*4 人喰い様との夕餉
人喰い様の屋敷は、忌一が暮らしていたそれよりもかなり広く、少なくとも倍の数の部屋があるようだ。
食事を作る
「湯あみするところも広くて大きいんですよ。何せ
馬食の見た目は若い優男だが、目まぐるしく動き回ってよく立ち働く。いまも煮物を作りながら汁物の出汁を取り、生みたてだという卵を割って焼いている。
屋敷にいた手伝いの者たちよりもうんとよく働くな、と忌一は目を見張りながら馬食の様子を眺めている。それは飽きることはなく、まるでからくりとやらを眺めているようだ。
「忌一様、たまごを味見して頂けますか?」
「たまご?」
「ええ、この黄色いやつです。うまくできているかどうかはっきり仰ってくださいね」
人喰い様の屋敷にやってきた夕方、忌一は自室として宛がわれた部屋にいたが落ち着かず、いいにおいがしている方向に歩いてきたら厨に辿り着いていたのだ。
馬食はここで人喰い様の食事をひとりで用意しているらしく、屋敷のことを話しながら手際よく食事を作り上げていく。
馬食が気遣いは無用です、と言いながら馬食は卵焼きのカケラを忌一に差し出し、ひょいと口に放り込もうとしたが、それを何者かが横からかすめ取っていく。
忌一が呆気に取られていると、馬食が菜箸を振り上げてその何者かに声を荒げる。
「こら! 忌一様のものだぞ!」
馬食に怒鳴りつけられたそれは、けろりと意に介する様子もなく、ケタケタと嗤いながら卵焼きを呑み込んでいく。
“忌み子にゃもったいない、もったいない”
“残りもワシらが食ってやる”
濁った灰色の大小のそれは、餅のように伸びたり縮んだりしながら忌一と馬食の周りを飛び跳ねる。それらを馬食は箸を振り回して追い払うが、逃げていくどころか嗤いながら平鍋の卵を食べていく。
卵がなくなると、それらは次に驚きで身を硬くしている忌一の周りを唄うようにはやし立てながらぐるぐる回る。
“忌み子は喰っても美味くない”
“不味い不味い”
“不味い忌み子はいらないいらない”
「こら! やめろ!」
馬食が菜箸を大きく振りかぶった時、神経に障る笑い声を立てていたそれの一つが、突然破裂して霧散した。耳をつんざくような悲鳴が響いたかと思うと、それまで飛び回っていたものが姿を消したのだ。
忌一が目を見開いて凍り付いていると、「主様!」と馬食が忌一の背後にいる気配を見上げて声をあげる。
振り返ると、人喰い様が
『
「申し訳ありません……どうやら結界のどこかに穴があるみたいで……」
『そうか。忌一よ、ケガはないか?』
高い上背をかがめて覗き込んでくる人喰い様の深い色の瞳に迫力に圧倒され、忌一は首をぶるぶると横に振るので精一杯だった。それでなくとも、忌一は彼に食べられるためにここにやって来たのだという衝撃をまだ受け止めきれていない。
馬食はやってきてすぐに甘い菓子とお茶を出してくれたことがきっかけで、一言二言話ができる程度にはなっている。しかしそれでも先程のような何者かがはびこるこの屋敷は、忌一にとって道で恐ろしい場所なのだろう。馬食に着替えさせてもらった着物――屋敷にいた時よりうんと上等で綺麗な深緑の――の袖の端を握りしめ、うつむいている忌一の様子からも彼が心を開いていないのは一目瞭然だ。
いつ、どの拍子に人喰い様の機嫌を損ね、その瞬間食べられてしまうかわからない。それが忌一を委縮させているのだ。
(どうしよう……ありがとう、って言わなきゃ……でも、でも、怖い……!)
