第2話 三日月の昇る夜②
『もう、好きじゃない』
「え?」
大学入学当初から付き合っていたミホが、唐突にそう告げた。
『ミホ、好きな人ができちゃった。だから、葉とはもう付き合えない』
人の心の変化とは何とも恐ろしいものだ。
先週、付き合って「1年と2カ月記念日」だというから、イタリアンの店を予約したんだ。
付き合って1年と2カ月ってなんだよって思うだろうけど、ミホはそういうのが好きで、付き合って1カ月のときも、2カ月の時も――それからずっと、一月刻みでお祝いをするような、おめでたい奴だった。
先週もその延長で、ミホは当日、『葉とはミホがおばあちゃんになっても、ずっといっしょだよ』とか抜かしながら、値の張る飯やら飲み物やらをかっ喰らっていた。
その日の彼女は、今から思えば小憎たらしいほど、イタ飯を食べていた。食べ放題じゃないのに、ビュッフェくらいおかわりし、ふだん碌なものを与えていない犬くらい、必死に皿を舐めていた。
前世がカバなんじゃないか。そう思ったほどである。
気付けば会計は五万を超えていて、目が点になったもんだ。
あ、払ったのはもちろん、僕です。
好きだったからプレゼントを要求されれば贈ったし、頼まれればバイクで送迎だってした。
「ミホのばかやろー!」
尽くしてきたつもりだったが、捨てられる時はなんとも呆気ないものだった。
振られたその日に酒を飲み、現実逃避する僕も僕だが、あの時誓った「永遠」とやらはなんだったのだろうか。
「おばあちゃんになるまで、いっしょにいるんじゃなかったのかよ……」
おばあちゃんどころか、彼女は20歳で僕の眼の前から消えた。
もうこうなりゃ
「すんません、おかわり、くらっさい!」
「お客さん、大丈夫ですか? あと、バイクで来てませんでした?」
「ばいくぅ? そうらけど――?」
バイトのお姉さんに絡んだのが、その日の最後の会話だ。
お姉さんが「これ以上は出せません」と言ったあと、僕がどうなったのかというと、そのまま座敷へと寝かせられ、閉店時間になったタイミングで外へとほっぽり出されたのである。
――さむっ。
「バイクは置いてっていいみたいだからさ、風邪ひかないうちに歩いて帰んなよ〜」
酩酊していたが、お姉さんにそう声を掛けられたことは覚えている。
え、置いてけぼり?
世の中そう都合のいいことばかりは起きないもんで、お姉さんがいなくなってしばらくした後、辛うじて歩けるようになり、家に帰ることにした。
「あー、さいあくだー」
途中何度も吐きそうになったが、それをぐっとこらえた。
吐いたら楽になるだろうが、こんなところで吐きでもしたら、世の中のみなさんのいい迷惑だ。
吐くならトイレ。
そう決めてるんだ、僕は。
「くそー、なんだってこう月がキレイなんだ。ばかやろう」
自分でも酔ってることが分かるくらいには、酩酊していた。
千鳥足ってのはこんな感じなんだなー。
そう思えるくらいには、「まとも」なつもりだった。
しかし、そこはやはり酔っ払いだ。
思い返せば、歩道を歩いているとばかり思っていたのだが、月につられたせいか、いつの間にやら車道を歩いていた。
「あ」
クラクションよりもはるか先に、「光」に気付いた。
その次の瞬間、『ゴッ』という地響きに似た音と、『ブブブブブッ』という鼓膜の鳴動が脳の中を走り回った。
――あ、やべぇ。
目が――いや、首が回っていた。
「ごふッ」
本当に痛い時は、泣け叫んだりしないんだなと、あくまでも冷静だったのを記憶している。
ただ、首やら胸は灼けるように熱く、刹那的に「あ、これ死ぬわ」と実感した。
「――すか!」
エンジンを消すことなく、運転手らしき人物が僕に叫び続ける。
大丈夫なわけねーだろ……。
ツッコミをいれたくなったが、いくばくかの申し訳なさを覚え、自重する。
「――呼びますから!」
恐らく救急車だろう。
運転手が、慌ててスマホを操作するのを視認するも、時既に遅し。
僕の視界には、天国へのお迎えであろう「天使」が映っていた。
あー、そっか。やっぱり、天使ってくるのか。ルーベンスの絵を見た後にしか現れないと思ってた。
中性的な顔をしたそいつと目が合う。
微笑を浮かべているのは、優しさからか、はたまた滑稽さからか。瞬時に判断がつかなかった。
ただ、彼女が口を開いてすぐ、それがどちらでもないことが判った。
「君をまだ死なせない」
は?
天使だと思っていた彼女が、そうでないことを知ったのも、その時であった。
白いと思っていた翼は、僕を轢いた運転手がエンジンを消したのと同時、湿気を纏った夜と同化したのである。
――真っ黒な……羽?
白い翼を持つ悪魔がいないのと同様に、黒い翼を持つ天使もいない。
どこぞの国の諺にでもありそうな「命題」がふと脳を過ると、彼女は僕の顔元で言った。
「私は恋と死の神。君を助ける代わりに、少し頼み事を聞いてもらいたい」
三日月の昇る夜のこと。
あの夜にあったことは、到底、誰も信じちゃくれないだろうし、それ以上何かを語るつもりもない。
ただ、小主川恋と名乗る死神と僕が出会い、彼女のために「人生」をやり直すことになったのだけは、間違いようのない事実である。
三日月の昇る夜、死神は 志熊准(烏丸チカ) @shigmaya
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