*1 忌み子と呼ばれる痩せぎすの彼のこと

 晴れ渡った春先、瓦ぶきの家屋が大きく建ち並ぶ広大な敷地の隅にある蔵の影で、頼りなく薪割をする音が聞こえる。

 この屋敷は村の中でも屈指の酒問屋で、屋敷のすぐ傍には搬入のための水路が流れている。荷運びの船が行きかうのを横目に、ひとりの青年が黙々と作業をしていた。

 薪を割っているのは、ひょろりと痩せぎすな子どもにも見える青年で、覚束ない足取りながら懸命になたをふるう。

 普段日にあたっていないのが一目瞭然なほど、彼は春の陽射しに透かされるほど青白い肌をしていて、そこに伝う汗まで重たげに見えるほどか細い腕だ。

 青年の目は暗く読闇のようで覇気がないが、造形は美しいのだが、それ以上に彼がまとう空気や衣服のみすぼらしさがそれを紛らせてしまっている。


“たんと薪を作っておくれよ、忌一”

クスクス クスクス

“今日はお客様が見えるからねぇ”

クククク クククク


 ――いつからだろうか、奇妙な声を聞いたり、夢かうつつかわからない、ぼんやりとした浮かぶ雲のようなものを見るようになったりしたのは。“それ”が、自分にしか聞こえない、見えないものだと知ったのは、いつからだっただろうか。彼は作業をしながら考える。


(いま聴いている声は、“それ”なのか、母さんなのか、父さんなのか……誰なんだろう……母さんかな……よく、わからないけど……)


 なにより、自分には”それ”が夢なのか現なのか判別することができない。巧みな声色で“それ”は彼に声をかけて欺くのだから。

 細腕で振り上げた鉈は、三回目でようやく薪を盾に割った。辺りには太さが様々な薪が散らばっている。

 なんとか束にできるほどの薪が出来上がり、拾い集めて束にして荒縄で縛り上げていると、「忌一きいち!」と、荒々しい呼び声がした。

 声の方に振り返ると、でっぷりと肥えた禿げ上がった頭の中年の男が、バタバタと足音を立てて着物の裾をひるがえしながら歩み寄ってくる。


「あ、父さん。薪、やっと出来上がりました。お客様は、もうお見えで……」


 忌一が細面をわずかにほころばせ、父親か母親に命じられたであろうと思っていた薪が出来上がったことを報告しようとすると、父親は忌一から鉈を取り上げ、襟首をつかんで突き飛ばす。骨皮ばかりに痩せている忌一は、もうよわい十八だというのに、父親の一撃であっさりと吹き飛んで転がされてしまう。

 その様がより父親を苛立たせるのか、忌々し気に足蹴にされそうになり、思わず腕を眼前に構えて身をすくめる。


「ごめ……ごめんなさい!」

「今日はいまから村長様たちがいらっしゃるんだ! お前なんぞが屋敷をうろついていたら縁起でもないだろう!」

「あの、だから、あの……薪を、作れって……」

「そんなことは誰も命じていない! お前のいつもの空耳だ! さっさと蔵へ戻れ!」

「……はい、申し訳ありません」


 弁明をしようにも、頭ごなしに怒鳴られて聞いてももらえない。忌一は蔵の方を指して去れと怒鳴る父親に言われるがまま、おずおずと立ち上がってその場をあとにした。


「ああ、まったく気味が悪いったらない……おーい、誰か、清めの塩を持ってきてくれ!」


 十八にしては小さく痩せている忌一の後ろ姿は、吹き付けるそよ風に飛ばされそうなほど頼りない。長く伸びて鬱蒼うっそうとした黒髪も、垢だらけで荒れた肌も、それを一層助長させている。

 そんな忌一の様を、父親は憎々しげに罵る言葉を、使用人が持ってきた粗塩と共に投げつける。


「まったく……いつもいつも……誰それに命じられたのなんだのと嘘ばかり言いおって……そうまでワシらに恩を売ってこの屋敷に留まりたいのか、忌み子くせに。小賢しい奴め」


 聞こえよがしに吐かれる言葉に、忌一は唇を噛んで俯きながら足早に蔵を目指す。兎に角蔵に入ってしまえば、誰にも何も言われない。少なくとも、人間には。



“おやおや、忌一は怒られちゃったよ”

クスクス クスクス

“あの男は忌一が怖いのさ。ヒトの子じゃないんだもの”

クククク クククク

“そうさ、忌一は我らの声が聞こえて姿が見えるような、ヒトではない忌み子だもんねぇ”

