十二通目-2

この心境から「矢張、令美が全てを狂わしていたのだ」と思いました。


 この一瞬で、自分の中にあった好ましい思い出も、まるで色のついたフィルムを差し出され、それ越しに見ているかの如く思えました。


人生は歪んだ。


令美という存在を挟むことで、全ては狂ってしまった。

『自分の中で大事に取っておきたい思い出を変色させてはいけない』と俄に思いました。

その為には原因を断ち切らなくてはいけない。


これが、僕には必然でした。


自分の人生が歪められた今、擡げていた計画は「決行しなくてはいけないもの」となって、抑えていた分の反発を伴って「今すぐしなくてはいけないもの」に出世を遂げていました。


 近づいて行く僕を、令美は余程恐ろしいものとして、それなりに成長した体を小さくする形で表現していました。


 怯える目は僕の怒りを増長させ、計画を遂行する勢いを生みました。


僕という悪魔に、最早迷いなどというものはなく、令美の首根っこをつかんで水中へと沈めたのです。


 令美という生命は本能的な「生きよう」とする意志に依って抵抗してきます。力は子供とは思えない強さで、下へと押しやっている手を押し戻そうとします。


 生命の危機を感じたとして、生物上の生育の壁は越えられないようでした。令美の本能がそれを悟ると、今度は体を左右に捻ったり、足をバタつかせて、出来うる限りの忌避行動を取ります。


 結局どれを試したとして、僕の肉体と意志には敵わず、じきに令美は脳波を反映しない「ただの肉塊」に成り果てたのです。


 手を離せば流れていくだけの肉塊を、僕は河原へと運ぼうとしていました。


水中にあった令美の体は、一定の位置から急に重さを感じさせ、瞬間的に『このまま離してしまおうか』と思わせました。

なのに何故か離しもせず、殆ど引きづるような形で、水に浸らない位置まで移動させ、令美の身を横たえたのです。


それから何故か、令美の横に座ると蘇生を試みるでもなく、憎むべき存在を眺めるでもなく、ボーっとしていました。


これだけのことを仕出かしておいて、なんだか妙に冷静な自分もいるのが不思議でした。

多分、大きく寝過ごした人が、それに気づいた瞬間に別に急ぐでもなく、一服するなりコーヒーを飲むなりして「どうするか」を決めるのに似ているのかもしれません。


つまり、やってしまったのはどうもならず、僅かな間に腹が決まってしまうというような、特殊な状況が訪れていたという話です。


 冷静な自分がいると気づいて、はじめに考えたのは「僕がしたことを誰かが見ていたのではないか」という部分でした。してしまったのは余りに衝動的で、気を配ってした行動ではありません。


それだけに逃げたとして、誰かが見ていれば捕まる可燃性が高い。今見ても誰もいませんが、犯行を見ていたなら、もうその場から去って通報しているでしょう。


 僕は間もなく捕まる。


そう覚悟して暫く待ってみました。

待てども遠くからサイレンが聞こえて来るでもありません。河原に誰かが近づいて来ている気配もありません。


結果からすると、僕の犯行を見ていた人はいなかったようです。

当然そうだったとしても『助かった』などとは思いませんでした。暗くなりきってしまった空のように、行き着く先の暗い未来へと、既に入り込んでしまったと捉えられていました。


 暗闇の世界に入り込んでしまった気分の落ち込みから「救いを求めよう」と気づけば令美の顔を見ていました。


現状からすれば、令美に救いを求めようとするのは全くおかしな話です。令美を向こうの世界へ向かわせたのは僕で、被害者に助けを求めるのはおかしい。返事など返ってくるわけもないのですから、尚更おかしい。

なのに僕は、なんの違和感もなくそうしていたのです。


「令美」と声をかけてみました。

当然何も答えません。


苦しんだであろう顔は実に穏やか、まるで僕に救いの言葉をかけてくれそうな雰囲気、いや、もう既に言葉を発した後にも思えました。


 表情は一度は憎み、遠ざけたいものであった令美を、再び愛おしい我が子へと引き戻しました。


気づくと僕は、横たえていた令美の体を胸に抱き、泣いていました。

ついさっきまであった感情など忘れ、わんわん泣きました。

終いには何に対して泣いているのか解らなくなって、再度令美の体を石の上へと戻しました。


 こうしてみると俄に『残された希望の光がある』と思えてきました。

僕は怜と二人の生活を求めていたのです。


 令美を河原へと置いて、怜のもとまで僕は走りました。

キャンプ場で唯一明るい所にいる怜は、僕の心の中でも、この暗闇に於ける光であり、怜のもとへと辿り着くことが「自らの人生の正解である」と思えているのでした。


 怜は足音に気づいて近づきつつある僕を待ち受けていました。


段々とこちらの姿が見えてくると「どうしたの、遅かったじゃない。何処行ってたの」と言い、姿の見えない令美に対しても、言葉をかけようとしていると見えました。

僕が問いに答えず、令美も後ろからやって来ないと知ると「令美は?」という当然の疑問を怜は発しました。


 こちらはすぐに答えられませんでした。


自分のしたこと、行き着いた結果。

その上で胸に抱えてしまったもの、怜がどう思うのか······そういったものが一斉に押し寄せ、何から口に出すべきなのか、判断しかねました。


 余りにも僕が、いつもとは違うと気づいたからでしょう。怜は僕の肩を揺すって「令美はどうしたの」と激しく問いました。


僕は絞り出すように「死んだ」とだけ口に出していました。


怜はこちらの言った「死んだ」を復唱しました。すぐには理解出来なかったように「死んだってどういう事」と続けます。


 今言わなければいけない言葉があるというのに、やっぱり僕には、何をどういえばいいか解りませんでした。だから言葉が依然として出ず、言わないから怜には肩を揺すられ、同じ言葉を何度も掛けられました。


