月のうまれかた

宵町いつか

第1話

「お月さまって誰かの涙みたい。」

 つぶやいた声はすっと私の耳元に入ってきた。少し残暑の残る空気は私の声をよく通しやすくなったらしい。私の声は隣りにいる友人にもその声は届いたらしく、小さく息を吸うような音が聞こえた。一瞬、戸惑うような気配がしてため息が聞こえた。諦めたときに吐く息とひどく似ていた。

「お月さまを見ると泣きたくなる人間もいるのかもね。」

「そうなの?」

「そうだよ。」

 じゃあ、お月さまは誰かの悲しみなのかもしれない。そう思うと少し淋しくなった。こんなにもきれいなのが皮肉のように思えてしまう。人の嬉し涙が綺麗に思えるのも、悔し涙がどうしようもないくらい尊い何かのように思えるのも、きっとお月さまと同じ、なにかの皮肉だ。

 友人はひらりとスカートを回す。くるりと満月みたいに広がって、新月のような、月の影のような気がしてくる。彼女はお月さまだ。比喩でもなく、お月さまなのだ。らんらんと輝く月。温かで優しい月光を届けてくれる。けれどそれは誰かの悲しみと引き換えなのだ。優しさは誰かの悲しみの引き換えか、彼女自身の悲しみと引き換えかで、成り立っている。彼女の美しさのように、優しさのように、女学生という身分以外の何かが作用して、お月さまのようになっているのだ。私にはどうしようもできない、絶対的で、究極的な、そのものなのだ。黄昏のようなものであり、朝陽のようなものであり、彼女は月光だ。誰かを包むものだ。よく、彼女のキャパシティ以上に相談事が舞い込んでくるのはそれが理由なのだろう。

「月は綺麗だね。」

 彼女が呟いた。I love you.そう言われているみたいに感じられた。けれど私も彼女もそのような意味でお月さまを使うことはないだろう。使うとしたらI miss you.かI missed you.私はあなたを見落としました。お月さまを見落としました。あなたを見て、この世界に産み落としました。多分こう使う。私がお月さまを認識しなければ、あなたがお月さまと認識しなければ、それは存在していないのだから。私たちは苦しまなくて済んだのだ。あなたを優しさで、私を優しさで傷つけなくてもよかった。苦しみを乗り越えるために優しくならなくて済んだ。わざわざ進んで自己犠牲に走らなくてもよかった。もっと、自ら幸せを望んでよかった。自己犠牲を美しいなんて、楽しいなんて、不幸せのほうがよかったなんて思いたくなかった。私だって、あなただって幸せになりたかった。

「月も綺麗だよ。」

 私はそう返した。もう私に返ってくる言葉はないことは知っていた。いつか、あなたが私を美しいと言ってくれた、真っ直ぐと言ってくれた、透明と言ってくれた。だから、私はあなたに。

「そうかな。どうだろ。」

 お月さまは綺麗だ。人間も綺麗だ。少なくとも私の隣りにいる人間は人の苦しみを背負い込んだ人間なのだから。

 もうこれ以上背負わなくていいと言ってあげたい。せめて、それを背負わせて。少しでいいから。あなたはあなたを許せないかもしれないけど、私はあなたを許すから。ねえ、頑張ったんだよ、私たち。ずっと苦しくて、ずっと辛くて、ずっと許せなくて、そんな自分さえ嫌で、やっと、やっと。

 私はそっと彼女の手の甲に私の手の甲を当てた。彼女の平均よりわずかに高い体温が湿っているように、ゆったりと染みついた。

 お月さまが誰かの涙ならば、きっとその涙の主はとても優しいんだろう。そんな人間も泣かなくて済む日が少しある。だから、ねえ。あなたも笑わなくていいから、ただ泣かない日があってもいいんだよ。ずっと、自己嫌悪は終わらないけれど、あなたは一人で苦しむけど、苦しむけれど、けれど、けれど。

「ねえ」

 私は友人の名前を呼んだ。友人の肩は跳ねた。それが少し、悲しかった。

 お月さまはあなたの涙。泣けない、あなたの涙。お月さまのまえで泣きそうになって泣けないあなたのその涙。

 ねえ、疲れたよね。ねえ、嫌だよね。ねえ、幸せになってよかったんだよ。ねえ、もう遅いかもだけどさ。ねえ、ねえ、ねえ、ねえ。あなたが照らす側なら私は裏側。あなたの背中側。あなたの手の甲にあたる、もう一つの手の甲。一人じゃないよとか、味方だよとかそんなことは言えない。何を言えばいいのか、まだ分からない。ただ、あなたと体温を分け合うくらいならできるから。けれど、それはそれで、あなたが笑顔になってしまうのはすこし、悲しい。私が惨めになった気がして嫌になる。多分、あなたも同じ。あなたも、笑顔な自分を受け入れられない。私もあなたも、きっと今の自分に慣れきってしまっている。

 彼女は先程から私を見つめている。しっとりとした目で見ている。その目が美しくて綺麗で、醜くて汚くて、この上なく尊いもののように思えた。

 ねえ、お月さま。あなたは誰から光を貰っているの?

 私はただそれを知りたかった。知らなければいけない気がした。

「綺麗だよ。全部、綺麗。」

 その意味のない肯定はすっと彼女の中に入っていったらしい。少し崩れて、涙が生まれる。それがそっと地面に溶けた。そうして、より美しい月が産まれ落ちた。

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月のうまれかた 宵町いつか @itsuka6012

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