六通目
今まで貴方にお話した内容からしても、二人は「ずっと順調に結婚まで辿り着いた」と思われるかもしれませんが、危機というのもあったのです。
それは僕が大学を出て、ある企業に勤めるようになったから起こったと言えました。
僕が新人の頃、若いなりのガッツとでも言いましょうか。仕事に入り込みすぎていたせいで、怜への気が回らなくなっていた、というのがきっかけだったと思います。
──入った会社は名のある会社だというのに、所謂「ブラック企業」に近い状態でした。
新人は漏れなく残業で、毎日夜遅くなるという生活です。
こんなのを「だから」として理由付けしてしまうのが社会人の悪い癖で、怜に連絡しないのを此処にこじつけ、正当化していました。「忙しい」は後ろめたいのを正当化するのには丁度良かったのです。
一方怜は、割と頻繁に連絡をくれていたのです。なのにこちらは、一行で良い返事を返さずにいました。
仕事を始めた最初の頃に、ことさら「忙しい」を強調して話をしたことがあり「解ってくれるだろう」という甘えがあったのです。
付き合いの長さは「二人の結びつきの強さ」という都合の良い捉え方をし、怜を都合の良いポジションに置いてしまったのです。
知っての通り、人と人との付き合いはそう上手く行かない。「連絡のなさは、心の離れ具合」と、恐らく怜は捉え、次第に向こうからの連絡は少なくなって行きました。
そうとも思っていなかった僕は「久々に休みが取れたから」と二ヶ月ぶりに文字で連絡して見ると、文面からでも解るような、不機嫌さを表した「わかりました」とだけが文字で返ってきました。
後から見ると簡単に解る不機嫌さも、この時は全く気づかず、久しぶりのデートくらいに思っているのでした。
僕は単純に連絡が取れたというのだけを受け取って、決めたお店へと後日行ったのです。
浮かれ気分のままお店まで行ってみると、彼女は既に居ました。『彼女も楽しみにしてたのだ』と考え、会わない期間がなかったかのように話しかけてみます。
怜はこちらのテンションを打ち消すが如く低い声で、返事とも取れない声を出しました。
会話早々、様子が違うと気づきました。
ただそれも『大したことではなく、時間が経てば戻る』と、敢えて何もなかった感じで「何か頼んだ」と訊いてみます。
向こうは「いやっ」と短く言い終える次第で、流石に「どうしたの」と僕は言っていました。
こちらが言った「どうしたの」は彼女の何かを刺激したようでした。
怜は静かに「あのさ······」と始めたと思ったら、次々と不満をぶつけて来ました。
散々言った後、終いには「もう別れよう」とまで言います。
来たばかりでこんな話をされるとは思っていなかった僕は『怜の言葉を取り消させなければ』と「連絡出来なかった理由」を只管並べました。更には上司に言われた嫌なこととか、やってしまった失敗も話します。
怜は「それでも全く時間が無かったわけじゃないよね」と正論を僕にぶつけます。
そう言われ、一番謝らなければならない「怜を大して気にかけなかった事実」を謝りました。
言葉を聞いても納得する様子を見せなかったのを感じ、あれこれ言葉を重ねます。
時間をかけて散々謝った甲斐あって「取り消す」とまでは言わないものの、少し軟化していると感じ始めました。当初あった頑なな、何かを決意した表情とは違った雰囲気になって来ていました。
僕が察するに、この時まで言った通り、別れを決意していたのでしょう。彼女の一番苦手である「待たせる」という行為をしていたのです。
そう考えるのは当然です。
思うに、怜は僕から「忙しい」と聞いていた時からある程度は理解し『我慢も厭わない』と思っていたでしょうが、許容し我慢するのは想像と違う。葛藤したけれども、それには勝てなかったのでしょう。
我慢は万人に難しい。特に怜にとっては難しい。
はじめから解っていたものを我慢できない自分というのに嫌悪し、そこから逃げ出したいという思いが、僕と別れを意識させた原因だろうと思われます。
それが、いざ会ってみると怜の中にあったもの、二人の間に生まれ互いが共通して持っていたものが復活し、不安や嫌悪で見えなくなっていた何かが奥へと行って『これまでの心配は大したものではない』と感じるに至ったと推測します。
二人でいる時間は、まだ同じものが存在し続けているという事実を知らせるとなったのです。
その事実から『思い切った舵を取らなくても良い』と傾いていったと思われます。
人は変化に弱く、怜は特にそういうところがあったからこそ、僅かな時間で悩んで決めた別れをも覆すに至ったのです。
