「〝魚影の領域〟ヘイダルゾーン」
イソラズ
第1話『のたうつデザイア』
虎とライオン、蠍と百足·····。
もしも、二頭の捕食者が同じ檻に入れられたならば、どちらか一方が滅びるまで喰らい合うしかない。
今回の場合、檻はある街だった。
街の名は、剱賀という国に位置する〝白銀地区〟。
元々その地に住まう虎は、被害者を残虐な方法で殺す猟奇殺人鬼〝白銀地区の
そして、虎とぶつかるライオンは、これまた火幻地区から縄張りを広げに来た殺人鬼、通称〝火幻地区の大赫蝶〟。
裏社会では知らぬ者はない、頂点に立つ二大巨頭の熾烈な喰らい合いは、白銀地区の静かな朝から始まる──────、
街ゆく人の流れが、ぼんやりと見えた。
ゆったりとしたBGMの流れる店内は、朝のがやつきと仄かなコーヒーの香りが付けられている。
「ご注文のモーニング・セットです。ご注文は以上で·····ごゆっくり」
エプロンを着た店員が、コーヒーとサンドウィッチのセットをトレーに乗せて運んできた。
それを受け取ったのは、ボサボサの白い長髪をした男。
「どうも」
目の下にクマを湛えたその青年は、ニッコリと笑って店員の背中を見送った。
·····奇抜な格好の男だった。
色白で、190に近い程に背が高いが、痩せぎすという異様な体型をしている。
しかし、通常であれば、虚弱な印象を受けるはずの体型にも関わらず、男のどこからもそのような雰囲気は感じられない。
その要因は、クマを作りながらもギラギラとエネルギーの迸る鋭い眼差しか、はたまた、男の潜ってきた経験に裏付けされた殺意か。
男はトレーの上のセットを見て、少し首をかしげた。
長い白髪が分かれ、男の耳の下でイヤリングが揺れた。
·····逆さになった十字架を象った、銀色のイヤリングだ。
「ミルクが無いな·····」
青年は眉を顰めると、立ち上がってミルクを取りに行った。
男の去ったテーブルの上には、朝食のトレーの他に、芸術的なまでに美しい人間の腕の絵が描かれたスケッチブックが残されていた·····。
───僕はこの都市が好きだ。
特に理由はない。
なんとなく、落ち着くからだ。
ここ、白銀地区は、発展した住宅街の多い大都市として知られる。
中心部には歓楽街が広がり、その周りを閑静な住宅街が包むという構造をしている。
交通の便も良く、住宅街の区画にも多くの施設が点在するため、土地が高いのもうなずける、不便とは無縁の地域だ。
そういうのも全て引っ括めて、僕はすごく好きだ。
ここに住み始めたのは、今から六年ほど前、僕が火幻地区を追われてからだ。
「ぁ·····」
考え事をしていると、手元の歯ブラシから、歯磨き粉がこぼれ落ちた。
薄暗い洗面所の鏡の中には、白い長い髪をバサつかせた長身の男が立っている。
鏡に近づき、額を付けた
───、洗面台は散らかっていた。
黒江の仕事は画家だ。
だから家中の水場は、大抵が飛び散った絵の具の水溜まりに満ち溢れている。
·····とはいえ、ここは矢虎の家ではない。
絵の具汚れの原因は、床に広げられたキャンバスだ。
キャンバスの絵には、真顔の男の似顔絵が書かれている。
『本日未明、白銀地区の東南部に住む、小金隼也さん(36)が、自宅のバスルームから遺体で発見されました───』
付けっぱなしにしたままのラジオから、今日のニュースを伝える女性アナウンサーの声がする。
作業をする時は、いつもラジオを付けている。機械にもこだわりがあって、もう廃版になった古いラジカセがお気に入りだ。
「あのカチカチ感が良いんだよな、なあ?」
黒江は、洗面台の真横のバスルームに向かって言った。電気のついていない風呂場に、音が不気味に響いた。
『犯人は、〝白銀地区の黒蜻蛉〟と見られており、この連続猟奇殺人鬼について、安視庁特別犯罪対策課の
ニュースを聴きながら、水で口をゆすぎ、吐き出す。
開け放された風呂場は暗く、湯船の蓋には肉片を飛び散らせた人の生首が置かれていた。
『えぇ、黒蜻蛉はですね、被害者の身体で遊ぶ·····酷く損傷させるんです。現場に行けば、一発でヤツだと分かりますよ。』
『播磨さん、今、白銀地区で散発的に事件を起こしている黒蜻蛉ですが、一体どのような、あー·····犯行パターンと言いますか、私のような素人からしますと気になるのは、犯人はどのような特徴で被害者を選んでいるのでしょうか』
「ふふ·····」
黒江矢虎·····
『黒蜻蛉は捕食者です。一人でいる方や、抵抗力の少ない目標を狙いやすい。』
───その通り、僕は捕食者だ。
人間よりも、より高次元の存在だ。高尚な生命体なのだ。
『そもそも、犯人は何故犯行を繰り返すのでしょうか』
蛇が蛙を食べるように、ライオンがウサギを狩る様に·····。
これは狩りだ。
「簡単な話だ」
〝なぜ、人は犯罪を犯さないのか〟?
