deca
幻の過去
クリプトンはもう驚かないと決めている。住所も教えていないゴーグル男が、クリプトンの部屋の窓辺に座っていることなど。
「そこで何してんだよ」
「んー? 何もー」
ハイドロはクリプトンに背を向けてプッイの街を見下ろしている。その目が街を見ているのかはクリプトンの知ったことではないが。
「用がないなら、何でいんだよ」
戦場に行くわけでもクリプトンに学を与えようとするわけでもなく、ただそこにいる。かれこれ数十分。
「ごめんな」
こちらに背を向けたまま聞こえる声。クリプトンは意味が分からない。無言で居座り、理由もなく謝る意味。この男が何をしたいのか予測できない。
「何に謝ってんの」
「ここにいること。ここにいて、ごめん」
心なしか彼の声が低い。それに小さい。クリプトンの気のせいでなければ、ハイドロはいつものハイドロではない。
「……どうした」
いつもより小さく見える猫背に手を置く。いつもなら頼りになる右肩は、縮こまっているように思える。
「聞いてくれんの」
ポツリと、ハイドロから返事。
「おう。気になるし」
本当は「元気のないハイドロなど、らしくなくて気持ち悪いから」と言おうとした。だが、ハイドロらしさをクリプトンが決めてしまっては、常識を飛び超えたハイドロに申し訳ないと思い直し、飲み込んだのだ。
「……」
しかし、ハイドロは話し出さない。頭で言葉を練っているのかもしれない。作り出し、組み立て、壊して、傷ついて。
「そんなとこ座ってないで入れよ。飲み物、持ってくる」
「ああ、ありがと」
ハイドロに考える時間をそれとなく作ってやるのが、今の自分が与えてやれる最大の優しさだと判断した。それでも、その思考さえハイドロには見抜かれているのだろうが。
「ほれ」
「ありがとう」
礼を述べるハイドロの声はくたびれている。
彼はベッドに座っていたので、クリプトンもその横に座る。男二人分の体重を受けてベッドは軋んだ。
「……」
「……」
ハイドロが話さなければクリプトンは何も言えない。コミュニケーション能力は人並みにあると思っていたが、肝心な時に発揮できないのだと学ぶ。
「俺、たまに……不安になるんだ」
湯気立つカップを両手で握り、消え入る寸前の裸電球のような声でハイドロが喋り出した。
あれほど堂々と「自信」を持ち上げ歩いているハイドロが不安になるなんて。クリプトンは意外に思う。
「不安か」
「うん。“あいつ”とは、二度と会えないんじゃないかって」
ハイドロは大切な人を長年探していると言っていた。そのあまりにも長すぎる年月に不安が募ってしまうのだろう。どんな天才でもできないことはある。悲しいことに、そのできないことこそが一番したいことだということもある。
「俺、別に、自分で何でもできるって思ってたわけでもないし、限界があることも分かってるつもりだったよ。でも、でも……過大評価、してたのかなあ」
この時、クリプトンにはハイドロがただの人間に見えた。悩んで、戸惑って、涙を流す一般人。身分やレベルなど、今は構成材料に入らない。
「迎えに行くって約束したのに……約束、果たせてない……」
ゴーグルの隔たりでハイドロの目は見えない。しかし、彼の胸中は見える“ような”気がする。
「約束か」
ハイドロの言葉を繰り返すことしかできないクリプトンはひたすらにカップの液体を飲み込んで、場の時空に無駄が発生しないよう努めた。簡単な大儀だ。
ハイドロを取り巻く世界はクリプトンにとって難しいが過ぎている。天文単位でも表しきれない生物間の差が二人の間にあるように。人間のおこぼれを食料にする虫が、性善説の可否を論述するのは不可能なように。
とん、とクリプトンの肩に軽い重みがかかった。
「ハイドロ?」
ハイドロの頭がクリプトンの肩に寄りかかっている。
「ごめん、このままで」
それ以上喋ると言葉以外のものが出てしまうとでもいうように、ハイドロは無言になった。肩越しに感じる震えや熱に、クリプトンはやるせなさを感じる。
天才でも成し遂げられないことを自分が解決してやれるとは思わないし、彼のやろうとしていることは何の力を以てしても、二分の一の可能性にとどまってしまうことのように思える。それをクリプトン自身が考えられるということは、ハイドロはもう痛いほど……
手をそっと、孤独な肩に添えた。
寄りかかっているハイドロも、引き寄せているクリプトンも、何も言わない。しかし、お互いにはそれで十分だった。繋がっている部分が全てを物語ってくれている。もし、今の二人が手に何も持っていなかったならば、これより近づいたのだろうか。たった一瞬の、今だけ弱いハイドロにはクリプトンしかいない。
ハイドロの鼓動、クリプトンの呼吸。自分のもののように感じる。
「もう大丈夫。ありがとう」
ハイドロが離れた。
「なあ、約束って、一つだけだったの」
「え?」
クリプトンの言いたいことは、果たせない約束ばかりに目がいっていないか、ということだった。
「ハイドロのことだから、できない約束は少ないはずだと思ってさ。果たせた約束の方が多かったんじゃねえの」
ハイドロの口は小さく開いている。目はクリプトンに向けられているのだろう。心は、違うどこかへ。
クリプトンはカップの中を一気に飲み干し、無知を承知で聞いた。
「その人とした、一番の約束って何だった?」
その言葉に、ハイドロの前頭葉が動き始める。昨日のことのように思い出せる太古を、もう一度宝箱から取り出す。大切なあの人と交わした、一番の約束……最後に聞いた言葉は……
「俺、“あいつ”のこと、忘れてない」
「俺は今でも、“あいつ”のことが……」
ハイドロの身体に感じたことのない細胞が生まれたような気がした。それは超流動的に溢れ出し、摩擦熱を起こしそうなほど暴れ回っている。感電のように駆け巡ったアペイロンは漣を生み、とぐろを巻いた炎は伝説の生物に進化し、天に昇る。ピュシスの道が開かれる。これは宿命だったのか。それとも、運命が動いたのか。
「……やっぱ、人間ってすげえよな」
しばし足元を見つめていたハイドロが、羽ばたきたくてうずうずしている生命のように声を震わせた。
とうに冷めたカップの中身を、ぐいっと流し込む。潤うのは喉だけではない。
「ハイドロ?」
再現不可能なハイドロの脳内が見えないクリプトンは、彼に何が起こっているのか分からない。
「クリプトン!」
「うわあ!?」
ハイドロは急にクリプトンへ腕を伸ばした。クリプトンの大きな身体がハイドロの強い腕に包まれる。だが、体格差が顕著に出て、ハイドロがクリプトンにしがみつく形になった。
「おい、急になんだよ! ハイドロは俺の趣味じゃねえってのっ」
「ご褒美! ハイドロ様の熱烈なハグを受けられる生き物なんて反物質級だぞ! キスも付けちゃう!」
「痛てえ痛てえ! ゴーグルが当たってんだよ! せめて外してからしろ!」
絡まり、もつれ、二人は笑った。今しかないこの命で、二度と後悔しないように。
万有戦争 ていねさい。 @simulteineously
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