に向かって投げつけ始める。ざらざらと枝葉に降り注ぐ塩の音に、忌一は胸が締め付けられる痛みを覚えた。


「まったく……結界を張っていてもしつこいヤツらですねぇ。あれ? 忌一様? どうされました?」


 胸が痛むあまり、本当に自分の胸元を抑えてうつむいていたら馬食に気づかれてしまった。一層気まずさを覚え、言い訳を考えるも言葉が上手く出てこない。

 あわあわとうろたえる忌一に、人喰い様は自嘲するように片頬をあげ、独り言ちる。


『儂と同じ穴の狢、など言われて気分が良いわけがなかろう。なにせ儂は、ヒトから見れば人喰い様という化け物でしかないのだからな』

「主様は豊穣の神のお使いであって、決して人食いなどでは……」


 馬食が取り繕うように言葉を賭けるのを遮るように人喰い様は立ち上がり、『あとはお前たちで好きに食え』とだけ言い残して屋敷の奥へと歩いて行ってしまった。

 またしても拒むような背を向けられ、忌一はたちまちに血の気が引く思いがした。気をつけねばと思っていたのに、またもや人喰い様の機嫌を損ねてしまった、と思ったからだ。

 縁側に広げられたままの色とりどりの菓子や果物が、色あせてしまうのではないかと思われるほどに辺りの空気は冷たく、俯いて泣き出しそうな顔をしている忌一に、馬食がおろおろと取り繕う言葉をかけてくる。しかしそのどれも忌一の耳には届かず、視界が滲みそうになるのを必死にこらえるばかりだった。



 馬食に何かと気遣われながら菓子と果物を少し摘まんだ忌一は、片付けを一緒に行うことにした。


「すみません、お嫁様にお手伝いいただくなんて」

「ううん、俺、これぐらいしかできないから。人喰い様も、怒らせちゃったし……」


 厨の裏にある井戸で皿などを馬食と並んで洗っている時、忌一が弱く笑ってそう呟くと、馬食は目を丸くしてかぶりを振り、大きくその言葉を否定してきたのだ。


「主様がお怒りなのはあのからすですよ」

「さっきの大きな鳥のこと?」

「ええ。あの鴉は昔から主様を目の敵のようにして絡んでくるいやなやつなんです。いやなこと言ってきますからね」

「いやな事って……あの、むじながどうこうっていう?」


 恐る恐る訪ねた言葉に、馬食が大きくうなずき、やがて辺りを見渡して忌一に顔を近づけてこっそりと囁くように答えた。


「そう、その狢がどうこうってやつですよ。主様は、ご自分の話をされるのがお嫌いなんです」

「人喰い様の話?」

「そう。忌一様の村では、主様は神様ですよね? それがどうしてだかご存じですか?」


 昔々に、神に遣わされて飢える人々を助けた際、狼の姿だったために人を喰うものと誤解され、それ以降、“嫁”として生贄が差し出されていることに人喰い様が腹を立てていること。また、その“嫁”には村で行き場のない弱い人間に白羽の矢を立てている、ヒトへの不信感があること。それでも、神の使いであるために人間を救わなくてはいけないこと……そんな話を、馬食は忌一にわかりやすくしてくれた。


「だからきっと、忌一様を放ってはおけないのでしょうね。いままで何人かお嫁様は来ましたが、皆あのあやかしたちを怖がって一晩で逃げ出したり、自刃で命を断ったりしてばかりでしたから」

「え……死んじゃったの? どうして……」

「“喰われるくらいなら、いっそ”ってことなんでしょうかね。あ、でもおいらがお話したことは、主様には内緒ですよ」

「…………」

「昔々にそういう事もあったのと、何より忌一様のお生まれやお育ちが気になっているんだと思います。こんなにお菓子とか用意しろなんて言われたの、おいら初めてですよ」

「……そう、なんだ」


 人喰い様には人喰い様で思う所があり、彼なりに忌一を思いやっているからの言動なのだろう。甘いお菓子も清潔な寝床も、新しい着物のすべてがその証しとも言える。

 でも、と忌一は考える。でも自分は、両親から皆の役に立てと差し出された生贄で、神である人喰い様の機嫌を損ねないことを、めいとしている。


(だからきっと、こういうやさしいことや美味しいことは、人喰い様の気まぐれとか、俺を美味しく食べるための準備なんだ……)


 馬食は、人喰い様が人間と関わることで思い悩むところ、思うところがあると言う。それはもしかしたら、あの四つになる頃の夜に交わした、忌一を救い出そうとした約束にも通じているのかもしれない。しかしどれも、確かだと言える根拠がなく、あくまで忌一の希望的な考えに過ぎない。


「お前が言う、ワシらの目に見えぬもの、聞こえぬものは全て嘘だ」


 人ならぬものを見聞きする度に忌一がその方を指して訪ねると、決まって両親はそう眉間に皺を寄せて言った。まるで、そんなものを見たり聞いたりしてしまう忌一の方が悪で、嘘つきであるかのように。


「人喰い様も、悲しいのかな……」


 汚れをすすぎ終え、皿を洗い籠に重ねて運ぶ馬食の背中を見つめながら、忌一は呟く。それは、ガチャガチャとなる皿の音に掻き消されてしまった。



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