それを考えてみれば、すぐに分かる事だ。
通常、人間は罪を犯すまでに二つの枷を超える過程が存在する。
すなわち、刻まれた〝道徳〟とペナルティ、罰への〝恐怖〟だ。
道徳とは、幼い頃から強く刷り込まれた、社会で禁忌とされる行為を自発的に避けるためのプログラムである。
そもそも、物を盗んだり殺人を犯すそれ自体が、人間的に悪であると言い切ることは誰にも出来ないのだ。
戦国時代や戦争の時代に生まれていれば、それは正当な行為であったはずだし、事実、古代パランタクス帝国では、位の低い人民を殺して略奪する行為を成人の儀としていた事が分かっている。
道徳とは結局、社会を円滑に回す為の洗脳にしか過ぎないのだ。
罪の意識という物も、幼い頃に植え付けられた〝正しい生き方〟から逸脱した事による焦りが根本的な原因だ。
人間を縛る二つ目の枷は、〝懲罰〟である。
牢屋に入れられたり死刑になったりすることである。
「悪い事をしたら、酷い目に会う。だから悪い事をしてはならない。」
それ以上でも、それ以下でもない。
今の時代では、それは法律である。
だが、昔の時代は、必ずしも犯人を確保出来る訳ではなかった。
犯罪を犯しても、上手くやれば捕まらない。そして、この世に因果応報などないことは周知の事実である。
だから人々は、悪い事をすると来世で酷い目に会う。·····という事にした。
だから、地獄という概念を作ったのだ。
結局、人間が殺人を犯さない理由は、道徳による〝洗脳〟と法律による〝脅迫〟──、この二つに集約されるのだ。
そして、上記の両方に逆らえるほど強烈な悪意や憎しみがある者、もしくは、両方を理解できない程、脳機能の終わっている人間だけが、犯罪を犯せるのだ。
·····だが、世界には普通じゃない人間がいる。
彼らは、超えるべき理由がなくとも、そのラインを戯れに飛び越える。
いや、彼らに言わせれば、飛び越えるに十分な理由はある。
·····だが、その理由を、世間が理解してくれないのだ。
黒江の場合、それは絵だった。
絵を書く為に、黒江は犯罪を犯す。
人間の肉や骨や血を見れば、リアルな絵を書けると思ったから、実際にやってみるのだ。
世間はそれを異常とする。
でも、黒江にしてみれば、それは至極真っ当なのだ。
黒江にとって、絵を描くことは、復讐や怨恨や金銭よりも遥かに重要な衝動だからだ。
事実、黒江は如何に貧困であっても人を殺すようなことはしない。
「染め直さなきゃ」
赤色のついた髪を撫でて、黒江はキャンバスの絵を完成させた。
白い背景に、ただ真顔の男の生首だけが浮いている。
真っ直ぐにこちらを見ている、ただの生首の絵である。
点数をつけるなら60点、まずまずの出来だ。コンテストに出すには、ちょっとしょぼいか·····。
「残念だったね、小林さん。もうちょい血色が良ければ良かったかもな」
仕事を終えた生首を浴槽に投げ込んで、黒江は絵を抱えた。
だが、数歩歩いた後に立ち止まり、絵をマジマジと見てから、壁に立てかけた。
「·····よく見たら、家に飾る程でも無かった」
一人冗談交じりに呟いて、黒江は現場を立ち去った。
黒江の口には、まだ朝のコーヒーの香りが残っていた。
「〝魚影の領域〟ヘイダルゾーン」 イソラズ @Sanddiver
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