*2 嫁入りの白羽の矢
記憶の通り忌一が十八を迎えるはずの夏は、村に雨が一切降らなかった。
釜炒りのような陽射しが常に照り付け、作物は米をはじめほとんどがダメになっている。飲み水は川が近いからなんとかなっているが、他の地域も日照り続きなのか、運ばれてくる荷の中に食料品はいつもより格段に少ない。
「これはもういよいよ、ヒトクイ様のご機嫌を取って食い物を恵んでもらわねば」
いつ頃からか、村ではそんな話がささやかれ始め、そのための話し合いが密やかに行われ始めていた。
ヒトクイ様とは、この村に古くから伝わり、神のような存在として祀られている存在だ。
村が拓かれた頃、やはり
狼は豊穣の神の使いと言われており、その時も狼は神通力を用いて村に山のような米や粟や麦を与え、村人たちを上から救ったとされている。
しかし、人々にとって狼とはすなわち人喰いであり、神の使いとあらば何らかの犠牲を払ってしかるべきだと考えていた。そして、この先も飢えなくていいように、機嫌を取っておこう、とも。
「ならば、“嫁”を捧げて、この先もお恵みを頂こう」
誰からともなくそんな発案がされ、異論なくそれは村の中で身寄りのない者へ白羽の矢を立てられることとなった。
そうして村で飢饉や災害に見舞われるたびに、豊穣の神の使いである狼――いつしかそれはヒトクイ様と呼ばれていた――の機嫌を取るために、“嫁”という名の生贄を差し出すようになったのだ。
実際に“嫁”は、ヒトクイ様に差し出されたのちに生きて帰ってきたことはない。人々は、「やはりヒトクイ様に食われたのだろう」と考えていたが、その実は逃亡したり自害したりしたのだが、それを知る者はいない。
ヒトクイ様とされている狼の許には、いつも
忌一に差し入れられる握り飯が目に見えて小さくなり、汁物すらつかなくなってきた、雨の降らない梅雨のある日、珍しく両親が蔵を訪ねてきた。しかも、手にはいままで見たこともないほど美味そうな馳走、そして美しい着物を携えて。
「さあ、食うがいい。腹が減っているだろう?」
白い握り飯に焼き魚、菜物のおひたしに具沢山の汁物が膳に並ぶ。いつもなら冷えて冷たい握り飯しかないのに、今日は温かでいいにおいがしている。忌一は長年の粗食のせいで食は細いが、暗がりで研ぎ澄まされるようになった鋭い嗅覚のせいで、蔵中を満たすにおいで食欲が増していく。
父親に促されておずおずと椀を手に取り、いままで食べたことがないほど豪華な汁物を一口すする。
「美味しい……あの、これ、食べていいんですか?」
「ああ、お食べ。足りなかったらおかわりもあるからねぇ」
父の傍に控えている母親もにこにことうなずき、そろそろと箸を進める忌一を見つめている。
珍しく温かな食事を口にしながら、忌一は初めてと言っていいほど両親に見守られながら膳を進めた。美味しい、とはこういう事なのか……と、感動すら覚えながらも、母の後ろに控えている着物の存在が気にかかる。
(もしかして、新しい着物を作ってくれたのかな……十八になるからかな? でもあれ、女の人のじゃないかな……)
自分が夏のいつ頃に生まれたかは知らないが、そろそろ頃合いだろうという勘はあるので、忌一は今日の温かい食事や、新しい着物はその祝いの品だろう、と考えた。十八と言えば大人と認められるから、もう蔵から出ていいと言われるのかもしれない。そんな期待すら抱く。
すっかり膳を食べ終え、初めて身の隅々まで満たされるほど腹いっぱいになった頃、父親が忌一の名を呼び、その顎を掴むようにして上向かせる。さらりと鬱蒼とした前髪が流れ、闇色の覇気はないが大きくて美しい目が覗く。
「なあ、忌一よ。お前、もう十八になるんだなぁ……もう立派な大人だ」
「あんなに小さかった子がねぇ……こんなに綺麗な顔になっているなんて」