クスクス クククク


 蔵に入って重たく厚い扉を閉めると、途端にそれまで無視していた声や、浮遊物が視界に入り始める。“それら”は忌一が蔵に入るなり蹲る周りを、嗤いながらぐるぐると回る。甲高く耳障りな“それ”は、どこからか忌一の先ほどの出来事を聞きつけたのか、浮遊するものが段々と増えていく。赤いもの白いもの、大きいもの小さいもの。長いもの薄いもいの、様々な“それ”が忌一を取巻くように嗤っている。

 忌一が、生まれた家の母屋ではなくこの蔵で過ごすようになって十数年。初めの頃こそ“それ”を怖がったり、追い払おうとしたりしたのだけれど、どれも徒労に終わった。それは忌一がそうするほど甲高く笑って面白がるばかりで、逃げる気配もない。


「うるさい……静かにしてよ……」


 呻くように忌一が呟いても、“それ”は笑うばかりで聞きやしない。“それ”は忌一がこうして家の者たちに疎まれ、追い払われて落ち込む様を楽しんでいるからだ。

 他の者には聞こえない声を聞き、見えないものを見てしまう体質のせいで、家族をはじめとする周囲の者たちに気味悪がられ、忌一は蔵で過ごすように命じられている。名前も、本来であれば「希維治きいち」と書くのだが、いつの間にか忌み子を指す文字を使われた、「忌一」と呼ばれるようになっていた。いまはもう彼はこちらの名でしか呼ばれない。

 食事は日に一度だけ、握り飯と汁物を与えられる程度で、その少なすぎる食事のせいで十八になるに忌一は格段に小柄で痩せぎすで目が暗い。

 それでも蔵の外に出てしまうのは、“それ”が巧みに家人に似た声色で忌一に話しかけ、あれこれと惑わすためで、先程の薪を作れと言う話も、やはり”それ”のせいだった。

 蹲ったまま、忌一はボロボロの着物の袖をめくりあげ、腕に走るわずかに歪んだ傷のような痕をそっと指先で撫でる。その痕を撫でるたびに、忌一はあの約束を思い出し、なんとか正気を保とうとするのだ。


『――お前が十八になったら嫁にしよう』


 忌一の記憶が間違いでなければ、今度の夏で十八になるはずだ。


(十八になったら、俺……お嫁さんになるのかな……お嫁さんになったら、お腹いっぱいになれるのかな……)


 忌一は常に飢餓感を覚えているが、食いだめできぬ体質のため、食は一般の青年より格段に細いのだが、ただそれだけしか願い事の種類を知らないのだ。

 四つになるかならないかのあの時、嫁にしてやると言ってきたあの大きな男が何者であるのか、忌一は知らない。家族に訊ねても気味悪がるばかりでろくに彼の話を聞いてもらえないし、他に答えを得られる見込みもない。

 ただ一つわかっていることがあるとすれば――あの男も、“それ”のように人ではないものなのだろうことだ。


「……俺、化け物のお嫁さんになるのかな」


 答えのない問いかけは蹲った膝の間の闇に吸い込まれ、すぐに消えていく。

 人ではないものは、化け物のたぐいだと言われていたし、自分もそういうものだと言われてきた。

 それならば、人ではないものを見聞きしてばかりいる自分は、あの男の嫁になるのは似合いなのではないだろうか。

 人ならざるものと、似合いの夫婦めおとになる。そんなことさえ考え、忌一はひとりひっそりと笑う。馬鹿馬鹿しい……こんな自分が、似合いの伴侶を見つけられることも、それで腹いっぱい満腹になるようなこともあり得るわけがない、と。


「気味が悪いと言うなら……父さん達、いっそ俺を殺してくれたらいいのに……」


 忌み子だと疎んじるなら、いっそ殺めてくれればいいのに。生きるにもギリギリのものしか与えず、殺すような非道さもない。それはきっと、「忌み子を殺したら祟られる」というような、己の体裁ばかりしか考えていない両親の、身勝手な事情が関係しているのだろうが、忌一に知る由もない。現状死に近い状況に追いやっているというのに。

 涙さえ枯れて久しい忌一は、よろよろと立ち上がって蔵の奥に進み、片隅の寝床へもぐりこむ。今日はもうこれ以上動ける余力がなくなってしまったからだ。


「……明日も俺、生きてるのかな」


 誰にもわからない言葉を呟き、忌一は眠りについた。



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