人喰い様への生贄嫁がしあわせになるまで

伊藤あまね。

*序

「ちがう! ちがうの! 俺、ごはん盗ってないよぉ! あの真っ黒なのが盗ったんだよぉ!」

「黙れ! 忌み子のくせにワシらの膳を盗むなんてとんでもないやつだ! また嘘までつきおって!」


 日が暮れて赤く染まっていく大きな屋敷の敷地の隅で、中年の男に引きずられるように大きな蔵へ連れて行かれていく幼子の泣き叫ぶ声がする。忌み子、と呼ばれたその幼い彼は、薄汚れた姿にぼろぼろの着物でひどく痩せこけている。だから簡単に男に引きずられ、ついには小屋の奥へと投げ飛ばされてしまった。

 幼子は暗い蔵の中を転がり、やがて奥でぽっかりと口を開けていた地下の貯蔵庫の中へ落ちていく。


“クククク……忌み子が叱られたよぉ”

“おれ達のせいにするから罰が当たったのさぁ”


 地下へと落ちて蹲ったまま動けないでいる幼い彼に向かって、ぼんやりとした輪郭の何かがせせら笑う。いくつものそれらは落下して動けないままの彼の元に寄り集まり、はやし立てるようにくるくるとその周りを歩き回る。


「ひぃ……ッや、やだぁ……父さぁん、ごめんなさい、もうしません……出して、ここから出してぇ」


 身体中に走る痛みに顔を歪めながら泣きじゃくっても、先程の父親と思われる男が戻ってくる気配はない。それもそのはずで、父親はこの蔵に鍵をかけて屋敷に戻ってしまっているからだ。

 よわい四つになるかならない幼い彼は、明らかに大けがを負っているが、誰も助けが来る気配がない。


「うぅ……お手々も、足もいたい……お腹、空いたよぉ……」

“はらぺこ忌み子はどうするかねぇ”

“やせっぽちな忌み子なんて不味い不味い”

“だぁれもおまえなんかいらないよぉ”


 自分をせせら笑っている“それ”を、彼はなんなのか知らない。ただいつも彼の周りに現れては彼を惑わし、嘘を吹き込み、そうして先程のように家の者に叱られる羽目になる。


「ッや、やだ……あっち、行ってぇ……」


 彼が懇願するように呟いても、“それ”は嗤っているばかりで消える気配もない。それどころか、まるで彼が痛み苦しむのを愉しむかのように増えていく。

 段々と泣く気力もなくなり、痛みのあまりに意識が朦朧もうろうとしてきている。


「……俺、このまま死んじゃうの?」


 幼い脳裏に過ぎった考えに、ぶるりと身が震える。しかし、彼になすすべがない。

 手足がしびれ、感覚が鈍くなっていく。もはや身を動かす余裕もなく、ぼうっと横たわって暗い中を見上げる。

 誰に看取られることなく、このまま短い生涯が終わってしまうのだろうか――悲しいとも悔しいとも違う、言葉にならない漠然とした感情が幼い胸を満たしていく。


「……死んじゃう前に、白いおにぎり、いっぱい食べたかったな……」


 ささやかな望みが叶いそうにないことを、彼は既に悟っていた。四肢に力が入らない、起き上がることさえできないのだから、もう自分に残されている時間はないのだろう、と。


『――ならばその望み、わしが叶えてやろうか?』


 誰もいないはずの暗い闇のどこからか、腹の底に響くような声で答える者があったと思ったら、ころりころりと一つ二つの白い握り飯が転がり落ちてくる。

 幼子は閉じかけていた目を見開き、見渡せる範囲を見渡し、問う。しかし、そこには人の気配はない。


「……だれ?」


 問う呟きに答える影はない――と思っていたその時、彼の眼前に薄ぼんやりと明るく照らし出すように、大柄な獣――狼の姿が現れた。

 狼は荒々しく長く黒い毛並みをなびかせ、その隙間からは三角の大きな犬のような耳を覗かせている。暗がりで分かりにくいが、その毛並みは漆黒の色で、幼子を見下ろしてくる眼は周囲の闇よりも深い色をしていた。

 幼子は、曇りのない目でその姿を見つめる。怯える様子もなく、「いぬ?」と、呟く。

 狼は、彼の様子に片頬をあげ、その痩せこけて泥だらけの頬に触れた。


『ほほぅ……お前、ヒトクイ様である儂を見ても怖くないと言うのか? 面白いやつだ』

「石を投げたり、怒鳴ったりしないから、あなたはこわくないよ」


 弱く笑って答える彼の言葉に、男はわずかに顔をしかめ、『……またヒトはそのような無体をしておるのか』と、まるで、彼の言葉が狼の心を乱したかのように呟く。

 狼の様子に、怒らせてしまっただろうかと幼子が怯えた目を向けると、狼はふわりとやわらかく微笑み、ぺろりを幼子の曲がった手足などを舐めた。すると、たちどころに痛みは消え、起き上がることもできるようになった。


「……痛くない……どうして?」

『腹が減っておるのだろう? その握り飯を食うがいい』

「これ、食べていいの?」


 おずおずと訊ねる幼子に、『ああ、お前のだ』と、答えた狼の言葉を聞き、幼子は弾かれたように握り飯に食らいつく。幼子は、「……美味しい」と、小さな頬を膨らませて呟く。その姿に、狼は一層頬を緩ませる。


『……そうか。ならば、お前は儂の嫁になるか?』

「およめさん? およめさんになったら、おなかいっぱいになれる?」

『ああ、たんと食わせてやろう。何が食いたい?』

「しろいおにぎり、いっぱい」


 『よかろう』と、狼が答えたかと思うと、それはくるりとその場で一回りし、やがて見上げるほど大きな体躯の、先程の狼に似た真っ黒な荒々しく長い髪に参画の耳に黒い尻尾を持った男に姿を変えた。

 幼子が驚きを隠さない目で男を見ると、男は彼の小さな頭――シラミだらけで伸び放題の荒れた髪――を愛おしそうに撫で、微笑みを残して消えてしまった。


『――お前が十八になったら嫁にしよう』


 暗がりに声だけが響く。約束と呼ぶにはあまりに儚く頼りないそれは、蔵の中にしか居場所がなかった幼子にとって生涯の心の支えとなるのだが――この時はまだ何もわかっていなかった。

 嫁入りの約束をした相手が、ヒトクイ……人喰い様であることも。



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