しみじみと言った様子で忌一の成長を振り返る両親の様子を、忌一は真意を測りきれないままおずおずとうなずいて窺う。
もしかして、もうこの蔵から出ていい、と言われるのではないか。それか、いままで閉じ込めていてすまなかったとも言ってもらえる……そう、信じて疑っていなかった。忌一は、蔵をはじめとする周辺しか世間を知らず、そもそも人を疑うということがないのだ。
それを、両親は見抜いているのか、自分たちの言葉に目許を揺らして潤ませている忌一の様子に密かにほくそえみ、目配せをしていた。その様子に、忌一は勿論気付いていない。
それどころか、彼らの目論見通りに、「父さん母さんのお陰です」という言葉まで口にしてしまう。
すると、その言葉を待っていたとばかりに両親は薄く笑い、一層身を乗り出して近づいてこう言った。
「そうかそうか……だったら、ワシらの願いを聞いてくれるな?」
「父さん達の、願い? 俺が、ですか?」
「お前にしか頼めないんだよ、忌一」
いつになく自分にすがるような眼を向けてくる両親の姿に、忌一は疑いを持つことすらなかった。蔵に閉じ込められていた自分に頼らざるを得ないほど、両親が困窮しているのではないかと思ったからだ。
しかし、何を頼まれるのかがわからないため、二つ返事をするのはためらわれる。どう言葉を返せばよいのかと考えあぐねる忌一に、父親があごに沿えていた手を放しつつ畳みかけるように囁く。
「いま村はな、日照りで食い物がないんだ。ウチだっていつ貯蔵の米や味噌が尽きるかわからぬ。そのたいせつな米や味噌や野菜を、いま、お前が腹いっぱい食っただろう? 美味かったか?」
「えっと、あの……」
「お前ばかりが腹いっぱいになるのは後ろめたくないか、忌一よ。忌み子が、ワシらを差し置いて腹いっぱいになって、いいと思うか?」
常に蔵の中にいても、明り取りから射し込むこのところの陽射しの強さに忌一も気づいていた。しかしそれが、よもや村の食料を脅かすほどになっているだなんて思いもしなかった。ましてや、それを自分の祝い膳にされているなんて。
先程まであたたかで美味なものに満ちていた腹の中が、途端に冷たく重たくなっていく。しあわせの味が、罪悪に変わっていく。
自分はなんていう事をしてしまったんだろう。知らなかったとはいえ、遠慮なく貴重な食料を平らげてしまって良いわけがない。しかし、ではどうしたら良いのかなんて、察しの悪い彼にわかるわけがなかった。
罪悪感で目の前が揺らいでいく中、母親がそっと忌一の膝上の手に触れ、囁く。
「だからね、忌一。あんたにいい話を持ってきたんだよ」
「……いい話?」
思ってもいなかった母親の言葉に首を傾げていると、父親がゆったりと――しかし薄く下卑た様子で――笑い、いい話の詳細を告げた。
「忌一よ、お前、ヒトクイ様の嫁になれ。そうすれば、みんながひと冬越せるほどの米や麦が手に入る」
「嫁? 男の、俺が?」
嫁とは
もう一つ忌一がわからないのは、自分が見目麗しいとは言えないと思っていたからだ。垢と泥にまみれ、髪は伸び放題で着ている物もぼろばかりだし、身も痩せこけている姿が、少なくとも美しくないと忌一は思っている。
しかし両親はそんなことは織り込み済みだとばかりに笑い、忌一に向かって告げる。
「なぁに、湯に入れて洗い、化粧をして着物を着せれば見られるものになるだろうよ。たとえ忌み子であろうともな」
「でもあの、俺は……」
「いいな。明後日、輿を用意して嫁がせる。いまからお前は支度をはじめろ」
戸惑いを口に仕掛ける忌一の言葉など聞くつもりもないのか、父親はぴしゃりとそう言い放ち、立ち上がって蔵から母親とともに出ていった。蔵には、忌一にはあまりにも不釣り合いな着物がひと揃い置かれていた。
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