 強く催促されると、大事な部分であろう「僕が殺したんだ」という結論だけが口から零れるように出ていました。


怜は「えっ」とだけ言って、それ以上は尋ねず「令美は何処なの」と言います。

僕は今来た道を指して「あそこ」と言うと、怜は指し示した方向に走って行きました。


僕は一緒になって行く気にはなれず、立ち尽くしていました。僕には「全てが終わった」という脱力感が生まれ、何もする気が起きず「ただ呼吸をしているだけで精一杯」といった心境でした。


最早生きているという実感でさえ、自らの体を離れていってしまって、僕は人形にでもなったと言えました。


ところが、人形にはなっていないというのが、呼吸だけをしていると思っていた僕には解りました。鼻には怜の作っていたカレーの香りが入って来、生きていなければ感じないであろう空腹を感じさせたのです。


 いつもならば喜んでいたカレーも、今は遠ざけたいものへと変わっていました。

カレーは否応なしにこの世という現実を思い出させ、最悪というこの世を知らせました。


僕はその場にいられなくなり、臭気から遠ざかることで、現実を逃避しました。


 足は自然と怜の行った方向へと進んで、再び河原へと向かっていました。


河原の入口辺りまで来ると、白い服を着ているからか、遠目であっても怜のいる位置が解かります。


怜は僕が令美を寝かしたところにいるみたいでした。暗くなってぼんやりとしか見えなかったものの、僕がしていたように令美を胸に抱いているに違いありませんでした。


近づいて行くに連れ怜の泣く声は大きくなり、こちらにも怜の悲しみが伝わってきます。


 その悲しみの結果、僕は「どうなっても構わない」と思っていました。

少しの間で「怜に救いを求めるのは間違いだった」と気づいたのです。


 怜が一番愛したのは令美です。


僕への愛は令美を通してのものへと(他の家庭がそうであるように)変わっているのなら、愛する者を奪った僕は、憎しみの対象なのです。


怜の近くへと立った僕は、この後怜が何をしてこようと、抵抗もせず受け入れるつもりでいました。


 こちらの心情を知るでもない怜は、暫く泣き続けています。

怜は何分泣いていたでしょう。

僕は何を言うでもなくそばに立って、放心状態を続けていました。


目に映るものは、なんとなくスクリーンに映し出されているみたいです。怜が泣き止んで令美を再び石の上へと戻すシーンは、エンディングが近いという印象を与えました。


 怜は令美を石の上へと戻した後、涙を拭きながらこちらへと目を向けました。


『来る時が来たのだ』と覚悟のようなものをしました。

僕も怜の方を見返して「せめて姿だけでも焼き付けておこう」と視線を合わせていました。


 それから二人は数秒見つめ合ったままでいた後、怜が唐突に「どうする」と言いました。


言葉は僕を責めるもので「答えに依って僕をどうするか決めるのだ」と思って、こちらは「どうしてもらっても構わない」と答えました。怜にもし僕を殺す気があったのなら、言葉は「催促」とも取れ、間もなく向かうべき世界へと導かれていたでしょう。


怜はそんな気はさらさらなかったかのようにこう言ったのです。

「どうしてもらってもいいじゃなくて、あなたも考えるの」


意味が解りませんでした。

僕も考えるとはどういう意味か。自分自身で自分を始末する方法を考えろという意味か。

そう思っていると、怜は続けて「令美をどうにかしなきゃ」と言います。

それでも意味が解りません。


考える時間が長くなると、次第に「令美のことを事故に見せかける為に偽装しよう」という意味であると解りました。


今さっきまでこちらは怜に殺されると思っていたというのに、僕を責めるでもなく犯した罪を隠そうとしてくれている······

これには驚いて「隠しようがない」と言いました。自首しようという姿勢を見せた僕に「絶対に駄目」と言います。


 怜がこう主張してくれたのは嬉しいに違いありませんでした。怜と僕は時が経っても根底では繋がっていたのです。子供が出来ても互いの愛は、変わらず存在し続けている証拠でした。


 それ故、繋がっているものを断ち切る決断は出来ませんでした。僕が望んでいたものは今正にここにあり、今後も続いている······


自首する意向を見せたさっきまでとは一転、望むべき生活を取り戻す為、僕らは突き進む決断をしました。

といっても、この重罪をなんでもないものにするのは難しいと思われます。


それは解っている。解っているが、難しいとしてやるしかないのです。


 我々は「令美の件を事故に見せかけるには、どうすればいいか」を考え始めました。


その為には事故が不自然であってはいけない。証拠となるものを残してもいけない。


幸い、計画の段階で近くに防犯カメラが近くにないのは解ってい、あとは目撃者がいたのかどうかを気にすれば良かっただけでした。

尤も、こればかりは警察が来なかったという事実を信じて、証言をする人が出て来ないのを願うしかない。


詰まる所、なんの証拠も残っていないのだと仮定し、あとは事故である嘘の状況を生んでそれを真実とする。そして、その今後する話を二人で共有し備える必要がありました。


 我々は、そのアイデアとなるものをその場で考えました。

途中「此処では誰かに見つかるかも」と令美を抱いて河原を離れ、小道から林の奥へと入りました。誰かが道を通ったとしても見えない場所まで来ると、話し合いを続けました。


此処でゆっくり話が出来るとなっても、互いに気が気でなく、いくら時間を使っても良いアイデアが浮かびません。

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