彼女は結局は「会えないのだとしても、頻繁に連絡すること」を条件に「別れは撤回する」と言ってくれました。
怒りこそ簡単に収まらなかったとはいえ、じきに「会わない間何してた」とか、そういった話をしてくれるまでになり、店を出るくらいには完全に関係は回復したと言えるまでになっていました。店を出てから映画に行けたのも、関係修復には大いに役立ちました。
後日考えてみると、彼女はまだ学生なので、一般職についてはまだ想像が及ばないのです。
だからこそ、まだ見ぬ世界を説明しておけば良かったと思わされました。それだけしておけばこんなことにならなかったし、怜にとっても役に立ったでしょう。
彼女も就職活動を始めるかどうかという時で、精神的に不安になっているというのを、もっと早く気づくべきだったのです。
この件は人生に於いてちょっとした気遣いが大事なのだと知った出来事でした。
因みに彼女は、大学まで夜の仕事は続けるとして、卒業と共に一般職に就くと決めて、精力的に就職活動をその後していました。
とはいっても「これ」といった希望の職がある訳ではなく、面接に行っては「あーだこーだ」と不満に近い問題点を挙げ、僕に話すことでストレス発散をする日々を過ごしていました。
こんなのは母親に話すでもないかもしれませんが、或る時に言っていた面接での愚痴を覚えているので、話してみましょうか。
──怜は色んな企業へと出向き、様々な人を見て来ていました。
会社の中でも中小企業に含まれるくらいの会社へと行った時です。
その面接は割合に綺麗にしてある社屋の一室で行われ、他の面接希望者もそれなりにいたと言います。
部屋の外では順番待ちをする人がソワソワとして落ち着かず、思い思いの時間を過ごす中、最初は緊張していなかった怜も、次第に緊張して来てしまいました。それでもされるであろう質問を想定し、練習していました。
そのうち呼ばれ、中へと入ります。
中には数名の面接官が簡易的な長テーブルに着いて、こちらを見ていました。
はじめに目についたのは、真ん中にいる口元の青い男性です。
真ん中にいるのだから面接でも中心的な仕事をしているであろう男性は、昔パワー系のスポーツをしていたような体を椅子からはみ出させ、大股開きで座っています。前のめりになった体を肘で支えて、ガンでもつけるように入って来た学生を睨んでいました。
男性は不機嫌にも見える表情を浮かべながら、足元では右足を開いたり閉じたりを続け、裾がずり上がって、靴下との隙間からスネ毛を覗かせています。
彼女はそれをとても汚らしく感じたと言います。
スネ毛の濃さは体毛の濃さを連想させ、前傾姿勢は、何時襲いかかってくるか解らない野獣を、全ては気ままに生きる野生の生き物を想起させ、嗅いでもいないのに「臭い」というイメージをつくり上げてしまったのです。
気分が悪くなってしまったまま席に着くと、何十回も言っているであろうセリフを、流れ作業で男性は言いました。「早く終わらせたい」という意思の影響で、セリフは殆ど完全に発されず、それが故に性格の粗雑さが強調され、より嫌悪感が強まりました。
性格のがさつさは、貧乏ゆすりからも感じます。
大きく開いた足の左側は、机の下で小刻みに揺れ、逃げられない仕事のストレスを発散させていました。
よく見ると、その男性の貧乏ゆすりは横にも伝わっているようでした。
同じ机に座っている左の人を見てみると、持った紙がしなだれ、振動によって先がゆらゆらと揺れています。
気になって見続けていると、付いている肘に振動が伝わっているからそうなっているであろうものにも、文句を言わずにいます。なのに顔は明らかな不満が感じられ、我慢しているのは確定的でした。
怜はこの人の不快さが手に取るように解り、共感性のものから、より気分が悪くなってしまいました。
「座っているのもやっと」というくらいになっても、面接は続きます。気がつくとお決まりの受け答えに移っていました。
端から順に行われていた遣り取りは、じきに怜まで回ってきます。
幸いにも、気分が悪くなったとして、覚えるほどに練習していた言葉はスッと口から出て、体調不良に気づかれないで済みました。
受け答えが終わってしまうと一層気分が悪くなっていくのを感じます。矢張、面接官が合わなかったのです。
毛むくじゃらの面接官は誰の言葉を聞いても、言葉を発した人の労力や内容を一つも気にしていなく「発言の機会を与えてやったのだ」とばかりに、自分が取り仕切る場をコントロールするのに酔っています。
そのワンマンぷりは、性格的な自己中心型を表し「怜が仕事で困ってしまう客」そのものだったのです。