ろくに礼も言えぬのか、といまにも牙をむかれるのではと震えんばかりにしている忌一に、人喰い様は小さく息を吐いてこう言った。
『大事ないならそれで良い。何かあればすぐに儂か、馬食を呼べ。よいな』
「……は、はい」
振り絞るようにそれだけを返すと、人喰い様は大きな手で忌一の頭をひと撫でしてくれた。その感触はやわらかくあたたかで、まるで彼が忌一に向けてくる眼差しにも似ている気がし、思わず顔をあげる。かち合った眼差しは、頭の中で思い描いているよりも深い瞳がやわらかい。
「あの、人喰い様……」
『馬食、儂は結界の様子を見てくる。用心して夕餉を用意せよ』
人喰い様に呼び止めかけたものの、何を話してよいかわからない。一瞬こちらを見やった気がしたが、忌一が何も言葉を発しなかったため、そのまま前に向き直って厨を出ていってしまった。その背中が、忌一には拒絶されているように感じられ、声をかけそびれたままになった。
(礼も言えない無礼なやつだって思われたかも……きっと、ご機嫌を損なったんだ……)
機嫌を損なえば、その分食べられる可能性は上がるのではないだろうか、と忌一は考え、その恐ろしさに腹の中が冷たくなっていく。
「忌一様? どうされました? お腹空きましたか? 卵、今度こそお味見しますか?」
しょんぼりとうつむく忌一に馬食が慌てて声をかけてくれる。その気遣いが無性に嬉しく、涙が出そうになるのを堪えるのだった。
そうして出来上がった夕餉は、肉の混じった芋の煮物に川魚を焼いたもの、菜っ葉のおひたし、出汁のよく効いた汁物、そして真っ白な米飯。それらは赤い漆塗りの上等な器に盛りつけられ、お膳に並んでいる。
馬食は厨で食事をとるとのことで、食事をする場所である二十畳ほどの広い座敷には、人喰い様と忌一しかいない。
部屋は、馬食が用意したギヤマンと呼ばれる透明で丸い筒に火が点されたランプというもので昼間のように明るく。お膳の料理がおいしそうに輝いて見える。忌一はその光景だけでも目を見張るほど驚いて見つめていた。
『どうした、喰わぬのか?』
「え、あの……これ、俺のですか?」
『他に誰のものだというのだ。儂のはここにあるし、馬食のは厨にある。それとも、煮物や魚は好かぬか?』
「い、いえ! あの……俺、魚とかってあんまり食べたことなくて……煮物も、そんなに、あの……」
蔵に差し入れられるのは硬くて小さな麦の塩にぎりだった。おかずなんて嫁入りを命じられた日についていたものを摘まんだ程度で、肉なんて初めて見たようなものだ。
粗食が行き過ぎて食が格段に細い忌一は、食べたい気持ちはあるのに、身を肥やすことができぬ体質のようで、いま目の前にしている料理を見ているだけで腹がいっぱいになる気分だ。
「だからごめんなさい……俺、これ全部は、食べられない……」
ああ、またしても人喰い様の不興を買うようなことを言ってしまった。忌一は猛烈に後悔したけれど、ここで無理にすべてを頬張り、万一にでも吐き出してしまう方がよほど礼に欠くだろうと考えたのだ。
それでも、人喰い様の好意をあだで返したことに変わりはない。
今度こそこの場で丸呑みされるのではないだろうか。箸を置き、膝上で拳を握り締めながらうつむいて震える忌一に、人喰い様は溜め息をついた。
怒っているんだ……そう、一層震えあがっていると、『
恐る恐る顔をあげると、人喰い様があぐらをかいた体勢の膝に頬杖をつき、何か言いたげにこちらを見ている。
『何をそう謝ることがある。お前は何か悪い事をしたのか?』
「だって、俺……せっかくのご飯、食べられない、って言ったから……」
『それは儂や馬食が忌一の食べられる量を知らぬから起こったことだ。お前が悪いわけではない』
「でも、このご飯は……」
『なに、忌一が食べられるだけ食べ、残りを儂がもらえばいいだけだ』
人喰い様はそうこともなげに言い、自分の箸を取って米飯を大口で食べ始める。おかずもいくつか摘まみ、頬張るその背後では大きくてふさふさの尻尾が拍子を取るように揺れている。まるでそれは馬食の料理を喜んでいるようにも見え、微笑ましい。
大きな体躯に似合わず、そんな愛らしい仕草をしている人喰い様の様子が、忌一の緊張していた心をやさしく撫でる。その感触が心地よく、忌一はつい、小さく微笑んだ。
『美味いか? 馬食の煮物はなかなかなものだぞ』
「は、はい!」
不意に話しかけられ飛び上がらんばかりになったが、それでも忌一は慌てて口にしたいもの煮物の美味さに静かに感激していた。これは、人喰い様も尻尾を振るはずだ、と。
もうひと口煮物を口に運び、忌一はまた頬を緩ませる。その様を見つめる人喰い様もまた、嬉しそうに微笑んでいた。
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