新しい名前

川下まつり

新しい名前


「これは、知人の話なんですが」

 居酒屋で隣の席になった男が言う。

 お互い一人で飲んでいたが、ふとしたきっかけで会話が弾み、やがて男はある奇妙な出来事について話し始めた。


「その人は、自分の名前が自分のものではないと言うんです」

「自分のものではない?」

「そう。本当の名前は随分昔になくして、もう返ってこないと言うんです」

「それは興味深いですね」

 僕が笑うと男もつられたように笑う。

 

 その話は、こうである。


 その女性が通っていた中学校では、制服の胸元に名札をつける決まりがあった。

 ある日、体育が終わって教室に帰ると、机に置いたはずの名札がない。

 ふと視線を感じて振り向くと、何人かのクラスメイトが、こちらを見ながらくすくすと笑っている。

 いじめだ、と思ったがいじめられるような心当たりがない。

 何が起こったのかよく分からないまま、数日が過ぎた。

 

 そのうちに、彼女の言動に変化が起きた。

 自分の名前を言おうとすると、言葉が出てこない。

 テストの時にすぐに名前が書けないとか、他の子が呼ばれたのに返事をしてしまうとか、そういうことが続いた。

 

 さすがに先生も彼女の様子がおかしいことに気づいて、事情を聞き出し、名札を盗んだ主犯格の子を特定した。

 問い詰めると、名札は校庭の池に捨てたという。

 池を見に行ったが、濁っていて底が見えず、もう見つけられないだろうということになった。

 双方の親が呼ばれ、名札の弁償と謝罪をし、和解となった。

 

 しかし、その新しい名札が、どうにも馴染まない。

 まるで別のラベルを貼られたような、これは私の名前ではないという感じがする。

 人と話していても、これは本当の自分ではないと思ってしまう。


 名札を新しくしてからの彼女は、以前よりも明るくなり、自分をいじめたクラスメイトとも上手く付き合うようになった。

 しかし、自分の大事な部分がなくなってしまったという感覚が消えない。

 時間が解決してくれるかと思ったが、学校を卒業して何年経っても、消えない。満たされない。何か成し遂げても、いつも心に空洞がある。


 取り戻さなければいけないと思い、名札を探しに学校を訪れたが、

 その頃には、もう池は埋め立てられていた。



「本当の彼女は、今も池の底にいるんです」

 

 僕はその話を聞きながら、これは彼自身の話なのだな、と思ったが言わなかった。

 僕と彼は赤の他人で、もう会うことはないからだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新しい名前 川下まつり @kawashita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