そんな客に当たってしまった場合は、大抵ストレスから眠れなくなったそうで、そのせいで次の日は、辛い生活を強いられることになりました。
それが影響し、横柄な客に出くわすと、次第にその場から気分が悪くなるという体になってしまったと言います。
面接官はまさにその客であり、そういった客に共通する特徴である貧乏ゆすりをするのも、怜の気分を悪くさせていました。
同じ場にいるだけで気分が悪くなってしまった怜は「この会社に落ちたい」と思っているのでした。入る為にやってきたのに、一人への拒否感から、まるで逆の希望を抱いていたのです。
だとしても、途中で出て行く訳にはいかず、しょうがなく受け答えはしていたものの、既に丁寧に答える気はなくなっていました。従って面接には相応しくない言葉を選ぶようになっていたのです。
現状からして落ちるのは確実でした。
こんなにも投げやりな受け答えをしてしまっては「受かる可能性はほぼなくなってしまった」と言って良い状況です。
それでも良かったのです。ただただ落ちてさえくれれば良い。誰がどう評価しようと、全ては落ちたい一心でやったこと。
その一社で評価が悪くとも、他社に伝わるほどのネットワークはないのでしょうから、たった一社そうなっても別に良かったのです。
後日少しは後悔の念が湧いたとして、それより「面白いエピソードが生まれて、話のネタになる」という方を取って、反省などもせずにいました。
数回ネタとして使った後は、忘れてしまいました。
不思議なものでちょっと経ってから、全く思いもしなかった連絡が来たと言います。
不採用と思っていたその会社から、採用通知が来たというのです。
嘘だと思って見てみても本当のようです。
もしかすると他の人と間違えて送られてきたのかもしれないとはいえ、送ってしまった手前、受け入れるよりしょうがないので、どっち道合格なのでしょう。
思ってもみなかった通知に少し喜んではみるも、冷静に考えるとあれだけ気分を悪くしたその人がいる会社なのです。嫌いな人がいるだけで気分を悪くする自分が、その会社に入るのは「ありえない」と断ってしまいました。『もし同じ部署にでもなったら······』と思うだけで既に気を悪くしたと言います。
こうも簡単に断ってしまったとして「だったら、もう入る会社は決めていたのか」というと、そうではありませんでした。
最初に言ったように、希望の職などはなかったのです。だから、採用通知を集めるだけ集めてギリギリに決めようという算段でした。
僕が察するに、夜の仕事を続けても良いという考えもあったと思います。
職探しをする中で、本当にやりたいことが見つかればそれをやればいいし、なければ今までと同じ生活を送ればいいし、という感じでした。「単純に年齢になったから」と「他の人が就職活動をしていたから」という世間の流れ、そういったものに身を任せていた部分があったと思います。自分の進んでいる道に訪れた「人生経験の一つ」と考えていた部分もあると言えるでしょう。
更に、本当に就職したいというよりは、就職活動に怜の求めるものがあったのだと思います。
彼女は、初めて来た採用通知にとても喜びました。
思うに怜は、誰かに認められ欲されるという点に喜びを感じていたのでしょう。
目的はその点で、採用通知はその証明だった。目的の為に就職活動を続け、生活の為に夜の仕事も続けていた。
夜の仕事も言うなれば、他人から存在を欲される仕事です。承認欲求を求める怜にはどちらも大事で「好きでやっているのではない」としながらも、ある意味では好きでやっていたのだと思えます。
さておき、僕がこうも他人事を自分の事として話せたのは、怜が僕に詳しく長々と(と言うと怒られてしまうかもしれませんが)話してくれたからです。
怜と「頻繁に連絡を取り合う」という約束が守られていたからこそ、こんな話もしてくれたのです。怜は年々口数が多くなって僕にも散々話しました。そのせいで彼女の声は俗に言う「酒嗄れ」に近いものになっていました。
ただ、声が嗄れても初めて怜の声を聞く人は、酒嗄れとは捉えませんでした。
何故なら怜には何処となく品のようなものがあったからです。彼女の魅力は「身内だから」という目を抜きにしても相当にあったとして良いでしょう。
今にして思えば、他人が見るような彼女の見方は、もしかして、僕が怜を見るときの印象にも関わっていた可能性があります。
すみません。話が逸れてしまいました。
怜は後に昼間の仕事に就くとなったのですが、それは後日のお便りにしましょう。
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